第46話 万年後の奇跡
――誰かが歌っている。
美しい声。全身に優しさを与えるその声は、高くて、低くて、優しくて、激しくて、それを理解することなど誰にもできない。
疲れきった身体は、それをただただ受け入れようとしている。
このまま眠ればどれほど心地いいだろう。
このまま倒れればどれほど心地いいだろう。
だがそれでも彼は、受け入れはしなかった。両の足を地について、今にも消えそうなその意識を強引に引き戻して。
そして見る。
瓦礫の上から彼女を見る。
純白のドレスに身を包んで、全ての安らぎを体現したその姿。一目見ただけで心が奪われるその美しさ。黄金色の髪は艶やかに、濡れる肌はまさに女神のよう。
思わずすがりたくなる。その優し気な表情に、その全てを受け入れるかのような仕草に、思わずすがりたくなる。
だがそれでも、彼は受け入れない。
真っ直ぐ、強い視線で、ただただ、彼女を見る。
話す体力すらない。
抗う体力すらない。
だがそれでも、否定することはやめない。
「あなたは勝利者。私が用意した全ての障害を打ち砕き、ここに生きて立っているあなたは、勝利者」
優しい声が、彼を称える。伸びる手が、彼の影を撫でる。
「死にました。死にます。死ぬでしょう。この戦いでも、ここまでの戦いでも、これからの戦いでも、人は死ぬのです。思い出は死ぬのです。愛も恋も憎しみも、すべて死ぬのです。あなたの存在で、さらに死ぬのです」
冷たい声が、彼を責める。伸びる手が、彼の心を撫でる。
「それでも、あなたは存在する。あなたは否定する。私を、世界を。それは、とても、とても、とても、とても、無意味で、無力で、無責任で――でも、正しい。あなたは、正しい。誰よりも強くて、正しい」
悲しい声が、彼を慰める。伸びる手が、彼の身体を撫でる。
「一万年かけて壊れたこの世界、一万年かけて創られたあなたが壊す。それこそが運命。素晴らしき運命。私はあなたを、愛してます。心の底からあなたを愛してます。だから、どうか、共に。共に参りましょう。共に世界を救いましょう」
力強い声が、彼を求める。伸びる手が、彼の魂を撫でる。
白き黄金の女王は、全身で愛を表現する。一度力を抜けば、そこに待つのは果てしなく落ちていく自らの――
「こと、わる」
辛うじて出た声は、真っ直ぐに彼の心となって白き女王の胸に届く。一瞬悲しそうに、そして一瞬憎悪するかのように、顔を変えた女王は、静かに伸ばしていた手をおろす。
周囲に、瓦礫の崩れる音が鳴り響いた。
「必ず、手に入れる。『私』には渡さない。ファレナ・ジル・ファレナ。あれにはあなたは、大きすぎる。必ず奪い取ってみせる」
背を向けるアリアの姿は、ファレナと瓜二つで。彼は、ジュナシア・アルスガンドはその姿に憐れみを覚えて。
「あなたにあげる報酬は、しばしの平和。楽しみなさい。精々楽しみなさい。どうせ最後には、あなたは世界に否定されるのだから。それまで、楽しみなさい」
アリアは背を向けたまま、人差し指を天に向けて立てた。そしてそれを、くいっと右に向けて。
「また会いましょう。愛しい私のエリュシオン」
そこで、彼の意識は切れた。
――昔話をしよう。
約一万年前、人が魔という物を知り始めた頃。三人の老人がお互いに向かい合って、話しあっていた。
「この力は、アズガルズから放つべきだ。人々はもっと、この力で豊かになるべきだ。見ろ世界を、争いばかりで休まるところがない」
「いや、危険すぎる。アズガルズに封じるべきだ。この力は人には早すぎる。見ろ世界を、強き者だけが生きるこの世界を」
「待て二人とも、今決断すべきではない。人は必ず前に進む。それまでこの力は私たちが守るんだ。見ろ世界を、弱き者が許されないこの世界を」
滑稽だ。三人とも言い合いをしているように見えて、結局は同じことを言っている。
彼らは、人を救いたいのだ。力をつけさせて救う。力を与えないようにして救う。力で守ってやることで救う。
結論は同じなのに、だがそれでも言い合いをしている。毎日毎日、飽きもせず毎日。
結果的に、彼らは決別するのだが、そこからが更に滑稽だ。彼らは、一人一人バラバラに、人を救う旅を始めるのだ。
力を与えようと言った一人は、魔術を使う。彼は行く先々で弟子を取り、自らの力を教えていく。
力を封じようと言った一人は、魔法を使う。彼は自分の家族及び極少数の親しき者にだけ自分の力を教え、人々を救うための集団を作る。
力で守ろうと言った一人は、魔導を使う。エリュシオンという魔をこの世界に導くために刻み付けた刻印は、彼の一族に代々残ることになる。
彼ら三人、その望みは、人々を救うこと。人々の世に平和をもたらすこと。
その思いは、後に呪いとなって残ることになるが、それは今は話すことではない。
そして一万年経って生まれたのが、この世界。
問おう。この世界は、人が人を支配するこの世界は、はたして彼らが望んだ平和な世界なのだろうか?
その答え、人それぞれなれど、人を超えてしまった彼ならばこういうだろう。
「どうでもいいさ。そんなこと」
――だからこそ、彼はエリュシオンの向こう側に足を踏み入れても、人であり続けれるのだ。
「……う」
うっすらと開けた瞼に飛び込むのは、日の光。身体を包む暖かくて、柔らかいこれは、掛布団?
酷く重い頭をゆっくりと持ち上げて、ぼーっとする視界を少しづつ正して。
ジュナシアの眼に映るのは、石の壁。そして柔らかいベッドの感触。
「うん? 目覚めたか?」
彼の耳に伝わるのは、聞き慣れた声。セレニアの声。ベッドの横に座っていたセレニアは、腰を上げてベッドの淵に座り直す。
伸びる彼女の手は、そのまま彼の頬に触れて。美しいその顔を、ぼーっと見るジュナシアは、ゆっくりと、ゆっくりと、その意思を覚醒させていった。
「セレニア……ここは、どこだ」
「城だ。ヴェルーナ女王国の。王族が使う寝室だ」
「城……」
ジュナシアは頬に添えられるセレニアの手を握りながら、記憶を辿った。だがどこまで行っても城に戻って来た記憶はない。
それを察したのか、彼の手を握り返してセレニアは告げた。
「城の前に倒れていたんだぞ。覚えてないのか?」
「城の前……」
思い出すまでもなく、彼にそんな記憶はなかった。
「まぁいいさ。戻ってこれたんだ。それだけでいいさ……なぁ……」
「お待ちください」
口づけをしようとしたのか、ゆっくりと顔を近づけたセレニアを、どこからか聞こえた声が止めた。
少し驚いた顔をして、セレニアは掛け布団をゆっくりを捲る。
「イザ……リア……!? お前いつの間にこいつの布団の中に……!」
そこにいたのは、身体を丸めて布団に隠れていたイザリア。黒髪が乱れるのも構わずに、イザリアは頭の先まで布団をかぶっていた。
気づかれてしまってはと彼女はいそいそと布団から上半身を出して、座った。
「若様はお疲れです。口づけなどで体力を奪ってはいけません」
「何を、その程度で疲れたりするか」
「疲れます。いいですか。呼吸というのは体力を蓄えるために最も必要なこと。それを数秒とはいえ止めてしまうことは、若様にとって数秒間回復が遅れるということです」
「へりくつを言うな。貴様、嫉妬してるだけだろうが」
「断じて違います。だからセレニアさんは」
言い合いをする二人に、ジュナシアはどこか懐かしさを覚えながら。しかしながら急激に現実を思い出して。そして彼は二人に問いかけた。
「それで、イザリアは何故生きているんだ?」
その問いかけに、一瞬だがイザリアは悲しそうな顔をして。だが隠すことなく、彼女は告げる。
「私は生きてはいません。ここにいる私のようなものは、私の魂を介して、そのものとして創られただけです。本当の私は未だ村の土の中にいます」
その声は、凛として、一つの震えもなく。そして優し気で。
「魂に刻み付けられた人の記録を、最大限に再現できるオートマタ、それが私の身体です。ですので、私という存在は厳密にはイザリアという人を真似てるだけに過ぎないのです」
だがどこか悲し気で。
「ああ、そうか、まぁ、それもいいさ。そういうのも、あってもいい。なぁ、セレニア」
「まぁ……お前がいいならいいさ。これでいいさ」
だからこそ、彼らの言葉にイザリアは喜ぶのだ。魂の形を再現しただけの人形であれ、その心と体は人のモノ。だから、その在り方に問題など生じるはずはなく――
「イザリアは、なんだ、どこまで人の身体なんだ? 食事は? 睡眠は? 戦闘に違いは?」
「ハルネリア様が言うには、700番台のオートマタはその細胞一つ一つから人を真似て創られたと聞きます。感じないでしょうか。この胸の奥には、人と同じように心臓が動いています。口も、舌も、そして胃も腸もありますので、食事もできます。まぁ、さすがに栄養摂取は別の問題らしいですが」
「そうか。さすがは魔法師最高位の一人、か」
「はい、大分私も調整には苦労しましたが。まさか内臓の位置や大きさが個人の魂にとってこんなに大事なものだったとは。不思議なものです」
「そうか」
自らの身体をペタペタと触るイザリアのその仕草が、妙に子供っぽさを感じて。ジュナシアは少しだけ微笑んだ。
それにつられたのか、イザリアも微笑む。二人を見ていたセレニアも、微笑む。
優しくやわらかなその空間は、正しく平和。彼が得た報酬の一つ。
「いやしかし、流石はリーザ嬢です。まさか聖皇騎士の一人を捕らえるとは。ファレナ様も素晴らしい護衛をお持ちだ。羨ましいですよ」
「はい、王子様にもこれでわかったでしょう。リーザさんは何だかんだでやるときはやるんです。いっつも日陰にいる気がしますけど気のせいなんです」
「なんのなんの、ふへっへっへ! 何を隠そう騎士学校卒業時の首席って私なんですよね! ネーナのやつは剣技以外寝てましたからね! 真面目な人間が最後には勝つんです! ふっへっへ!」
「ははは、いやぁよかったよかった」
ジュナシアたちの耳に、懐かしい声が聞こえてきた。
その声はだんだんと大きくなって。そして開かれた部屋の扉に到達する。
最初に顔を出したのはその整った顔に痛々しくも包帯を巻いたランフィード。その後ろをファレナとリーザが続く。
「やあ、何だ起きてるじゃないか。こうなってしまってはもう僕の方が酷いなこれは」
ランフィードはジュナシアの下へ歩き、はにかみながらもそう言った。
「おはようございます。もう昼ですけど、元気そうでなによりです!」
ファレナがジュナシアの手を取って、そう言った。
「10日も寝っぱなしなんて気楽ねぇあんた。どんだけ後処理大変だったか。ヴェルーナ国民じゃない私たちも手伝わされて……あれ、セレニアさんついさっき食堂でつまみ食いしてなかった?」
「いきなり言うな女騎士」
リーザがセレニアと言葉を交わす。
ランフィードたち三人は、皆笑顔だった。少し前まで国まとめて絶望に叩き込まれていたとは思えないその表情は、ジュナシアに否が応でも戦いが去ったことを伝える。
「無事だったか、ファレナ」
「はい、ジュナシアさんもお元気ですね」
「ああ……どうにもまだ魔力が安定してないが、身体は大丈夫だ」
「よかったです。本当に」
「そうだな」
「本当に……よかったです」
ベットの淵に腰掛けるファレナの姿にふと記憶が戻って。
ジュナシアは優し気な顔で、彼女に話しかけた。
「アリアに会ったよ」
「……お母様に?」
「ああ」
「何か、言ってました?」
「大したことじゃない。だが、どうにもまだ懲りてないようだ。少しの間だけ、平和をくれてやると言っていた」
「そうですか……仕方ないですね。本当に、仕方ないですねあの人は」
「そうだな。歳をとってる割りには、諦めの悪い奴だな」
ふと寂しそうな顔をするファレナに、何かを感じたのだろうか。彼は微笑んで。そして腕を伸ばして。
「ファレナ」
「な、何ですか?」
「お前は何も間違えてない。大丈夫だ」
「あ……いや……え……?」
「ここまで決して楽な道のりではなかったが、それでもお前はここに生きている。だから、お前は間違ってない。だから、泣くな。誰もお前を否定しない」
「いや、泣いてなんかいませんよ……?」
「いいさ、これでいいさ。これでいい。お前の思うように世界に抵抗してみせろ。俺たちは、誰一人お前を否定しない」
「……わ、私は、泣いてません」
「本当に?」
「本当に……本当は……」
彼はその赤く刻印が輝く左手でファレナの手を取った。そしてその手を両手で包んで。
「……私、本当は、ここに来ちゃいけないんじゃないかって、ずっと思ってました。言い訳するまでもなく、私は、ファレナ王国が攻めてくる切っ掛けに、なったんです。それは、事実です。事実なんです。だから……後悔しなきゃ、駄目ですよね」
「ああ、だが、な。気付いてるだろう。もうすでに」
「はい……私、知ってます。もう知ってます。もう、止まったら、ここで止まったらそれこそ駄目だって。沢山の人の死が、無駄になるって。だから、私は――」
ファレナは両手を広げて、その身体を前へと投げる。それを優しく受け止めるのは、もはや決められたことのようで。
「私は世界に宣戦布告します」
ジュナシア・アルスガンドの胸の中で力強く告げられたファレナの言葉は、前へ進む道しるべとなって。
何かを変えるためには、何かを壊す必要がある。壊されていく何かの上に、新しい世界を創りたいと言うならば、傍観など許されるわけがない。
変わりゆく世界に牙を突き立てるのは必然か。ファレナのその決意は、少女の夢物語などではなく、それは、正しく世界を統べる者の決意。
その想いを、誰一人否定することはなく。黒き英雄の腕に包まれる白き王女は今、初めて世界に牙を剥いたのだ。
――玉座の間にて。
「シルフィナよ。あやつ目覚めたようだ、な」
「そう……一安心ね」
「行ってやらんのか?」
「だって、今更どの顔で会えって……?」
「どの顔も何も、ヴェルーナ・アポクリファとしての顔でも、魔法師ハルネリアとしての顔でも、すきな顔で会えばいい」
「……そんな、簡単にいうけどね。お母様」
「魔力波長図の結果は明らかだ。ならば、感動の再会、ではないの、か? のぉシルフィナ」
「感動って……待って、待ってよ。だってこんなの、あり得るの? こんなの、こんなの……」
「あり得るも何も、事実だと」
「波長図から解析して……アルスガンド独特の波形図……かなり濃いから直系の、父親のだとわかる。そして分解した波形図、セレニアさんに近いことからこれ、エリンフィアさんのだというのがわかる。セレニアさんとエリンフィアさん同じ家系だから。少し離れてるけど」
「うむ」
「それで何で三つ目の波形図があるの……!? それが何で私の波形図なの!?」
「全く同じ波形図を得るには、直接の親しかありえんということは、わかっておろう?」
「そんな馬鹿な、なんで、どうして、どうして彼が、これを持っているの!?」
「親が三人……一人の父と、二人の母から産まれたと解釈するしかあるまいて? なぁ、認めよシルフィナ。あやつは、ヴェルーナを救った漆黒のエリュシオン、ジュナシア・アルスガンドは――」
「私の子に……何を、したの……エリンフィアさん……」
「魔法機関埋葬者ハルネリア・シュッツレイの、ヴェルーナ女王国第一王女シルフィナ・ヴェルーナ・アポクリファの、子であるということを」
第二章 輝ける君のために 完




