第33話 真朱のエリュシオン
「くそっ、全然着かないぞ! 貴様ふざけるなよ! 中腹にすら届かないゲートなど、何の意味もないだろう!」
「そう言わないでください。ロンゴアド兵団の兵士たちの魔力であれだけの人数飛ぼうとしたのがそもそもですね」
「お前が補助すればいいだろうが!」
「だってハルネリアさんが魔力温存しとけっていうからですね。もうやめてくださいよ。初対面の方にこんなに言われるの僕初めてですよ。僕これでも高名な魔法師なんだけどなぁ」
「ちっ、こんなことなら互いに召還できるようにしとくんだった……!」
白い雪原にすさまじい勢いで足跡がついていく。その足跡の先には高速で動く二つの黒い影。口元を布で覆って、吹き荒ぶ吹雪の中を駆けていく。
「しかし君、タフですねぇ……どうなってるんですその魔力量。使いっぱなしでしょう身体強化」
「やかましい。黙って進め。貴様、もしあいつに何かあってみろ。生きてこの山を降りれると思うなよ」
「怖いなもう、ハルネリアさんの知り合いの女性はクセがありすぎなんだよねぇ……しかし今日は走るなぁ。こんなに走ったの何年ぶりかな……」
雪原は続く。セレニアたちが見上げるその先に、塔はある。遠く、高い塔。そこを目指して、彼女たちは走る。圧倒的自然。全ての人を拒むが如く雪が吹きすさぶその山を、苦も無く彼女たちは走る。
そして、塔の上。同刻、そこには彼がたどり着こうとしていた。
塔の上階へ続く階段は、壁際に沿って、何重にも積み重なっていた。彼は、それを上っていく。
ジュナシア・アルスガンドの眼にはもう前しか映りはしない。いつも通り、彼は独りで進む。
塔の階段は、いつの間にか石造りから氷の階段になって。
壁も同じように氷の壁になって。
石造りだった塔はいつの間にか、氷のそれへと変貌する。上階は、ある一定の階から上は全て凍りなのだ。
もはや氷の洞窟。
唐突に思い出す。その氷の壁を。嘗て、彼は聞いたことがあった。
世界で一番高い場所は、世界で一番冷たい場所。だからこそ、そこには人がいる。
冷える。ただ冷える。白い息が漏れる。
そして階段は、到達する。世界で一番冷たい場所に。
――氷の世界。
そこは白く透明な世界。氷の柱が並び、全てが凍り、止まる世界。
感覚が狂う。薄い空気と、その寒さ。そして何か、得体のしれない何かによって感覚が狂う。
気づく。重要なことに。そこには氷の柱しかない。氷しかないのだ。
「そうさ、ここにはこれしかないのさ」
氷の柱に触れて男は声を上げる。魔術協会が幹部であるレイドールは笑いながらそこに立つ。
「気づいていただろう。君たちが壊したいケラウノス。名前は、魔法機関がつけたんだけど、それはいいか。それはさ、塔なんだ。この塔そのものが、術式を形にする陣そのものなんだ」
歩く、氷の柱を掻い潜るように。その美しい顔に雪を浴びて、レイドールは歩く。
「この塔が、数百万の民を蒸発させる。だがね、数万人の兵を殺した魔法機関と君たちが担いだファレナ姫。我々とそんなに違うか? うん? 数が違うと言っても、死においやったのは君たちも同じだろ?」
歩く、魔術師であるレイドールは歩く。雪に足跡を残して。
「ここまできた褒美だ。一つ、教えておこう。アルスガンドを滅ぼしたのは、君たち自身だ。君たち自身が滅ぼしたんだ。いろんな思惑があっただろう。だけどね、実際に最後の一線を超えさせたのは君たちだ」
近づく。近づいてくる。レイドールは近づいてくる。
「強すぎた。強すぎたんだよ。まともに戦える者など世界にいないほどに。そしてついにエリュシオンの扉を開く……だから――彼が動いた。いや、彼らが」
気が付けば、レイドールはジュナシアの真正面に立っていた。笑みを絶やさず、雪を浴びて。
「行き過ぎた力は滅ぼされるのだ。世界の意志に、意志そのものである彼らにかかれば人の理など簡単に消え去る。我が兄、次期ファレナ王国国王であるオディ-ナ・ベルトーはあれに対抗するために……」
笑みは消える。風の音が聞こえる。
「さぁ見るがいい。これこそが、彼らに対抗するために掘り出した、世界で最初にエリュシオンの扉を開いた者だよ」
一歩、レイドールは右へ動く。さらにもう一歩。
隠していたのだろうか、彼がどいた先、その先にはひときわ大きな氷像が立っている。
その氷の中――――いる。
「最初の魔物。古よりこの山に封印されてきたこのモノの名は、『真朱のエリュシオン』。もはやどうやって生まれたのかもわからんが、魔術協会に文献だけは残っていた。これは、生まれつきこうだったらしい」
朱い魔物。
「母親の腹を内側から裂き生まれ出たこの怪物は、その存在だけで山を創り上げた。意志を、知恵を、得ることなく存在しているこれは文字通り魔物」
長い腕、人の形を取ってはいるが、その顔はただの獣の顔、突き出た口蓋、覗く牙。
巨大な魔物。
「無限の魔力、そして夢幻を現実にするその存在。彼らすら手を出さなかった世界における穢れ。使った。私たちはこれを使った。ケラウノスの魔力源、それはこれだ。この『エリュシオンの魔物』だ! そうだ、これこそが、エリュシオンから来たモノ! 来てしまったモノ!」
彼は、それを無表情にみている。その朱い魔物を彼は見ている。
酷く、静かだった。耳に聞こえるのは風の音、そして淡々と言葉を並べるレイドール。
彼は気づいていた。レイドールはすでに、これに魅入られていると。
「実に素晴らしいと思わないか!? これがあれば、これがいれば! 世界は変わる! 今はこれから滲み出した魔力を浚うことしかできないが! いつか、いつかこれに、これになれる日が来る! ははは、ははははは! 世界の王!? そんなものよりも私はこれになりたい!」
狂気の顔を見せながら、レイドールは光る手を朱い魔物がいる方へと向けた。高笑いをしながら、男はそれに向かって魔力を放つ。
一発、二発、魔力の塊は、熱を帯びて。氷の柱に叩き付けられていく。
「今までこれは、何が起ころうとも動かなかったし、目覚めることもなかった。だが、だがね。君がいるならどうだ。君がいるなら、もう一つの世界の穢れである君がいるなら、どうだ?」
三発、四発、まるで土を掘り進むかのように、魔力の弾は氷を砕き、溶かしていく。
「くくく、楽しみだ。実に、楽しみだ。動くか? それとも動かないか? どっちでもいい。どっちでも……」
撃ち込まれること丁度十発。朱い魔物の顔は、ついに氷から掘り出される。
鳥肌が立つ。それが外に、空気に触れたことで、空気が変わった。
「うっ」
レイドールが思わず声を上げる。匂い、強い匂い。何か薬を撒いたような強い匂いが周囲に漂う。
その場にいたジュナシアはこの匂いを感じたことがあった。これはそう、刻印が封じられている壁画の前にいた時の、匂い。
「……は、ははは。よくわからないがこれもまた解析しなきゃな!」
やめさせろと、何かが強く訴えている。ジュナシアの頭の中に、身体に、何かが強く訴えている。
だがそれでも彼は動かない。レイドールのように、どうなるかを知りたかったというわけではない。ただ、動けなかったのだ。
撃ち込む、さらに魔力の塊をそれに撃ち込む。もはやレイドールは、止まれない。それを起こすことがどんなことか、うっすらと感じていたとしても止まれない。
そしてついに――『真朱のエリュシオン』は氷の外へと出た。
熱。その朱い魔物から放たれるのは熱。一気に気温が上がる。
「は、ははは、おいすごいぞ。前はこんなことはなかった。前に一回外に出した時は、こんなことはなかったんだ。なんだ、体温? 興味深い……」
開く、瞼が開く。魔物の瞼が開く。ゆっくりと。
その眼は、朱色に輝いていて、光の奥に覗く眼は正しく人の眼。
眼が動く、右、左、そして止まる。真正面。
「彼を見ている……? そうか、やはり同じものを感じるのか。はぁはぁ……素晴らしい」
立ち上がる。氷の柱の融け残りに腰かけていた朱い魔物は立ち上がる。
「動いた! 動いた! すごいぞ! すごい! この山が記録されてるだけでも一万年だ! それが動いた! すごい!」
はしゃいでいる。子供のように。レイドールは、その朱い魔物に駆け寄った。子供が、楽しい玩具に飛びつくかのように。
――逃げろ!
頭の中の警告が、強く、そして具体的な言葉となってジュナシアの身体を叩いた。もはやためらうことはない。彼は、ジュナシアは身体を反転させ、入ってきた屋上へ続く道へと走った。
「はっ!? あ、ああああああ!? ぎぃいいいあああああ!」
慟哭、レイドールの声。
ジュナシアは走る。彼の後ろでは、朱いエリュシオンの魔物が足を前へと一歩踏み出している。
「熱い! アツ、焼け、溶け、溶け……あああああああ!」
人の身体は、こんな風に蒸発するのか。レイドールは一瞬のうちに自分が溶けて消えていく様を、自分の眼で見ていた。熱さや痛みを感じるよりも速く、伸ばした手から融けていく。
「待て、私は、お前に、ま、あ、て、ぇ」
消え去った。残るのは蒸発しそこなったレイドールの身体だった液体のみ。
ジュナシアは走る。もはや人がどうこうできるものではないと、彼は直観的に感じていた。だから逃げる。任務や、目標などどうでもいい。この塔にいる仲間を連れて逃げることが、今は優先。
朱い魔物はそれを見る。きゅっと上げられた口角、気のせいか、彼の口は笑っているようだった。




