第4話 そして、月夜
ファレナ王国が城から離れたある山奥で、小さな小屋があった。コリコリと何かをすり潰すような音が響く。
周囲は日が落ち、灯の光すらない。小屋を照らすのは月の光だけ。
その小屋の中で彼女は目覚めた。真っ赤に染まったドレスは脱がされ足元に丸めて置かれている。代わりに布は被さってはいたが、かなりの肌寒さを感じていた。
「ちっ、案外早かったな。運のいい奴め……」
草をすり潰していたセレニアが振り返ることなく彼女に話しかける。白い肌の姫はその背に向かってゆっくりと近づき、セレニアの右肩から顔を出す。
いきなり現れたその顔に、セレニアは少し身体を引いた。
「私はファレナ・ジル・ファレナと申します。あなた、お名前は何でしょう?」
笑顔でセレニアに尋ねるファレナは、一つの警戒心もなく名を訪ねる。ファレナの眼はしっかりとセレニアの眼を見ていた。
その顔に、セレニアは思わず眼を反らした。
「質問は人の眼を見てするのが正しいと教わりました。あの、何か失礼なこといたしましたか? あ、もしかして見るのに作法がいるのですか?」
ファレナは不安そうな顔をして尋ねる。名を聞くまでは傍から離れないと言わんばかりに。セレニアは一つ溜息をつくと、ファレナを押し戻し、すり鉢に水を流し込んで彼女に渡した。
「飲め。口に含むなよ苦いぞ」
「は、はい、あのお名前」
「ちっ……飲め」
しばらくの後に、ファレナはその液体を飲みほした。一気に。ゴクッと飲むと、彼女は口の中に広がる苦さに耐えるように、口を押えて少し震えていた。
「はぁ……あのこれ、何の飲み物ですか?」
「……お前、少し前に毒殺されかかったのによく簡単に飲めるな」
「飲めと言われましたから……ところで何の飲み物ですか?」
「お前……解毒剤だ。霊薬だけでは残るからな。はぁ……」
「解毒剤……あのところでお名前は?」
「ちっ、セレニアだ。何てしつこい女だ」
「……あの、姓は?」
「ない。誰もがお前たちみたいに名を与えられると思うなよ」
「は、はい。すみませんセレニアさん……あのどう書くんですか? 文字は?」
「お前、私を怒らせたいのか?」
「い、いえそんな。すみません」
「ちっ……気が済んだら服を着ろ。あいつが戻ってくる前に。言っておくが、色目を使った瞬間に殺すぞ。いいな?」
「え? いや……はい、よくわかりませんけど服いただきます」
セレニアは外を見る。ファレナは横に置いてあった黒い服を取って、腕を伸ばして袖を通す。一つも伸びない硬い服に戸惑いながらも何とか一人で着ることができたが、その服に窮屈さを感じたのか、胸元をつまんで伸ばしていた。
「ちっ」
セレニアはそれを見て舌打ちをする。ファレナが着た服は、セレニアの服なのだ。胸元をぐいぐいと伸ばすその姿に、セレニアは少し苛立ちを感じていた。
肉付きのいい身体。運動という運動はしてなかったのだろう。ファレナの身体はまさに女として創られたかのような身体。
「所詮脂肪だ。自慢するな」
「え? 何かおっしゃいましたかセレニアさん」
「気安く名を呼ぶな」
セレニアはふてくされたかのような顔を見せると、すり鉢に水を流して中に残ったもの洗い流した。流れる黒い水は、すぐに透明になる。
すり鉢を床に置いて顔を上げる。セレニアは不機嫌そうにその顔を見て、足を軽く叩いた。ドンと鈍い音が響く。その音で、ようやくファレナはセレニアの前に人がいることに気が付いた。
黒い彼は、セレニアの隣に腰を下ろす。ふぅと息を吐く彼の顔は、暗殺任務についていた時とは別人のように幼げだった。
だから最初は気づかなかった。ファレナは彼の顔を見ても、それが自分の眼を治した男だということには気づかなかった。
「結界は張ったか? 慣れていないだろうがもう代わりにするやつはいないからな。お前がやらないと」
彼は問題ない、という顔をみせた。言いたいことがわかるのだろうか、セレニアは微笑むと、彼の傍に少し近づいた。
言いたいことがわからない者もいる。部屋の隅で服の胸部分をどうにか伸ばそうとしているファレナは、マジマジと彼の顔を見た。
「私はファレナと申します。あなた、お名前は?」
暗くて顔が見にくいのだろうか、遠慮することなく顔を近くに寄せてファレナはそう問いかけた。セレニアの表情が曇る。
彼は表情を崩すことなく、その問いかけには答えなかった。
「あの、お名前」
「無駄だ」
もう一度問いかけようとした時、セレニアがそれを遮った。苛立ち交じりにセレニアは彼に近づいていたファレナを押し戻す。
「そいつには名が無い」
「え? どうして? 人には名前があるものでしょう?」
「……ちっ」
ファレナは一つの罪悪感もなく、軽々しく疑問を叩き付けてくる。セレニアはそれに苛立ち、黒い彼は、その姿にどこか新鮮さを感じていた。
「私たちは暗殺者一族、さらにこいつは次期頭首だ。頭首となるものはその名を継ぐまで、名前を持たない。意味がないからだ。名は、二つもいらない」
「は、はぁ……あの、暗殺者って、あの暗殺者です? 本に出てくる、あのこそこそっとしててドロドロっとしてる」
「お前、馬鹿にしてるのか?」
「あ、いえ、そういうつもりでは……」
「はぁ……何だってこいつを助けたんだ? 確かに私たちは帰るところを失ったが、それでもこんな荷物を抱えなければ再建もできたはずだ」
呆れたような顔で、セレニアは彼に問いかける。セレニアは存外に顔にでる女だ。彼はそれを十分に知っていた。だから彼女は今、本気で呆れているのだ。
彼は口を開くことなく、セレニアとファレナを見比べ、口元をほころばせた。その仕草に、セレニアは少しだけ、怒りの感情をみせる。
「……今胸を見て笑ったな?」
セレニアの怒りの籠った言葉に、口を真一文字に戻す。
「あの、お二人は、ご家族なんですか? 随分と雰囲気が似てますが」
ファレナがいつの間にか二人に近づいて、顔を見ながら問いかける。気配を察知するのに長けている二人が、その接近に気が付かない程邪気が無く自然に近づいて。彼は少しだけ驚きの顔を見せ、セレニアはびくっと身体を震わせた。
それが悔しかったのか、セレニアの表情は強張り、そしてすぐに凍った。
「お前には関係ない」
「そんなこと言わずに、教えてください」
「……遠縁の血族だ。これでいいか、早く離れろ」
「はい、ありがとうございますセレニアさん」
返事を聞いて、眼の前に座るファレナに、セレニアは諦めたような顔を見せた。
彼がまじめな顔をしてセレニアを見る。彼女はその顔をしばらく見た後、ふと優し気な顔を見せた。
「ああ、魔力は回復した。身体に影響も無い。なんなら見るか?」
セレニアは左手に青く輝く円の紋章を彼に見せる。その輝きは持ち主の魔力の量を伝える。常時輝いているため、隠密行動をする際は厚手の手袋をすることが必須だったが、今の彼女はしていなかった。
「さて、どうするこのお荷物姫様。帰すか城に。少なくとも感謝はされような」
その問いかけに、彼は考えるまでもないと眼で答える。その眼を見てセレニアが息を吐く。傍から見るとセレニアが一人で喋って一人で納得してるように見えて、正面にいたファレナは不思議に思って問いかけずにはいられなかった。
「あの、えっと、もしかして喋れないのですか? セレニアさん一人で喋ってるようで……」
「いや、話せるよこいつは。私たちはこうするのが慣れてるからな。お前、何か言ってやれ」
皆の視線が彼に集まる。ファレナは期待していた。彼が何を言うのかということに。
「…………こんばんは」
「はぁ?」
セレニアが思わず声を上げた。言うことが見つからなかった彼は、挨拶をするという当たり前の行動をとったのだが、それが唐突すぎて。挨拶をした彼を、何をいってるんだこいつはと言う顔でセレニアは見ていた。
「はい! こんばんは!」
大きな声でファレナが答える。狭いその小屋の中で、その声は響き渡ることとなった。
「あの、凄く綺麗な声ですね」
「…………ありがとう」
「ちっ、そこまでだ。それで、これからどうする? 村は無くなった。お前がこんな荷物を抱えさせたせいで犯人探しも失敗だ。依頼人は見つかったが、師父を殺したやつを見つけることはできなかった」
彼はその問いに、考え込む。帰る場所も失った。もう一度忍び込むにしても、かなり警備は厳重になっただろう。いやきっと、目標はもういないかもしれない。
考えれば考えるほどファレナを連れだしたのは愚策なのだが、彼は不思議と後悔はしていなかった。顔を上げ、セレニアを見て、一言、彼は口にする。
「今は潜むべきだ」
「そうだな。村にも戻れないだろう。暗殺者の村を滅ぼすなどということをしているんだ。そのうちボロを出すのを待つべきだろうな。ここも村と術式が繋がってる。潜むならば町だが……金がないな」
「ギルドに頼るしかない」
「わかってる。機関とやり合うことにならなければいいが。で、こいつはどうする? この能天気な姫様は」
「連れていく」
「仕方ないな。おいお前。おい!」
セレニアが声をかけると、いつの間にか俯いていたファレナは身体を跳ねさせて顔を上げた。寝ていたのだろうか、その眼は少しだけ赤くなっていた。
「はい、すみませんお話が長くて……なんですかセレニアさん?」
「はぁ……もういい。お前、明日は早い。一眠りしたらここを出るからそのまま寝ていろ。向こうに寝床がある。右の方だぞ、左には寝るな殺すぞ」
「は、はい、あの右ってどっちです?」
「……はぁ、私の上がってる手の方が右だ」
「はい、そっちが右ですね。右、右……」
ソロソロと呟きながら、ファレナは小屋の奥へと消えていった。その後ろ姿を見て、セレニアと彼は、少しだけ疲れた顔を見せる。
「お前、分かってるのか。あいつ、かなり壊れてるぞ。どちらかというと、私たち寄りだ」
彼はセレニアを見ると、驚いたような顔を見せた。セレニアが、そこまで人を見ることなどないと思っていたからだ。
らしくない、とセレニアは自分で思ったのだろうか、自虐的に笑うと、そのまま小屋の奥へと向かった。
「母親に殺されかけても尚、あんな顔ができる女など、いてはいけないと私は思う」
そう言葉を残して、彼女は小屋の奥へと消えていった。
彼は月を見あげる。きっとこれは、愚策。もっとやりようはあったのだろう。だがやってしまったことは仕方がないと、彼はそのまま夜の月を見て、周辺の警戒へと意識を集中するのだった。