根暗な蜜柑
夕焼けが何かの終わりを象徴している。
そんな文章が小説内にあったとしても、僕からみて目の前に広がる悠然とした夕焼けには遠く及ばなかった。なんて、文学的表現も、本物の夕焼けの前ではまるで意味をなさなかった。綺麗だなあと思う。純粋に。それとともにこのままこの光景が残っていてくれないか、なんていう邪な考えも浮上する。ずっと見ていたい。ずっとこのままでいたい。人生絶頂期には自分の身体に対してそんなことを思うかもしれない。変化したくない。歳を大学生になりたくない。大人になりたくない。老人になりたくない。そして、死にたくない。ないないない。まるで駄々をこねる子どものようだ。そんな事は無理なのに。万物ルーティンがどうとかでこの世は不変なものになっているのだから。いや、万物ルッテンだったか?最初が万物であるのはわかっているんだが…。そうだ、万物流転だ。無理なことを出来ると信じないとは、僕もまだまだ青い餓鬼だ。青い餓鬼。目の前のオレンジ色の空と相反するくらい、何も知らない純粋を暗示する、青。いつまでも青でいられるわけではないことは十分にわかっている、なのに僕は先に進めずにいた。人生が大きな道であるとすれば、今の状況はその脇の草原で呑気に昼寝をしている状態なのだろう。しかも病的な顔色で。
僕はまだ志望大学を決められていない。しかも3年のこの時期に、である。文字通り死亡大学だ(上手いこと言えてない)。高校選びはさっと決められたのに、やはり社会に近づくにつれて、軽い気持ちではいられないようになっていくのだろうか。2年次の夏休みで十以上の大学のオープンキャンパスにいったものの、まだまだ悩んでいる。そんな僕に対して、両親、あるいは教師はこんなことを言う。
「お前は将来何になりたいんだ」
そしてとってつけたように僕には将来なりたいものなんてなかった。自分の将来像?そんなもの想像したことがない。僕は高校入学初日に自分がトラックで轢かれて死ぬのではないかとばかり思っていた。高校に無事入学し、普通に学校生活を遅れているということが不思議でしょうがなかった。しかもそれが楽しいのである。自分の想像以上のものに戸惑いながらも、僕の学校生活はそうして埋もれるように過ぎていき、今に至る。
あの時。高校に入学して新しい生活が始まるぞと、うきうきしながら幸せに登校するときに死んでおけばよかった、と僕は思う。最も美しい時に人を殺す死神がいるとするなら、どうしてその時僕は殺されなかったのだろう。ここまで退廃しているのにも関わらず自分が生きていることが不思議でならない僕はまさしく、いなくなるべきではないだろうか。
しかし、過去は過去。今は今。
タイムマシンの存在しない今の日本では、過去をいつまでも悔やんでいるなど馬鹿馬鹿しいことこの上無い話である。
だから僕は過去を悔やまない。過去にくよくよするのは絶対にしない。そんな信念を胸に抱える僕だ。だから先日母が交通事故で死んだときも、何とも思わなかったのかもしれない。
ゆえに僕は現実を見て、未来を恐れる。不確定な明日なんて来なくていい。運命から排除されたい。してほしい。
なーんて。
もう僕も高校三年生だ。そういった青春時代に体感するであろう甘酸っぱい感傷みたいなものからは、そろそろ手を引いた方がいいのは分かっている。いい加減現実を見ろ、お前は期待されているんだ、と何度言われたことか。テストの点数が良かったからと言って、いい人間になると限らない。僕は自分が将来まともな人間になるわけが無い。目的の無い僕のような輩は、さっさと挫折してしまえばいい。
だから、一線を退こう。
それが僕の今年の目標だった。
『いつまでも甘えてなどいられない。前に進まなければならない。』
先日配布された学年通信の、学年主任の欄に書いてあった言葉だ。
格好いいことを言う先生だ。
口で言うのは簡単であり、それを諦めるのはもっと簡単そうだな。
何とも煮え切らない気持ちで春休みを終えて、初めての一週間の最後の日。皆が受験へと意識を向け始める週。僕は私立木琴高校の、県内有数の大きさを誇る図書館の中でそんなことを考えていた。だからと言って僕が不真面目なチャラい生徒かと問われればそうでもないと自負していて、周りに受け流されるようにここで僕は勉強をしていた。我ながらひどい人間だと思う。周りに流されながらも、自分のことはきちんと行い、いざとなれば他人任せにする。どうして僕はこんな奴なんだろう。しかもちゃっかり赤本とか広げてみちゃったりして。
「おー、勉強してんだー偉いねー」
通りかかったクラスメイトが囃し立てるように僕に言った。
「お前も受験生だろそんな御託叩いてないでさっさと勉強したらどうだいおっと失礼他人を捲し立てて慌てさせるのが趣味だったのかな、このゴキブリ野郎」
なんて返答できるわけもないので、「まあ受験生だしね…」と適当に返答しておいた。
受験生。嫌な響きだ。中学時代は成績もそこそこあったので少し余裕をもってこの高校に入ることができた。しかし今はどうだ。ある程度模試は受けているし、自己採点やミスの分析も行っている。成績もそこまで悪くはない。しかし何かが僕の思考を止める。
さて、勉強するフリをするための赤本だけれども、折角勇気を振り絞って司書さんに頼んでもってきてもらったものだ。有効活用しよう。そう思って僕はページを捲る。
一応僕は理系のクラスに所属しているから、志望校を絞るとしたらそちら側になるのか…まあいい。今は問題を解くことに集中しよう。
試しに数学を一問解いてみる。
………。
おっと。
あれ。
む。
案外解けなくはない。本当に無理だと思ったら手を上げて降参のポーズをとるが、ある程度考えれば、お手上げにはならないようなレヴェルの問題だった。続けてその次の問題を解く。ほうほう、随分と応用的なものになっているが、これも解けないことはない。何だ割とできるじゃないか。意外だ。実に意外だ。自信が無いのが取り柄であるといっても過言ではないような僕が、間違って自信を取り戻しそうになってしまった。危ない危ない。
そんな調子で僕はその問題を解き終わった。なんだなんだ。あれだけ構えていた割には簡単に解けてしまった。自分に面食らう…とでも言うのだろうか。拍子抜けした…というか。裏にある解答を見ても、見事に正解している。ははーんさては偶然だな、とばかりに今度は理科、英語、と立て続けに解いてみる。これもすらすら解けた。何故だ?将来の無い僕がこんなに解けては、まるで将来の可能性があるみたいじゃないか。やめてくれ。きっと冗談なんだろう?偶然この年だけ簡単だったんだ、そうに違いない。
と。
「………………………。」
三点リーダーを大量に振り撒きながら僕の真横に座ってじっとこちらを見ている人に気付くのが遅れたのは、そんな油断が原因だった。その大胆な凝視行為に気が付かないとは、僕は相当慢心していたらしい。かなりの失態である。早めに気が付いていれば別のところに行くか、この図書館からされたものを。他人に凝視されながらする勉強など、捗るわけが無い。さて、言い訳はこの辺にして、だ。なんだろう、僕の知っている生徒だろうか。中学の時の後輩でこの学校受けた人はいたっけかな、なんて思考を巡らせつつ、その女子生徒の方を向いたのだが。
誰だこいつ。
女子生徒。制服を見ればすぐにうちの高校のものだと分かった。リボンの色からして、先日入学してきた新入生だろう。長めの髪の毛を束ねていて…綺麗な髪をしている。僕の知り合いであれば絶対に名前を忘れないタイプの人だ。故に僕の知り合いではない。となると誰だ。だとすると、可能性が思いつかない。僕が他人にそこまで目をつけられる理由があるか?正直調子が出てきたテスト勉強を邪魔されたくない。ライトノベル的には見知らぬ女の子に話しかければもうそこで物語の始まりなのだろうが、これは残念なことに(誰が残念なのかは知ったこっちゃない)現実なのだった。第一印象は綺麗な人だなあと思った。誰に似たのかは知らないが、その顔面なら就ける職業の幅も広いだろう。お人形さんのよう、というわけではなく、彼女はひどく現実的だった。現実的に綺麗だった。
僕の視線に気づいたのか、その女子生徒は僕に決して凶悪ではない、純粋な眼差しを送ってこう言った。
「どうかしましたか」
悪意が感じられなかったので、ついつい謝罪しそうになってしまう。
いやいや、どうかしましたかじゃないだろう。きょとんとした顔で何言ってんだ。言葉の真意が分かりかねる。
とりあえずどうして僕の方を見ていたのか、その理由を聞いてみた。
「私は別に先輩を見ていただけではありませんよ。勘違いもいいところですね」
ひどい言われようである。僕は何か悪いことをしたのだろうか。それとも新手の挑発か。それとも日頃の恨みか…?恨まれるようなことも、目をつけられるようなこともしたことが無い僕に何か用でもあるのか。
「先輩に用?どうしてですか?」
まずい、この子、いかれてる。そう気が付いたのはもう遅く、僕とその子は引き返せないほど会話量を交わしてしまった。ここで会話を断ち切るのは至難の業である。こういう変わった人と話すことは別に嫌いではない。言ってしまえばむしろ好んでいるくらいなのだが、純粋に自分のやっていることに気が付いていないというタイプは初めてだった。透き通って何もないかのような彼女の眼球。本来周囲を向くはずのそれは、真っ直ぐと僕を見据えて離さない。故に僕は金縛りに遭ったような錯覚に陥った。
「私の名前は洞原こずみと言います。どうぞよしなに」
そうかい僕の名前は奥津黄衣だよと、条件反射的に僕は名前を名乗ってしまった。流されやすい性格が裏目に出てしまったようだ。さて、本名を握られ、奇行をされ、いい感じに追い詰められてきた僕が次にした行動は沈黙することだった。黙って黙って黙って黙る。いくらいかれているとはいえ、僕が何も言わなければ特に害はないだろうと思った。
「………………。」
三点リーダーをまたも乱舞させながら、彼女の表情は真面目なものへと変貌した。そして相も変わらず僕を見る。じーっと、悪意の無い目で。じっと、ずっと。まるでこれから永遠に僕を見続けているかのような、そんな含蓄のある視線だった。
「私は貴方を見ています。奥津先輩」
流石に僕だって腹が立ってくる。ああ、そうさ。僕だって人間だ。一定時間以上同じ人間から視線を送られ続ければストレスだってたまる。イライラする。むしゃくしゃする。自分を見られているっていう精神的ストレスと、自分が何かおかしいのではないかっていう被害妄想がいい感じにミックスされて、腹立たしくなる。その程度の小さい人間だ。悪いか?すぐに感情的になってしまうちっぽけな人間で。だから僕は少々声を荒げて、しかし図書館故にできるだけ周囲に響かないように気を遣って、洞原に聞いた。
「私は奥津先輩の反応を見ていたんですよ」
反応を見ていた?一体僕の何の反応だろう。
「人に見つめられた時の反応です」
少々呆れたようにして、洞原は言う。なんで呆れているんだ。僕の理解が遅いからか?しかも先ほど僕を見ていないって言ったばかりじゃないか。こいつ僕をおちょくっているのか。しかし、これは考えを改める必要がありそうだった。僕を見ていた訳ではない、つまり見るのは誰でもよかった、という曲解が、彼女の言葉から生じているということだ。僕の名前も知らなくて当然、か。
誰でもよかった。
通り魔の殺人犯が口にしそうなセリフだ。無差別に無作為に、選別することなく人を殺す殺人犯と、無意味に無意識に、適当に相手を凝視する洞原こずみ。失礼ながら、なんだか似ているなあと思ってしまった。どちらも躊躇は微塵もない。
一般的にみれば、酔狂な真似をするどこにでもいない女子高生、か?
「奥津、というと一年生にも同じ苗字の人がいますが、親戚の方ですか?」
どうして家族と言わないのかは、今は気にしないでおこう。いや、僕に弟、妹はいない。
親戚はいるが奥津姓を持つのは僕の家系だけである。偶然奥津姓であるだけで、僕の親戚ではなさそうだ。
「知っていますよ」
だったら聞くなと言いたい。顔を見る限りハッタリには見えない。その子に実際に確認したのか。まさか、僕の家族構成を少しでも把握するためにわざとそんなことを…?疑問符連打の顔を見たのか、洞原は
「にこり」
と笑った。口に出してまで笑みを浮かべる奴は初めて見た。その笑みは綺麗に透き通っていて、まるで女優のように完璧で、だからこそすべてを見透かされている気分になった。大正解、とでも言いたげな顔。どうやら本当に見透かされているようだった。最近の女子高生って皆こうも摩訶不思議なのか?少なくとも僕のクラスにはまともな人しかいないのだが。
「最近の女子高生はほとんどこんな感じですよ。あ、ちなみに『先輩を見ていない』というのは言葉の綾です」
――――綾波です、と洞原は続けた。第一印象で真面目な子という先入観があったものの、僕は『綾波です』と言った瞬間に、彼女の口が微妙に歪んでいたとのを見逃さなかった。所謂ドヤ顔という奴。たまにあるよな。自分ではすごく面白いと思ったネタが、周りには全然ウケない。今がまさにそれだ。
少し沈黙のあと、洞原が顔を赤らめつつ、「こほん」と可愛く咳ばらいをした。
駄洒落の受けが悪かったことに気付いたのか。
「とにかく私は先輩を見続けますし、先輩は私に見られ続けます。その均衡関係はくずれません」
均衡関係ってなんだよ。僕は観られるだけで不公平じゃないか。それっぽいこと言ってごまかすなよ。さすがに地の文の通りに言ったわけではない。僕は人間が小さい奴であると同時に、言葉遣いには気を付ける人間なのだ。だから、ある程度の憤怒が伝わるように、少々力をこめて、僕は洞原に言った。言った、というよりもう、怒ったかもしれないレヴェルで。迷惑だ、やめろと。
「女子高生にガン見されて嬉しくない男子高校生はいないでしょう」
どこの男子校出身者だよ。木琴高等学校は残念ながら共学校である。少なくとも僕は女子にガン見されてドギマギするような今をときめく思春期特有の症状には罹っていない。今時そんなものは、男子高に通う人くらいだろう。女子と面と向かって話せないとは、何とも哀れなことだ。その点僕は共学で良かったと思った。ていうか、今まで丁寧な口調だったのに、いきなり「ガン見」とはなかなかギャップを感じる。ある程度時間が経っているにも関わらず、まだ僕は洞原こずみという女の子がどういう子なのか理解できていない。あるいは、永遠に理解できないかもしれない。
「私はね、奥津先輩」
急に語りを始める洞原。まるで部活動の引退のときに後輩が親しみを込めて呼ぶように、彼女は僕に語りかけた。僕は何も言っていない。彼女が勝手に話しているだけだ。いわれのない暴力は御免蒙るが、いわれのない親しみもまた、名状したい気持ち悪さがある。気味が悪い。そしておそらくは洞原はそれに気が付いていないのだろう。どこまでも純粋な瞳。小説の主人公になれるレヴェルの美貌。そしてそれを土台として形成された彼女のメンタルは、見事に噛み合っていなかった。不安定どころではない。最初からバラバラな状態なのだ。そして誰より悲しいことは、彼女自身がそれに気づいていないことだ。知らない人に、まるで十年来の親友のように話す洞原は、明らかに常軌を逸していた。
しかし彼女は続ける。
親しみを込めて。
限りなく白に近い純粋な眼差しで。
実に気持ち悪く、続ける。
「私は知りたいんです、人間の耐久性を」
彼女は楽しそうに言う。
耐久性。それはまた人間に使いには不釣り合いな言葉である。
彼女は続ける。
「とりあえず肉体的な耐久性はほとんど調べれば分かりますから、私が知りたいのはメンタル面のほうです。相手の行動を逐一観察したり、相手の行動を制約して、他人の思い通りに動かしたり、嫌悪感の伴うことを」
頭がおかしい。
「上から下から右から左から、自分のする行動を逐一精神的に制約され続けた人間が一体どうなるか、先輩も興味ありませんか」
「知りたいと言ってもお遊び感覚ですけどね。厳格に追及したりしません。せいぜい高校生活に慣れるまではこの遊びを続けようかなと思っています」
これが男子生徒で、不気味な笑みを浮かべながらだったら、僕はすぐにそいつを殴っていただろう。いや、女子であっても、策略に満ち満ちた表情をしていた時点で、多分僕の沸点は超えていただろう。
しかし。
彼女は純粋に微笑みながら、真っ直ぐに僕を見て、ぶれることのない信念をつきつけながら、いたって真面目に僕に話していた。
内容が違ったなら、例えばこれからの学校生活を僕に聞いてきて、彼女が知りたいことがこんな狂った内容でなかったとしたら、僕はもしかしたら洞原に惚れていたかもしれない。いやいやいや、下世話な表現で申し訳ないが、僕を含めて男はそういう生き物であることを分かってほしい。
女子が白馬の王子を求めるように、男子は危機に瀕した姫を探す。
だが状況が状況だった。この状況を許容できるような人間性を僕は持ち合わせていない。何が姫だ。これこそ、生まれついた純粋な悪と形容して間違いないかもしれない。
僕は言葉を失った。
「分かりました?」
分かったも何も…と反論しようとして、今までの返答からそれは無駄だと察知した。彼女とはあまりに考え方が違いすぎる。これ以上は、僕が飲み込まれてしまうかもしれない。
そんな彼女を目の前にして、僕は危うく言い忘れそうになったことを伝える。
どうして、僕なのか、と。僕の予想通りならば、彼女は無意識に無差別に、たまたま僕が図書館で見やすい位置にいたから、等の答えが来るはずだった。
『はずだった。』
洞原はしかし、僕の予想など簡単に引きちぎった。澄みきった眼球で、僕の優柔不断さを見透かすかのように。
その表情とその言葉は、僕の胸を見事に抉り取った。
「だって先輩。将来とかなさそうじゃないですか。未来のことを一切考えていない人間だったら、別にどうなったっていいでしょう」
それから僕がどうなったか?別にどうにもならなかった。しかしたった一人の見ず知らずの女子高生との会話が僕の人生に与えた影響は絶大だったといえよう。僕はそれが別に悔しくは無かったし、下級生からそういうことを言われても全く心に響かなかったし、女の子に箴言を食らって恥ずかしくは無かったし、寧ろいわれのないことを言われて腹が立ったくらいだ。
だから卒業後偶然洞原に会ったとき、僕は言ったのだ。
「僕に将来が無いなんて言うな」
思えば今までで一番強い主張だったかもしれない。
それから様々な経緯を経て、僕と洞原こずみは、なし崩し的に付き合うことになった。ひどい展開である。ライトノベルの方がよっぽどうまい。まるで作家志望の醜い男子高校生の書くような文章だ。だが、これも現実。仕組まれたことではない。偶発的に起きた偶然の出来事。明朝体でも表記できない。ゴシック体じゃ表せない、そんな事実。だったら、受け入れてやろうじゃないか。乗ってやろうじゃないか。
洞原は何も言わず、しかし笑顔で僕のことを見続けた。
そして今も、僕らは一緒にいる。
彼女は高校の国語教師となり、僕は国家公務員となった。相変わらず変人奇人っぷりは筋金入りだが、生徒受けはいいんだとか。僕もまだまだ未熟者なので、頑張らないといけない。
ふと、あの図書館での出来事を振り返ってみる。洞原は結局初めから僕のことを知っていて、そして僕に話しかけてきた。それは彼女なりの僕への励ましで、まさか最終的にこうなることを予測して、あの頃声をかけたのではないか。今、高校時代の僕には想像できなかった未来がある、これは彼女のお蔭なのではないか。
今起こっていることが全て予定されていたこどだ、と。そう思ってみても僕は別段驚かなかった。全て彼女の手のひらの上だとしても、今の僕なら許容できる。
僕は受け入れた。
自分を取り巻く環境を。
自分の将来を。
自分自身を。
そして、洞原こずみを。
時々僕は洞原に…いや、こずみに質問する。
今何をしているのか、と。
彼女は、初めて会ったときのような純粋な眼差しを付与させて、僕の隣でこう答える。
「貴方を見ています」
以前私は、小説には必ずあとがきがあると思っていました。それは多分一度あとがきのある小説を読み、その一度目で『小説には必ずあとがきがある』と錯覚して、他の本で確認することなくここまで来てしまったからです。
しかし、実際どうなのでしょう。小説を読んで、「ああ面白かった」と思った後に、作者の陰鬱な、あるいは全く関係のない編集後記や後語りを聞かされたら、貴方はどう感じますか?
なんて言ってますが、結局あとがきより本編です。相当偏屈な内容や、差別的、あるいは社会的に反する内容でなければ、大抵の場合は作品の評価には加味されません。
だったら何で私は書いているんでしょうか。
謎は深まるばかりです。
そんな謎を抱きつつも書いた「根暗な蜜柑」。実は、ちょっと実体験も含んでいるのです。小説家に限らず、クリエイターには奇人変人の類が多くいると聞きますが、私はむしろ周囲の方が奇人変人な気がします。まあ、自分の恥の結晶である「創作物」を大衆に観れるように晒している時点で、私も充分変人なのですがね。変人上等、とか言ってみたりして。
一度落ちたもののきちんと文書を復元してくれたノートパソコン様と、バス内で活躍したポメラ様に最大限の感謝を。