第9話 アルスガンドの暗殺者
滴が落ちている。一滴、二滴、三滴、幾重にも幾重にもそれは重なって、まるで聖歌隊が歌うが如く、大きな大きな歌となる。
眼を開ける。部屋一面に広がる赤い色。宙に浮かぶ光球に照らされて、それは彼女の眼に飛び込む。
まるで別世界。あまりにも非現実的で、それは夢と見間違うほどで。
鼻に刺さる鉄の臭いがそれを否定する。現実、この光景は現実。自分が感じてきた数々の感覚が、それを現実だと教えている。
腕は錠前に繋がれて、上へと引き上げられて、身体を覆う衣類は無く、周囲には自分と同じように衣服を着ていない女の人形が並んでいる。
違うところは、そう、頭が無いこと。その人形には頭が無かった。首から赤い血を垂れ流し、その血は金属の漏斗によって瓶に注がれていた。
「む? 何だ、目が覚めるか。早いな……まぁいい」
瓶の一つを手にして、その中に入った液体を地面に垂らす男がいた。その男は、真っ赤な鎧を着ていて、醜悪な笑みと共にただひたすらに液体で地面に絵を描いていた。
その絵は真っ赤に、丸いその無数の線の走った絵は、ぼんやりと赤く輝く。
「くくく、見えるか? これが、我が魔術の極。無限に成長する剣」
男は、笑った。顔を歪ませて、それはあまりにも醜悪だったので、彼女はそれに不快感を感じた。
不快、そうそれは不快。服を脱がされ、腕を吊り上げられ、それでも思うのは、男の顔への不快感。
「血は全てを伝える。全ての情報がそこにある。剣はそれを読み取る。わかるか? 血で成長すればするほど、剣は、それを扱う私は、最強になるのだ。何もかも、この世の全てを超えた強さ。それは私を遥かなるエリュシオンへと導くだろう!」
何かがおかしい。男の言うことは何かがおかしい。狂気に支配されているから? きっとそれは違う。
何かがおかしいと、気づいていないから、それは何かがおかしいのだろう。
「ふふふ……おっと、慌てることはない。今日はよい身体が手に入った。ここまで純粋で、混じりの無い血は久しぶりだ。まるで少女のような純粋さ。くくく……さぁ娘よ。その目を開き、恐怖せよ。その恐怖が、その危機感が、お前の中にある情報を引き出す」
息が詰まる。血の臭いに、息が詰まる。ファレナ・ジル・ファレナ。ファレナ王国建国の女王と同じ名を持つ彼女は、この場所の息苦しさに吐き気を覚えた。
だが――
「あの、すみません。服、返していただけませんか?」
「……何?」
「すみません、ちょっと恥ずかしいです。あの、い、いえ、その、無理ならいいんですけど」
「…………恐怖のあまりに、壊れたか? まぁそれもよかろう」
生まれた時から今まで、闇の中に生きてきたからだろうか。ファレナには欠如している者があった。
それは、恐怖。死への、暗闇へと返る恐怖。
苦しみを感じる。吐き気を感じる。嫌悪感を感じる。
だが、恐怖は感じない。
だから彼女は、この期に及んで尚、その男に向かって質問ができるのだ。
「すみません、あの、ちょっといいです? 私、あの、もしかして殺されます?」
決して、それは皮肉で言ってるのではない。彼女はただ、疑問に思ったから口に出したのだ。
男の手が止まる。その顔は、驚いたような、怒ったような、そんな顔だった。
「貴様、何故恐れん。勿論、お前は死ぬ。このままここで生きるだけの人形となって、経血を取られ続け、そして、干からびる前に首を跳ね血の袋と化す。頭は棚に、我が剣の母の証として並べられる」
男が壁の棚を指さす。そこには、様々な顔があった。その顔はすべからく恐怖に染まっていた。数十の頭、もはや腐りかけているものもある。
繋がった。ファレナの周りにある肉体は、その頭が嘗て付いていたモノ。即ちそれは、人の身体。人形ではない、生身の身体。
こうはなりたくはない。ファレナは思った。だがそれはどこか、他人事で。
「あ、あの……やめてほしいんですけど……駄目です?」
「貴様、まさか、心が壊れておるのか? いや違う、魔力に乱れはない。ということは…………まぁいい、素材としては面白いかもしれん。恐怖を感じない女。面白い! 強き贄となるだろう!」
「あの……贄とか、えっと、私できればもうちょっと生きたいんですけど……」
「駄目だな! さて、とにかく少し目障りだ。記憶を飛ばさせてもらうか……」
男の手が、彼女の頭に向かって伸びる。その手は血で真っ赤に染まっている。淡く光るその手は、ゆっくりとファレナの頭を掴まんと迫ってきた。
触れて欲しくはない。彼女はそう思った。触れたら、気持ち悪いから。嫌悪感がある。害虫が迫るような嫌悪感が。
死への恐怖は無い。だがそれ以外の心はある。それは――人としての、欠落に他ならず。
彼女は願うことも無い。触れないでと思っても、それを口にすることは無い。
抵抗もしない。
彼女は――ただの人形に他ならないのだから、抵抗などするはずがない。
「む! 七つ! 八つ! 何だと!?」
男の手は止まった。大慌てで男は剣に駆け寄り、それを地面から引き抜く。赤い円形の陣は一気にその剣に吸い込まれて光を消す。
「真正面!? 術式を、こんなに容易く壊される!? ぬぅ執行者か!」
男は剣を掲げた。部屋に浮かんでいた光がより強い光を放ち、部屋がまるで昼間のように光に包まれる。
そして、見える。より鮮明に、部屋の様子をファレナに見せる。
そこは、肉の監獄。人だったモノが壁際に積まれ、蛆がたかっている。粉々になった骨の欠片も大量に見える。
ファレナは思った。できればああはなりたくないと。
「通路……術式、階層を上げたものまで解除される。使い魔は……全滅? この速さ……執行者にしては……!」
男は呟く剣を身体の前で構えて。
音が、小さな音がした。金属が触れる音。布が擦れる音。
ファレナは耳がいい。生きて17年間、世界を耳で捉えてきた彼女にとって、音を聞き分けるなど容易いこと。
その音には聞き覚えがあった。そう、彼の音、漆黒の眼を持つ、彼の音。
部屋の扉が開いた。ゆっくりと、ギギギと音を立てて。
ファレナは見る。その扉を。
男は構える。真っ赤な刀身の剣を。
扉から覗くのは、眼。漆黒の眼。鋭く、冷たく、殺気というものを知らないファレナでさえも、それは殺気を帯びているとわかる眼。世界がみえるようになって初めて見た眼。
ファレナは震えた。恐怖したからではない。その眼が自分をみていることに震えたのだ。
「執行者ではない……誰だ貴様は!」
「魔法機関指定、オーダーナンバー14、アーセル・ブラッド……間違いないか?」
「やはり魔法機関の……結界を簡単に破るほどの魔法師? いや違う……まさか」
「その先を言う必要はない」
暗殺者の一族、アルスガンドのジュナシア。彼は、冷たく、ただ冷たくそういうと、腰から二本の剣を抜いた。
左右の剣、その刃は彼の髪や瞳と同様に黒く、魔術で光が溢れるその部屋に置いても、一人、暗さを纏っていた。
血の魔剣士、アーセルは血で滴る剣を構える。先手必勝、アーセルは駆けだした。
ジュナシアとの距離が一気に詰まる。動かないジュナシアに対し、アーセルは容赦することなく剣を振り下ろした。
複雑な軌道を描いて、その剣はジュナシアの腹へと襲い掛かる。ジュナシアはスッと双剣を腹の前で交差させる。
血の剣が、双剣に叩き付けられる。その衝撃で剣に付着していた血が飛び散り、ジュナシアの服を一気に汚した。
どうだと言わんばかりに笑うアーセル。眉一つ動かすことなく、ジュナシアは右手の剣を逆手に持ち替え、右へと添えた。
アーセルの剣がそのジュナシアの右の剣に叩き付けられる。激しい激突音が部屋に鳴り響く。
そして、左、ジュナシアが左に構えると、アーセルは彼の左に剣を叩き付ける。
「防戦しかできんのか! やはり我が魔術! 強さの極! 誰もかなわん! 誰も!」
アーセルは叫びながら、剣をすさまじい速度で振り続ける。ガンガンと、それはジュナシアの双剣に受け止められ続けている。
「お前、何という恰好を、しまった……こんなものを見せてしまったか。毒だな」
唐突に、ファレナの繋がれていた腕は降ろされた。何が起こったのかファレナは理解できなかったが、ふと顔を上げると両腕を組んだセレニアが彼女の前に立っていた。
「せ、セレニアさん……?」
「どうやら、何もされていないようだな。運がいい奴め」
「セレニアさん! あの、私! 何か捕まって! そうだジュナシアさんを助けてあげてください!」
「黙ってみてろ。下手に手を出さない方がいい。特にあいつの場合はな」
セレニアは腕を組んで、ジュナシアの戦いを見る。ファレナも同じように、その戦いに眼を向けた。
笑いながら、叫びながら、気持ちよく剣を振っているアーセル。静かに剣を動かしているジュナシア。
それは防戦一方と呼ぶにふさわしい光景。だが――
ジュナシアの剣は右に、それを追いかけるようにアーセルの剣も彼の右に。
ジュナシアの剣は正面に、それを追いかけるようにアーセルの剣は正面に。
そう、それは、まるで構えた場所を叩くゲーム。これは実戦で、殺し合いなのだ。それに違和感を感じないのはおかしい。
アーセルはだんだんおかしいと思えてきた。自分が振ろうとしてるところにすでにジュナシアの剣があるのだ。操られているかのように、それに打ち込んでしまう。
非効率的、受け止められるために剣を振っている。
唐突に、ジュナシアの剣は前へと伸びた。その剣は、何に遮られることなくアーセルの左肩へと突き刺さる。
「おぐっ!?」
ジュナシアのもう一本の剣は、下から斬りあげられる。当然のように斬り裂かれる腹部。アーセルは悶絶し、身体を前へと屈めた。
屈めた先にはすでに剣、真下から振り上げられたジュナシアの剣は容赦することなくアーセルの左腕を吹き飛ばした。
「な、にが、起こって……」
血の剣は、人の過去の技術全てが発揮される魔術の剣。その魔術のせいで剣においては世界屈指の達人と言ってもいいアーセルは、双剣を持つ暗殺者の前ではただなます斬りにされるしかできず。
あっという間にアーセルの右腕も斬りおとされた。世界最強の剣を目指した彼は、もはや剣を持てない身体となったのだ。
両断された腕を見て、アーセルは慌て、そして恐怖する。手も足も出ない。自分が今まで数十人の女の血で創り上げた剣は、眼の前の男に手も足も出ないのだ。
足が斬り裂かれた。アーセルは床に倒れる。自分の血を垂れ流して。
「なぁぁぁ!? あ、ありえん! 何だ! まるで、お前だけが常に先にいるかのような! 何だお前の魔術は!」
剣をくるくると回して、血を払う。そして突き付けられる剣先。ジュナシアの眼は、より一層鋭くなっていた。
「魔術ではない。術式も無い。ただの技術だ。経験からくる未来視。アルスガンドの一族の前に小手先の術式などは無意味」
彼の後ろから、セレニアがやってきてそう言った。アーセルはハッとした顔をする。
「アルスガンド……生き残りがいたのか……? 馬鹿な……」
アーセルが血の海に沈みながら、つぶやく。その言葉をジュナシアとセレニアは聞き逃さなかった。
「やはり、お前は……知っているのか、一族の死を」
ジュナシアが、よりいっそう険しい顔をして声を出す。その顔は、間違いなく怒りの形相で。
「馬鹿な……魔術協会……しくじったのか……」
アーセルのつぶやきに、ジュナシアは似合わず声を振わせた。
「答えろ。アルスガンドを襲ったのは誰だ? 答えれば、楽に殺してやる」
「…………王国と魔術協会が結託して、村を襲わせた」
「それは知っている。聞きたいのはもっと別のことだ。誰が、殺したか、だ。誰がさせたかはどうでもいい。お前は城にいた。何を知っている?」
「そ、それ以上は、知らん……私はただアルスガンドの一族の死体から術式の解明を手伝っただけだ。結局刻印は解明できんかったが……」
「……セレニア、離れていろ。血で汚れる」
「ああ」
「ま、待て! そうだ! ファレナ姫を知ってるか!? あやつが今攫われたらしい! ロンゴアドの国に連れ去られたとか! 戦争を起こして連れ戻すらしい! ファレナ姫なら何か知ってるはず!」
「お前が脱がして血を抜こうとした女が、そのファレナ姫だ」
「な、何」
速かった。一瞬でアーセルの首は飛んだ。ジュナシアの剣は、もはや残像を残すこともなく、ただ一瞬で首を跳ねた。
双剣を回して彼は剣を背にしまう。服についた血の臭いに、彼は少し眉を歪めた。
「……戦争だと? 何だかおかしくなってきたな。なぁどうするジュナシア」
「とにかくここを出よう。セレニア、ファレナに服を返してやってくれ」
「わかった……おい、立てるか? 向こうで拾っておいた。いい餌だったぞお前」
ジュナシアはファレナに背を向ける。その仕草に、今更ながら自分が服を着ていないことに恥ずかしさを感じ、顔を赤らめ、セレニアから受け取った服を急いで身に纏った。
「あの、餌って……何ですセレニアさん?」
「ん? ああ……お前は囮だった。おかげでやつの魔力の発動も見れたし、術式の解明もできた。魔術と言うのは術式の解明が」
「な、なんで、言ってくれなかったんです? 言ってくれればよかったじゃないですか!」
「死ぬかもしれなかったからな。おっと、私に文句を言うなよ。これを言い出したのはあいつ……ジュナシアだ」
「本当ですかジュナシアさん!」
「……まぁ」
「まぁじゃないですよ! ひどいじゃないですか! 死んだらどうするんです!?」
「…………あ、いや、悪かった」
「はぁ?」
唐突な謝罪に、セレニアは気の抜けたような声を出した。謝るということはしないはずの彼が誤ったのだ。
「今回はすぐ助けてくれましたから許しますけど! 私、せっかくジュナシアさんが眼を治してくれたんですから、もっといろいろ見たいんです! 死んだらみれないじゃないですか! 反省してください!」
「……覚えていたのか?」
「仕事してる時の顔見て思い出しました! 全くちゃんといってくださいよ!」
「……ああ、悪かったファレナ。もうしない」
黄金の髪を振り乱して、ファレナは怒りながら部屋から出ていった。その後ろ姿にジュナシアは困惑し、セレニアは複雑な思いをしていた。
「あいつ、怖い目にあったことは怒ってないのか? セレニア、どう思う?」
「知るか。ここ、燃やすぞ。同じ女としてここはもう我慢できない」
「ああ、頼む」
セレニアが液体の入った袋を投げる。袋は、倒れていた女の死体にあたり、水が広がった。そして手の平をその広がった水に向ける。
一瞬で火が付いた。それは一気に燃え上がり、部屋ごと死体を焼いていく。
その火を背にして、ジュナシアとセレニアはそこから立ち去った。もう夜に女の声は響かない。そこは今日から、静かな静かな場所になるのだ。
死者数十人を出した魔剣士アーセル・ブラッドは、その日から魔法機関のオーダーから外された。そのことで、数日後にはジュナシアたちの活躍は魔法機関に知れることとなる。
静かに、静かに、彼らは静かに、ゆっくりと、世界の中心になろうとしていた。




