第36話 美しい世界
「後悔してるなら手放すな。何でこうなってしまったのかはわからんが、なってしまったものは仕方がない。精々利用するがいい。だがな、我が子よ。耐えるのもいいが、今は泣け。自分が泣きたいところで泣け。それもまた、長の務めだ」
「仕方がないというのは残酷な言葉でしょうか。ですが、あえて言います。若様、仕方ないのです。刻印の能力はその人の心の在り方を表すといいます。ですからこれは、仕方がないのです。きっと師母様も、そう思ってくれてます」
「なぁ、師母は何て言っていた? 私はあの人の言葉以上の慰みを、できるとは思えんよ……」
言葉が
言葉が暖かった。
甘えた。父の言葉に、想い人の言葉に、想われ人の言葉に。
暖かかった。
確かに暖かかった。
もっと――
もっと暖かいモノがあった。思い出せ。思い出せ。忘れてしまう前に、思い出せ。もう二度と思い出せなくなる前に思い出せ。
――手を
手を取った。
手を取ったんだ。
あの時の魔物と化した自分の黒い手を、黒い手を取ったんだ。
――誰が?
分かりきってる。そうだ、血に濡れた黒い手を取ったのは、その血の持ち主だ。
――母
母さんだ。自分の母親。思い出せ。それだけじゃない。それだけじゃない。
「――ああ」
声、声だ。思い出す。母の優しい声を。
「いいさ。これでいいさ。罰を、受けたんだ。私は罰を――こんなに愛しい子を、奪った罰を――」
涙が溢れ出す。自分は、泣いていた。漆黒の魔物は泣いていた。
「たの、しかったよ。たの、しか、った。それで――いい、だろう? お前ならば、守れるさ。人を、守れる、さ。誰より、も、優しい、子、なぁ」
――願わくば
願わなくても。
――その力を人を守るために
そうする。
――使ってくれ
してみせる。
馬は、手綱を引くからこそ、その走りは制御され、そして洗練される。
だが、それでも最高速を出したければ、まずは手綱を緩めることだ。
手放すことだ。
鞍を外し馬から降りることだ。
本来、エリュシオンから来たモノに魔力の限界などはない。魔力は、手綱なのだ。鞍なのだ。
ジュナシア・アルスガンドはその手綱を手放す。暴れ出す、その馬は、漆黒の魔物は、もはや彼の意志には引っ張られない。
黒き身体はより戦闘的に。指は伸び、足は大きくなる。両手両足胴に頭。辛うじて人の形を残すそれは、より大きく、より太く、そしてより精錬されて。現れるのはエリュシオンの扉を開く者。
即ち、『漆黒のエリュシオン』
全てを超えるモノ。ジュナシア・アルスガンドの意志を消し飛ばして、それは世界に立つ。
もはや彼の意志などはどこにもない。ただ立つだけで暴風のような魔力が周囲に溢れる。
意志など――意思などどこにもない。もう何も思わない。
――もう戻れない。
「グゥオオオオオオオオオオアアアアアアアア!」
叫び声、低い、低い叫び声、漆黒のエリュシオンは大きく声を上げた。自らの有り余る力を発散させるかのように。
それだけで周囲の雪は、土は、めくれあがっていく。地面を這っていたセレニアは、その衝撃に巻き込まれて後方へと飛ばされた。
「ぐうっ……馬鹿野郎め……ぐっ……」
セレニアは立ち上がる。足元はフラフラで、おぼつかないがそれでも彼女は立ち上がる。
止まらない。涙が止まらない。セレニア自身も気づいていないのだろうが、その平静を保とうと必死に表情を凍らせている彼女の眼からは、涙がとめどなく溢れていた。
セレニアは走る。ゆっくりと、遠くで唖然としているハルネリアたちの元へ走る。
「魔力、切れたんじゃないの……?」
ハルネリアが信じられないものを見たという顔で呟く。
「魔力の放出だけで、地形が変わってしまいますよ……これは、一体……」
埋葬者であるギャラルドが困惑する。
「ジュナシアさん? なんか、嫌な……」
ファレナが困惑する。
三者三様の顔を見せる。そしてセレニアは泣く。彼のために、彼女は泣く。
現れる。漆黒のエリュシオンに対しての、真朱のエリュシオン。地面を溶かし、掘り進み、朱い魔物は再び地上へと現れる。
そして笑う。笑った。確実に笑った。朱い魔物は笑った。目の前にいる、先ほどよりも巨体になった漆黒の魔物を前に、笑っていた。
――それみたことか、結局お前も、こちら側。
朱い魔物はそう言ってるかのようだった。その笑みを浮かべた顔に、黒い魔物は怒りを覚えたのだろうか。
一撃。無造作に、腕だけで振るわれる超高速の右拳の一撃。真っ直ぐ朱い魔物の顔に叩き込まれる。
その一撃は空気の壁を容易く突破し、すさまじい衝撃波と共に朱い魔物を吹き飛ばした。キンっと甲高い音を発して、それは眼に捕らえることができない程の高速で吹っ飛ぶ。
辛うじて土埃や雪がえぐれる道が、朱い魔物の飛んだ軌道を伝えた。
「ハルネリア……」
セレニアが、顔を涙で濡らしながら声を絞り出す。その顔は、至って冷静な顔ではあるが、眼からは止めどなく涙が流れている。
その表情がただならぬことが起きているということを、ハルネリアに、ファレナに伝える。
「どう、したの、セレニアさん?」
「山を、降りるぞ。もうここは、あいつに任せればいい」
「えっ?」
「降りるぞ。なぁ、姫様も、寒いだろう? 早く降りよう」
「ちょっと、何言ってるの? 彼も連れて帰らなきゃ……」
「あいつはもう、いないんだ」
「……何ですって? もう、こんな時に、あそこにいるじゃない」
ハルネリアは冗談を言うなという風に、笑みを浮かべてセレニアの言葉に返事をする。
だがセレニアの表情が、その声が、冗談ではないということを伝えている。
「あいつの刻印は特別性なんだ。魔力で発動してるんじゃない……魔力は、いらないんだ。枷なんだ。自分を留めるための、魔物の枷なんだ。だから、わかる、だろ?」
「そんな」
「あんな力、人がどうこうできるわけがないんだ。あんなの、人の魂など……持つはずが、ない」
「そんな……待って、彼、それじゃ!」
「死んだんだよ。あいつの人としての部分はもう。今いるのは、ただの魔物。敵を破壊するだけの、魔物」
「なんて、こと……」
ハルネリアは下を向いて、ワナワナと震える。ギャラルドもまた、何とも後味の悪さを感じて横を向く。
沈んだ顔をしないのは、一人だけ。ファレナだけ。
「セレニアさん」
「……何だ」
「私、ジュナシアさんが好きです」
「……殺すぞ」
「あっ違います違います。いや、違わない? すみません私、そこんところよくわかんなくて。でもあの人は、私にとっては何て言うか、特別な人なんです。私が最初に見たのは、あの人の顔ですし」
「……ああ」
「だから、ここでお別れなんて嫌です。ねぇ、セレニアさんも嫌でしょ?」
「……だが」
「見てましょう。最後まで。どうしようもないっていうんなら、その時は残念ですけどお別れです。でも、私あの人好きなんです。なんだかすっごく、優しい顔をするんですよ。だから、好きです。あの人の優しい心が。それに」
「それに?」
「それに、ジュナシアさん死んでませんよ。だって守ってくれてるじゃないですか。私たちに背中向けて守ってくれてますよ」
「それは……」
「だから、ね。守られましょう。世界は美しいんです。そう思っていればきっと、見せてくれますよ。世界の果てだか何だか知りませんけど、そこも絶対美しいんです」
そう語るファレナの顔は、真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに希望に溢れていて。
セレニアは思い出した。彼の言葉を。ファレナが作る世界は、きっと美しい。
――その無垢さが、眩しい。
「グゥオオオオオオ!」
朱い魔物が叫びながら起き上がる。顔を半分消し飛ばされても尚、立ち上がる。苦痛、苦痛を感じている。その魔物は苦痛を感じている。
朱い蒸気を上げて、その消し飛ばされた魔物の顔は再生していく。真朱のエリュシオンの根源は回復。一撃で全てを消し飛ばさない限り、それは何度でも蘇るだろう。
朱い魔物は跳んだ。黒い魔物を叩き潰さんと、その大きな右腕を振り下ろしながら。黒い左腕は、それを軽々と受け止める。
今度は折れない。がっちりとそれを受け止める。そして黒い魔物は踏み込んだ。その動きは、人の格闘術の動き。
滑らかに手を取って、黒い魔物は朱い魔物を投げ飛ばす。軽々と。朱い魔物の足が地面から離れた瞬間、それは黒い脚に蹴り飛ばされる。
「グオッ!」
すさまじきはその重量。さすがに滞空時間は短い。それを捉えて、黒い魔物は拳を突き出す。右、左、右。
超高速の、拳の連打。
「ウオオオオオオオオオオ!」
黒い魔物の雄叫びが響き渡る。あまりにも速い連打。朱い魔物は、それを全身に喰らう。
へこみ、抉れ、そして千切れる。少しずつだが、朱い魔物は解体されていく。当然のように、熱を発しながら。
削りきろうというのか。だがそれは叶わなかった。黒い魔物の拳は、いつの間にか熱で溶けて消え去っていた。よく見れば最初に蹴りを繰り出した足も。
「グオオオオオオ!」
朱い魔物の咆哮。それと同時に振り下ろされる巨大な朱い拳。両腕を肘の先から半分ほど失っていた黒い魔物――だが、それを受け止める。無い腕で、受け止める。
一瞬で腕を再生させて、黒い魔物は拳を撃ちだす。それに応えるように、朱い魔物も拳を撃ちだす。
空中で拳同士がぶつかり合う。よく見ると、互いにその拳を破壊しながら、再生しながら撃ちあっている。当然、痛みなどとう次元ではもうない。
速さは黒。だが力は朱。
両手を組み、思い切り振り下ろされた朱い魔物の両手は、ついに黒い魔物の腕ごと頭を潰した。皮肉なことに、飛び散るのは朱い血。
ゆっくりと黒い魔物は倒れる。朱い魔物はそれを完全に壊そうと、次々と拳を振り下ろしていく。
黒い魔物は解体されていく。拳に押しつぶされて。朱い血は、雪の消えた土の上に広がっていく。
最後は足。朱い魔物は血だまりとなった場所に強く足を振り下ろした。地面が衝撃で抉れる。雪も、何もかも弾け飛ぶ。
舞う土。その中心で、朱い魔物は勝ち誇ったかのように雄叫びをあげ、腕を掲げる。生まれて初めて、戦って勝利したのだ。その喜びは、意志となって魔物の胸を打つ。
そう、生まれて初めて戦った。故に、気づいていない。
――結局、勝敗を分けたのは
朱い魔物は、違和感を感じた。
――その、経験
いない。何を殴っていたのか、岩場に血をばらまいたと思っていたが、そのまかれた血は、実は自分の拳が壊れて飛び散ったモノ。
朱い魔物はキョロキョロと周囲を見る。いた。真後ろに平然とそれは立っていた。大きくなった両腕を、強引に組んで、それは立っていた。
黒い、腕を、解く。
本当は気づいていた。朱い魔物は気づいていた。自分は、生まれ出でて何も与えられずに、そこに存在しているだけのモノ。
片や、この漆黒の魔物は人として生まれ、そして人として生きている。
この世界にとって、許されないのはどちらだろうか。
黒い魔物は、腕を広げる。同時に広がる赤い円形の陣。魔術でも、魔法でもない。ただ理を歪める円形の陣。重なること五枚ずつ、左右計十枚。
ゆっくりと黒い魔物は腕を前へと伸ばす。陣は重なって、一つの筒のようになる。
――消えろ。もうここに、お前の居場所は無い。
そして撃ちだされた。巨大な魔力の塊、陣を通るたびに、それはさらに大きく、さらに速くなる。
いうなれば、魔力の大砲。地面を抉り、朱い魔物を抉り、そして、遠くは塔を抉る。
通った場所は全て灰燼に帰す。正しくそれは、破壊。真朱のエリュシオンは――光の中に消え去っていった。
『漆黒のエリュシオン』それは
全てを破壊する魔物。
全てを超越する魔物。
全てを守護する魔物。
超高速で行われた一連の戦いは、外で見ていたセレニアたちにとっては一瞬の出来事。外から見ればこれは瞬殺だったろう。
それに、恐怖を覚えるのは仕方のないこと。ギャラルドは身体を震わせ、ハルネリアは冷や汗をかいている。
漆黒のエリュシオンは振り返る。そこには、彼の姿を見てたじろぐ二人の魔法師と、固唾を飲んで見守る女暗殺者、そして白い鎧の姫がいた。
声が聞こえる。何かの声。
「運がいいなこいつはぁ! まだ早かったみたいだぞエリンフィア!」
「馬鹿か、運じゃないんだこれは必然。死んでも治らないのかその頭の悪さは。全く……だがな、これっきりだぞ愛しい子。忘れるな。刻印は、心の在り方なんだ。ここから大変だろうが、しっかりな」
気が付けば、彼は立っていた。ジュナシア・アルスガンドはその姿を人に戻して、彼は立っていた。
魔力が切れて真っ赤に染まった髪を風に揺らす。
「ほら、やっぱり世界は美しいんです。ですよね、ジュナシアさん。お帰りなさい」
ファレナの声は、優しい声だった。その声に、照れくささを感じながらも、彼は答える。笑顔でそれに答える。
「ただいま、さぁ、山を降りるか」




