第36話 遠く近き現世を進みて
国を覆う光の壁は、全てを退ける防衛魔法の極致。触れた者は全て容赦なく退ける退物の防御壁。触れた者は、全て――
「確かめるまでもなく死んでる。触れた兵士が一瞬で炭化した。とんでもない魔法障壁だ」
黒い人の形をした像のようなものに触れながら、煌びやかな鎧に身を包む騎士がそうつぶやいた。
聖皇騎士トリシュ・ハイベルト。その端整な顔をしかめて、黒き人だったものに対して敬礼する。手を胸手に当てて。
「こんなものを持っている。何が世界で最も平和な国だ。結局は力じゃないか。こんなもの、もし世界に向けられでもしたら、恐ろしい、恐ろしいよ。恐ろしい」
トリシュは首を振り、眼の前にある光の壁に対して怒りをぶつける。彼の後ろには大量の騎士たち。皆剣を抜き、攻め入らんと眼を血走らせている。
ファレナ王国騎士団の兵数はすでに数万を超え、ヴェルーナ女王国とロンゴアド国との境目である国境沿いには人が溢れかえっていた。
突然に、トリシュは不思議そうな顔をして眼を開けた。
「……ん? これ、何だったっけ? 邪魔だな進軍には。誰だこんなものを置いた奴は」
そして目の前にある黒い物体を蹴り飛ばす。それはメキメキと音を立てて足だった部分を折りながら倒れて、地面にぶつかって粉々に砕け散った。
砕け散った黒いものをトリシュは入念に踏みつぶす。砕いて、砕いて、砕いて、これでよしという顔を見せた彼は、また不思議そうな顔をして。
「あれ……何してたんだっけ? あれ、忘れた。女神様、僕、何をすればいいんですか?」
子供のような顔で両手を空に上げて、何かに懇願するかのように彼はそう口にする。明らかに何かがおかしいその姿は、仲間である聖皇騎士たちに困惑をもたらしていた。
「トリシュ卿、疲れとるのか?」
柱のような大剣を持つ老騎士は小さな声で隣にいる中年の騎士に声を掛ける。
「まぁ大丈夫でしょサーガス殿。飯もすっげーくってたし、顔色もいい。もしかしたら何か言われたのかもしれませんなぁ。彼責任感が強いですから、ラーズ君、トリシュ卿と共に城に呼ばれていただろ? 何かあった?」
中年の騎士は、聖皇騎士オルディンは首を横に向け、赤髪の男にそう話しかけた。赤髪の剣士であるラーズ・バートナーは驚き身体をビクリと跳ねさせて、言葉に詰まりながらも彼に返事を消した。
「いえ、王妃……女王様に、出陣の儀と、お言葉を受けただけです。あとは、事務的なお話を騎士団長と」
「あ、そう? ふぅん……まぁ君も聖皇騎士になったんだ。そんなに気ぃつかわなくていいぜ? トリシュ卿は伯爵だからその辺厳しいけど、俺とサーガス殿は爵位ねぇし。貴族としてならバートナー家の方が上だろ? 先輩とかも関係ねぇよ」
「いや、家は……関係ないと思ってますんで」
「へぇ、今時できてるやつだ。協調性もばっちりだし、ネーナに見習って欲しいねぇ」
「は、はぁ……」
ラーズは多数の騎士たちの後ろで剣を抱えて遠くを見ているネーナの方に視線を向けた。その視線に気づいたのか、彼女はラーズに顔を向ける。
その鋭い眼と、美しい佇まいに、ラーズは思わず顔を背けた。
「んー……そうかそうかラーズ君そうなんか」
「いや……サーガスさん?」
「べぇつに? 一応言っておくが、ネーナは苦労するぞ。やめとけ。相手いないのはそれなりに理由あるってな」
「苦労……?」
「へへへ」
笑うオルディンに、ラーズは困惑しつつもつられ微笑む。唐突に聖皇騎士に昇格させられ右も左もわからなくなっていたラーズにとって、オルディンのその裏表のない笑顔は親しみを感じさせるのに十分だった。
ラーズは顔を上げる。空をみていたトリシュがいつの間にか真顔になって、光の壁すぐ近くに立っていた。
「トリシュ卿、近づくと危ないぞ」
老騎士サーガスはトリシュに注意を促した。だが、彼の声はトリシュには届いていないようで。光の壁に目と鼻の先まで近づいて。
「トリシュ卿!」
大きな声で、サーガスは再びトリシュに声を掛ける。
「聞こえてますよサーガス殿。大丈夫、触れなければ大丈夫ですって。心配性ですなぁ」
「……わかってるならよいが」
そして振り返るトリシュ。その顔は、普段通りの彼。最高の騎士と言われた彼。
トリシュは歩き出した。数万の騎士たちの方へ。聖皇騎士たちを過ぎて、彼は騎士たちの前に立つ。
「皆! 聞いてくれ!」
大きな声。響き渡る音。その声に、騎士は、兵士は、姿勢を正し彼を見る。
「ヴェルーナ女王国は我らが世界平和に抵抗する唯一の国! 悪の国! 非交戦と謳いながらも、このような破壊兵器を有する彼らの存在を許してはならない! 女王はそう我々におっしゃった!」
数万の騎士たちは遥か遠くまで展開している。彼の声は、陣形の端にいる兵士にも難なく届いていた。ただ大きいだけではなく、どこまでも響き渡るような彼の声。
「この魔法障壁はあと数分で消える! 消えれば我らを止める物はない! この国を攻め落とせ! この国を粛清せよ! この国にいる者を全てを殺せ!」
止まる。その言葉に空気が止まる。
小さく、小さく息を飲む音がなる。
「この魔法障壁はヴェルーナの民全ての魔力が元となっている! 殺せ! 全て殺せばこれはもう二度と発動できない! 粛清せよ! ファレナ女王に刃向かう者全て粛清せよ! 殺せ!」
熱を持つトリシュと裏腹に、騎士たちに、兵士たちに、広がるは困惑の色。
「おいおい……」
「うぅむ……」
オルディンが顔を抑える。サーガスの額に汗が浮かぶ。
広がる空気に、一切の反応を持たず、トリシュは尚も続ける。
「美しい世界の為に! 全て滅ぼせ! 躊躇う者は!」
トリシュは、おもむろに剣を抜き右へと払う。
その剣の先にあったものは――――
「俺が殺す」
ぼとりと、何かが落ちた。何かがあった場所から、赤い水が空へと勢いよく噴き出した。
その場にいた者達全ての思考が、身体が、止まった。
「なっ」
ラーズが思わず声を上げた。その声に、凍っていた場が一気に解凍される。そして兵士たちは、騎士たちは、一斉に声を上げた。
「アルド! セイナ!」
「な、なにをするのですトリシュ様!」
「なんてことを!」
一斉に、思い思いに、血を吹き出しながら倒れる首の無い身体を見て、声をあげた。困惑の声、そして非難の声。
「黙れ!」
トリシュは叫び、剣を構える。その姿に、ぴたりと騒ぎは止まった。
「女王陛下が、我らに命じたのは、殲滅。殲滅だ。兵の一人や二人死んでも俺には何の関係も無い。全ては、女王陛下のために。いいか、こうなりたくなかったら、進め。殺せ。殺し続けろ。女、子供、老人、無抵抗、関係なく、殺せ」
トリシュの眼は、冷たく、ただ冷たく輝きを失って。数万の騎士たちは、兵士たちは、彼の言葉に一切の声をあげることなく立っていて。
トリシュは右腕を上げて――――
「さぁ、偉大なる女王陛下の光が、ここに、来るぞ」
先に届いたのは、光。高く浮かぶ太陽よりも強い光。周囲を真っ白に染める光。
次に届いたのは、音。爆音。一瞬聴覚を失うほどの爆音。
騎士たちは見た。兵士たちは見た。ラーズは見た。
光で覆われたヴェルーナ女王国に落ちる光の柱を。彼らは見た。
最後に届いたのは、衝撃。一気に土を捲りあげ、その場にいる者全てを吹き飛ばさんとする。
「ぐううう! 何が起こったんだ!?」
ラーズが光の中で薄目を開けながら叫んだ。その場にいる者全て、トリシュ以外は、同じ思いを胸に抱いただろう。
光が走る。音が走る。衝撃が走る。走った後に残るのは、光より解放されたヴェルーナ女王国の姿。
光の柱は消えて。光の壁も消えて。
「素晴らしい力だ! 進軍だ! 全て殺せ! 全て! はははは、ひゃはははは!」
高笑いと共に、トリシュはヴェルーナ女王国の町へと指を向けた。行けと、彼は顔で、身体で訴えている。
「動け馬鹿者共が! 女王陛下は待ってはくれないぞ! 次はお前たちの上に落ちるかもなぁ光! はははは! 行けよ殺されたいのかァ!?」
騎士たちは、ゆっくりと、歩き出した。だんだんとそれは加速し、速足になり、走りになり――
兵士たちは、それにおいていかれないように、足を動かした。
数万の行軍を横目に、困惑するラーズは、前を向いた。
そこにはやれやれといった顔で剣を抜くオルディンが、大剣を肩に担いで首を回すサーガスが、剣を鞘に納めたまま左手に握るネーナがいた。
彼らは、個人的感情を消せる者達、やりすぎだと感じても、考えない者達。
その姿に、ラーズ・バートナーはどこか、違和感を感じる。その違和感の正体を彼はまだ理解できないのだが――
「まぁ、殺せっていう命令なら、殺しましょっかね」
軽くそう言ってのけるオルディンのようにはなりたくないなと、ラーズは心の中で呟いた。




