一年後の四月一日
「鰤鰤さん、わたし退職する事になりました」
そんな報告をO嬢にされたのは、ちょうど仕事が立て込んでいる春先の夕方の事だった。
私は一瞬で、O嬢が何を言っているのか理解した。
漫画にするのであるならば、週刊少年マガジンのように、きっと見事な感嘆符が頭の上に浮かんでいた事であろう。
ついに今年もその季節がやって来たか、今年は去年の様にはいかんぞ!! 去年は見事に引っかかり、醜態を晒してしまったが、今年はリベンジだ!!
エイプリルフールのネタだとしても、年頃のお嬢さんの結婚報告に「まじで?」などと本気で狼狽えるのは現実問題としてかなり失礼だったと言う事や、お笑い芸人として上手い切り返しが出来なかった事を一年間の反省点として練り上げて、私は今年の四月一日を迎えていたのである。
抜かり無し!!
退職などという言葉を口にしたO嬢と初めて会ってからもう五年になる。
専門学校の卒業を目前に控え、ちょうど社内の空気の悪さと、待遇の悪さの為に退職者が続出し、人手不足に陥って新入社員の募集をしていた私が勤める会社へ、正気の沙汰とは思えないが面接に来てしまったO嬢は、仏滅と十三日の金曜日に厄年が一度にやって来てしまったのか、不幸な事に数多のライバル達を蹴散らして入社してしまったのである。
知らなかったとは言えど、入場限定一名様限りの黄泉比良坂を、黄泉の国に向かって走り抜けた異常者である。
よく傾きよる、と言っておこう。
その頃の私は「キツイ、キタナイ、キケン」が三拍子揃った工場勤務から晴れて解放され、人手不足に陥っていた「キツイ、キツイ、キツイ」が三拍子揃う、パソコンを使う部署に異動したばかりであり、何もできなかった私とO嬢は、ある意味で同期の桜と言えるだろう。
歳の差、21歳の同期の桜である。
まかり間違えば父娘と言えなくもない年齢差ではあるが、時同じくして一緒に働く事になった我々にキャリアや年齢差などは関係なかったのである。
専門的な知識を学んできたO嬢と、市内で下から二番目という公立高校を卒業し、そのまま工場勤務で四半世紀近く働いてきた私の能力は比べる必要もなく、三ヶ月後には私が教えを請うという上下関係に発展していたのである。
O嬢に叱られるのはむしろ私へのご褒美であると言っても過言ではない。
向上心と未来への渇望、高い意識。
私がどこかに千切っては投げ、千切っては放り投げてきた様なものばかり持ち合わせていた。
自己啓発本から仕入れてきた彼女なりの考えを仕事中に昏々と私に諭し、私がネガティブな事で笑いを取ろうとすれば、容赦のない斜め四十五度からのスリッパで、激しくツッコミを入れてくれていたものである。
もし自分に相方がいたら、こんな相方に育って欲しい。
ピンではあるけれど、そう思わずにはいられないセンスの良さ(S的に)であった。
2ちゃんねるのまとめサイトを仕事中に閲覧し、自分の笑いのツボに入ると隣にいる私にわざわざ報告してくれる姿を見て、芸人と言うものは、こんな感じであろうかなどと、M1グランプリ優勝と言う、ありえなかったifの世界に想像を廻らせるのである。
「わたし生理なんですよ〜ぼーっとするし、腰は痛いし、イライラするし、話しかけて無視ししても、悪気はないんで気にしないでください」
などと、いちいち断りを入れてくれる心の優しさと、気配りのできる礼儀の正しい人であった。
そんな同僚としての関係は、私が人手不足になった工場勤務への永転と言う事で終了したが、薄汚れてボロボロの作業着の私と会社の中で擦れ違えば、指を指して笑ってくれる程度の関係性は残っていたので、今年もエイプリルフールというイベントを楽しむつもりなのだろう。
「そっかぁ、残念だな。せっかくO嬢に良い報告がちょうど出来ると思っていたのに」
私は凄く残念そうな顔をしながら、そう言った。
「はぁ?何ですか、良い報告って?犬か猫を相手に童貞でも捨てられましたか?」
「すごく酷いな、清々しすぎて涙ものだよ!! 犬猫じゃなくて人間相手に童貞は捨てました!!」
私は泣きながら抗議するのだが、彼女はすかさずこう言った。
わずか0.1秒。
「オナホは人間じゃありませんよ?」
「知ってるよ、生身だよ、れっきとした人類だから。そう言うのじゃないから」
「じゃぁ、なんだと言うんですか?命日を決めたとか言われても、自殺に香典は出しませんからね」
そう言って首を傾げるO嬢に、私は胸を張って言う。
「結婚する事になりました」
わずか0.05秒。
「はい、エイプリル、エイプリル。そんな嘘は鰤鰤さんの年齢だと哀れなだけですよ?」
「哀れみはいらないさ。だけど、嘘を嘘と解って乗ってくる優しさは人として持つべきだ」
「はい、はい、解りました。もうすぐ辞める私はその言葉を鰤鰤さんの遺言として巣立ちます」
「え?」
「いや、だから私が辞めるのは本当なんですよ。もう、退職願も出していますから」
O嬢はそう、晴れ晴れとした笑顔で言ったのだった。
会社的には彼女がいなければ成り立たない仕事というものがすでに確立されていて、にっちもさっちも行かなくなる状況を会社は経営不振で人を増員する余裕など無いと放置していたのである。
だから、会社を退職されることになると、O嬢のいる部署は一発で仕事が決壊するのである。
それは、地獄の釜の蓋が開いてしまう様なものである。
それは、魔女達の宴「ヴァルプルギスの夜」が延々と続くようなものだと理解してもらって構わない(まどマギ参照)。
そうなると「社内で一番低レベルなオールマイティー」、「背番号のないエース」と二つ名で呼ばれる私が怒濤の嵐が吹き荒れる、火中へ放り込まれる可能性が一気に高まるのである。
迷惑千万、御免被りたい。
もう私は若くないのである。
言ってみれば、敗戦処理に「俺の屍を越えていけ」の屍的な存在であり、「戦の真骨頂と言えば、負け戦の殿よ!!」などと、花の慶次の主人公である前田慶次の様な、かぶきものみたいな事を言えるような気分にはなれないのである。
そして正直言えば、唯一の紅一点、社内に一つのオンリーワンとも言える二十代前半の女性のO嬢がいなくなるのは、一抹の寂しさがあるのである。
四十代半ばで独身の女性は二人いる事にはいるけれども、ここはノーカウントにしておこう。
私は若い子が好きなのだ。
「え〜マジで退社するの?」
私がそんな事を一人で言っている間、彼女は何も言わず、私の狼狽える姿を見て吹き出しそうになるのを必死でこらえていたのである。
「……あっ!! そう言う事か!? マジかぁ!?」
私は彼女の様子を見て、ある事に思い当たる。
そして、O嬢も私の様子を見て、私が気づいた事に気が付く。
「今日は四月一日ですよ」
O嬢はそう言って笑ったのだった。
しかし、今年はそんな事は起こらなかった。
「もう、一年前には決めていたんですよ。昇給もしないし、ボーナスも出ないし、残業代も、休日出勤代もでないのに、なぜか新しい機械は導入されるし、社長は600万の営業車と、ゴルフバックにマンション買っちゃうし、もうやってられません」
O嬢の言葉は社員一同誰もが思っている事で、もはや彼女の明るい未来を思えば、止める事など出来るはずもないのである。
ましてや推定で手取十六万という給料に満足できるはずがないはずだ。
「ここより下なんてそうそうないさ。あとは登るだけだよ」
「鰤鰤さんはどうするんです?」
「船乗りは、船と共に沈むそうだ」
昔見た、アニメ映画、王立宇宙軍 オネアミスの翼でそんなセリフがあったのが、頭に浮かんで口から出た。
「人ごとですか!?」
「なるようになるんだよ」
O嬢はそれを聞くと、鰤鰤さんの未来なんて知ったこっちゃありませんと言って笑ったのである。