第2話 焔の夜
俺には名前が無い。それは当たり前だから、この村以外ではどうせ名乗ることは無いのだから、不思議と不便さは感じなかった。
村人は皆、優しかった。でも俺は、村人の名を覚えていない。セレニア以外は。彼女はそんな俺のことを知っているから、すぐに自分で名乗る。きっと名を覚えて欲しいのだろう。大丈夫、君だけは覚えている。
子供たちは仕事から帰った大人に、花を渡す。俺以外の者は、花をしばらく水につけた後、時間が経てば燃やしてしまう。俺は違う、俺はその花を育てる。
花が好きなわけではない。ただ何故か、燃やしてしまうと何か勿体ないような気がして、花は育てれば、種を出して増える。それが何故か楽しくて、俺は花を植える。
だから、花が燃えた時は、何かが失われたようで、何かが踏みにじられたようで、俺は立ち尽くした。そして沸き上がる怒りの感情で、俺は理解することができた。
――ああ、やっぱり、ここは俺の故郷だったんだ。
夜は何も映し出さない。その森は闇夜の中にある。村も当然のように漆黒の中で。
だが彼らには問題などない。土に埋まる石、木の裏にいる虫、葉が積もる地面。全く見えないが、理解できる。
木の枝に彼女は立っていた。真っ暗な周囲を周囲を探す。ふっと息を吐くと、黒い髪をなびかせた女性は右腕を上げた。
糸が弾かれる音がした。小さな矢が右手から放たれる。少し経ち、彼女はチッと舌を討つとその姿を消した。
木は風に揺られ、近くの川は流れる。風に煽られた葉が擦れる音がする。水面に何かが跳ねる音がする。虫の声がする。風の音がする。
「ちっ」
そして舌打ちが鳴り響く。しばらくすると、月の光が届く川の傍へと二つの人影が現れた。
「見つかったらすぐに近接に移るのはやめろと言っただろう。子供かお前は。お前未来視が無かったら近づく間に一回殺されてたぞ」
彼女は月の光の下へと出る。光の下にあっても、一際黒い彼女の姿は、服から覗く肌色をより際立たせる。
「だが今日はお前の勝ちだ。褒美だ、抱いてやろう。さぁ早く脱げ」
そういうや否や、彼女は首に巻いていた黒い布を投げ捨てた。白い首、白い顔、ニヤリと笑うと彼女は自らの服に手をかける。
彼はそれを静かに見ていた。どこか面倒そうな顔を見せて、任務上がりで、しかも鍛錬上がり、少し疲れを感じていた彼は、彼女の行動にあまり乗り気ではなかった。
当然のように、彼は服を脱ぐことはなかった。彼女はその彼の姿に、少しだけ怒りの表情を見せる。
「おい、お前、今日は抱かせないというのか。このセレニアが抱いてやろうと言うのだ。それでもそのような反応をするか? 偉くなったものだな次期頭首様」
彼女は少しどころか、相当怒っていた。彼と彼女は幼馴染で、一つだけ彼女の方が歳上。彼女の方が一年だけ暗殺者としての修行に入ったのも早い。
彼らの師は現在の頭首。彼の父親。
「ちっ、ふざけるなよ。これだけ高ぶらせといて。早く服を脱げ。それとも女でもできたのか。誰だ、すぐに殺してやる」
彼は根負けした。溜息をつくと、彼女と同じように首に巻いた黒い布を捨てた。そして上着の紐を一本、解く。
「そうだ。お前は私だけを見ていればいいんだ。さぁ今夜も日が昇るまで抱いてやるぞ」
彼は上着の二本目の紐を解いた。そして三本目。
すっと、動きが止まる。彼の眼が細くなる。半分ほど服を脱いでいた彼女もまた、同じように動きを止める。
何かを感じた。周囲には何もない、だが彼らは何かを感じたのだ。
遅れて匂いがした。薪、木の焼ける匂い。
「侵入者か。術式が反応している。行くか? そうか、仕方ない。まぁ殺してからにするか」
そして彼らは走り出す。まるで風のように、暗闇をかき分けて。
この村は暗殺者たちの村、入り口には魔術による結界が張られていて、誰かが入ればすぐに皆が知ることとなる。
彼ら以外にも気づいたものはいるのだろうが、彼らが入口に着くのが一番早かった。真っ暗な森の中で、侵入者用の罠がいくつか作動していた。
炎に焼かれ、残った者は布の欠片。杭に突き刺さった人もいる。その人は頭からローブを被っていた。
これは魔術師だ。彼らが入口の結界を破ったが、物理的な罠にかかって死んだんだと、彼と彼女はお互いに無言で語り合う。
彼は奥を指さした。彼女はそのさされた指の方向を見る。そこには足を取られ、無数の矢で貫かれた男がぶら下がっていた。
その姿は兵士だった。見覚えがある、ファレナ王国の兵士。落ちている剣からもそれが判断できる。
兵士と魔術師。これは間違いない。攻めてきたんだろう。ファレナ王国が。
ここは暗殺者集団の村である。兵士や魔術師がいくら攻めて来ても、どうにでもなる備えがある。ファレナ王国の裏の仕事も受けてきた暗殺者の村を襲うということは、もう敵にせねばならない事態が起こったのだろうと彼は思った。
そう、きっと、国王暗殺の犯人が、この村の者だとバレたのだ。
「お前、見られたのか?」
彼女が彼に問いかける。
彼には――心当たりがあった。眼が見えないと言っていたあの女。彼女だけが、彼の顔を見て生きている。
何故生かしておいたんだと、彼は自問自答した。だが、顔だけだ。それでここまではっきりと敵対されるわけがないとも彼は思ったが、それでも実際に攻められているのだ。
彼は走り出した。奥に気配を感じる。生きている人の気配が。それは村の方まで続いている。
彼女もそれを追った。二人は最小の足音で、すさまじい速度で漆黒の森を走った。
小さな、小さな光が見えた。松明の光、その光が眼に入った瞬間に、彼は短剣を投げる。短剣は松明を持っていた者の首に正確に刺さり、それを倒した。走りよると、それもまた、兵士と魔術師だった。
かなりの人数が入っている。
「おい待て! 真っ直ぐ行くなこっちへこい!」
彼女が珍しく声を上げる。腕を引かれた彼は、村を一望できる高台へと連れていかれた。
「落ち着け、足跡の数と敵の数とが会わない。それに私たち以外が迎撃に来ないのもおかしい。術式の反応も鈍いし、何かがおかしい、観察すべきだ」
なるほど、と彼は思った。どちらかというと、彼は斥候としての才能は薄かった。戦闘能力は高いが、それは父によく注意されたこと。逆に目の前にいる彼女はそれが得意だった。
高台に着いた二人はその場で伏せ、そして村を見る。村には小さな灯りが村を覆っていた。
「入り込んでる。かなりの数だ。何故皆出てこないんだ」
小さな灯りは、少しずつ大きくなっていく。灯りが村の家に着く、灯りが畑に着く。あれは、松明ではない。
彼は、それを理解した時、頭の中に何かが弾けるのを感じた。
「お、おい! お前待て!」
彼は駆け下りていた。崖のようになっている高台から生えている草や木を掴んで駆け下りた。音が鳴るのも関係なく、ばざばさと音を立てて。
何人かいた兵士たちは、振り向く前に殺した。小さなナイフが兵士たちの首に刺さっている。
実際に降りてみて、彼が見たものは――
倒れる子供、倒れる男、倒れる女、彼らは皆喉を掻き斬られている。
そして、もう一つ、目に飛び込んできたのは炎。
燃える彼の家。
燃える彼の花畑。
彼は膝を付いた。自分が少なからず大切にしてきたものが、燃えているのだ。言葉にできない感情が、彼を襲った。
喪失感、それは喪失感。きっと、自分のせいなのだろう。確証はなくとも、自分のせいなのだろう。自分のせいで、花が燃えた。
「セレニア」
彼は、声を出した。めったに喋ることが無い彼が声を出した。
「立て。師父の下へ行くぞ」
セレニアに慰めて欲しかったのかもしれない。だが彼女は突き放した。彼の背を叩いた。
その背に走る衝撃で、彼は彼を取り戻し、立ち上がった。絶望に包まれそうになった彼はもういない。こういうことができるから、彼は彼なのだ。
彼らは近くに潜んでいた兵士たちを全て殺すと、すぐ裏の大きな屋敷に向かった。そこはこの村の頭首の屋敷。
この屋敷は燃えることは無い。例え火をつけられたとしても。迷宮のようなそこは、静かだった。外とは違い、いつも通りの暗闇。
迷うことなく彼らは奥へと進む。しばらく歩いた後、広く開けた部屋に着いた。
何かが、倒れている。彼はそれに近づいて、それを表に裏返す。
――花畑が焼かれた時ほどは悲しい気持ちにはならなかった。この人は、いつ死んでもいいと言っていたから。だからこれは、いつか来る結果。
殺したら、殺される。それは当たり前、この村にいる者は全てそれを知っている。
守れないほどに弱いのなら、それは死ぬのが当たり前。
首から血を流す父親から眼を離して、顔を見上げる。そこには円形の紋が並んでいた。
その意味を理解した時に、頭に走った衝撃は、何だったんだろうか。
円形の紋は村人全てに配られる。この村の人は、紋の数だけ家族を作る。
それは二つを残して全て色がついていた。死んだ者の紋はこの壁に戻ってくる。戻ったら色が付く。
「そんな……ありえない。こんな、簡単に、暗殺者の村が……全滅だと……」
いつの間にかついてきたセレニアが声を震わせる。誰よりも暗殺者として心を凍らせることのできる彼女が、声を震わせている。
だから彼は、嘆くこともなく、立ち上がった。
「セレニア」
「お前……こんなことができるやつなど……師父だぞ、あの最強の、抵抗すらできていない。まさか師父が……」
「セレニア」
「……ああ、そうだな。行くか。暗殺には、報い。報いを」
そして彼らは立ち去った。その場所から。壁に光る紋章は、ぼんやりと輝き、その部屋は紋章の数だけ、色を発しているのだった。