第5話 名前の意味
「ちょっと、ちょっと待ってください。ちょっと……」
足を震わせながら、手を伸ばすその先にあきれ顔が一つ。
そのあきれ顔の女性は面倒くさそうに、前を行く男の顔を見る。彼は優しそうな顔をして顎でそばを指す。複雑そうな顔をして、セレニアは彼が指したところに腰をドンと落とした。彼もセレニアの隣に腰を落とす。
「はぁはぁ……せ、セレニアさん? あなた様も……」
ヨロヨロと胸元がきつそうな服を着たファレナが彼らに近づいた。彼らは何も言わない。ただ、地面に座っている。
何も言わずとも、座れと言ってることは明らかだった。鈍いところがあるファレナでもそれは気づいた。
だが、地べたに座るということが、ファレナには初めての経験で。躊躇のようなものを彼女は覚えたのだろうか、彼の隣で立ち尽くしていた。
見かねた彼がファレナの手を引く、不思議なことに、手を引かれただけなのにファレナの身体はまるで操られたかのように足を畳み、彼の隣に座ることとなった。
セレニアが一瞬顔を強張らせるが、それで終わり。セレニアは彼に腰を押し付けると、その長い髪を彼の肩に掛ける。
「はぁはぁ……あの、あとどれくらいですか?」
「あと半日ぐらいだが」
「えっ!?」
セレニアの言葉にファレナは絶句する。もう日が登ってそれが傾くぐらい歩いているのだ。彼女の足はもう痛さと気怠さで、かなり限界だった。その上でその言葉。ファレナはその青い瞳を大きくさせて、固まった。
「全く、やはり置いていかないかこいつ」
心底面倒くさそうに、セレニアが自分の髪を彼の顔に押し付けながらそう言った。その言葉に、彼はふっと口を緩ませる。面白い冗談を言うじゃないかと言わんばかりに。
セレニアは息を吐く。髪を持っていた手を離して、その手を彼の首に添えて。その姿に、彼を挟んで横にいたファレナが少しだけ頬を染めて、眼を泳がしていた。
「あ、あの……私、最近眼がみえるようになったので、あの、こんなこと失礼かもしれませんけど。あの」
そして、問いかけようとする。一言ごとに手を動かして、眼を動かして、首を動かして。
「もしかしてお二人は、こ、恋仲なのですか?」
「何?」
「あ、ごめんなさい。あの、すみません、間違ってますよね。やっぱり私、もっと勉強を……」
「よくわかったなお前。中々いい眼をもってるじゃないか」
「あ、は、はい! ありがとうございます!」
いつになく上機嫌で、セレニアはますます彼に身体を寄せ、ついには覆いかぶさるように抱き付いた。ファレナはその姿に、恥ずかしさを覚えたのか、眼を反らしつつもちらちらと彼らを見る。興味深々だという表情で。
「私とこいつは物心つく頃から一緒にいた。だから、死ぬまで一緒にいる。こいつは私のモノ、誰にも渡さん。アルスガンドの名を継いだところで他に妻など取らせはしない。跡継ぎは私が必ず産んでやる」
「よくわかりませんがいいと思います!」
「何だ結構わかるじゃないか、おいお前、一国の姫がいいと言ってくれたんだ。町で婚姻を誓うか? なんだ、誤解してたようだな私は」
似合わず浮かれるセレニアに、彼は少しだけ嬉しさを感じつつも、どこか遠くを見るような顔をする。そして一言。
「もう、アルスガンドを継ぐことは無い」
彼はそう告げた。セレニアの顔はスッと真顔に戻ると、彼から腕を下して足を伸ばす。現実に叩き戻されたかのように。彼女は無言となった。
継承させる人がいなければ、継ぐことなどできない。彼も、そしてセレニアもそれを知っていた。彼らにとってそれは、名を貰えばそれで終わりなどというものではないのだ。
「その継ぐとか継がないとかは、何なんです?」
無邪気にファレナが聞く。その子供のような白い肌の女は、心の距離を考えたりはしない。
彼はファレナに向かって口を開く、その問いの答えを、真っ直ぐに。
「アルスガンドの一族は、遠くはアスガルズの刻印師を祖とし、世界にいくつかある刻印の一つを継ぐ血族。血は残っても、刻印の譲渡が無ければそれはもう系譜とは呼べない」
「は、はい? あの、よくわかりません。刻印とは?」
「術式印章。魔術師の使う魔術とは異なる。魔の法とも言うべき術。魔力で現象に働きかけることを魔術と呼ぶなら、魔力で現象を引き起こす法こそが刻印。刻印を持って術を成す、故に刻印師」
「え、えっと……」
困惑するファレナに、彼は難しすぎたのかと思い少しだけ申し訳ないような顔を見せた。セレニアはその彼へと助け船をだす。
「お前、そんなことをつらつら言ってもこの頭花畑の姫には伝わらんぞ。刻印は要はこれだ、私とこいつの左手の甲に光る円形の紋章。これが刻印の一部。まぁ簡単に言うと、魔術師が大規模な術を使う時に地面に魔術陣を書いたりするだろう。起源は違うが、結局はあれと同じだ」
「あの、魔術師が儀式として使う丸い模様のやつです?」
「そうだ。使う魔力量は文字通り桁が違うがな。私のは特に魔力の消費が激しい。下手をすると衰弱死するほどにな」
「は、はぁ……それじゃ、あの、アルスガンドという名前になるんですね。あなた様は」
「いや」
それは違うと、彼は首を横に振る。名は無いのだ。あくまでも名無しなのだ。継いでいないのだから、名は無いのだ。
もう継ぐことは無いから、これからの生涯にわたって、彼の名は無いのだ。
その事実に、セレニアは気づき、そして改めて自分の故郷が無くなったことに対して怒りを覚えた。
「ちっ……継承ができないんだ。死ねば私たちの刻印はあの壁に戻る。それで永遠に壁に飾られるモノとなる。暗殺者へと傾倒した一族の末路か……いや、名が無くとも、私はお前から離れることは無い。安心しろ」
セレニアは彼を抱き寄せる。特に、名が無いことに不便さを感じてはいなかったが、これからも永遠にとなると少しだけ不便だなと、彼は思った。
セレニアと彼の心などお構いなしに、ファレナは無邪気に、ある言葉を口にする。
「じゃああなた様の名前今決めましょう! はい!」
彼とセレニアは驚いた。名が無いのに何故決めてるんだと、二人は考え、そして気づく。
継承が無くなったのなら、一族が無くなったのなら、名前が無いままでいる必要などないではないか、と。
それは単純なことだった。二つの名ができてしまうから、一つは捨てることになるから、彼は名を持てなかった。だがもうそれがないのなら、名を名乗っても何も悪くないのだ。
「どうせだから姓はアルスガンドにしましょう。一族の名なんでしょう? それって姓っていうんですよ。昔からそうなんですから、もう決定です」
「い、いやそれは……セレニア」
「と、と言うことは、私はセレニア・アルスガンドか? それはいいな……はは、私の姓……こいつと同じ姓ということは家族。いや夫婦、こ、これは、いいな……ついに私がこいつと……ふへへ」
「セレニア?」
「となると名前ですよね。うーん……そうですねぇ……」
何故か浮かれるセレニアと、困惑する彼。何にしようかと悩むファレナ。
考え込むこと数刻、すっかり日もくれ、セレニアは妄想に花を咲かせ、彼は、もうどうにでもしろと言わんばかりに、ただ眼を瞑って座っていた。
「英雄は黒き深淵に三度落ち、そして黒き炎の中で三度起き上がる。その者の復活こそが、世界に光をもたらすことになるだろう。ニュドリアスの剣、最終章」
唐突に、ファレナは眼を瞑って思い出すようにその言葉を発した。その一節は、彼女の何かに染み込んで。そしてファレナは何かを決めたかのように、顔を上げて真っ直ぐと彼の眼をみた。
「決めました。あなたの名前は、ジュナシア。子供の頃から何度も従者にせがんでは読んでもらった本に出てくる英雄の名です。ジュナシア・アルスガンド。何か、セレニアさんと姉弟みたいですね」
「ふ、夫婦と言え馬鹿!」
全くなじみは無かったが、不思議と別にそれでいいと彼は思った。
ジュナシア・アルスガンド。何もない街道の横で、唐突に名付けられた彼は、その名を忘れないように、何度も何度も心の中で復唱するのだった。
日は落ちきった。気が付けば、彼らはそこで三人並んで横になっていた。星が彼らに降り注ぐ、月が大きな円を描く。夜空は、これからの道を指し示すように明るく輝くのだった。