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漆黒のエリュシオン  作者: カブヤン
閑話 漆黒の月夜で孕んだモノ
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第1話 世界で一番愛しいもの

 この行為は、憐れみからか、それとも――――


 赤い赤い血の海で、自らの臓物をかき分ける者がいる。


 その者の手には朱色に染まった短剣、降り注ぐ雨と、土と、血と、汚れたそれを一つのためらいもなく、その者は自らの腹部に突き立てる。


 その痛み、耐えきれる者などいるのだろうか。


 その痛み、痛みには慣れているその者とはいえ、口に加えた漆黒の髪の束を、自らの髪の束を、嚙み切ってしまいそう。


 必死の形相で自らの腹部を開いていく。大雑把に斬り開かれたその腹部を、今度は針のように細い短剣でつなぎとめる。


 横っ腹から飛び出るほど深く、細い短剣は貫くその者の腹を内側から貫く。もはや痛みはただの痺れになっていて。


 気を失えば、たちまち絶命してしまうだろう。だが、その者は、その女は、決して意識を飛ばすことはなかった。


 彼女は手を延ばす。自らの服の上に置かれた小さな肉塊のようなものを優しく彼女は掬って覗く。


 その小さな肉塊の中心には、小さく動くモノ。トクトクと、規則的に、時折不規則的に、動くモノ。


 自らの開かれた腹部にそれを入れ、埋め込んで、そして――――


 女が狂気の果てに得たのは最高の宝物。友から奪った宝物。


 愛情は、時に残酷に。


 ファレナ王国による世界侵攻より、18年の月日を遡って、世界で最も深く理想郷に足を踏み入れた男の生誕の事実を、今ここに。


「お前を誰にも渡さない……」




 ――幕間 漆黒の月夜で孕んだモノ




「リュート、急げ。今日は先生たちと薬草を取りに行くんだろう? ナズナちゃん表で待ってるぞ」


「あ、うん、あと、ちょっとだから。お父さんちょっとナズナと話してきてよ」


「しょうがないなぁ。わかった」


 輝く日の光に照らされて、その村は今日も平和な一日を始めようとしている。


 村にあるとある家の中で、10にも満たない年の少年が食卓に置かれた食事を口に入れている。少年の頬は、口の中の物に押されてパンパンに膨れ上がっている。


 それを強引に噛みつぶして、水を流して、少年は籠を持って椅子から飛び降りた。


「こらリュート! 行儀が悪いわ!」


「ごめんお母さん! 行ってきます!」


「もう……はい、行ってらっしゃい」


 少年はどたどたと足音を鳴らして、家の外へと急いだ。その後ろ姿を、お腹の大きな母親が見送る。


 コトコトと蓋を鳴らして、台所ではスープが煮込まれている。しょうがない子だと、飽きれながらも母親はそのスープの蓋を開けて、大きな木製の匙でスープをかき混ぜる。


 そして外、少年は友達の少女と共に、村の外へと続く道を走っていく。それを優し気な眼で見るのは、彼の父親。


 子供が出たことで、訪れるのはしばしの静寂。朝日昇る空に、肌寒い身体を震わせて、父親は家の中へと入っていった。


 のどかな風景。どこにでもある平和な風景。村が、朝日につられてゆっくりと目覚めようとしている。いつも、いつまでも続く平和な世界。


 父親は息を少し白ませて、朝露で濡れた玄関の扉を掴む。家に入って、朝食を。そして始まる昨日と同じ今日。


 だがこの日は――昨日とは少し違っていた。


 男は扉に手を掛けた直後、背筋に何かが突き刺さったかのような感覚に襲われた。


 そして振り返った。恐る恐る。何もないことを祈りながら、彼は振り返った。


 彼のその祈りは、虚しくも届くことはなくて――


 いた。


 女がいた。


 赤髪の女がいた。


 片手に本、幼さが残るその美しい顔、真っ赤な髪を肩口まで伸ばして、その空気、死を感じさせるその空気。


 赤髪の女は、淡々と、冷たい声で、男に告げた。


「オーダーナンバー22、吸血の魔術師、リンド・レイノルド。間違いない?」


 理解した。男は理解した。目の前のこの女がしようとしてることを理解した。


 そして叫んだ。力の限り叫んだ。


「メリサ! 逃げろ埋葬者だ!」


 家どころか、村中に聞こえるかのような声、もはや絶叫と呼べるその声。自らの妻の身を案じたその声。


 赤髪の女にもう一人のターゲットがいることを伝える、その声。


「ナンバー21、人食い魔女、メリサ・レイノルド。間違いないか、な?」


 赤髪の女は、本を開いた。パラパラとそれを捲っていくその姿に、男は、身の毛がよだつ思いをした。


 守るべきものがいる。その思いから、男は膝を折った。


「待て! 頼む! 見逃してくれ!」


 そして懇願した。頭を地面にこすりつけて、必死に懇願した。


「俺たちはもう人を殺していない! 魔術だってもう捨てた! 頼む見逃してくれ!」


 何度も何度も、男は頭を地面に打ち付けて、必死に助けを求めた。


「頼む……せめて、俺だけで……妻は……身重なんだ……!」


 大の男が、必死に涙を流してまで、許しを願った。


 だが、そんな甘い女ではない。赤髪の女は、ただ冷たく、言い放った。


「駄目、殺す。オーダーは例外なく、殺す、わ」


「くっ!」


 ペラペラと本を捲りながら、そう告げる女の顔は、氷のような冷たさで。


「馬鹿な! 何故だ! もう誰も殺していないんだ! もう、エリュシオンなんかどうでもいいんだ! 俺たちは、ただ平和に!」


「2」


 本を捲る手を止めて、赤髪の女はある数字を言った。


「その前は、1」


 あるページにかかれている文字を指さしながら、続けて女はそう言った。


「そのさらに前は、6」


 本は光を放ち、そして女の目の前に光の文字が浮かんだ。


「誰も殺していない? そのさらにさらに前、いう必要が?」


「……まさか」


「この村の周辺で一月ごとに出る行方不明者。その間隔は丁度一月。不思議なこと」


「何故、わかった……すべて、髪の毛一本すら残さず、使ったのに……」


「魔法機関は、甘くない」


 赤髪の女は、空に浮かぶ文字を手でゆっくりと撫でていく。撫でられた文字は順に、光を失い消えていく。


「嫌だ。嫌だ! 俺は、俺たちは平穏を得たんだ! いいじゃないかちょっとぐらい人が死んでも! どうせ旅人だ! 死んだところで誰も何も言わない! 誰も悲しまない!」


「もう、黙って」


 全ての文字が消えたあとは、光るのは赤髪の女の手だけ。


 突き出されたそれに、なすすべなどなく。男は、逃げ出そうと身体を反転させたその瞬間に、光にのまれて消え去った。


 あまりにもあっけなく、あまりにも簡単で。赤髪の女は夜露が消えた扉に手を掛ける。


 そして気づく。もう家の中には誰もいないことに。


 男の足掻きは、役に立ったのだろうか。


 家の裏から飛び出た妻である女は、必死に、涙を流すことも忘れて必死に、その大きなお腹を抱えて必死に走っていた。


 逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ。


 母親である女の頭にあるのはそれだけ。腹の中にいる自らの子を守るために、必死に、必死に、必死に。


 そして――――たどり着く。無常な結末。


「――ぐほっ!?」


 吐き出されたのは、真っ赤な血。痛みはない。あるのはただ、苦しみだけ。


 自分の胸の間に、何かがある感覚がある。母親はその感覚を、何かの間違いだと、間違いだと、必死に、必死に、必死に。


 だがそれは、間違いなどではなく、母親である女の視界に映るのは、自らの胸から突き出た真っ赤な剣。


 血で濡れているわけではない。その剣は、もともと真っ赤。


「がふっ……!?」


 また生える、青い剣。今度は、自分の、大きくなった腹部からそれは突き出ていて――


 そして、女は狂った。


「あ、いいいい……私の……子供が、子供が、子供がああああああ! 誰! 誰がこんなひどいことをぉぉぉおおお! わたしのあかちゃんがああああああ!」


 自らの腹から突き出た青い剣を、鬼のような形相で女は叩く。自らの手が、自らの指が、傷つきそして落ちても、それでも女は剣を叩くのをやめない。


「誰! だれ!? ころしてやる! わたしのまじゅつでころしてやる!」


 女は自らの手に魔力を込めて、そして、殴った。殴り続けた。


 魔術を発動できる術式も、その乱れた頭でくみ上げることなどできずに。


 動く。女に突き刺さった二本の剣が動く。それぞれ、180度半回転。動きは、それだけ。


 それだけで女の動きはピタリと止まった。両の膝を着き、落ちる女の身体は、重い塊を叩き付けるかの如く。


 大きく土埃を上げて、女の身体は地面に沈んだ。


 その後に現れるのは、漆黒の髪に朝日を反射させた男。何とも言えないような複雑な表情をして、二本の剣を払って血を飛ばす。


「うん、上々。アルス、ちゃんとしてくれたね。流石は……」


 男は振り返り、赤髪の女の顔を見る。その顔は、少しだけ熱を帯びていて。


 労いの言葉をかけようと、赤髪の女は男に近づいた。だが、言おうとした労いの言葉は、その男の表情に止められる。


「どうしたの? なんか、あった?」


「いや……ハルネリアは気にしなくていい」


「そんな顔して、気にするなって、無理」


「あ、いや……はぁぁぁぁぁぁ……」


 大きく男は溜息をついた。その溜息は長く、肺の中の空気を全て押し出すようで。


 少しだけ固まった後、男は面倒くさそうに話し始めた。


「いや、後ろからやったんだが……腹斬っちまってな。感触が、な……」


「感触?」


「いやだから……あーなんだ、お前は何かズレてるんだよなぁ。いつまで経ってもお姫様気分抜けないなぁお前」


「それ言わないでって言ったよ、ね?」


「はいはい、わかってますってシルフィナ王女様」


「……もう」


 狂気の顔のまま倒れた女に、ハルネリアは手を伸ばしてその生死を確認する。


 伝わる鼓動は無し。完全な死体。魔力の残りも、魂の残りも無し。


 ハルネリアは小さな紙を取り出して、それを撫でて空に文字を浮かばせる。浮かんだ文字を右に二回撫でるとその文字は横に滑って内容が変わる。


 そして軽く二回、ハルネリアはトントンと浮かんだ文字を叩く。すると、文字は消え、それを出していた紙もまた、消えた。


「オーダーは完了。報酬は、三日後に魔法機関に取りに来て」


「わかった。あーっと……次はもうちょい後味のいいやつにしてくれ。流石の俺も気持ちいいもんじゃないぞこれは」


「わかった。また探しておくか」


 唐突に、ハルネリアの言葉が止まる。


 また複雑そうな顔をする男を横目に、ハルネリアは振り向いた。


 そこに立っていたのは、小さな籠を持つ少年。驚きで固まったままの、少年。


「誰?」


 ハルネリアの問いかけに、少年は答えない。少年の眼は、ハルネリアたちの足元で胸と腹に大穴を開けて倒れる母親に固定されていて。


 それから眼を離すことなど、少年にはできずに――


「……まさか」


 その姿に、ハルネリアは理解した。少年はこの女の息子なのだと、ハルネリアは理解した。


「そう、なら」


 ハルネリアは本を開く。一枚一枚ページをめくっていく。冷たい眼をして、赤髪の魔法師はページをめくっていく。


「おーいハルネリア、何するつもりだ」


 その手を止めるのは、男の声。漆黒の男の声。


「後の悲劇を産まないために……この子供を殺す」


「おいおい……何でお前いちいちそう真面目なんだよ……あー閉じろ閉じろ。本を閉じろ」


「何故?」


「馬鹿、子供だぞ。何ができるっていうんだ。何も知らない子供まで殺すことはない」


「あなたは暗殺者……なのに、殺すなって、どういうこと?」


 理解できないという風に、眼を丸くするハルネリア。


 その姿を見て男は大きくため息をついて。そして頭を掻きながら、ゆっくりと、子供に言い聞かすように淡々と話し始めた。


「いいか? 子供ってのは宝だ。大人にとってのたーかーら。だから、守らないといけない。お前は魔法師としては最高かもしれないが、そこがちょっと足りないんじゃないか? 抱かれた時はあんなにきゃんきゃん言ってたのに。なんで魔術師相手にはそんなに冷血よ?」


「それは今は関係な……っ」


「やめとけやめとけ、ガキ殺すなんてなぁ、後悔しか生まないぞ。さぁ行くぞ。ここにいてもいいことは何もない」


「なっ、お、押さないで。アルス、ちょっと……!」


 この二人の行動は、きっとどちらも間違ってなどはいない。


 漆黒の男は、無実の子供を殺したくはなかった。それは、殺人を当たり前のように行ってきた者にとっての、踏みとどまるべき最後の場所。


 赤髪の女は、子供であろうとも後々に人を殺すことになるかもしれない者は全て、殺しておきたかった。それは、魔法師として人を守る者としての、進むべき最初の場所。


 どちらが正しいかなど、それは結果からしか判断などできない。


 立ち尽くす少年の眼に、二人の男女の背が見える。母を殺した者達の背が見える。


 その少年の心に燃えた暗黒の炎。誰もが想像できるはずのその心。だがそれでも、存外に人は気づかないもの。


 ――そして、日が傾くまで少年は、その場に立ち尽くしていた。

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