第2話 18年前の村で
深い森の中に、巨大な岩がある。
それは垂直に隔たる壁のように天高くそびえ、並みの金属では傷一つつかないその岩。
鳥が鳴き、虫が鳴き、風が鳴く。昼間であってもまるで深夜のような暗き森の奥で、その岩は高く、固く、冷たく存在している。
岩の傍に、黒い服を着た男が一人。面倒そうに左手の手袋を外して、男はその岩に触れる。
男の左手に輝く円形の紋章は、銀色の光を放つ。暗き森を照らすように、明るく、強く、輝く。
そして岩は割れる。二つに割れ、音もなくそれは左右に広がる。
岩の扉。開かれた岩の間を男はやれやれといった顔で通る。
「うん? なんだ一つ外れてるじゃないか。誰だ今日の当番……」
男はそういうと、眼に止まらない程の小さな小さな針を地面から拾い上げた。それに繋がっているのは、細い細い紐。
十分にそれを張って、男は木の幹へ針を突き刺す。その後、男は指で軽くそれを弾いた。
何かがはまる音がした。男は軽く一つ頷くと、大きなあくびをしてその紐を潜り前へ進む。
男は一歩ごとに奇妙な動きをして、何かを避けるかのように身体を揺らして森を進んでいった。彼の後ろで岩が閉じる音が鳴り響いた。
そうこうすること数刻。木々の生い茂っていた森はいつの間にか歩きやすい道となって。
そして到着する。小さな村。丁度昼食時なのか、家々からはいい香りの煙が立ち上っている。
男は少し微笑んで、その村に足を踏み入れる。腰から二本の剣を鞘ごと外して片手に持って、疲れたと言わんばかりに頭を左右に強く振って首を鳴らしながら、男は歩く。
「あ、頭首様!」
「おお、頭首様の御戻りか」
男に気付いた村人が、一人、また一人と声を上げた。男をみた村人は皆笑顔だった。
どこからか、小さな子供が一輪の花を持って男に向かって走ってくる。
「頭首様! おかえりなさい!」
「おう」
一言返し、笑顔で男は花を受け取る。花を私は子供は深々と頭を下げて、その場から去っていった。
去っていく子供を眼で追って、優しげな顔をしていた男は、ふと何かがいることに気がついて視線を下げた。そこには、様々な色の花を一輪ずつ持つ子供たちが男を囲んでいた。
「頭首様!」
「頭首様! おかえりなさい!」
「今日は多いなぁ。そうか、訓練休みか。ははは」
次々と子供たちは男に花を渡す。当然のように、男の片手は花でいっぱいになって。持ちきれない分は抱えるようにして。
あっという間に男の視界は花でいっぱいになった。子供たちは皆、深く頭を下げて走り去っていった。
歩くのも少し辛いほどの花々。それを抱えて、男は笑いながら村の中央を歩く。
村人は皆、笑顔で。井戸端会議に花を咲かせていた女たちも、男を見るなり頭を下げる。
男の村は、暗殺者の村。頭首アルスガンドが治めるその村は、ただただ平和な村。
家畜が鳴いている。村を行きかう人は笑顔で談笑している。
男は、頭首アルスガンドは、この村が大好きだった。
そして男は一際大きな家に着いた。その家の片隅にある花壇に花をバサリと置く。家の使用人だろうか、女が数人集まって、アルスガンドに頭を下げてその花を一輪ずつ取っていく。
大きな家は、裏に大きな洞窟を持っていて。その洞窟に一瞬だけ彼は目線をやったあと、静かに家の前にある椅子に腰かける。
赤と青の剣を無造作に地面に投げ捨てて、男は大きく息を吐いて身体を休めた。
「魔法機関の仕事、いっつもいつもだが、無駄に遠いんだよなぁ……今回は海を越えたしな、参った」
大きな独り言を言う彼は、疲れたと全身で言うかのように、椅子に浅く腰掛けてだらりと両手と両足を投げる。
村は平和で、聞こえてくる音も平和で、静かで。
「なんだ、戻っていたのか?」
微睡の中に入ろうとしていた彼を引き戻したのは、女の声、彼は首を横にまげて、その女の姿を見た。
身体にしっかりと密着した黒き服、長い黒髪を束ねた頭、そして気の強そうな鋭い眼。
その女が汗を布で拭きながら、彼の傍までやって来た。
その姿を見て彼は、アルスガンドは少し驚いたような顔をした。
「こっちの台詞だエリンフィア。お前もうやってきたのか? 三つあっただろうが」
「あの程度に時間などかかるか馬鹿。子供のつかいじゃないぞ」
「あ、そう……本当に優秀なことで」
やれやれと言った風に、彼は椅子に座り直して足を組む。そしてどこから取り出したのか、もう一つの椅子を眼の前に出して女に座れと指で合図した。
汗を拭いていた布を使用人に向かって投げつけて、エリンフィアはその椅子に座る。
「エリンフィア、鍛錬してたのか? 汗臭いぞ」
「言うな馬鹿が」
「へへへ」
「全く……ふ……」
彼は笑う。それにつられて、エリンフィアも笑う。
二人はアルスガンドの一族を統べる頭首とその妻。決して綺麗な仕事とは言えない暗殺という任の中でも、決して悪に染まらない二人。
村人たちにとってはこの二人は、平和の象徴であり、一族の繁栄の象徴。誰もが認める、一族の長たち。
「イセリナ、来月には出産らしいぞお前」
「本当かよ。早いな、腹でてきたと思ったらもうか」
「子の成長は早いんだ。それで、名前は結局どうするんだ? 一応は頭首の仕事だろうに」
「そうか……考えてなかった。男か女か、どっちだって?」
「知らん。あれも調べる気はないと言っていた」
「なら二種類用意しとかないとな。エリンフィア思いつかないか?」
「私が名づけたら意味ないだろうが。自分で考えろ」
「そうだなぁ……あー思いつかねぇ。しかしルシウスのやつもえぐいことするぜ。あの馬鹿よりによって実の妹孕ませてポイだもんなぁ」
「言うな。終わったことだ。二人に知らせなかったあれの両親にも責任はある」
「わかってるよ。名前、名前なぁ……」
空を見上げて一つ二つ、アルスガンドは頭を回転させる。
言葉を繋げて繋げて、音にして幾度。しかめっ面のままで彼はそのまま少しの間、考え込んでいた。
だが名など、考え込んで出るものではない。結局彼は、空腹に負けて考えることを放棄した。
「あーもういい。明日の俺が考えてくれるさ。エリンフィア、何か食べ物だ」
「ここで食べるのか?」
「ああ、いい天気だ。庭で食おう。エリンフィアは食事はすんだのか?」
「いや、そうだな。まぁたまにはいいか。おい誰か。こっちへこい」
「はい奥様」
使用人の動きは素早かった。エリンフィアが呼ぶと同時に一人の女が両手を組んで、彼女の傍に現れた。
そしてエリンフィアは食事を持ってくるように命じる。使用人の女は深々とお辞儀をすると、駆け足で屋敷の中へと入っていった。
二人、無言で待つこと数刻。庭に机が置かれ、その上に並べられるは様々な料理。さながら小さな立食会場のように、庭先に料理が並べられた。
彼は手を伸ばし、その机の上のパンを一つ取る。それを三口で口の中に彫り込むと、数度噛んでそのまま飲み込んだ。
スープの入ったカップに手を延ばす。それを一気に喉へ流し込む。
「落ち着いて食え馬鹿。子供か」
「へへへ、まぁいいじゃねぇの。エリンフィアも食えよ」
「全く」
しょうがないやつだと、エリンフィアは思ったのだろうか。それ以上食べ方に口を挟むことをやめて、彼女は静かに食べ物を口に運んだ。
カチャカチャと食器がなる音がする。さすがの頭首付の使用人、庭先で食べる食事ということで、ほとんどは手づかみでも大丈夫なようになっている。だがそれでも、エリンフィアはナイフとフォークを巧みに使って食事を勧める。
「ところで、お前、聞いていいか?」
「何だエリンフィア」
「お前またあの女に会ったな?」
「なんだと?」
彼の手が止まる。その一言に。
「何のつもりだ? うん? そんなに私が嫌か? うん? なぁ、何のつもりだ? うーん?」
「待て、誤解してるぞエリンフィア。違う。これは違うんだな」
「ほぅ? 何が違うんだ?」
「俺の妻はお前だけだ。うん。だから他の女は、そう、次期頭首を、後継ぎを産む、そう、何だ、そういう、ことだ。俺の親父も嫁三人いたしな。そういうことだ」
「お前、妻は私だけと言いながら三人妻を娶った先代を言い訳に持ち出す。すごいなお前、数秒で矛盾してるぞ」
「違うんだって……違うんだよ。ハルネリアはお前より若くて乳がでかいけど違うんだよ。だから、その俺みたいなでかい男にはでかい乳が、いや違う。そうじゃない。違う、エリンフィア聞いてくれ」
「聞いてやろう。聞くだけだがな」
「だってさ……お前、だって娼館は何も言わなかったじゃねぇかよ。なんであいつだけ」
「馬鹿か。娼婦は遊びだろうが。貴様の股座がどれだけ汚れようがどうでもいい」
「だったら」
「だが心が汚れるのは気に入らん。あの女は気に入らん。殺したいぐらいだよ」
「おいおい……」
「それと、自白したな?」
「何?」
「あの女を抱いたな? どうする? お前、どうする? うん? どうするんだ? うーん?」
「ぐ……」
「ルシウスのこと言えるのかお前。どうするんだ? なぁ? どうするんだ?」
「ぐ……何も言えねぇ」
「全く……情けない」
止まっていた手を伸ばして、エリンフィアは不機嫌そうにパンを口に運んだ。その美しい顔からは想像もできないような仕草。作法も何もかも無視して脚を組んだままもそもそと食べるその仕草は、正しく豪の者。
頭首である夫をもいい伏せるその姿、彼女に村の誰も逆らうことはできない。
「次の魔法機関関係の仕事、私も行くぞ」
「何? 馬鹿な、二人で行く程の仕事、あいつが持ってくるわけないだろう」
「黙れ。一度あの女とは話しておかねばならないと思っていたところだ。何をしてるのかそろそろわからせてやるのもいいだろう」
「まぁ……わかったよ。俺はもう何も言わない」
「ちっ……本当にお前は仕事以外は無能だな」
「先代が早死にしたおかげでほとんど成り行きできちまったからな。まぁ、そんな頭首もありだろう?」
「しょうがないやつだ」
そして二人は、食事を続けた。少し経って、机の上がすっかり綺麗になった頃。アルスガンドの頭首である彼は適当に投げ捨てた双剣を肩に担いで立ち上がった。
「休むか?」
「んー……身体洗ってからな。エリンフィアも来るか?」
「そうだな」
汗を拭いていた布を椅子に掛けて、立ち上がるエリンフィア。そして少し考えて、彼女は口を開いた。
「わかってるとは思うがな。一族の女を数人娶るのと、外に相手を作るのは全くの別問題だ。一族以外の者は、決してこの村に入ることはない。決してな」
「わかってる」
「万が一だ。子を成したとしても、それは決して我々の村には入れない。万年続く一族の掟であり、この村の魔がそれを許さない」
「わかぁってる」
「いつか別つ運命ならば、傷は浅い方がいい。次に会った時に、話すんだな」
「……まぁ、それは追々な」
「そんなにいいか。あの女が」
「ああ、いいぞ。あいつはいい。もちろんお前もいい。話してるだけで面倒くさいことを全て忘れちまいそうだ」
「やれやれ……やっぱりお前、馬鹿だな」
「わかってるよ。へへへ。まぁな、15で頭首にさせられた俺の、最初で最後の我がままだと思ってくれエリンフィア」
「自分勝手なやつだ」
それだけ言うと、赤と青の剣を肩に担いて彼は屋敷の中へと入っていった。
その後ろ姿をついていくエリンフィアの顔には、微笑みが浮かんでいた。彼女の深い愛情が、寂しげな男の背に向けられる。
彼は幼少期から名を持たず、持たされたと思ったら多大な責任を押し付けられて、それでも飄々としていられるのは常に傍にいてくれたエリンフィアのおかげ。
暗殺者の頭首が、人としての感情を持って生きていられる。アルスガンドの歴史の中でもそれは稀で。歴代の一族全ての頭首はどこから壊れてるのが普通で。
だからこそ、この村は今は平和な村となっている。笑顔が溢れる村となっている。
彼が頭首出会いる間は、それは壊れることはない。即ちこの村が滅びるまでそれは、続くことになるのだ。




