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ナッシングガール  作者: siou
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前編

【プロローグ】

 激しい大粒の雨が、殴りつけるように無骨なアスファルトへと降り注ぐ。

 夜の冷え切った曇天の下では、雷鳴に動じることなく大きな貨物倉庫が存在感を示し、幾つかある照明も自分の足下を照らし出すだけで、闇を際立たせているだけだった。

 そんな深い闇の中。倉庫の壁際から荒い息遣いが聞こえてくる。

「ああ、たまらない♡ この肌の感触、温かさ……」

 女の震え悶える声が闇の中へと溶けていく。

「もっと♡ もっと感じさせて。あなたのことを、もっと教えて♡」

 そう言って女は下へと手を伸ばす。

 そこには気を失った男の顔があり、男は仰向けで女に跨がられていた。

 女は男の顔を包み込むように両手で頬を撫で、そして男へと顔を近づける。雨に濡れた小振りだが膨よかな唇が、冷え切った厚紙のような男の唇と重なり押しつけられていく。無反応な男を無視して、女は男の口を蹂躙していく。それは果実を貪るような口付け。男の舌と自分の舌を絡め、口内をねぶりあげ、その唾液をすすり飲み下し、そして女は男の唇に噛みついた。滴る男の体温を唇に感じて、女は安心したように息を吐き出す。

 ゆっくり上体を起こすと、女はジャケットからナイフを取り出して男の腹にその身を当てた。

「さあ、あなたの本心を私に見せて♡」

 含み笑いを浮かべながら、女は手にしたナイフを男の腹へと一気に突き刺す。

 男の目が見開かれ、息が微かに口から漏れる。しかし、男は暗い空をその瞳に映したまま、視線を女に向けることも動くこともしない。

 女は突き刺さったナイフをゆっくりと下へと動かし男の腹を開くと、その中へ手を潜り込ませた。

「ああ♡ 温かい♡ 熱いくらいよ」

 そう言って女は男の腹の中をまさぐり、腕を男の中へと入れていく。内臓や骨を撫でながら、上へ上へと蛇のように進んでいく。

 男は時折苦しそうに表情を歪めるが、それでも抵抗することはなかった。

 雨は激しさを失いつつも降り続け、男から溢れる血を洗い流していく。

 肘まで腕を入れた女は、空いた手で男の顔に触れながら話しかけた。

「ほら♡ 今、あなたの中に私がいるのよ?」

 鼓動を打ち続ける肉の塊を鷲掴みにしながら、女は笑みを浮かべる。そして恍惚とした表情を浮かべると、男を強く抱きしめて腰を男の体にこすりつけ始めた。

 男の体は痙攣を始め、息は乱れて四肢がのたうち回る。しかし、女は両足でしっかり男の腰を締め付け、獣のような唸り声で喘ぎながら一心不乱に腰を振り続ける。

 しばらくすると男の体から力は抜け、苦しいような呼吸で彼も喘ぎ始めた。

 手にした鼓動が徐々に弱まっていくのを感じながら、女はその瞬間に向かって男を強く抱きしめる。

「ああっ、いくっ♡ いっちゃう♡ イッッッくうぅううぅぅう♡」

 女の体はビクッビクッと二、三度大きく痙攣し、その手はもがく肉塊を強く抱きしめる。そして、雨水の染み込んだ男の体は、急速に冷たくなっていく。

 女は男に覆い被さったまま目を閉じ、乱れた息が落ち着くまでじっとそれを感じていた。

 激しかった雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から満月の冷たい光が二人へと降り注ぐ。

 何もかもが落ち着くと、女はゆっくりと腕を男の腹から引き抜いた。そして体液まみれの腕を、男が着ていたずぶ濡れのワイシャツで拭って立ち上がる。

 男を無表情に見下ろしながら、女は手に残った感触を確かめるように握っては開きを繰り返した。そして大きく一息つくと、女は頭の花飾りをとって男の体へ放り投げた。

 真っ赤な血の海を咲かせた男の体へと、青いアサガオの花飾りが落ちていく。

「それじゃ、バイバイ♡ 私の愛しい人」

 女は楽しげに別れを告げ、落ちた花飾りは見る間に血を吸い青から紫へと色を変えていく。

 それを見届けると女は満足げな笑みを浮かべ、男に背を向けて歩き出した。

「ああ、楽しかったー。今度は、どんな人とやろうかしら」

 青白い月光に照らされながら、女の楽しげな声は誰に届くでもなく夜空へと消えていった。


【第一章】

 体中がだるい。全身の皮膚はピリピリと静電気に覆われているかのように痺れ、まどろむ意識は重い闇に捕らわれていた。

 わたしは横になったまま、微かな頭痛から離れようと静かに目を開けた。

 白い天井には正方形のシンプルなパネル照明があり、無機質な光で室内を照らしている。

「ヒガン! 大丈夫⁉」

 自分を呼ぶ聞き覚えのある声に、わたしは照明の横へと視線を向けた。

 そこには天井付近に浮かびながら、心配そうな顔でこちらを見下ろすキクノの顔があった。

「キクノ?」

 わたしの声に彼女は両腕を広げ、短く切りそろえた白髪をさらさらとなびかせながらすーっと音もなく下りてくる。そして、抱きしめるようにわたしに覆い被さると、

「もう! ずっとうなされてるから心配したんだよ?」

 その少しうるさい声に顔をしかめながらも、わたしは彼女の目尻に光るものを見つけ、縁なしメガネをかけたボーイッシュな彼女の顔へと右手を伸ばした。しかし、それは彼女に触れることなく頬をすり抜けていく。

 わたしは無意味に伸ばした腕から力を抜いて、ポフッとベッドを軽く叩く間抜けな音を聞きながら思い出していた。

 そういえば、キクノはオブジェクト――こっちでいう幽体のままだったっけ。

 頭がぼんやりしている。わたしは鉄の塊のように重い右手を再び持ち上げた。そして、それを見つめながら握り開いてみる。

 すると、手のひらにぬめるような感触が蘇った。それは所々に太い管のようなものがあって、

「……いやっ!」

 わたしはとっさに手を振り払った。

「どうしたの⁉」

 驚いた顔を向けるキクノに、わたしはハッとなってとっさに笑みをつくった。額には冷や汗も浮かんでいるし、うまく笑えていないことはわかりきってる。でも、あのことは誰にも知られたくなかった。

 わたしは話題を変えようとキクノに話しかけた。

「えーと、キクノ? ここはどこ?」

「ここはって……。あんた大丈夫?」

 そう言って向けられる視線は、顔ではなくわたしの右手を見ていた。つられて視線を向けると、右手は震えていた。わたしは震える手を押さえ込むように左手で包み込むと、冷え切った自分の右手に驚きながらも平静を装ってキクノとの話を続ける。

「大丈夫、大丈夫。ちょっと久しぶりのインスタンス化で慣れてないだけだから」

「そう? それならいいんだけど。自力で肉体構築するとか、あんた、結構無茶してんだから、おかしいと思ったら言うんだよ。そのために、あたいはいるんだから。わかった?」

「うん。ありがと」

 キクノの優しさに感謝しながら、わたしは大分はっきりしてきた意識を総動員して部屋の中を見回してみた。

 白い壁紙で覆われた室内は床や天井も白く、そこに黒のスチールラックでできたテレビ台やワークテーブル、黒で統一されたテレビやパソコンが置かれていた。そして、わたしが寝ているベッドとスチールラックの間には、小さな白いテーブルが一つある。モノクロの部屋の中で彩りと言えば、様々な機器の表面で光る赤や青のLEDくらいだった。

 自分の寝ているベッドを見てみれば、フレームもマットレスも真っ黒で、自分に掛けられていたタオルケットも真っ黒だった。

 なんだか不気味なおとぎ話に出てくる医者の部屋みたい。

 ほとんど装飾のない部屋の持ち主を想像しながら、わたしはキクノに聞いてみた。

「それで、ここは?」

「ハルキって奴の寝室だよ」

「ハルキ?」

 知らない名前に聞き返すと、キクノはなぜか顔をそらして頬を赤らめながら小声で言った。

「カブトのインスタンスの名前だよ」

「カブト様の……」

 そうだ、カブト様。わたしはカブト様を追って落ちてきたんだ。そして、ついに見つけた。わたしの大好きなカブト様。わたしのすべてを捧げた愛しい人を。

       ◆

「ねえ、ヒガン。ちょっと休もうよ~」

 キクノが後ろで気の抜けた声を上げるけど、わたしは気にせず周囲を見回していた。

 真夏の強い日差しも弱まり、元気に走り回っていた子供達も疲れて家に帰り始めた頃。夕焼けに染まった空の下を、わたしはキクノを連れていつものように歩き回っていた。とは言っても足は宙に浮いてるから、歩いているとは言えないけど。

「今日こそは見つかりそうな気がするのよ。なんか、こう、初恋の予感みたいな?」

「はいはい。一体何回目の初恋ですかね」

 冷たい視線を背中に感じるけど、わたしは気にしない。だって、この予感めいた胸の高鳴りは本物だから。

「大体、気がする気がするって言って二十年近くになるのに、今までそれらしい人を見たこともないんだよ? それなのに、どこからその自信が出てくるんだか……」

「う、うるさいわね!」

「もしかして避けられてるんじゃないの?」

「そんなこと! あるわけ……」

 そう言いながら胸をよぎった寂しさに、わたしは肩を落として俯いた。

 わたしに黙って行ってしまったカブト様。暗闇の中で光を求めるように、わたしは彼の名を口にする。

「……カブト様……」

 それだけで、わたしの心は少し温かくなる。いつだってわたしを見ていてくれた彼の顔が、今も鮮明に蘇る。太陽みたいに明るい笑みで。月のように優しい眼差しで。彼が、わたしを避けるなんてありえない。今だって、きっとあの夕日みたいに……。

「あ……」

 顔を上げた視線の先にいた存在に、わたしは一瞬で心を奪われていた。

 夕日を背に近づいてくる見知らぬ人影は、どこまでも懐かしく、わたしの心を激しく震わせる。

「ヒガン、どうしたの?」

 後ろからキクノが尋ねてくるけど、わたしの視線は彼に釘付けで動かない。

「いた」

 声が震えて、わたしはそれしか答えられなかった。

 頬を伝う涙が止まらない。

「え? 何が?」

 そういうキクノも、彼を見て驚いたように息を呑んでいた。

 目の前の光景を現実に繋ぎ止めるように、わたしは彼の名を呼んだ。

「カブト様」

 やっと会えた。

 どうして今まで……。

 なんで急に……。

 嬉しさとともにいろいろな疑問が浮かぶけど、そうじゃない。自分の中の気持ちが先走りすぎて、心が溢れて言葉が追いつかない。

 わたしが今一番したいのは何?

 自分にそう強く問い掛けて、わたしは自分の想いを一つの言葉で表した。

『触れたい』

 その言葉が引き金となって、わたしの力を呼び起こす。

 それは周囲に泡となって現れ、わたしの体にまとわりついてオブジェクトをインスタンスへ、幽体を彼と同じ肉体へと変えていく。

 泡が消え、両足で地面の感触を確かめながら、わたしは自分の体を軽く動かした。

 揺れる大気と腰まで伸びた艶やかな紅のツインテールが生まれたばかりの柔肌を撫で、痺れるような官能に肉体は喜び身震いする。

 わたしは抑えきれない昂ぶりを目の前の愛しい人へ届けたくて、彼の名前を呼びながら駆けだした。

「カブト様ーーー♡」

 わたしの声に彼は鋭い視線を向ける。それだけでわたしの体は震え、鼓動は高鳴り、足の動きを加速させる。

 カブト様♡ カブト様♡ カブト様♡

 わたしの気持ちは彼を捕らえているというのに、まだ体は追いつかなくて、そのもどかしさにわたしは地面を蹴って彼へと跳躍した。

「カ・ブ・ト・さ・まーーー♡」

 両腕を広げて彼の胸へとダイブする。

 彼との距離が縮まり、その温もりを感じられると思ったそのとき、

「誰だ? おまえ?」

 見下すような視線を向けながら、彼はそう言ってわたしを避けた。

 目標を失ったわたしの体は、そのまま彼の横を通り過ぎて地面へと落ちていく。

「ヒガン!」

 キクノの声が後ろで聞こえる。

 急接近する地面になんとか態勢を立て直そうとするけど、久しぶりの肉体に腕と足のどちらを動かせばいいのかわからず、わたしの手足は空中でおぼれる鳥のようにばたつくだけだった。

「きゃっ!」

 結局、自分の意識どおりにできたのは短い悲鳴を上げることだけで、体を地面に打ちつけるところを想像して、わたしはぎゅっと目を閉じた。

 でも、わたしの体が地面に触れることはなかった。

「そんな格好で危なっかしい奴だな」

 わたしのお腹に腕を回しながら彼はそう言うと、「よっ」という掛け声とともにわたしの体を仰向けにして放り投げた。そして、落ちるわたしをお姫様だっこで受け止める。

「大丈夫か?」

 めんどくさそうな目でわたしを見下ろす彼に、わたしはすかさず抱きついた。

「おい! やめろ。抱きつくな!」

 そんな彼を無視して、わたしは首に回した腕に力を込める。密着する胸に彼の鼓動を感じながら、わたしは彼の匂いを思いっきり吸い込んだ。それだけで体は熱くなり、心臓は早鐘のように鳴り響く。

 もう離れたくない。

 その想いをなんとか抑えて、わたしは腕の力を抜くと彼の顔を見上げた。

「なんなんだ一体、いきなり跳びかかってきやがって……。ん? 顔が赤いぞ? 息も荒いし、もしかして熱でもあるのか?」

 少しほっとした表情を浮かべながらも怪訝そうに彼が言う。

 彼が、わたしを見て話しかけてくれてる。そのことだけで涙が勝手に溢れた。でも、まだ足りない。温もりを、気持ちを、漏れ出るわたしの息でさえも、すべてあなたにあげるから、もっとあなたをわたしに……。

 そして、わたしは彼の唇に自分を重ねた。

「んん⁉」

 驚く彼を新鮮に思いながら、わたしは彼の唇をしゃぶりつくように味わう。そして、舌をその中へと入れていく。でも、彼は歯を食いしばってわたしを受け入れてくれない。胸の奥が締め付けられて泣きそうになりながらも、わたしは彼にお願いするように歯を舌で撫で、ようやく開いた微かな隙間から舌を先へと進ませた。そして、舌を絡ませ唾液を交換し、十分に互いを高め合ってから最期にわたしは彼の唇に噛みついた。

 彼の血が口の中に流れて、鉄の味が口内に広がる。

「いっ痛! おまえ! いきなり何を……」

 そう言って彼は、わたしを突き放そうとする。でも、それを拒むように彼の心臓が大きな鼓動を響かせた。

「ぐっ!」

 彼は、わたしごと自分の体を抱きしめて苦しそうに呻く。それは少しの間だけ続き、次第に彼の体から力が抜けていく。腕はだらしなく下がり、膝が地面に落ちていく。

 わたしは彼の首に腕を回したまま、その膝の上に自分のおしりを乗せると、荒い息をあげ始めた彼を見つめる。その息は、わたしと同じテンポを刻んでいた。

 そのことに安心したわたしは火照り始めた彼の体に自分を預け、久しぶりの添い寝を味わうことにした。

       ◆

 体中が燃えるように熱い。

 俺は空を見上げて、口を開けたまま荒く息を吐き出していた。目はかすんで焦点が定まらず、夕焼けの空が炎のように揺らめいている。

 膝の上にある柔らかな肉感と、時折腕を撫でる流れるような髪の感触、そして鼻腔をくすぐる女の甘い香りが頭の中を煮えたぎらせ、心臓は獣のような鼓動を刻んでいる。

 俺に何が起きた?

 暴れる思考を一つずつ引き寄せながら、俺は自分に起きた状況を組み立てていく。

 いきなり水着姿の女が走り寄ってきたかと思ったら飛びついてきて、とっさに避けたらそのまま倒れそうになったから支えてやって、その軽い体を抱き上げてやったら、いきなりキスされた。しかもディープで暴力的な……。

「くっ!」

 やばい、思い出したら余計に心臓が暴れ出した。俺は大丈夫なのか?

 半袖のワイシャツは夕立に遭ったかのようにびしょ濡れで、喉が酷く渇いている。体もだるいし、脱水症状を起こしているのかもしれない。ただ、それにしては何か違和感があった。

 俺は、重い腕をなんとか動かしてズボンのポケットに手を突っ込むと、そこからピルケースを取り出した。ふたをスライドさせて、そこから中身を直接口の中に放り込む。そして、舌の上に落ちたそれを奥歯で思い切り噛み砕いた。すると口の中にラムネの爽やかな甘味が広がって、ブドウ糖が速やかに脳へと供給されていく。

 少し落ち着いた俺は、違和感の正体を突き止めようと考察を再開した。

 問題はキスの後だ。女は俺の唇に噛みついて、その傷口に何かを流し込んだ。何かはわからないが、唾液とは違う、冷たいような熱いような心を揺さぶるような何か。それが流れ込んだ途端、体中の細胞が震えだしたような気がした。

 この女、何を流し込んだ?

 俺は重い頭を持ち上げて、自分にもたれかかる女を見下ろす。

 すると、女のあらわになった肌が思考を直撃した。

 この女は、なんでこんなに面積の小さいビキニを着ているんだ?

「はぁはぁはぁはぁ」

 自分の息の荒さにやばいものを感じながら、それでも女から目が離せない。

 水着より面積の広い肌は汗ばんで赤味を帯び、そこにまとわりつく艶やかな紅の髪がやけに愛しく目に映る。そして、流れ落ちる汗が彼女の胸の谷間に吸い込まれるように流れて……。

「ちょっと! あんた!」

「⁉」

 いきなり頭上から降ってきた女の怒鳴り声に、俺は息を呑んで慌てて視線を胸の谷間からそらす。そして、ゆっくりと頭上に目を向ければ、そこには黄色い瞳で俺を睨みつける白髪の女が浮いていた。虹彩の中心に開いた真っ黒な瞳孔が、射るように鋭い視線を向けてくる。

 なんなんだ? まったくわけがわからない。

 夏休みの初日で、ようやく煩わしい高校生活から暫く解放されると思った矢先に、この状況はなんなんだ?

「あんた、名前は?」

 呆然と女を見上げる俺に、黒いワイシャツに黒いパンツスタイルのその女は、白髪を揺らしながら聞いてきた。よく見ると、その瞳は口調と違って、なぜか懐かしさを感じさせる。

「ハルキ」

 俺は、かすれた声で彼女に答えていた。

「ハルキね」

 そう言って彼女は、黒い革手袋をした手で空中を軽く撫でた。すると小さな光の枠が浮かび上がり、そこに指先で何かを書き込むと、彼女は光の枠を先ほどと同じように撫でた。光の枠は粒子となって薄くなり、そして見えなくなる。

 その様子をただ呆然と見ていた俺に、彼女は呆れたようにため息をついて言った。

「あんた、いつまで、そうしてるつもりなの?」

 なんか急激にむかついてきたが、その一方で俺は冷静な思考を取り戻しつつあることに気がついた。彼女に話しかけられたことで、この紅い髪の女から意識をそらしたせいかもしれない。

 確かに、この状況はよろしくない。路上で裸に近い水着姿の女を膝に乗せて、お互いに汗まみれで荒い息をついてるなんて、一体どんな路上プレイだ。

「くそっ」

 俺は、うまく力の入らない体に意識を向けた。気怠さはまだ少しあるが、体の熱は大分引いてきて、めまいも今はほとんどしない。幸いにも自宅は目と鼻の先だし、この女を担いで行けそうではある。あとは、その間に人目につかないことを祈るだけだ。

 俺は早速考えを行動に移した。女の体は軽かったが、さすがに力の入らない腕だけで抱えることはできず、背負って運ぶことにした。

「はうっ⁉」

 背中にふにゃっとした感触が当たって、自分のものとは思えない腑抜けた声が出てしまった。再び心臓の鼓動が暴れそうになる。やばい、やばい。平常心、平常心だ、俺。

 苦行のような十数歩を耐え抜き、俺は玄関の扉をなんとか開け、靴を脱ぐことにさえ手間取る自分に苛立ちながらも、彼女を背に抱えたまま二階の寝室へとたどり着いた。

 その間ずっと、背中に当たる彼女の胸の柔らかさと、時折わかるその先端の感触に俺の頭は噴火しそうだった。こめかみはじんじんと痺れたようにうずき、同じように大変なことになっていた下半身のことは、もう諦めて無視するよりほかはなかった。むしろ二階への階段を上る途中くらいには、自分が男であることをまざまざと思い知らされて、いっそ清々しいくらいだった。

 そんな悟りを開きそうな状態で俺は彼女を自分のベッドに横たえ、その裸同然の体に理性という名の薄いタオルケットを掛けてやった。

 そして俺は自分の忍耐を褒め称えながら、渇ききった喉を潤そうと重い体を引きずって一階へと下りていった。

       ◆

「カブト様が運んできてくれたんだ」

 キクノの説明に自分の状況を理解したわたしは、取り敢えず一息ついた。

 鼻腔をくすぐる彼の匂いに、わたしの体が微かに震える。まだ体の火照りは引かないけれど、それが彼とのリンクの証だと思うと、それさえも心地好く感じられて自然と笑みがこぼれそうになる。

「カブトじゃなくて、ハルキだってば。オブジェクトは確かにカブトのものだけど、イグノアの記憶は封印されてるんだから、変なこと言ってせっかくのリンクが切れないように気をつけなさいよ?」

 そう言うキクノは、空中であぐらをかいたままコンソールを展開していた。多分、わたしとカブト様の状態をモニタリングしているんだろう。

「ハルキ様、か……」

 違う名前に違う顔。そして封印された記憶。今はどこにもカブト様はいないけど、でも彼の魂はここにあるんだ。

「ようやく第一歩ってところか……」

「そうだよヒガン。ここからが大変なんだから」

 そう言って釘を刺しながらも、その瞳はどこか優しい眼差しをしていた。そんな彼女に、わたしも笑みを返して応えた。

 まずは彼――ハルキ様のことを知らないと。

 そう思った矢先、足音が聞こえてきた。それはトットットットッと、ゆっくりとしたテンポを刻みながら近づいてくる。それが階段を上ってくるハルキ様の足音だと意識した途端、わたしは思わず目を閉じて扉に背を向けると、タオルケットを握りしめて寝たふりをしてしまった。

 足音は段々と大きくなってくる。それに合わせるように鼓動は高鳴り、わたしは乱れそうになる息をぐっと飲み込んだ。

 扉のノブがカチャッと小さな金属音を響かせる。

 ゆっくりと扉が開き、停滞していた部屋の空気が扉へと流れていく。

 わたしに気を遣ってか、彼はゆっくりとした足取りで近づいてくると、テーブルに何かを置いた。陶器とガラスが軽くぶつかる音が聞こえ、ほのかに甘い香りが漂ってくる。

「寝てるのか?」

 彼の声が天井へ質問を投げかける。

「自分で確かめてみれば?」

 質問に質問で返され。彼は少し黙り込むと、ため息をついて近づいてきた。

「変なことしたら、ただじゃおかないわよ」

「はあ? そんなことするかよ」

「どうだか……」

「何か言ったか?」

「いいえ。別に……」

 とげのあるキクノの言葉に苛立つ彼の様子が、背中越しに伝わってくる。

「なんだよ。まったく……」

 でも、彼はそれ以上続ける気はないのか、キクノを無視してベッドの横に来ると、しゃがんでわたしに体を近づけてきた。彼の息遣いが頬に当たり、それを意識した途端に顔全体が熱くなる。彼の息は気のせいか少し速く、わたしの鼓動を追い立てた。

 彼の気配が、さらにわたしの顔に近づいてくる。

 え? 何? もしかしてキス?

 とっさに浮かんだイメージに、わたしは息を呑んでじっと彼の行動を待った。

 わたしの前髪をかき上げて、彼の手が額に触れる。

 来る!

「熱もあるし、大分、汗もかいてるな」

 そう言って手を離した彼にがっかりしながら、わたしは細く息を吐き出した。

「あ、汗は拭かないと、いけない、よな?」

 誰に言うでもなく、ぎこちなく彼が口にした言葉にわたしの鼓動が再び跳ね上がる。そして、何か柔らかい感触が肌に触れた。

 彼はタオルを軽く押さえつけるようにして、わたしの肌に浮かんだ汗を拭っていった。額を拭い、頬や首筋を優しく拭いていく。そして彼の手がタオルケットにかかり、わたしは自然と手の力を緩めた。

「ちょっとあんた、やっぱり変なことするんじゃないでしょうね?」

 あと少しのところで飛んできたキクノの余計な声に、わたしのこめかみが少しひくついた。それを代弁するように、彼がキクノに言い返す。

「するか! ただ体の汗を拭いてやるだけだ。文句があるなら、おまえがやればいいだろ?」

「残念なことに、実体がないあたいには無理なんだよねー。ああ、本当に残念残念」

 キクノの言葉に一瞬乱れかけた息を整えるように、彼は大きく息を吐くと静かな声で言った。

「さっきからおまえは……。俺に何か恨みでもあるのか?」「さあね。ただ、あたいの目の前でヒガンにいやらしいことしたら、末代まで祟ってやるから」

「勝手に言ってろ」

 そう言いながら彼はタオルケットをめくり、涼しい風がわたしの汗ばんだ体を撫でた。そして横たわる無防備なわたしの肢体に、彼はタオルを当てていく。

「そうか、ヒガンって言うのか」

 肩を拭きながら、小さな声で彼がわたしの名前を口にする。その声は耳朶に触れて、わたしの心をつかんで離さない。

 思わず感情が溢れそうになって、気持ちを抑えようとわたしがお腹に意識を集中した直後、タオルがおへその内側を撫でた。

「ひゃぅっ!」

 くすぐったさに声が漏れ、彼の手が瞬間的に止まる。

「え⁉ 今、俺なんか変なとこ触ったか?」

「いいから続けなさいよ。この、スケベ」

 慌てる彼にキクノは冷たい声で先を促し、わたしは恥ずかしさに耐えながら寝たふりを続けた。

 気まずい沈黙が三人の間に流れる。

 その沈黙に耐えかねたのか、彼はおずおずと再びわたしの体を拭き始めた。そして全身を拭き終わったところで、わたしは彼に自分を見せつけるように、

「うーん」

 寝返りを打つ振りをして仰向けになった。

 その直後、床に柔らかい布のようなものが落ちる音がした。

 わたしの左右に微かに揺れる胸には強い視線が注がれ、喉を鳴らす音も聞こえる。

 もっと触れていいんですよ?

 わたしの想いがリンクを通して彼に伝わったのか、それに応えるように彼の気配が近づいて大きくなってくる。それは覆い被さるように、わたしの胸へと近づいて、

「ちょっと、あんた!」

 キクノがやかましく何かを言っているけど、もう彼には聞こえていないようだった。

 期待に高鳴るわたしの胸へと、同じ速さを持った息遣いが近づいてくる。愛しい人にもう少しで直接触れてもらえる。そう思った直後、部屋の中に突風が巻き起こった。

「おやおや。お取り込み中でしたか?」

「⁉」

 含み笑いとともに聞こえた知らない男の声に、わたしは素早く自分の体ごと彼をタオルケットで包むと、部屋の隅へと飛び退いた。そして声のほうへと目を向ける。

 そこには全開に開いた窓と、窓枠に優雅に腰掛ける白いスーツ姿の優男がいた。

       ◆

「あん♡ ちょっと今は動かないで!」

 私の胸に顔をうずめてもがく彼を抱きしめながら、わたしは白いスーツの男を睨みつけた。

「あなた、誰?」

 男は、少し長めの前髪から細い瞳を覗かせて、天井隅に浮かぶキクノへ視線を向けた。そして、それから私を見て口を開く。

「どうも。通りすがりの死神です」

 白い中折れ帽に手をかけて軽く会釈をしながら、男は爽やかな笑顔を浮かべてそう言った。

 窓からは夜の生温かい風が流れ込み、汗ばんだ胸の間から漏れる彼の荒い息遣いだけが、沈黙の中で存在を主張していた。

 私は彼の温もりを胸に感じながら、目の前の男に話しかける。

「もしかして、死創機関の……」

「死神です!」

 笑顔のまま、男がこめかみをひくつかせて、そう主張する。

「いや……」

「死神DEATH!」

 窓枠から身を乗り出して、右手の中指だけを真っ直ぐ天井へ向けながら叫ぶ男に、わたしは呆れつつもキクノに視線を向けた。彼女は苦笑いを浮かべながら「少しはつき合ってあげれば?」と目で言っている。

「わかったわ。その死神がなんの用?」

 仕方なく話を進めると、男は窓枠に座り直して不敵な笑みを向けながら答えた。

「なんの用とは愚問ですね。死神の仕事と言えば、死者の魂を幽世へと導くことに決まっています」

「……彼は、渡さないわよ?」

 彼を男から遠ざけるように身をよじりながら、わたしは静かな声で威嚇するように言った。

「いや。彼は、まだ死ぬべきときではありません。ですから、その……」

 男の視線が、わたしの胸へと向けられる。

 わたしはとっさに胸を隠すようにさらに体をよじり、ぎゅっと腕に力を込めると男を睨みつけて叫んだ。

「このエロ神!」

「エロ神⁉」

 驚く男に間髪入れず、わたしは言葉を投げつける。

「勝手に人の胸を視姦して、この変態! この胸はカブト様の……、今は彼のものなんだから!」

 自分で言って体が熱くなるのを感じながら、それでもわたしは胸を張って宣言する。

 そんなわたしに、男は驚きの表情を困惑へと変えながら言ってくる。

「いや。だから、その彼が今まさに君の胸の中で死にそうなんだが……」

「え?」

 男の言葉に、わたしは自分の胸を見下ろした。そこには胸の谷間でうなだれ、力なく手足を垂らした彼の姿がある。

「……ハルキ様!」

 慌てて腕から力を抜くと彼の体は胸からずり落ち、頭が床へと落ちていく。

「うぐっ!」

 その言葉を最後に、彼は動かなくなった。

       ◆

「ハルキ君。君はサキュバスを知っていますか?」

 床にあぐらをかいて座り込むハルキ様に、男が問い掛ける。

 わたしはベッドの上でタオルケットを抱き寄せながら、ハルキ様に視線を送った。でも、視線に気づいた彼は鋭い目つきでわたしを睨み返すと、すぐに視線を外してしまう。そして、ズボンから取り出したピルケースから何かを口に放り込むと、それをバリボリと噛み砕いてチッと舌打ちをした。

 嫌われちゃった……。

 涙目でキクノに助けを求めると、彼女は少し困ったような笑みを浮かべながらも、ビシッと左手の親指を立てて「大丈夫」と言ってくれる。

 倒れたハルキ様を抱き起こして介抱したものの、なぜか目を覚ました彼から「離れろ」と言われてしまい、私はベッドの上で大人しく正座をしていた。

「サキュバス? それって淫魔のことか?」

 わたしではなく死神を名乗る男に視線を向けて、ハルキ様が不機嫌そうに答える。その顔は、なぜか少し紅潮しているように見えた。

「そう。淫魔。淫らな魔性の者」

 わたしからハルキ様を奪った男が、そう言って見下すような視線を向けてくる。

 男の代わりにタオルケットに噛みつきながら、私は男を睨み返した。でも、男はさらに楽しそうに含み笑いを浮かべると、わたしを指さしてハルキ様に言った。

「彼女が、その淫魔ですよ」

「ちょっと! 彼に変なこと吹き込まないでよ!」

「そうよ! あたいの親友は淫乱じゃなくて純粋なドMよ!」

「は?」

「え?」

 キクノの言葉に、ハルキ様と自称死神の目が点になる。そして、そのままゆっくりとわたしを見た。

「そ、そんなわけないでしょ⁉」

 わたしは視線を避けるように俯いた。顔だけでなく、体全体が燃えるように熱い。

 ちらりとキクノを見れば、彼女は腕を組んで胸を張り、鼻息荒く男二人を見下ろしていた。

 タオルケット越しでも感じられるハルキ様の視線が、レーザーのようにわたしの肌をじりじりと熱くする。

 見ないでという羞恥心と、もっとわたしを見て欲しいという独占欲がない交ぜになって、頭は痺れ、思考が白く溶けそうだった。

 そんな、ぼんやりとした思考の片隅で、咳払いをして話を続ける死神の声が聞こえてくる。

「えーと、まあ、その性癖もサキュバスとしての、なんというか……、そう、本能ですよ。獲物に魅了チャームという呪いをかけるための」

「呪い?」

 その言葉に、彼の視線がわたしから死神へと向けられる。

 熱い視線から解放されて、わたしの思考は徐々に冷静さを取り戻していく。そして、ハルキ様の関心を取り戻した死神は、安堵とともに再び楽しげに話し始めた。

「そうです。彼女はあなたを欲情させ、その魂を自分のものにしようとしているのです」

「それはつまり、俺を殺すってことか?」

 ハルキ様が死神に問い掛けた言葉は、私の心を一瞬で凍りつかせた。

 コロス。カレヲ、コロス。

 勝手に浮かび上がろうとする過去を黙らせようと、わたしは震え始めた自分の体を強く抱きしめる。でも、そんな過去に怯えることしかできないわたしを無視して、死神は淡々とした声でハルキ様に告げる。

「そう。彼女は、あなたを殺しにきたのです」

「そんなこと、絶対にしない! 勝手なことを言わないで!」

 わたしはベッドに仁王立ちになると、体の震えを叫びに変えて目の前の死神を睨みつけた。

 そんなわたしを、死神は楽しそうに見返す。でも今のわたしには、もう一つの視線のほうが気になっていた。それは、前の熱い視線とは違う、拒絶を感じさせる冷たい突き刺すような視線。

 いや! そんな目でわたしを見ないで!

 ハルキ様の顔を見ることができない自分が悲しくて、わたしは唇を噛んだ。彼とは違う鉄の味。わたしに流れる罪の味が、彼を求めて囁きかける。

「わたしの邪魔をするなら……」

「するなら?」

 わたしの心の底を見透かすような、嘲るような視線で死神は言う。

 気持ち悪い冷や汗を無視して、わたしは無理矢理口の端をつり上げて言葉を吐き出した。

「排除、するだけよ」

 言葉とともにわたしは両手を前に突き出し、何者も一瞬で切り裂く鋭い力をイメージした。それは無数の気泡となって空間から湧き上がり、手の中へ細身の長剣を具現化させる。

 威圧の剣線を向けるわたしに、死神は困ったような表情を浮かべた。

「争いごとは苦手なんで、できれば話し合いで済ませたかったのですが」

 そう言って死神は、ハルキ様のほうへと視線を向ける。

「罪もない人を巻き込んで死なせてしまっては死神の名折れですし、今日のところは帰るとしましょう」

 そして、わたしのほうへ視線を戻すと、死神は口の前に人差し指を立てて低い声で言った。

「最期に一つ、くれぐれも幽世の秘め事には触れないように」

 次の瞬間、死神の研ぎ澄まされた視線が、刃のようにわたしの首筋を皮一枚の正確さで触れて消えた。そして、首筋から一気に燃え上がるような、無数の小魚が一斉に肌をついばむような感覚が体中に広がり、同時に子宮を直接揺さぶるような快感がわたしを襲う。

「⁉ ひゃうっ、何⁉ あんた、はうっ♡ 一体、ひっ、くぅう。これ、は。あ、はぁあん♡」

「アルラウネの歌声です。と言っても囁き程度ですが。おしゃべりが過ぎるようなら、そのときは……」

 死神は窓の外に浮かぶ月を見ながらそう言うと、泡のように闇夜へ溶けて消えていく。

 それを見届けるまでが限界だった。体の奥から広がる強烈な快感に思考と緊張は崩壊し、剣は泡と消えて体はベッドへ倒れ込む。

「ヒガン⁉ 耐えて! イッちゃだめ!」

 耳元で聞こえるキクノの声も霞んでよく理解できない。

 わたし、彼の前でイッちゃう?

 困惑しながらも凝視する彼の視線を感じながら、わたしの意識は急速に光へ飲み込まれていった。

       ◆

「カオル様。すぐに強制送還しなくてよろしいのですか?」

 サングラスをかけた黒服が死神に話しかける。

 月を背に死神は、一軒家の屋根の上からハルキの部屋の方向を見ていた。

「彼らには借りがあってね。まあ、機密事項を漏らすようなら遠慮なく送り返すさ」

 カオルと呼ばれた死神は、隣の黒服と背後にいたもう一人に指示を出すと、自分は懐からガムを取り出して口に放り込んだ。

 黒服達はカオルに一礼すると、風に吹き散る泡のごとく姿を消す。そして残された死神は、ガムを噛みながらため息交じりにつぶやいた。

「本当に、あなたたちには困ったものです」

 つまらなそうにカオルはガムを膨らませる。しかし、その瞳にはシャボン玉の表面を彩る光のように、憂いと優しさが揺らめいていた。


【第二章】

 雲の少ない空の下、のどかな日差しに照らされた草原がなだらかに広がっている。草花は柔らかな風に揺れ、対照的に小高い丘にある一本のクリフォトの樹は堂々とそびえ立ち、その下に大きな影をつくっていた。

 その影の中に、一人の少女の姿があった。彼女は草の上で横になり、穏やかな寝息をたてている。長い紅のツインテールは細長い川のように体の左右を流れ、その間に横たわる丸みを帯びた肢体を包む白いワンピースは、さざ波のように風に揺らめいていた。

「ん、んん、カブト様ぁ……」

 少女は囁くようにつぶやいて、何かに抱きつくように寝返りを打つ。しかし伸ばした手は空気をかいて、腕は力なく芝の上に落ちた。

「んー?」

 もう一度腕を伸ばして手を動かしてみても、そこには草と風の流れがあるだけで、彼女の求める感触は気配さえも見つからない。

「……いたっ」

 指先に走った鋭い痛みに少女は顔をしかめ、ゆっくりと目を開けた。

 少し痺れるような痛みに視線を向ければ、人差し指から染み出た小さな雫が少しずつ膨らんでいく。しかし、それよりも先に少女の瞳から一条の涙がこぼれ落ちた。

「カブト様」

 ぽつりと口から出た名前を飲み込むように、少女は傷ついた指先を口に含む。

 周囲を見回せば、眠る前と風景は変わらない。でも、口の中に広がる鉄の味は、変わらないはずなのに酷く自分を不安にさせる。

 少女は立ち上がり、丘の上から遙かに広がる草原を見下ろした。辺りを見回しても人影はなく、隣にあったはずの温もりも吹き抜ける風によって残ってはいない。

 彼がいない。誰もいない。自分しかいない。

 ざわつく胸を押さえるように少女は両手を重ねて抱きしめる。そして、少女は駆けだした。

 透き通る空の青さから逃げるように、無言で風に揺れる草花から目をそらし、孤独にそびえる樹の気配に怯えて走り続ける。

 流れゆく雲が陽の光を遮り、少女を捕らえようと闇を広げ、まとわりつくように風が服と髪に絡みつき、少女の体をその場にとどめようと吹き続ける。

 それでも少女は唇をかみ締めながら走り続けた。

       ◆

「カブト様!」

 木の扉を開けるなり叫んだ少女の声は、追いかけるように入ってきた風とともに誰に届くこともなく消えていく。

 きれいに手入れの行き届いた部屋には小さなテーブルと二つの椅子があり、出窓に置かれたヒースの鉢植えには、薄紫色の小さな花がたくさん咲いていた。

 少女は二階に上がり彼の書斎、寝室、風呂場と家中を確認していく。しかし、ほんの前まで二人の生活があったはずの場所は、色を失ったかのように静かで冷え切っていた。

 少女は家を飛び出して探し続ける。

 二人で待ち合わせをした広場、二人で話をしたランチのお店、二人で迷った遊園地、二人で議論を交わした図書館、二人がケンカをしたアパレルショップ、二人がすれ違った交差点、二人で探した映画館。そして、二人が初めて出会ったフラワーショップ。

「……」

 しかし、どこにも誰の目にも彼の姿は残ってはいなかった。

「カブト様」

 見知らぬ人々の流れから取り残されたように一人俯き、少女は自分の中に残された彼の名を抱きしめるように吐き出した。

 瞳はほとんど光を失い、肌は青ざめ、震える膝は今にも崩れ落ちそうで、頭の片隅で囁く嘲りの声に、少女は諦観の底へと導かれていく。

 無音の水底へと泡のように消え行く少女を、道行く人は誰も気にしない。しかし一人だけ、少女に触れる者がいた。彼女は力強く少女の肩をつかみながら声をかける。

「こんなところで、どうしたのさ?」

 その声に感情という名の泡は揺らめき、細かな気泡となって震えながら浮かび上がる。

 溢れ出す涙を気にせず振り向けば、そこには自分を見つめる親友の笑顔があった。

       ◆

 目を覚ますと、そこには白い天井があった。

 カーテン越しに入り込む日の光と鳥のさえずりが、朝の爽やかな時間帯であることを教えてくれる。

「あ、ヒガン。起きた?」

 視界の端で天井が揺れたかと思えば、キクノの黄色い瞳が優しくわたしを見下ろしてきた。その顔を見た途端、わたしの中でせき止めていた感情が溢れ出す。感情は視界を濡らし、温かな感触とともに目尻からこぼれ落ちていく。

「うぅ、キクノぉ~」

「え? ちょっと、どうしたの?」

 声をつまらせながら呼びかけると、彼女は慌てて近寄り指で涙を拭おうとする。でも、触れることができずに困ったような、少し悲しげな表情を浮かべた。

 そんな彼女にわたしは微笑み返すと、ゆっくりと深呼吸をして息を整える。そして、体を起こそうと横を向いた。

「あっ」

 目の前には、無防備に静かな寝息をたてるハルキ様の寝顔があった。

「リンクの影響で欲望を抑えるのがきつかったらしくてね。濡れたシーツとか、あんたの後始末をしたあと、そのまま疲れて寝ちゃったのさ。あ、変なことは一切させなかったから安心して」

 キクノの言葉に、わたしは昨夜の出来事を思い出した。

 全身の肌が一瞬で沸騰し、その後の様子を想像してさらに顔が熱くなる。でも、目の前の彼がわたしの世話をする様子を想像すればするほど、恥ずかしさと同時に体の芯から愛しさが広がっていくのを、わたしは止められなかった。

 気づいたときには、わたしの唇はハルキ様のそれに触れようとしていた。そして、お互いの息が触れて温かさを感じ始めたとき、彼のまつげがゆっくりと動いた。

「⁉」

 彼の瞳は一瞬で大きく見開かれ、その中心にわたしの瞳が映り込む。

「な、何をするつもりだ!」

 体をのけぞらせて非難を口にする彼の瞳から、わたしが消えていく。そのことに寂しさを感じながら、かつての彼が喜んでくれたことだと伝えたくて、わたしは自分の行動を言葉にした。

「あの、おはようの挨拶……」

「やっぱり俺を殺すつもりなのか⁉」

「違う!」

 伝える以前に聞いてさえくれない彼の態度に、焦燥感が募っていく。

 ヤダヤダヤダヤダ。イヤだよ!

 離れる気持ちを捕まえようと、追いかけるように視線を向ける。でも、ハルキ様は視線をそらして立ち上り、そして吐き捨てるように言った。

「とにかく迷惑だから、体調がよくなったのなら、さっさと出て行ってくれ」

 そう言うと、ハルキ様はわたしに背を向けて部屋を出て行こうとする。

 また置いて行かれちゃう。

 こんなに近くにいるのに、なんで届かないの?

 行き場を得られない想いと感情はひたすら大きくなるばかりで、胸は締め付けられ息は詰まり、言葉も空回りして形にできず声が出ない。

 だめ! このままじゃいけない!

 ドアノブに手をかける彼に、わたしは力任せに口を開く。

「置いてかないで! カブト……」

「俺はそんな奴じゃない」

 それは怒るでも馬鹿にするでもなく、ただただ冷たい声だった。

 音もなく心に針を突き立てられたかのように、わたしの体から血の気が引いていく。

「……様」

 余韻で口から出た音は、彼に届くことなく虚しく消えていく。

 突きつけられた彼との距離に開いた口さえ閉じられず、わたしの中の何もかもが動けずに軋んだ音をたてる。

 そんなわたしに構うことなくドアノブはスムーズに回り、扉が開いて彼が一歩を踏み出そうとしたそのとき、ぎゅるるると滑稽な音が部屋の中に鳴り響いた。

「⁉」

 それは、わたしのお腹の音だった。

 ハルキ様が大きくため息をついて、振り返ることなくわたしに言う。

「追い出した途端に倒れられても困るしな。朝飯くらいは用意してやる」

 ため息の残滓から伝わる微かな温かさに、わたしは恥ずかしさと安堵で涙を浮かべながら、小さく頷くことしかできなかった。

       ◆

 後ろのキッチンからは、香ばしい魚の焼ける匂いが漂ってきて、簡素な木製のダイニングテーブルには水菜のサラダが置かれていた。サラダには、赤味の濃い艶やかなミニトマトとカリカリのベーコンが添えられていて、見た目にも美味しそうだった。

 でも、それ以外には目を向けることができず、盛んに空腹を訴えてくるお腹を押さえながら、わたしは俯いてテーブルの木目を見ることにした。

「いやー、あんたを探して苦節二十八年。このエリアにいることはわかっていたけど、本当に見つかってよかったわー」

 わたしの頭上から、キクノが明るい声でハルキ様に話しかけていた。

「二十八年って……。俺、今十七なんだけど」

 食器を棚から取り出す音とともに、ハルキ様がつまらなそうに疑問を口にする。

「うーん。ハルキは輪廻転生って知ってる?」

「なんだよ突然。輪廻転生って、生まれ変わりのことだろ?」

 鍋がカタカタと音をたて始めるが、それもハルキ様が数歩動くと静かになる。

「そう、それ。人は現世で死んで幽世に行っても、生まれ変わることで現世に戻ってくる。でも、魂そのものは変わらない」

「で、それが?」

 冷蔵庫の扉の開く音とともに、ハルキ様は興味なさげに話の先を促す。

「あたい達は二十八年前から、そんな輪廻転生を繰り返す魂の一つを探してる」

「もしかして、それが俺だと?」

 少し考えるような間が開いて、キクノはあっけらかんとした口調で言った。

「どうだろうね?」

「はあ?」

 キクノの言葉に、ハルキ様が抗議混じりの疑問をこちらに向かって投げかける。しかしキクノは何も言わず、二人の視線に挟まれたわたしは、ただ肩を竦めることしかできなかった。

 そんなわたしに呆れたのか、ハルキ様はため息をつくと再びキクノへ話しかける。

「そもそも、あんた達は一体何なんだよ? 死神とか淫魔とか……。まともじゃないのはわかるけど……」

「あたい達は、そうだな……」

 ちらりと上目づかいでキクノを見れば、彼女はあぐらをかいたまま、人差し指を唇に当ててゆっくりと逆さになっていく。そして、真っ逆さまの状態で首をかしげて言った。

「幽霊?」

「幽霊って、あんたはそうかもしれないが、そっちの……」

 ハルキ様の視線が背中に当たって、ピリピリとした感覚が走り抜ける。

「ヒガン?」

「は、なんで肉体があるんだ?」

 名前を呼ばれなかっただけなのに胸がきゅっと締め付けられ、わたしは膝の上に置いた手を握りしめて奥歯をかみしめた。

「インス……、簡単に言うと受肉ってやつだよ」

 少し間を置いて、そうキクノは答えた。

「一時的な転生みたいなもんだね。ただ、常に力を使い続けるから余計な物質化はできないし、死神からも確実に見つかるから、あんたを見つけるまでは幽体のままでやってきたんだけど……」

 キクノがため息をついて黙り込む。

「なんだよ、その恨めしそうな目は? やっぱり俺を殺すつもりなんだろ?」

 何か汁物を取り分けるような音がぴたりと止まり、ハルキ様が声を低くして言う。

 それに対してキクノは、さらに深いため息をついて話を続けた。

「だから殺しに来たわけじゃないんだよ。ただ一緒に帰りたいだけ」

「幽世にか? そこに行くってことは死ぬってことだろ? 同じじゃないか」

「そうかもしれないけど、そうじゃないんだよ」

 苦笑を浮かべながら曖昧に答えるキクノに、ハルキ様は「そうですか」とどうでもいいような感じで答えた。そして、足音がキッチンから近づいてくる。

「待たせたな」

 そう言ってハルキ様は、わたしの目の前に食器を並べていく。湯気の立つ艶やかなご飯に豆腐の浮かぶお味噌汁。それに脂ののったホッケの干物。どれも温かくておいしそうだった。

「あんたの分はないが、必要だったか?」

「いいや、お構いなく」

 二人は軽く言葉を交わし、そしてハルキ様は向かいの席に座ってわたしに言った。

「じゃあ、食べるか」

 わたしは黙って小さく頷くと、お箸をとってお茶碗に手を伸ばした。

「おい」

 急にかけられた声に、肩がビクッと震えて手が止まる。

 ゆっくりと視線を上げると、そこには不機嫌そうに鋭い視線を向けるハルキ様の顔があった。

 何か気に障ることでもしただろうかと思うが、金縛りに遭ったように思考が動かない。

「あの、ご……」

 とにかく謝ろうと言葉が先走り、

「いただきますは?」

 それを遮る彼の言葉に安堵と焦りがない交ぜになって、わたしは慌てて従順な答えを返した。

「え? あ、はい」

 そして姿勢を正すと、わたしは両手を合わせて感謝の言葉を口にした。

「いただきます」

 ハルキ様のほうを上目づかいで窺うと、彼は満足そうに頷いて自分も「いただきます」と言ってお茶碗を手にとる。その顔に、わたしはほっと胸をなで下ろした。

       ◆

「おいしい!」

 ご飯を口に入れた途端、感想が自然とこぼれ出て声になった。

 ご飯一粒一粒の舌触りがなめらかで、かむほどに口に広がる甘みが心地好く、香りとなって鼻を抜けていく。

 お味噌汁を口に含むと、口に残ったご飯の甘さを絶妙な塩加減が洗い流し、再びご飯が欲しくなった。

 わたしはもう一口ご飯を頬張り、ホッケの干物に箸を伸ばす。その身はふっくらと柔らかく、口に入れれば芳ばしい香りと脂の旨味が広がって、淡泊なご飯を包み込みながら舌の上で次々とおいしさを膨らませる。

 温かな日差しの下で広い海原に心地好く浮かんでいるような、そんな穏やかな朝食にうっとりしながら、わたしの手は次から次へと目の前の食事を口へと運び続けた。

 すると、ハルキ様がくすくすと笑いながら言ってくる。

「おまえ、よっぽどお腹が空いてたんだな」

「違うの」

 わたしは自分の気持ちをちゃんと伝えたくて、お味噌汁で口の中のものを喉の奥へと流し込むと、ハルキ様の顔をまっすぐに見つめて言った。

「本当においしいから。本当に、本当に、おいし……」

 彼のご飯が余りにおいしかったのか、それとも単に空腹から解放されて気が緩んだのか、彼の顔を見ていたら涙がぼろぼろと溢れて止まらなくなってしまった。

「う、ううぅ。ひっぐ、うぅ。お、おいしい、から、だから……」

「おいおい。わかったから泣くなよ」

 頭をかきながら、ハルキ様は困った顔でキクノに視線を送る。でも、彼女はなぜか嬉しそうに微笑みを返すだけだった。

 ハルキ様は怪訝そうな顔を浮かべながらも食事を再開しようとして、ふと何かを思い出したのか、もう一度キクノを見て言った。

「そう言えば、この町が幽霊町って呼ばれるようになったのは、もしかしてあんた達のせいなのか?」

「幽霊町?」

 キクノは左右に体を揺らしながら聞き返す。

「三十年近くここら辺で幽霊やってて知らないのか? この町は落ち武者の幽霊だとか山で行方不明になった女の霊が出るとかで、結構有名な心霊スポットなんだぞ?」

「へえ、そうなの。ヒガンは知ってた?」

 お味噌汁を静かにすすりながら、わたしは首を横に振った。豆腐がつるっとしておいしい。

 キクノはハルキ様に視線を戻して話を続ける。

「だから、あたいを見ても大して驚かなかったのね」

「まあ、物心つく頃からその手の話はよく聞いてたし、それに幽霊らしきものには俺も小さい頃に会ったことがあるしな」

「ねえ、その話、もう少し詳しく聞かせてくれる?」

 急にハルキ様の真横に陣取って、キクノは顔を近づけて言った。

「なんだよ、急に。そうだな、たしか夏休みの自由研究でカブトムシの観察をしようと思って、近くの山に獲りに行ったときのことだったな」

 ハルキ様はキクノから顔をそらして、天井を見ながら話し始めた。

「急に霧が出てきたかと思ったら、奥のほうから黒い影みたいのが幾つか出てきて、そこら中を飛び回り始めたんだ。最初は俺と同じようにカブトムシを捕りに来た奴かと思ったんだけど、次第に女の泣くような声が聞こえてきて、段々それが近づいてきたから気味が悪くなって山を下りたんだ」

 山と言えば、死神のエージェントに追いかけられたときは大変だったなー。

 そんなことを思っていると、ハルキ様が人差し指を立てて真っ直ぐにわたしを見つめて言った。

「そしたら、その数時間後に山崩れが起きたんだよ。数日雨が続いたせいで地盤が緩んでたらしいんだけど、あのまま山にいたらやばかったな」

 そう言うと、ハルキ様は当時を思い出すように目を閉じて、腕を組みながら何度も頷いた。

 それを横で聞いていたキクノも腕を組んで何かを考えていたようだったけど、にやりと口の端をつり上げると、獲物を見つけた猫のような目でハルキ様に言った。

「それじゃあ、ヒガンはハルキの命の恩人ってことだね」

「なんでそうなる?」

 横目でわたしを見ながら怪訝な表情でハルキ様が言う。

「だって、その女の声ってヒガンの声だもの」

「はあ?」

 驚きの視線を向けてくるハルキ様に、わたしも驚いて口に入れようとしていたホッケが箸からこぼれ落ちる。運良くご飯の上に落ちたホッケを見下ろして安心していると、キクノが話しかけてきた。

「ねえ、ヒガン。何かお礼してもらいなよ」

「え? え?」

 楽しげに目を輝かせて言うキクノの横で、ハルキ様があからさまに嫌そうな顔をしていてわたしは困った。

「でも、それがわたしかどうかわからないし……」

 ハルキ様の表情を窺いながら言うわたしの上から、キクノが楽しげに彼に問い掛ける。

「ふふふ、ハルキ。あんたが山で聞いた女の声って、何か言ってなかった?」

「んー、たしかカブトみたいなこと言ってたな。幽霊も昆虫採集するのかと不思議に思ったから覚えているけど」

 うんうんと大きく頷いてから、キクノは人差し指でハルキ様を指さして言った。

「それって、あんたの名前だよ」

「全然違うだろ」

「だから、肉体じゃなくて魂のほうの」

 疑いの眼差しを向けるハルキ様を無視して、キクノはわたしに聞いてくる。

「ヒガンも覚えてるだろ? 山でカブトを探してたら、死神のエージェントに見つかっっちゃってさ」

「うん。あのときは大変だった。せっかくカブト様が近くにいそうだったのに、エージェントから逃げるために煙幕使ったら、カブト様の気配も消えちゃって」

 それを聞いたキクノは、得意げにハルキ様に向き直って言う。

「ほらね。あのときヒガンがいなかったら、ハルキは死んでたかもしれないんだよ?」

 ハルキ様はなぜか黙ると、眉間に皺を寄せながらわたしを見た。

「まったく信憑性の欠片も無い話だな」

 呆れるように言うハルキ様の言葉に半ば納得しながらも、どこか繋がりを期待していたわたしの心は沈んでしまう。

「あんたねー」

 キクノがハルキ様に詰め寄る。それを手で制しながら彼は言った。

「が、まあいい、変に祟られても厄介だからな。一つだけだぞ。それから、俺は自分の嫌なことはやらないからな」

 腕を組んでそっぽを向くハルキ様の横で、キクノがしてやったりという顔で「ほら。おねだりしなよ」と口だけで言ってくる。

 キクノの言葉に恥ずかしさを感じながらも、わたしはご飯に乗ったホッケの身を見ると意を決してハルキ様に言った。

「じゃあ、あの、サラダ……」

「サラダ?」

 ハルキ様が少し睨むような視線を向けてくる。

 わたしは思わず肩をすくませながらも、遠慮がちに上目づかいで聞いてみた。

「……食べさせてくれますか?」

 するとハルキ様は少し顔を赤らめてちょっと目をそらそうとした。でも、キクノに睨まれると観念したようにため息をついて、器用に水菜とミニトマト、それからカリカリベーコンを箸の上に乗せる。そして、それに手を添えてわたしのほうへ差し出してきた。

「ほら。さっさと食え」

 ぶっきらぼうに言うハルキ様に苦笑しながらも、わたしはこぼれないように口を大きく開けると、それを思い切ってくわえた。すると、口の中からハルキ様の箸がゆっくりと引き抜かれていく。ハルキ様の使った、彼の口に触れたお箸が。

 その行く先を目で追いながら、わたしはサラダをよくかんで飲み込んだ。正直、味はよくわからなくて、何かお礼を言わなくちゃと思っても、わたしの口に触れたお箸で無造作にご飯をかき込むハルキ様に、嬉しいような恥ずかしいような少し悲しいような、そんな感情が渦巻くばかりだった。

「お、おいしいです」

 そして、結局わたしの口から出たのは、当たり障りのない味気ない言葉だった。

「そうか。よかったな」

「はい」

 わたしを見ることなく言う彼に頷くと、わたしはホッケを乗せた冷めかけのご飯を見下ろした。その上に何かが落ちて、ご飯が濡れる。

「おいおい。おいしいなら泣くなよ」

「……はい」

 少し慌てた様子で言うハルキ様の声に、わたしはなんとか笑顔を浮かべて返事をする。

 頬を伝って唇を濡らす涙の味は、少し塩分が濃くて辛かった。

       ◆

「あのさ、カブトってどんな奴なんだ?」

 リビングのソファーに腰掛けながら、目の前に座ったハルキ様が聞いてくる。

 わたしと彼の目の前にはグラスが置かれ、新緑を思わせる鮮やかな緑色のお茶の中には氷が涼しげに浮いていた。

 窓の外から差し込む日の光は真っ直ぐで、徐々に夏の暑さを感じさせつつある。

「何? 気になるの?」

 そう答えたのはキクノだった。彼女はわたしとハルキ様の間に浮かびながら、意地悪そうな目で彼を見つめる。

「うるさいな。おまえには聞いてない」

「あ、そう」

 そっけなく言いながらも、キクノは楽しそうにわたしへ視線を向ける。

 その視線の横で彼の視線は、ふて腐れた表情とともにわたしを見て催促を口にした。

「で、どんな奴なんだよ?」

「えっと、カブト様は……」

 わたしは自分の中にある彼に思いを馳せると、その想いを目の前の彼に伝える。

「カブト様は、わたしの大切な人です」

「それは、つまり恋人ってことか?」

「はい。イグ……、じゃなかった。幽世には結婚がないけど。したいです、結婚!」

「いや。そんなこと俺に言われても……」

 引き気味に言うハルキ様に、わたしは思わず身を乗り出していた自分に気づいて座り直す。そして、少し落ち着こうとグラスを手にとった。手のひらに伝わる冷たさが気持ちよくて、一口飲むと爽やかな苦味が火照りかけた体を冷やしていく。

「あ、そうですよね。でも、カブト様はわたしのすべてなんです。カブト様のそばにいられるなら、わたし、それ以外は何もいりません!」

「ずーっとカブトと一緒だったもんね」

 キクノに言われて照れるわたしに、ハルキ様はなぜか冷ややかな視線を向けてくる。

「ふーん。そんなに好きなのか」

「今のあんたとは似ても似つかないけどね」

 キクノの指摘に少しムッとしながらハルキ様が言い返す。

「でも、そいつの魂が今は俺の中にあるんだろ?」

「そうだけど、カブトは誰にでも優しくて女を泣かせたりしないし、困ったときは頼りになる奴だからね。まあ、大分へタレでムッツリだけど」

「ちょっと、キクノぉ」

 カブト様のことを話すキクノが楽しそうで、わたしは彼女を見上げて頬を膨らませた。

「ああ、ごめんごめん。そんな、ご主人様をとられた子犬のような顔しないでよ。カブトのことを一番よくわかってるのはヒガンだけだよ」

「ほんと? とったりしない?」

 念を押すわたしに、キクノは手のひらを大きく振って肯定する。

「しないしない。カブトとはあくまで、ただの友達だから」

 それでもじっと見詰めるわたしから視線を外して、キクノはハルキ様に話しかけた。

「ところで、ハルキはこの家に一人暮らしなの?」

 いきなり話を振られたハルキ様は、なんだかつまらなそうな顔で答える。

「ああ」

「両親は?」

「海の上だよ」

「海の上?」

「それって、もしかして……」

 キクノは疑問を顔に浮かべるだけだったけど、わたしは頭に浮かんだ悲しい想像が消せなくて泣きそうになる。

 それを見たハルキ様が慌てて言葉を口にする。

「違う違う。両親は深海生物の研究をしていて、一年のほとんどは海洋調査船の上か研究所にいるんだよ。勝手に人の両親を殺さないでくれ」

 胸を撫で下ろすわたしの上で、「なんだ、そういうこと」とキクノが呆れていた。

「寂しくないんですか?」

 わたしの言葉に、ハルキ様は強がるふうもなく答える。

「別に。むしろ、煩わしさから解放してくれて本当に二人には感謝してるくらいだよ」

 彼の素っ気ない態度に、わたしの中で寂しさが波紋のように広がっていく。

 寂しいのはわたしだけ。

 そのことがピアノ線のようにキリキリと心臓を締め付け、鋭い痛みが胸に走る。

 そんなわたしに、ハルキ様は同じように素っ気ない視線を向けて聞いてくる。

「そんなことよりも、あんたらの事情はなんとなくわかったが、それで、やっぱりあんたは俺を殺すのか?」

「そんなことしません! 殺すなんて、したくありません。だから……」

「だから?」

 胸の痛みを引きちぎるように、わたしはハルキ様に体を寄せて訴えた。

「その方法が見つかるまで、一緒にいさせてください!」

「ごめんだな。じゃあ、その方法とやらが見つからなかったら俺を殺すってことだろ?」

 突き放すように視線をわたしから外して、ハルキ様は窓の外を見ながら言った。

「違います! そんなこと……」

「まあ、殺されるくらいなら、俺は自殺を選ぶけどな」

 冗談のように言う彼に、わたしは距離を感じていた。

 ただ一緒にいたいだけなのに……。

「そんな悲しいこと、言わないで……」

 わたしを見ない彼の横顔に向かって言っても、彼は遠くを見たまま口を開くことはなかった。

「しょうがないわね。ちょっとハルキ」

 見かねてキクノがハルキ様を呼んだ。

「なんだよ?」

 振り向きもせずに答えるハルキ様に、キクノは彼の耳元で何かを話し始める。

 声が小さくて「襲った」とか「夢枕」とか断片的にしか聞こえないけど、それを聞いたハルキ様の顔がみるみるうちに青ざめていく。そしてキクノの話が終わると、呪われたような疲れ切った表情で、ハルキ様はわたしに言った。

「くそっ、わかったよ。夏休みの間だけだぞ。俺も忙しいからな、それまではいてもいいが、それ以上はダメだ」

 なんだかよくわからないけど、ハルキ様はそう言うと目の前の緑茶を一気に飲み干して、天を仰ぐようにソファーの上で仰向けになった。

 キクノを見れば、彼女は親指を力強く立てて満面の笑みを浮かべている。

 とりあえず一緒にいられるの?

 疑問は次第に現実味を帯びて、胸の内側から実感として広がっていく。

「ありがとう! ハルキ様、だーい好き!」

 わたしは喜びの余り、ハルキ様の胸へと飛び込んでいた。

       ◆

「本当に、そのカブトって奴のことが好きなんだな」

 俺の隣に寄り掛かって気持ちよさそうに眠る彼女――ヒガンを見ながら、俺はため息とともに独りごちた。

 カブトとかいう俺の知らない男のことを、彼女は満面の笑みで自分のことのように話していた。鬱陶しいくらいに腕に抱きついてきて暑苦しくて、うざいくらいに瞳を輝かせて見つめてくる彼女に、俺の頬は終始引きつりっぱなしだった。今でも顔がやけに熱くて困る。

「わたしのすべて、か……」

 俺は彼女の小さな頭を見下ろしてつぶやく。

 ヒガンの髪は彼女の体を優しく包み込み、その鮮やかな紅は、朝の光をその表面に流しながら自分の存在を主張していた。でも、そのカブトって奴が君のすべてだと言うのなら、じゃあ、君はどこにいるんだ?

 隣で眠るヒガンが、鎖に縛られた空虚で何もない人形のように見えて、俺の心がざわつく。

「くだらない」

 俺はポケットの中でピルケースをいじりながら、ささくれ立つ気持ちを吐き出すようにため息をついた。

 天井を見上げれば、白いはずの天井がやけに暗い。

「何がくだらないって?」

 声に焦点を合わせれば、黒い女が月のように冷たい目を細めている。白髪が触れそうな距離で、キクノが俺を見下ろしていた。

「おまえ、不気味だぞ」

「幽霊だからね」

 真っ黒な瞳孔を縦長に細めながら、キクノはぶっきらぼうにそう言うと、そのまま俺を見たまま黙り込む。

 その視線に押しつけられるように俺は首を竦めるが、怠い体がそんなことはどうでもいいと言ってくる。俺は自分の体に従って、目を閉じてキクノを視界から追い出すと全身から力を抜いた。ソファーに心地好く体と意識が沈んでいく。

 帰ってきてから一日も経っていないというのに、ヒガン達が現れて半日くらいで酷く疲れがたまっていたみたいだ。そのことを実感して、沈み行く意識の中で面倒なことになったと俺は改めて思った。しかし、それさえも今は気泡のように意識の底から消えていく。

 取り敢えず今は休もうと、俺は固くなった体をほぐすために肩を動かした。

 ふにっ。

 柔らかくて温かい感触が二の腕を撫でる。そして、俺の意識は一瞬の心地よさとともに凍りつく。油断した。すっかり忘れていた。隣に彼女がいたことを。急速に意識が現実へと浮上していく。

「記憶がなくても、スケベなところはカブトのままってことか」

「いや、これは……」

 目の前でキクノが、真っ黒な怒気をまといながら俺を睨んでいた。

 体中からは汗が噴き出し、早鳴る鼓動に支配されたように、思考はヒガンの鼓動を意識していた。

「やっぱり、一度殺しておいたほうがいいかもね」

「殺したくないんだろ⁉」

 反射的にそう言うものの、ヒガンに抱きつかれた腕は、なぜか電信柱のように動かない。

「ヒガンはね。でも、あたいは殺してみるのも手だと思ってるんだ」

 そう言って、キクノが拳を鳴らす仕草をしながら迫ってくる。

 慌てて俺は、ヒガンの胸から腕を引きはがそうとする。しかし、逃がさないというように彼女は俺の腕を強く抱きしめ直した。

「カブト様、行かないで……」

 ヒガンが目を閉じたまま小声でつぶやく。その目尻には、一粒の涙が浮かんでいた。

「はぁ、まったく……」

 キクノの怒気が、ため息とともに霧散していく。

「ヒガンが悲しむことはできないね。それに……」

「それに、何だよ?」

 しがみつくようなヒガンの顔を見ながら、俺はキクノに尋ねる。しかし、キクノは続きを口にしなかった。

 俺は今日何度目かのため息をつくと、ヒガンの頭を撫でて涙を拭ってやる。そして、その顔に笑顔が戻ったことを確認すると、今度はためらいなく立ち上がった。

「どこに行くのさ?」

 目の前にいたキクノが、俺に体を串刺しにされた状態で背後から聞いてくる。

「風呂だよ。汗を流してくる」

 一気に噴き出た汗が体にまとわりついて気持ち悪かった。

 早足で扉へと向かう俺の後ろで、ヒガンの少し苦しそうな呻き声と衣擦れの音が聞こえてくる。でも俺は、それを無視してリビングを出て行く。

「まあいいさ。死なんて無意味だしね」

 誰に言うともなく苦笑交じりにこぼれ落ちたキクノの声は、どこか悲しげに俺には聞こえた。

       ◆

 希薄になった腕の中の温もりに気がついて、わたしは息苦しさとともに目を開けた。

 背に当たる温かな日差しと、それとは別に頭に残る彼の感触が懐かしくて心地いい。でも、彼の姿はどこにもなくて、代わりに水の流れるような音が遠くから聞こえてくる。

「ん? ハルキ様?」

 わたしは彼の名前を呼びながら体を起こした。

「ハルキなら風呂場だよ」

「おふろ?」

 重たいまぶたをこすりながら、頭上から聞こえるキクノの声におぼろげな思考で言葉を返す。そして、次いで出てきたあくびに任せて、わたしは体を伸ばしながら大きく息を吸い込んだ。

 大分なじんできた体を、さらさらと自分の髪が流れ落ちていく。肌を撫でていくその感触がくすぐったくて、わたしは体を震わせた。

 それでも気怠さが少し残る体を靄のかかった意識でなんとか立ち上がらせると、わたしは彼の匂いに体を委ねて歩き出す。

「ちょっとヒガン、どこに行くの?」

 怪訝そうな声で聞いてくるキクノに、わたしは頭に浮かんだ映像をそのまま口にする。

「わたしもハルキ様とおふろに入る」

「はあ? ちょっと待ちなさい!」

 リビングを出ようとするわたしの目の前に、すかさずキクノが滑り降りてくる。

「どいてよー」

 彼への扉を隠すキクノに文句を言って、わたしは彼女を睨みつけた。

「あんたは痴女か……」

「痴女って、ひどいなー。普通だよ。体を洗いっこするだけだもん」

「普通? 洗いっこって……」

 わたしの答えにキクノが疲れた顔をする。

「もー、邪魔だよー」

 わたしが勢いよく手を振ると、キクノの体は抵抗もなくスライドして遠ざかった。その姿は天井を通り抜けて見えなくなり、彼女の声だけが頭の中から響いてくる。

「もう! 無駄な力を使って! どうなっても知らないからね! あと、どうせだから、しっかりハルキから抗体もらってきなさいよ!」

「はーい。わかったー」

 小さくなっていくキクノの声にあくび混じりに答えて、わたしは目の前の扉を開けた。

 薄暗い廊下へと踏み出す私の頭に、「ほんとに、わかってんのかね」とノイズ混じりにキクノの声が聞こえたような気がしたけど、今のわたしにはどうでもいいことだった。

 水の音と彼の匂いを頼りに廊下の突き当たりにある扉を開けば、強い彼の匂いが鼻腔をくすぐる。

 脱衣所に脱ぎ捨てられた彼の衣服を確認して、わたしはお風呂場の扉越しにぼんやりと浮かぶ彼の姿を視界に捉えた。そして、しゃがんでいるような姿のハルキ様に近づきながら声をかける。

「はーるーきーさーまー」

 すると、ガタッという音ともにハルキ様の声がすぐに返ってきた。

「おい! おまえ、そこで何してる⁉」

 何をしているんだろうと考えて、浮かんだ言葉を口にする。

「わたしも一緒に入るー」

「わたしもって……、俺が入ってるんだぞ!」

 ハルキ様がなんだか喚いているけど、わたしは構わず扉を開けた。

 立ち上がってわたしを見るハルキ様の視線が、下から上へと動いて生唾を飲み込む音が聞こえる。

 やっぱりカブト様より小さくて可愛いなーと思っていると、わたしと目が合った瞬間にハルキ様は慌てて背を向けて言った。

「おい! そんな格好で入ってくるなよ!」

「んー?」

 肉体を具現化したときに何か間違えたのかと、わたしは自分の体を見回してみる。胸も腰もお尻だってたるんでないし、手足もガリガリってわけじゃない。それにむだ毛は、そこまで設定する余裕なかったからそもそもないし……。そこまで考えて、わたしは気がついた。

「そっかー、お風呂だもんねー」

 体にぴったりと張り付いた水着のようなボディスーツを思いだして、わたしはそれを泡のように消し去った。

 すると、違和感に気づいたのかハルキ様が首を回して視線を向けてくる。

「ぬわっ! な、何してる⁉」

 彼は目を見開いて、わたしの体を見ながら叫んだ。

 体を締め付けていたボディスーツから解放されて、わたしは熱い視線を向けるハルキ様へと抱きつく。

「あったかーい」

「ちょ! おまえ、やめ……」

 ハルキ様の筋肉質の背中が温かくて気持ちいい。彼の胸に腕を回せば、早鐘のようなリズムが聞こえて、それは徐々にわたしの鼓動とテンポを合わせ始める。彼の体とわたしの体が一つのリズムで繋がり、彼の中のわたしが蠢いて、活性化した衝動が彼の中にある理性を揺さぶる。

 汗ばんだ肌から立ち上るハルキ様の匂いに包まれながら、わたしは体をより密着させて彼に自分を伝えていく。そして、ハルキ様をもっと知りたいという衝動のままに、黙り込んだまま微動だにしない彼の体へと手を這わせていった。

 固く締まった腹筋に鼓動を伝えるしなやかな胸、しっかりとした太もも、そして、シンクロしたテンポに導かれるように、わたしの手は彼へと伸びていく。

「おい! そこは、やめてーーーーーッ!」

 風呂場に響くハルキ様の可愛い悲鳴を聞きながら、それでもわたしは彼を精一杯抱きしめた。

       ◆

「どうしたの?」

 周囲を見回していたわたしに、左隣に座った友達が聞いてくる。

「ううん。なんでも?」

 笑顔を浮かべてそう答えると、ちょうど注文したドリンクがやって来た。

 テーブルに置かれたグラスを見て、今度は右隣の友達が興味ありそうな視線を向けてくる。

「それ、ブルーベリーソーダ?」

「マルベリーソーダっていうみたい。今日のお勧めなんだって」

 空中をゆっくり漂うお勧めメニューを指さしながら、わたしは彼女に笑顔で答えた。

 グラスをかざしてみると色はブルーベリーよりも濃くて、向こう側が見えないくらいの赤黒さに少し不安を覚える。でも、表面で泡が弾けるたびにフルーティーで爽やかな香りが広がって、そんな不安も溶かしていった。ストローを使って一口飲んでみれば、思ったよりもさらっとしたジュースが舌の上に広がって、ソーダの刺激とともに甘酸っぱい香りが鼻から気持ちよく抜けていく。

「おいしい」

 いつも迷ってお勧めにしちゃうから、たまに外れることがあるんだけど、今日は大丈夫でよかった。

 そう思って、ほっとしながらソーダを飲んでいると、向かいから何か視線を感じる。

 顔を上げてみれば、フェル先輩がブルーブラックの艶やかな髪をかき上げて、にやりと笑みを浮かべていた。

「さっきからキョロキョロしてるけど、もしかして探してる?」

「な、何をですか?」

 先輩の鋭い視線に心臓が大きく跳ねて、動揺を隠そうとしても、出てくる言葉は道端を転がっていく石ころのようにたどたどしくなってしまう。

 そんなわたしを面白そうに見つめる先輩の口から、核心を突く言葉がゆっくりと告げられる。

「カ・ブ・ト」

「ち、違いますよ!」

 慌てて首を横に振っても裏返った声では、みんなの笑いを誘うだけだった。

 わたしは火照った顔を隠そうと、俯いてストローに口をつける。

「さっさと告白すればいいのに」

 楽しげに言う先輩の顔を目だけで睨みつけて、わたしは冷たいソーダで渇いた喉を潤した。

「そう言えば、カブトさんなら落ちたって聞いたけど……」

 隣の声に思わず振り向いたわたしに、その彼女は驚いて、

「まったく、あんた、どれだけ彼のこと好きなのよ」

 と、呆れながら言った。でも、その親しげな「彼」という言葉にさえ、今のわたしは反応してしまう。

「だから、そんな、とっておいたイチゴを取られたような顔しないでよ。大丈夫、カブトさんの友達からたまたま聞いただけだから」

 疑いの視線を向けるわたしに、彼女は「ほんと、ほんと」と言いながら頭を撫でてくる。

 その扱いに釈然としない気持ちとカブトさんがいないという現実に、自然とわたしの口からため息が漏れた。

「まったく。そんなに落ち込まないの」

 そう言って彼女は、またわたしの頭を今度は少し乱暴に撫で回す。

「じゃあ、わたしたちも落ちちゃう?」

「いいんじゃない。どうせ暇なんだし」

 左右を見れば、彼女たちは笑顔でわたしを見ていた。

「そうね。たまには気分転換も必要だし。特にヒガンは」

 茶化すように言う先輩に頬を膨らませて怒ってみても、先輩は気にするふうもなく、宙に半透明のコンソールを呼び出して手際よく落ちる準備を進めていく。

「設定は……、決めるの面倒だからランダムでいっか」

「やばいの出たらどうするんですか?」

「そうですよ。先輩なんか、せっかく人魚になったのに漁師に捕まったんでしょ?」

「あの人生は酷かったわー」

 額に手を当ててそう言いながらも、先輩の顔は楽しげに笑っていた。そして、笑顔をみんなに向けながら気楽な口調でいつもの口癖を言ってくる。

「でも、決まった人生なんてつまんないって言うでしょ?」

 その言葉に、わたしはおずおずと手を上げて異を唱えてみる。

「あの、わたしは慎ましく平和なほうが……」

「ヒガンは恐がりだもんね」

「魚の眼も見れないくらいだし」

 そんなささやかな周囲の同意も虚しく、先輩は「大丈夫、大丈夫」とランダム設定のままコンソールを消してしまう。

「じゃあ、行こっか」

 そう言って立ち上がる先輩に続いて、隣の二人も楽しげに立ち上がる。そして、うなだれるわたしをよそに、ゲートをそれぞれ開き始めた。

「……もう!」

 わたしはグラスに残ったソーダを一気に飲み干すと、喉を襲う刺激をこらえて立ち上がる。

 目尻に浮かんだ涙を拭って三人を見れば、それぞれに笑顔で、

「またあとでね」

「ばいばい」

「楽しんできなよ」

 そう言って自分のゲートへと入っていく。

 わたしもそれに応えて小さく手を振ると、自分のゲートを呼び出して入った。

 ゲートの先、薄暗い空間には青い光を放つ椅子が一つある。わたしは諦めのため息とともに、その椅子に腰掛ける。すると空間の中を幾つかの光が走り抜け、椅子がゆっくりとリクライニングして体が仰向けになっていく。

《新しい人生の始まりへ、ようこそ》

 システム音声が闇の中に響いて、わたしの意識がゆっくりと落ちていく。

 カブトさんに会えるといいな。

 気持ちよく溶けていく意識の中で、わたしは彼との楽しい人生を願った。

 それは、サイコロを転がすくらいの軽い気持ちだった。

 でも、それは間違いだった。楽しい人生なんて願ってはいけなかった。

 だって、イグノアはあらゆる想いが実現する世界なのだから。

《それでは、充実した人生をお送りください》

 その声を最後に、わたしは何もかもを失った。

       ◆

 窓から差し込む日差しが温かい。

 ベッドに横になりながら、結局一睡もできなかったことにため息をついて、わたしはゆっくりと体を起こした。

 ここは、イグノアのわたしの家。

 そのことを再確認して、わたしは安心する。

 でも、ほっと一息ついた直後にそれはやって来た。肌をくすぐるような感覚が腕を覆い、意識を向けると白い腕に紅い線が幾つも浮かび上がる。血に犯された腕はうずき、ぬめるような内蔵の体温が肌にまとわりついて、手のひらに脈動する太い血管の感触が蘇る。

「あ、いや、そんな……」

 慌てて腕をこすると、それは自分の髪の毛で、それでも消えない気持ち悪さにわたしは肌をかきむしる。

「いやあっ! いやああああっ!」

 でも、かきむしるほどに肌は赤くなり、次第にミミズが這うように血がにじみ出て、皮膚とは違う濡れた感触に神経が悲鳴を上げた。

「痛っ⁉」

 頭を突き刺すような痛みに手の動きが止まり、ようやくわたしは少し自分を取り戻す。

 すると、階段を駆け上がるような音が聞こえてきた。それは、今わたしがいる寝室の扉の前で止まると、少しの間を置いて勢いよく開いた。

「おい! 何があった! 大丈夫か⁉」

 そこにはカブトさんの顔があった。後ろで一つにまとめた長いブルーブラックの髪が、心配そうに揺れている。

「なんで……あ、いっ」

 指が傷口に触れて、その痛みにわたしは慌てて腕を隠した。でも、彼は早足で近づいてくると迷わずわたしの腕をとって、傷を見ると痛そうに顔を歪めた。

「こんなに傷ついて……」

 汚れた腕を見られた恥ずかしさとカブトさんに嫌な思いをさせてしまったことに、わたしは申し訳なくなって俯くしかなかった。

 彼はわたしの横に来てベッドに腰掛けると、空中を撫でて想力の泡からガーゼと包帯を取り出し、それを丁寧にわたしの腕に巻いていく。

「一体、どうしたの?」

 優しい声でカブトさんは聞いてくる。

 傷口にガーゼを当てる大きな手が遠慮がちに触れて、わたしの体温が少し上がる。

「痛い?」

 彼の声に胸が締め付けられながらも、私は嘘をついて首を横に振った。

「フェルも心配していたよ。よかったら、何があったか話してくれないかな? もしかしたら、僕には話しにくいことかもしれないけど」

 そう言ってわたしの顔を覗いてくるカブトさんを「ずるい」と思いながら、それでも彼を頼ってしまう自分に、わたしは心の中で呆れながら口を開いた。

「わたし、人を殺してしまったんです」

「そんなこと誰だって経験することだよ。気にすることないさ」

 期待どおりの言葉に安心しつつ、それでもぬぐえない不安が口からこぼれ出る。

「でも、あんな……」

 そこまで言って、頭をよぎった記憶の断片に気持ち悪さがこみ上げ、わたしはそれ以上口にできなかった。でも、心の奥底でもう一人の自分が囁く。本当は気持ち悪いからじゃない。それ以上に楽しんでいた自分がおぞましかったから。そして何よりも、湧き上がるあの高揚感を抑えられないかもしれない、そう思う弱い自分が怖かったからだと。

 震えるわたしの体を、カブトさんがそっと抱き寄せる。

 彼の肩により掛かりながら頭を撫でられるだけで、わたしの心は少し軽くなった。

「僕もダウンで酷い目に遭ったばかりでさ」

 苦笑を浮かべて言う彼の声は優しくて、わたしは彼の腕に抱きついて甘えずにはいられなかった。

「土砂降りの雨だっていうのに夜中に呼び出されて、行ってみたら何か麻酔薬みたいなものを打たれちゃったんだよね」

 彼の言葉に、なぜか血の気が引いていく。それなのに心臓と腕だけが別の生き物のようにドクン、ドクンと脈を響かせていた。

「でも意識ははっきりしてて、腹に直接手を入れられたり心臓握りつぶされたりで、あれが猟奇殺人ってやつかな? ん? ヒガン?」

 そっと離れたわたしを、心配そうなカブトさんの声が追ってくる。

「ごめんなさい」

 聞こえるかもわからないような小さな声が紡いだのは、自己満足に過ぎない言葉だった。

「あ、ごめん。気持ち悪かったよね」

 くだらないわたしの言葉にさえ謝る彼に、わたしの心は耐えられない。

「ごめんなさい!」

 私はベッドから駆け下りると、そのまま部屋を飛び出した。後ろから聞こえる彼の声から逃げるように、包帯を巻いた腕を抱きしめながら無我夢中で走り続ける。

 よりにもよって、なんで彼なの? なんで? なんで! なんで!

 痛い。腕が痛い。腕も胸も裂けるように痛いよ!

 行き場のない憤りと鋭い痛みに思考はがんじがらめになって、わたしは絶望の底へと沈んでいった。

       ◆

 夜空の下で、潮騒が傷ついたわたしの心を撫でていく。

 闇を抱えた岸壁の上では、大きな満月が白い光を放っていた。

 砂浜を吹く風はワンピースの裾を揺らし、素足に触れてまとわりつく。

 いたずらに引き留めるような風を無視して、わたしは重い足を引きずっていた。

 じっとりと腕の包帯は濡れて熱を持ち、鼓動がうるさく主張を繰り返す。

 喉は渇いて首を締め付けるように張り付き、唾を飲み込むたびに血の味が口の中に広がった。

 貝殻でも踏んだのか、足裏に痛みが走る。

 反射的に顔が歪むけれど、それよりも傷口に入り込んだ砂がこすれて、痛みよりも痺れるようなくすぐったさに苦笑が漏れた。

 お腹の底から何かが溢れそうになる。それを吐き出せば楽になれる。そんな誘惑に体が震え、それを掻き消すように足先に冷たい感覚が押し寄せた。

 重たい視線を少し持ち上げると、海に映った月が大きな白い海月のように手招きをしている。

 消えよう。消えてしまおう。どうせ死ぬことはできないのだから。

 わたしは海月に手を伸ばし、その内側へと沈んでいく。

 海月は拒むことなく、ただ静かに受け入れて、わたしを体内へと呑み込んでいく。

 ほどけかけた包帯が暗い影を広げながら触手のように揺らめき、電気が走るような腕のうずきに、わたしは上を向いて大きく息を吐き出した。

 月明かりに星々は身を潜め、冷たい風が体を包み込む。そして、背後から不意に抱きしめられた。

 わたしは抵抗することなく動きを止める。

「……」

「どこに行くんだい?」

 意味のない質問に、頭は勝手に沈黙を選ぶ。

「僕も連れて行ってよ」

「ダメ!」

 反射的に言葉が出る。でも、寒気に体が凍りついて振り向くことさえできなかった。

 また殺してしまう。

 その想いを必死に否定しようと、思考が悲鳴で埋め尽くされる。

「君が僕を殺したから? それとも人殺しを楽しんでしまったから?」

 やっぱりずるい。わかっていて、それでも彼は、わたしの心に直接触れてくる。

「僕は、そんなことで嫌ったりしないよ。それが君を解放から遠ざけるのなら、むしろ嬉しいくらいだよ」

 腰に回された腕がわたしを抱き寄せて、お腹のあたりがじんわりと温かくなる。

 溶け出した心が言葉になって、涙と一緒にこぼれ落ちた。

「でも……。わたし、あな、たを……、あんな……」

 それ以上は頭が痺れて、どうしても言葉にならなかった。

 これ以上わたしに優しくしないで。でも、嫌いにならないで。

「ごめん、なさい。ご、めん、なさい……」

 気持ちと違う言葉しか出てこないことに苛立ちながら、それでも彼を想う気持ちに、どうしようもない無力感が広がっていく。

 糸が切れたように体中から力が抜ける。

「謝らなくていいよ」

 崩れるわたしの体を抱き留めながら、彼は腕に力を込めて静かにそう言った。まるで、怒っているような響きを隠して。

 そして彼の声が、わたしの耳元ではっきりと契約の鎖となって音をたてる。

「ヒガン。君は僕を殺した。だったら、君は責任を持って僕の葬送をしないといけない」

 わたしはそれに答える。首に回された愛しい鎖に触れながら。

「はい。カブト様」

 死ぬことのないイグノアで、死者だらけの世界で、葬送は決して終わらない。

 こうして、わたしと彼との新しい関係は始まりを告げた。

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