第1話 暗殺者の村
森の中にそれはある。入口は岩。岩の一部を持ち上げると、陰に赤い円形の文様が書かれている。
左手をその文様にかざす。一瞬赤く光ると、岩は裂け目をみせる。
何度ここを通っただろうか。ここを通ることは、それ即ち暗殺者としての仕事へ赴くときと、こうして帰ってくるとき。
狭い隙間を通ると、そこはまだ森の中、足元に紐がある。目の前に紐がある。それを切らないように、引っかからないように、ゆっくりと足を上げ、腰を曲げ、手を回し、進む。
まだ森の中。進むと小さな小屋が見えてくる。小屋に向かって左手の甲を向け、彼は進む。
途中にある赤い線が張られている一角に彼は顔を隠していた赤い布を投げ捨てる。赤い布は線に触れた瞬間に燃え上がり、一瞬で消え去った。
露わになった黒い髪が風になでられる。涼しさを感じるが、まだ身体に纏わりつく匂いはとれない。
歩き続けると、急に開けた場所に出た。木でできた小屋が建ち並ぶその場所は、彼が生まれ、そして育った場所。
彼が村に入ると、人々は彼に視線を集めた。子供たちが彼に駆け寄り、思い思いに花を渡してくる。彼の両手は花でいっぱいになった。
「若、報は届いております。やりとげましたね」
村人の一人が彼に向かって言葉をかけた。彼はちらりと村人を見ると、反応することなく歩き出した。
進む先々で子供は彼に花を送り、人は彼を賞賛する。一言も発せずにただ進む黒い男の姿は、いつの間にか花に埋もれていった。
実際もう前が見えない程だったが、彼は一切の関係なく歩き続ける。彼にとって眼からはいる光はそこまで重要ではないのだ。気配と、記憶、そして空気の流れ。それだけで彼にはどこに何があるのかがはっきりとわかるのだ。
彼は足を止めた。身体を覆うほどに両手に咲き誇る花を、そこに置いた。
そこは花壇。大きい花壇。畑と見間違うほどの、巨大な花壇。
女性が礼を持っておかれた花に手をかける。一本一本、女性は花を植えていく。
花は無事帰還を祝うためのモノ。花自体に意味は無い。実際こうして花壇を作っているのはこの村では彼だけだった。
ふと、彼は手を伸ばした。そしてすっと握る。その手の中には、矢、小さな矢。手を開くとその矢ははらりと地面に落ちた。
「うん、そこまで疲れは無いか」
矢が飛んできた方向を向くと、黒い装束に身を包んだ女性が建っていた。黒い眼、長く黒い髪、黒い服。彼と同じ姿。その右手には小さな弓と大量の矢が巻き付けられている。
左手の甲には円形の紋。赤い紋の彼と違い、色は青い。
「よくやったと言っておこう。同じ師の下で学んだ者として、誇りに思う」
彼は彼女を見ていた。瞬き一つ、それで彼女は消える。小さく一息、彼は息を吐く。
肩に圧を感じた。だが彼は眉一つ動かすことは無い。
「女の匂いがするな。唾液の匂いだ。触れたのか?」
乱暴に手が取られた。彼の手は、彼女の手に引かれ、肘がねじ上げられる。その痛みに、ついに彼は首を動かす。彼女の顔は、彼女の眼は、怒りで染まっていた。
「ちっ、この馬鹿め。汚らわしい女の唾液などつけて私の前に出るなどと」
生暖かさを感じた。手に伝わる生暖かさを。彼の人差し指と親指の間を、彼女は咥え舌を這わしていた。自分の唾液で匂いを消すために。
「今夜修練場へ来い。このセレニアが鍛え直してやる。」
腕が解かれる。肩が叩かれる。彼女は消え、残されたのは唾液が染み込んだ彼の右手。彼は無表情でそれを服で拭うと、次の場所へと向かった。
向かった先は花畑の裏。ひときわ大きな屋敷。屋敷の前の人々は、彼に対して頭を下げた。
屋敷の中は薄暗く、ところどころにある灯の光が辛うじて通路を照らしている。扉を一つ開ける。窓は一つもない。扉を二つ開ける。三つ開ける。四つ開ける。
まるで迷宮のように、その屋敷は複雑な構造をしていた。普通の人ならば数日かかっても奥へとたどり着けないだろう。
だが彼は真っ直ぐに奥へと向かう。一つの迷いもなく。
十数の扉を開けて、彼は一つの広い部屋にたどり着いた。その部屋には中央に男が座っていた。真っ白い髪と髭の、初老の男。冷たい眼を向けて、彼を見る。
「報は入っている。見事、と言っておこう。さすが我が息子」
男は彼を誉める。その太い声で。左手には円形の紋。色は彼と同じ赤色。
「国王暗殺。任について帰ってきたのはお前だけだな。他は捕まり自刃した。紋章だけが帰ってきている」
男は壁を見る。彼も同じように壁を見る。そこには無数の円形の紋が並んでいた。いくつかは色が無いが、いくつかは色があった。
色があるということは、帰ってきてるということ。一族の紋は死すればここへ帰ってくる。帰ってくれば、色が戻る。故に色がついてるだけ、仲間が死んだということ。
「依頼主にはもう話してあるが、今回を期に、しばらくファレナ王国の仕事は受けぬことにした。お前が頭首になるまでは受けぬつもりだ。それでよいな」
好きにすればいいと、彼は眼で訴えた。実際彼には興味がなかった。鍛えた暗殺者としての技術も、この一族の園の在りかたも、何もかも興味がなかった。
何故なら、彼は、自分が無いから。求められるがままに殺し、求められるがままに進む。彼には名が無いのだ。名づけられていないのだ。それは党首となる一族に課せられた、一つのきまりごと。
頭首になったら、頭首としての名を貰う。それ以外の名は不要と彼らの一族は決めていた。
「もうすぐお前にアルスガンドの名を継いでもらうことになるが、今回の成功で誰も文句をいうことはなくなるであろう。これで、我が一族も豊かになる。お前を行かせてよかった」
男は笑った。暗殺者を統べる男とは思えないほどの、気持ちのいい笑顔で。彼は自分の子が、名もつけれなかった自分の子が最高の仕事をしたことに、喜びを覚えていたのだ。
父親に褒められて嬉しくないわけがない。言葉を名もなき彼は、その顔につられて眉間の皺を緩めた。
「お前の母にも、その姿見せたかったものだ。明日にも死ぬかもしれんが、我が一族の銘を大切にするのだ息子よ。生きて帰ってこその長、素晴らしい仕事ぶりであった。死した仲間たちもお前を祝福するであろう。では行くがいい。早く着替えておけ、血が落ちにくくなるぞ」
名が無い彼は、立ち上がる。コンっと音が鳴る。彼が身に着けている武具と武具が触れ合う音。
「まだまだだな息子よ。今回は道具を装備させすぎたかもしれんが、それでも動くときは無音が基本だぞ。隠密はセレニアには及ばんか」
ふぅと息を吐く背にいる父親の仕草に、彼は少しだけ眉を歪ませた。そして彼は消えた。まるで最初からそこにいなかったかのように。
「意地で消えるか。まだ子供というものか」
そして日は落ちる。暗殺者の隠れ家は屋外では光が灯らない。漆黒の世界が、その村に広がっていた。