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魔法使いの弟子

作者: 黒衛


「魔法使いさま、ボクを魚にしてください」

と少年は言った。

はるばる暗い森の深く、魔法使いの家まで訪ねて来て、迎え出た魔法使いに挨拶もなく。

が、そこは長い年月を生きる寛大にして寛容な魔法使いさまのこと。

まずは一息、落ち着き払って尋ねる。

「少年よ、何故魚になりたいのかね?」

少年は一瞬俯いたが、すぐに魔法使いを見上げて言った。

「魔法使いさま、ボクの家はとても貧しいのです。父母と祖父母、それにボクと弟と妹の三人。

 たった一人働き盛りの父は、先月流行り病で倒れてしまって、薬代がかかる上、日々の糧を得ることもできなくなってしまいました」

それを聞いて魔法使いは、成る程と頷いた。

「だから魔法使いさま、ボクを魚にしてください」

魔法使いは、不思議そうな顔をした。

「貧しいのは分かったが、お前が魚になりたい訳はどうにも分からぬ」

少年は再び話し出す。

「ボクの家は貧しいのです。家族が多く、父は病で……」

「いや、貧しいのは分かった」

魔法使いが遮ったので、それではと少年は話を進める。

「父は友人からお金を借りたのです。何度か少しずつ助けていただいて。

 その方は快くお金を貸してくださり、父もとても感謝していたのですが……ある日家にやってきて、突然今まで貸した金を全て返せ!と……。

 聞けば利子が膨らんで、いつの間にか大変な額になっていたのです。

 本当に驚いてしまって……あんなに親切だった人が、急に人が変わったように……」

魔法使いは大人で、それもとても聡明な大人だったから、金を貸した友人とやらが最初からそのつもりで少年の父を騙したのだ、と察することができた。

それはまさにその通りなのだが、悲しいかな少年には思いもつかないことらしい。

「成る程。で、お前は何故魚になりたいのだね?」

「はい、それは……あの……」

少年は一生懸命言葉を捜して続きを喋ろうとしたが、切羽詰った事情は焦りと共に、声をみるみる涙に変えた。

つぶらな瞳に零れんばかりの涙を溜めて、少年は結局、

「ボクは魚になりたいのです……ならなくてはいけないのです……。

 何でもします。どんなに辛いことでも……。

 どうか魔法使いさま、ボクを魚にしてください……!」

それだけ言うのが精一杯であった。

魔法使いはすっかり首を傾げてしまったけれど、

(私もそろそろ年になってきたことだし、小間使いの一人くらい居ても良いか)

と考えて、少年にこう言った。

「よろしい。お前を魚にしてやろう」

少年は、大きなハシバミ色の目を更に大きく見開いて、魔法使いを見た。

「但し!」と魔法使いは付け加える。

「変化の魔法を使うにはとても高価な魔法薬が必要なのだ。

 お前にその代金が払えるかね?」

お金に困っている少年に大金が払える訳もない。

希望に満ちた少年の瞳は、あっという間に沈んだ色に変わってしまった。

勿論魔法使いはそれを予見していたから、少年にこんな相談を持ちかけた。

「ではこうしよう。お前は私の弟子になって、雑用などして薬代の分働く。

 私はお前に魔法薬の作り方を教えて、材料を与える。

 そうすれば、薬代分働いた頃にはお前が自分で薬を作って魚になれるだろう」

この提案に、少年は一も二も無く飛びついた。

「ありがとうございます!ありがとうございます、魔法使いさま!」

少年は、何度も何度も礼を言った。

「それで、お前の名は何というのだ?」

「はい、ボクはウーノと申します」

「よろしい。ではウーノ、来なさい。まずは覚えてもらわねばならないことが沢山ある」

「はい、お師匠さま!」

こうして、少年ウーノは魔法使いの弟子になった。


ウーノはとてもよく働いた。

まずは魔法使いのお師匠さまの広い家の間取りを覚え、どの部屋が何に使われているかを知った。

次に、お師匠さまが良く使う薬草がしまってある棚の中身を、隅から隅まで全部覚えた。

ウーノに初めて与えられたのは、箒と塵取りだった。勿論、お師匠さまが使う自分で動いて掃除する箒ではない。

ウーノは朝ニワトリが鳴くより早く起きて、お師匠さまの家の前を掃除し、お師匠さまが寝床を出る頃には朝食を作って待っていた。

ウーノはとても熱心に働いた。

お師匠さまが行うことは何でも良く見た。言われたことは一生懸命こなした。

炊事も掃除も洗濯も全てウーノの役目だったけれど、それも修行の一部だと思って張り切って働いた。

「ウーノや、炊事は火を使って調味料を混ぜるだろう?これは魔法薬作りにとても重要だ。

 掃除をすると物を隅々まで見るだろう?魔法に使う道具をよく見て磨くことで、それの扱い方を自ずと学ぶ。

 庭掃除は季節を知るのに大切だ。風を浴びて草木を眺めて、我々は暦の移り変わりと精霊の機嫌を知るのだよ」

お師匠さまは、落ち葉を必死でかき集める少年にそう言った。

それが魔法の基礎にも足らぬ方便であることを、すばらしい魔法使いであるお師匠さまは勿論知っている。

お師匠さまの家は森の奥深くにあるので、この季節になると木が降らせる落ち葉に埋もれてしまう。

「お師匠さま、お師匠さまはもう精霊のご機嫌を伺わなくともよろしいのですか?」

額の汗を拭いながら尋ねた少年の、その足元から風が折角集めた枯葉をさらって行く。

お師匠さまは、落ち着き払ってこう答える。

「私ほどにもなると座っているだけで分かるのだよ」

「成る程。お師匠さまはすばらしい魔法使いですものね!」

少年は慌てて落ち葉を追う。それを箒で連れ戻しながら、更に尋ねる。

「ではお師匠さま、洗濯はどんな修行なのですか?」

お師匠さまは一瞬の間を置いて言った。

「日々修行では余裕が無い。時には日常の労働に帰るのも良い」

少年は驚いた顔をした。

「成る程!さすがはお師匠さま、ボクの心の余裕まで考えてくださるとは!

 ボクはこんなすばらしいお師匠さまの弟子になれて幸せです」

何度も頷いて本心から感激している少年に、ほんの少し照れ臭くなったお師匠さまは、少年を労うつもりで、

「……枯葉も集まったようだから、芋でも焼こうか」

と呟いた。

「はい、ただ今」

少年は嬉しそうに芋を取りに走った。


お師匠さまの仕事は魔法使いであるから、お客さんは皆不思議な悩みを抱えた人ばかりだ。

ついでに皆お金持ちなのは、お師匠さまが高給取りのとても腕の良い魔法使いだからに他ならない。

いい魔法を使うには時にお金が掛かるのだと、少年はお師匠さまに聞いていた。

ある日、少年が自分に与えられた狭いベッドと机しかない部屋で、魔法に使うとても複雑な言葉の読み書きを勉強していた時、お師匠さまにお客がやってきた。

「ウーノや、お客さんにお茶を用意しておくれ」

お師匠さまの声が聞こえたので、少年は本も筆もそのままで、台所に飛んでいった。

「お師匠さま、お茶っ葉は何にいたしましょう?」

「お前に任せるから、とにかく二つ用意しておくれ」

そういうと、お師匠さまはお客のところへ行ってしまった。

少年は、お師匠さまの一番お気に入りのお茶を二つ入れて、いそいそと運んだ。

客間では足の短いテーブルを挟んで、硬い椅子にお師匠さまが、やわらかいソファにお客が二人座っていた。

(二つともお客さんのだったなら、いつものお茶でも良かったかな?)

などと思いながら、少年はそっとお茶を並べた。

お客は、顔を隠した婦人と顔を隠した紳士だった。地味な格好をしていたが、着ている物は少年の目にも上等だと知れた。

お師匠さまのところには、時々こういうお客が来る。知られたくないお願い事をしに来るのだと、少年はお師匠さまに聞いていた。

盆を持ったまま部屋の隅に立った少年を、紳士がちらりと見た。

「あれは私の弟子です」

とお師匠さまが言った。

婦人が、少年には分からない言葉でお師匠さまに相談を始めた。

意味の取れない言葉を、少年はぼんやりと聞いていただけだったが、お師匠さまは何度かふむふむと頷いて、短く何事かを答えた。

それが少年に分からなかったのは、きっと婦人が話す言葉と同じだったからだろう。

二人のお客が帰った後、少年はお師匠さまとお茶を飲みながら、

「先ほどのお客様は他所の国の方だったのですか?」

と、お師匠さまに尋ねた。

その通りとお師匠さまは頷いた。

「お隣の国の北の方の領地を治める伯爵様の姪御さんらしい」

へぇと感嘆の声を漏らして、少年は更に問う。

「それで、その伯爵の姪御令嬢のご相談を引き受けられたのですか?」

「いいや。あんたの悩みなら私より得意な奴がいるから、そいつのところに行きなさいと魔法使いを紹介してやったのだ」

「へぇ!お師匠さまには魔法使いのご友人がいらっしゃるのですね!」

「そりゃあ居るともさ……」

少年の言葉にちょっぴり呆れながら、お師匠さまはお茶菓子の固焼きクッキーを一つ摘んだ。

「あ、お師匠さま。それではその令嬢さまのご相談とは一体何なのです?」

クッキーをお茶で流し込み、お師匠さまは答えた。

「魔法使いはお客さんの悩みを絶対にばらしてはいけない。

 お前、絶対に内緒にすることができるかね?」

いつになく真剣な目で見返されて、少年は思わず怯んでしまった。が、意を決してこくりと頷く。

「それなら教えてやろう」

お師匠さまは、少年にそっと耳打つ。

「令嬢どののお尻にできたしつこいおできを取って欲しいのだとさ」

思わず少年は笑ってしまい、つられてお師匠さまも一緒に笑った。


さて、そのように毎日を魚になるための修行に費やしていた少年であったが、ある日おつかいを頼まれて町へ出た時のこと。

薬草を買って、間違えの無いようによく確かめながら店を出た少年は、折悪しく道をやって来たどこぞのお大尽にぶつかって転んでしまった。

尻餅をつきながら、幸いにもひっくり返さなかった薬草の包みを抱えて、

「どうもすみません!きちんと前を見ていなかったものですから…」

と頭を下げようとした時、丁度上と下から向かい合った二つの顔が、

『あっ!!』

と声を上げて、同時に驚愕の色に染まった。

「お前はカザフのところのガキじゃないか」

そう言った男の名はエンデル。少年の父の友人、つまり少年の家を借金で苦しめている高利貸しだった。

カザフというのは少年の父の名で、病の床の父とは逆にエンデルはよく肥えて赤ら顔の強欲そうな男だった。

少年が立ち上がることも忘れて、おろおろと視線をさ迷わせていると、男は少年の持つ紙袋に目を止めた。

「何だ、それは。父親の薬か?」

最早薬を買う金も無いはずの少年の家の実情を知っている男は、抵抗する少年の手から紙袋を引っ手繰った。

「か、返してください!」

少年の言葉を無視して袋を覗きこんだ男は、目を丸くして少年の方を振り返った。

「何だこれは!こんな高価な薬を買う金がどこにあった?!」

「違います、それは……!」

お師匠さまから頼まれたおつかいの品です!と説明する間もなく、男は薬屋に飛び込んで、店の主人に薬草を突きつけ、薬は返すから払った金を返せと怒鳴った。

主人はびっくりしてしまって、うちの薬に何か落ち度が?と訊ねたが、男はいいから返せと喚き立てるばかり。

「やめてください!お願いします!」

取りすがる少年の頬を平手で叩いて、男は主人が返した薬草代を手に、揚々と帰って行った。

驚いたのは、戻ってきた少年を見たお師匠さまだ。

涙に濡れ鼻水を啜りながら帰ってきた少年は、しばらくは泣き声を堪えるのが精一杯で、

「一体どうしたのだ?」

とお師匠さまに問われても、答えることが出来なかった。

ようやく切れ切れに喋ることが出来るようになって、事情を知ったお師匠さまは困った顔で呟いた。

「何という男か……。違ったとはいえ病の父親のものかも知れぬ薬を取り上げるとは。

 しかし弱った。これでは私も薬が作れんな」

こんなことが何度もあっては堪らない。何とかならぬものかと頭をひねっていると、横から少年がお師匠さまに尋ねた。

「お師匠さま、ボクはいつ魚になれるでしょうか……。いつ、魚になることができましょうか?」

お師匠さまは自分の経験から答えた。

「そうだな、まず鍋を作るのに三年。秘術を編み出すのに三年。薬を寝かせて熟成させるのに三年。

魚になっても生きていけるようになるのに、更に十年は掛かろうかな」

その言葉を聞くにどんどん青ざめていた少年が、最後の十年を聞いてついに大声で泣き出した。

「これこれ、どうしたというのだ?」

「遅いのです」

問うお師匠さまに、少年は泣きじゃくりながら言った。

「それでは遅いのです。どうしても春までに借金を返さなければいけないのです。

 それを過ぎれば、家は奪われて妹も売られてしまうのです。

 だからボクは魚にならねばいけないのです。急いで魚にならなければ」

お師匠さまは、未だ少年が魚になりたがる訳を知らなかったので、ここぞとばかりに問い質しておくことにした。

「ウーノよ!お前は魚魚というが、結局魚になってどうするつもりなのだ?」

少年はまだしゃくりあげてはいたが、お師匠さまの問いに答えることはできた。

「……ボクは、魚になって千年湖に行きたいのです……」

千年湖。千年竜が住むといわれる、ここからずっと北の山の頂にある大きな大きな湖のことだ。

昔は恐ろしい竜が山から火を吐き出させていたが、偉い賢者様がやってきて竜を懲らしめたので、今では火口は湖になり、竜はそこで大人しく暮らしているという。

その湖には、千年苔と呼ばれる苔が生えている。煎じて飲めば万病を治し、寿命を十年は延ばすといわれる奇跡の妙薬だ。

その価値は黄金の三倍以上と聞くが、誰も目にしたことはない。

「千年湖に行って、千年苔を手に入れたいのです」

成る程、とお師匠さまは心の中で頷いた。

千年苔さえあれば、父の病はすぐに治せる。借金さえあっという間に返せるだろう。

しかし、千年苔はおいそれと手に入るものではない。険しい山を登り、山頂に辿り着いても、苔は湖のとても深いところに根付いている。

しかもそれを守るのは恐ろしい千年竜だ。

「千年竜は大きな魚が好物だと聞きました。ボクはまだ子供ですが、魚に比べたらとても大きいです。

 ボクが魚になったら、それは大きな魚になれるでしょう。

 ボクは、ボクを食べてもらう代わりに千年苔を分けていただけるよう、竜にお願いしようと思ったのです」

「何と!」

それを聞いて、お師匠さまは大層驚いた。目を丸くして、少年を見つめる。

少年がそれだけの決意を持って魚になりたいと願っていたのだと知って、少年を調子よく働かせていたお師匠さまは心苦しくなった。

「ですからお師匠さま、どうか一日も早くボクを魚にしてください!

 どんな修行にも耐えます!今までより一層修行に励みますから!」

少年に縋り付かれて、一度は頷きはしたものの、お師匠さまは正直困ってしまった。


翌日、魔法使いの元に先日の客が訪れた。顔を隠した婦人と紳士の二人連れ。

楚々とした所作の婦人のお尻に大きなおできがあると知ってしまった少年は、うっかり笑ってしまうのが怖くて、今日はお茶を三人分出した後すぐ隣の部屋に引っ込んだ。

そして、そこからそっと様子を窺った。

婦人の話すところによると、二人はお師匠さまの紹介した魔法使いのところへ行ってみたが、あいにく当の魔法使いは南の方へ湯治に出て留守だったらしい。

暫らく帰らぬと知れたので、それでまたお師匠さまのところにお願いに来たのだと言う。

それらのことは後からお師匠さまに聞いたわけだが、話している間何故かずっとお師匠さまがにこにこしていた理由は、結局少年には分からなかった。

二人のお客が帰った後、お師匠さまは少年に、

「魚の修行に出かけるぞ」

と声を掛けて外へと連れ出した。

お師匠さまは納屋の中から、古い大きな箒を出してきた。

「お師匠さま、どちらに出かけるのですか?」

「魚の修行なのだから勿論川か池に決まっている。海はちと遠いしなぁ」

それを聞いて、少年は驚いた。

「えぇっ!今はもう秋も暮れですよ!泳げる季節じゃありません!」

「何を言うか。魚は一年中水の中で暮らしておるぞ。夏も冬もあるか」

埃をさっと取り除いて、お師匠さまは箒にまたがった。

その後ろに少年を乗せて、箒はひらりと舞い上がる。

「お師匠さま、ボクは箒に乗るのは初めてです!」

「うむ。お前が修行を急ぐというのでな、私もなるべく協力してやろうというわけだ。

 さて、少し遠いが気合を入れて、落ちるでないぞ」

その言葉を聞いた少年は感激してしまって、しっかりとお師匠さまのか細い腰に抱きついたまま、びゅうびゅうと過ぎ行く冷たい風も黙って辛抱していた。

お師匠さまは北へ北へと向かって、削ったようにとんがった頂の高い山の上にやってきた。

そこはとてもとても高い山だったので、すっかり冬よりも寒かったけれど、とてもとても高い山は雲よりも高かったので、雪は降っていなかった。

遠くから見れば、鉛筆の芯のように鋭かった頂は、山があまりにも大きいせいでそう見えただけで、着いて見れば頂上には驚くほど広い池があった。

山には川がない。つまり池は、凍りもせず減りもせず、いつも満々と水を湛えているのだ。

「さ、泳ぐがよい」

と、お師匠さまは言った。

少年はぎょっとして答える。

「冗談でしょう、お師匠さま?!こんなところへ飛び込んだら心臓が止まってしまいます!」

ところがお師匠さまは容赦せず、

「泳ぐのだ。見ろ、魚は泳いでおる。

 魚になるには泳がねばならんのだ。どれほど水が冷たかろうと。

 それとも、どんな修行にも耐えると言ったのは嘘か?」

少年は一瞬息を呑み、それから水面をじっと見つめるや、池の縁を蹴ってざぶりと飛び込んだ。

突き刺さるように凍て付いた水の温度に、少年が悲鳴を堪えて水の中で丸くなっていると、自然に浮かんでいくその上から、お師匠さまの笑い声がした。

「これこれ、達磨のように浮いているのでは魚には程遠いぞ」

すぐにも命が止まるのを覚悟した少年は、その声を聞いてようやく、それほど寒さを感じないことに気付いた。

それどころか、ほんのりと温かいではないか。

「お師匠さま、この水は温かいです!どういうことです?」

「ふふふ。ここは私の秘密の場所。泳ぐには丁度良いだろう?

 ここで泳ぎの練習をしていなさい。私は少し用を済ませてくるから」

少年に告げると、お師匠さまは箒に乗って、ひゅるりと池の反対側へ飛んでいってしまった。

その後ろ姿を見送って、少年は泳ぎの練習を始めた。

お師匠さまが少年のために秘密の場所まで教えてくれたのだ。何としてもこの優しさに答えて、早く立派な魚にならなければ。


お師匠さまが戻ってくるまで二時間ほどだったろうか。

その間、少年はずっと泳ぎの練習をしていた。

岩につかまってバタ足をしてみたり、立ち泳ぎでしばらく漂ってみたり、息の続く限り潜ってみたり。

何しろ池から上がった方が凍える寒さなのだ。温かい水の中で浮かんでいる方がよっぽどよかった。

休む時には、風の吹かない岩陰に身を寄せた。

「ウーノや、出ておいで」

お師匠さまの声がして、水から顔を出した少年は、お師匠さまにお帰りなさいと言った。

「疲れたかね?」

と聞かれて、

「はい、とても」

と答えた少年は、ようやく温かい水の中から出た。

途端にぶるりと体が震え、がちがちと歯が鳴り始める。

「さ、さ、寒いですお師匠さま…!」

おや、そうだな。と呟いて、お師匠さまが懐から取り出した短い杖を一振りすると、次の瞬間には少年の髪も服もすっかり乾いていた。

それどころか、体中がほかほかと温まっている。

「すごいです、お師匠さま!」

単純な魔法を目を輝かせて褒められて、お師匠さまは得意げに笑った。

「お前も魔法使いになれば、これくらいの魔法はすぐに使えるようになるのだ」

感心したように何度も頷く少年に、お師匠さまは尋ねる。

「ウーノや、魔法使いではいけないのかね?

 魚になって命を落とすよりは、魔法使いになって薬を作るのではいけないのかね?」

箒にまたがったお師匠さまの後ろに座りながら、少年は答える。

「ボクがどんな薬も作れるような、すばらしい魔法使いになれるとは限りません。

 それに、魔法使いになるには、魚になるよりもたくさんの時間が必要なのでしょう?」

その通りだったので、お師匠さまは少年に少し意地悪な質問をしてみた。

「では、魚になるのが間に合わなかったら、どうするね?」

少年は言葉を詰まらせた。お師匠さまの服を掴む手に、ぎゅっと力が篭る。

「……千年竜は、ボクが人間のままでも食べてくれるでしょうか?」

ひゅるりと風が通り過ぎる間沈黙が下りて、

「さぁてね……」

と呟いたお師匠さまは。ふわりと箒を舞い上がらせた。


森の奥にあるお師匠さまの家に着いたとき、少年はようやくそれに気付いた。

箒の柄に結わえられた袋だ。一抱えほどもある袋はとても重そうに見えたが、縄を解いたお師匠さまはそれを軽々と担ぎ上げた。

「お師匠さま、その中には何が入っているのですか?」

少年に、お師匠さまはにっこりと笑って教えてくれた。

「薬草だよ。この時期に一番効き目が良くなるのだ。今年は質の良いものが取れた」

お師匠さまは満足そうだった。

機嫌の良い顔そのままで、お師匠さまは少年に言いつける。

「ウーノや、早速これを天日で乾かしておくれ。

 雨や夜露に濡らしてはいけないよ」

受け取った薬草の袋は、見た目より随分軽かった。

少年はまず網と台を出してきて、魚の干物を作るように袋の中の薬草を網の上に広げて並べた。

全て広げ終わったら、更に上から網を掛けて薬草が風に飛ばされないよう固定する。

それらを済ませて家の中に戻ってきた少年を、お師匠さまはテーブルの上にたくさんの不思議な道具や器具を出して待っていた。

「お師匠さま?それは何ですか?」

「魔法薬作りの道具だ」

とお師匠さまは答えた。

「魔法薬をお作りになられるのですか?」

「私がじゃない。お前がだよ」

「えっ!ボクが!?」

少年が驚いたのも当然のことで、少年は今まで魔法について書かれた分厚い本を読むための勉強はしていても、実際に魔法の薬を調合することは学んでなかったからだ。

「これからはどんどんと修行を進めるゆえ、しかと心得るのだぞ」

厳しい先生の顔をしたお師匠さまに見据えられ、少年は身を引き締めて作業台の前に立った。

結果は、散々なものだった。

煎じれば吹き零す、混ぜれば煙を噴出す、不気味な色に変色したり、中にはぼん!と音を立てて器ごと吹き飛んでしまったのもあった。

「まぁ、初めてならこんなものだろう。毎日やっていれば、じきに上手くなりもする」

すっかり落ち込んでしまった少年に、お師匠さまが言ったその言葉どおり、それからは毎日魔法薬の修行が続いた。

勿論、二日に一度はあの池に出かけて泳ぎの修行もする。

たくさんの雑用だってこなさなければならない。

少年は目の回りそうな忙しい日々にすっかり参ってしまって、季節が変わったのにも気付かなかった。

もうすっかり冬が訪れたのを知ったのは、お師匠さまの箒で山から帰る途中の空だった。

雲を突っ切って森の上に出た時、ちらちらと雪が落ちていた。

「お師匠さま、暮れの用意をしなければいけませんね」

と少年が言った。

暦の上ではもう一年も残り僅かになっていたから、お師匠さまの家でも新しい年を迎える準備をしなくてはならない。

「家に着いたら、町に買い物に行くとしようか。

 ウーノや、必要なもののリストを作っておくれ」

「はい、お師匠さま」

雪の舞う空を森の奥の家まで帰り着くと、お師匠さまは箒を片付けて防寒着を用意した。

少年はその間に台所や物置を見て回って、買い物リストを作った。

そのリストを持って、お師匠さまと少年は町へ出掛けた。

お師匠さまの家から町までは歩いて行く。

雪は降り続けていたが、森の中の道には木の枝々の屋根がかかっていて、積もった雪で歩きにくいことは無かった。

一時間ほどで、町に着く。

あいにくの天気でも、暮れの町には人通りが多かった。

お師匠さまと少年は、手分けして市を回り、新年を祝う飾りやご馳走の材料を買った。

用事を済ませた少年は、広場の噴水の前でお師匠さまと待ち合わせていた。

人込みを見回してお師匠さまを探していた時、ふと少年の表情が凍りついた。

佇んだり通り過ぎたりしている大勢の間に、知った顔を見つけてしまったから。

「ん?お前、カザフのガキ?何でこんなところにいるんだ」

肥えた高慢そうな男エンデルが、恐らく暮れの仕度だろう。少年と同じく大きな荷物を抱えていた。

「ボ、ボクは買い物を……」

ずかずかと歩み寄ってくるエンデルに、少年がおどおどと答えるのを遮って、男は少年を睨みつけた。

「そんな金があるなら借金を返すのが先じゃないのか?!ふざけた奴だな」

この買い物は少年の家のためのものではないが、高利貸しがそんなことを知るはずもない。

今度まで荷を奪われてはたまらないと、少年は買い物の詰まった鞄を背に隠した。

それを見た男は、今回も何か高価なものを持っているのではと思い、その荷物に手を伸ばした。

「小僧、その中身を見せろ!」

少年は必死で抵抗した。

「駄目です!これはお師匠さまに頼まれたものなんです!」

聞く耳持たない男が、少年の手から力ずくで鞄を引き剥がそうとした時、

ぴしゃり!と男の手を打つものがあった。

思わず手を離した男が振り向いた先から、冷ややかな声が飛んでくる。

「いい年した男が、子供に乱暴するでない」

涼やかな澄んだ声音は、転がる鈴のようだった。

買ったばかりの新品の木のおたまを手にした、まだ十七、八の少女が立っていた。

面食らった男が少年に目を戻した頃には、少年は既に荷物ごと少女の背後に隠れていた。

仕方なく、高利貸しは少女に抗議する。

「邪魔をするな!そいつの父親は儂に借金があるのだ。

 貸した金を取り立てるのは当然だ!」

「親の借金のために子供の荷を奪うと言うのか?

 貴様も金貸しなら、借りた当人から取り立てるが良い」

少女は、男に怒鳴られても一歩も引かず、寧ろ胸を張って気丈に言い返した。

反論の仕様もない男は、少女を睨みつけ顔を真っ赤に染めて言った。

「そういう貴様は何者だ!まさかそのガキの姉だとでも言うのではあるまいな!」

「私は呪い師だ」

きっぱりと少女は言った。

「呪い師だと?」

脈絡の無い話に、男は訝しげに少女を眺める。

「そうだ。不穏な気配が目に付いたので様子を見に来た。

 一目見て気配の正体はわかった。お前は病だ。呪われている」

少女は男を指差してはっきりと言った。

男は唖然として、それから笑った。

「ハッハッハ!馬鹿な!この儂が呪われている?」

そうだと少女は頷いた。

「近頃体がだるくはないか?手足がむくんだりしないか?ふいに息切れがしないか?」

問われて、男はぎくりとした。何か心当たりがあったのだろう。

「それはまさしく呪いの証。このままではお前の命もそう長くはない」

「な、何だと……?」

明らかに男は狼狽し始めていた。

「詳しく調べぬことには分からんが、何かできもののようなものは現れてないか?覚えの無い痣とか傷とか」

「いや、そんなものはとんと……」

少女と男の周りに野次馬が集まり始めていた。

騒ぎに足を止めた人達が、少女が呪い師だと聞いて腕前を見物しようとしているのだ。

「どっちが呪い師なんだい?」

「あっちの女の子の方さ」

「へぇ、あんな娘さんがねぇ」

「何でも呪われてるらしいってよ」

「病気だって?」

「いや、まだ分からん」

がやがや騒ぎ出す人達をどうすることもできず、少年は少女の後ろで大人しくしているしかなかった。

「ど、どうすればいい?!」

体の不調をずばり言い当てられた男は、呪い師を名乗る少女に問うた。

「うむ、では詳しく見てみよう」

少女が男の額に手を翳して短い呪文を唱える。

途端に、男が鼻を押さえて蹲った。

「痛い!イタタ……!これは何だ!?」

その様を見て驚いた。

男の丸い団子っ鼻の横に、大きなおできができていたのだ。

「何ということだ!呪いが表面に出てきたな」

少女が驚いた声を上げた。

野次馬も少年も、目を丸くして男の鼻を眺めた。

ざわざわと野次馬がどよめく。

少女は男のおできをまじまじと見つめて、呟いた。

「……まだ手遅れではない」

「何とかしてくれ、頼む!」

男は少女に縋りついた。

少女は困った顔をした。

「残念だが、私は治療に必要な薬草を持っていない」

男の顔に絶望が浮かぶ。

「だが、」

振り返った少女の目は、真っ直ぐ少年を見つめていた。

「彼が救ってくれるかも知れない」

男が少年を見る。

「あのガキ……いや、子供が?」

十二分に疑っているようだ。確かににわかには信じられまい。

少女は言った。

「薬草を持っているな?それから薬箱は?」

「はい、でもこれは……」

お師匠さまに言われて買ってきたものだと言おうとした瞬間に、少女は頷いた。

「よろしい。ではお前が調合するのだ」

「えっ!」

少年は驚いた。

「でもボクは修行中で……」

魔法使いでもなければ呪い師でもない。

薬の作り方も、お師匠さまに初めて教わった1種類しか知らない。

「やるのだ」

きっぱりと、少女は言い切った。

少年は慌てて荷を解いて、乾燥した薬草の束と丸い鉢を取り出した。

薬草の葉を細かく千切って、鉢に入れすり潰す。少量の水を注ぎ、そこに別の薬草の根を加え、またすり潰す。

団扇のような丸い葉の上に、練った薬草を均等に広げる。これを患部に貼れば、擦り傷や切り傷に効く薬となる。

魔法薬ですらない。失敗を繰り返すウーノに、お師匠さまが練習にと教えてくれた傷薬だ。

「できました……」

と差し出した薬を、少女は受け取った。

「よし、では呪詛祓いを行おう」

野次馬も、ウーノも、勿論エンデルも、少女の動向を固唾を呑んで見守った。

少女が、男の鼻の上に葉を裏返しに乗せる。薬がおできを包むように密着させ、不思議な文句を唱えた。

「■■■■■■■■■■■」

それは、誰の耳にも意味が取れなかった。

ただウーノだけは、どことなく聞き覚えがある言葉だと思った。

特にこれといった変化は見られなかった。

しかし、

「さぁ、これで呪いは祓われた」

と少女が薬草を剥がした途端、男の顔は驚きに満ちた。

「おぉ!い、痛くないぞ!」

男が、自分の顔を触って確かめる。

大きなおできは、跡形もなく消えていた。

野次馬達から感嘆の声が上がる。

「これで安心だ。僅かに残った邪気も、善行に努めて身を清らかにしていれば、二度と害も為すまい」

少女の言葉に、エンデルは救われたと喜んだ。

「ありがとうございます!ありがとうございます、呪い師様!」

すっかり態度が変わって、崇め立てんばかりの勢いで手を取る男に、少女は言い加える。

「感謝ならこの少年にもすると良い。呪いが祓えたのは魔法薬があったからこそ」

勿論だ、とエンデルは大きく頷いた。

「お前は命の恩人だ!礼をしよう!何がいい?何でも言ってくれ!」

命が助かった喜びか、男は少年の両手を握って振り回す。

少年は目を白黒させながらも、辛うじて辞退の言葉を発した。

「け、結構です!お礼だなんて……!ボクはただ傷薬を作っただけで……」

あの薬にそんな効能はないはずだ。

けれど、救われた方には関係ない。

「それでは儂の気持ちが治まらん!本当にないのか?何にもか?」

問い詰められて、だったらと少年は恐る恐る尋ねてみた。

「この薬と薬鉢を買っていただけませんか?これは新年用の薬鉢だったのです。

 買っていただけたら、ボクはそのお金で新しい薬鉢を買えるのです」

エンデルは喜色満面といった笑みを浮かべた。

「おぉ!それは是非とも譲って頂きたい!

 金貨三十枚、それと最高級の薬鉢を用意しよう!」

これは大層な縁起物だ!と言いながら、男は薬鉢を受け取った。

代わりに少年の手には、ずしりと重い金貨の詰まった袋が渡された。

その重みに驚く少年を尻目に、少女はその場を去ろうとした。

「あ!ま、待って下さい!」

少年は少女を呼び止めるが、少女は話しかける野次馬に断りをいれつつ、速い歩みで人垣を出て行く。

慌てて荷物を抱え上げ、少年はその背を追いかけた。

「すみません、ありがとうございました!」

何度も頭を下げながら、ウーノは少女の後を駆けて行った。


「お師匠さま!」

雪の積もった森へ続く道に差し掛かったところで、ウーノは少女に問いかけた。

「一体先程のことは何だったのです?ちっとも分かりません」

寒さから逃れるように、分厚いマントのフードをすっぽり被った少女が答える。

「何かと聞かれても、何を知りたいのか教えて貰わんでは、答えようもないが?」

少年は荷を担ぎ直しつつ、少女に尋ねた。

「お師匠さまは呪い師だったんですか?」

あれは方便だ、と少女は言った。

「魔法使いは魔法を見せびらかしてはいかんのでな」

「つまり嘘ですか?」

「そうとも言う。だが、完全な嘘でもない。

 呪い師と魔法使いはよく似たもの。世界を探求し、時に干渉するという意味ではな」

少年は、少女の小難しい説明に困った顔をした。

「ではお師匠さま、先程の呪文は何だったのです?」

少女が呪いを解いた呪文のことだろう。

「傷を治す呪文だよ」

少女は歩きながら答えた。

「お前にも使ってやったろう?ほら、森で擦り傷を作った時に」

思い出せば、確かにそんなことがあった。ついでに言えば、その呪文は“魔法使いの基礎”にも載っていたはずだ。

「それでできものが治ったのですね!

 でも不思議です。どうして傷薬で呪いを祓ったりできたのでしょう?

 教えていただいた薬は特別な傷薬だったのですか?」

お師匠さまは含み笑いを零した。

「ただの傷薬だとも。まともに作ればな」

「え!?ボクは教わった通り作ったはずです。

 乾燥したココリの葉とカフカンの根を水で練りました」

「それは本当にココリの葉かな?」

少年は確かめるために鞄を開けた。濃い緑の乾いた葉が入った袋を取り出す。

顔を近付けて匂いを嗅ぐ。

「ココリじゃない!」

その通りだった。ココリの葉は、乾燥しても青臭いはずだ。これは澄んだ清流の匂いがした。

「これは何の草ですか?」

「千年苔だよ」

「えぇっ!!」

少年は驚きの声を上げた。

この草は市で買ったのでなく、練習のためにとお師匠さまがくれたものだ。

北の山の頂でお師匠さまが摘んで来て、少年が天日干しした薬草。

「私が間違えて渡したかな?」

少女が白々しく言う。

お師匠さまがココリだと言ったから、少年はそれを疑うなど思いもしなかった。

「千年苔から作った薬だから、呪いも祓えたのですか?」

少年の問いに、少女は横顔に複雑な笑みを浮かべた。

「呪ったのは私だ」

「ぇ……えぇっ!?」

一瞬何を言われたのか分からなかった少年は、再度驚いて聞き返した。

「ど、どういうことですか?!」

少女は、振り向きがちに答える。

「本当に呪いを掛けたのではない。

 呪いの証拠と言った大きなおでき……あれを移しただけだ」

「移した?……もしかしてそれは」

少年はそのおできに心当たりがあった。

「うむ、以前貴族の御令嬢から取って差し上げたおできだ」

予想は当たっていた。

「どうしてそんなことを?」

「うむ、ちょっとな……意地悪でなかったとは言わん」

少女は、少々ばつが悪そうに答えた。

その歯切れの悪さに、少年は些か引っかかりを覚えないでもなかった。

少年の知っているお師匠さまはとても立派な魔法使いで、訳も無くこんな酷い悪戯はしないのだ。

その疑問を飲み込みながらも、前を行くお師匠さまの靴跡を追って、ぽつりと少年は尋ねる。

「お師匠さまは、マントを脱いでらっしゃいましたね」

雪もちらつくほど寒いというのに、広場にいた頃、少女はマントを羽織らず小脇に抱えていた。

「人込みをこんな格好で歩くのは疲れる。

 それに、あまり顔を知られるのは好きでない」

その返答に、少年は不思議そうな顔をした。

「見られたくないなら、普通は隠すのではないですか?」

それこそ、マントを羽織ってフードを被ればいい。

否、と少女は答えた。

「見られるのは構わんが、魔法使いだと知られたくないのだ」

「そうなのですか?

 でも、お師匠さまは立派な魔法使いさまですから、お顔を隠す必要は無いと思います」

それが嫌なのだ、と少女は呟いた。私は自分の顔が好きでない、と。

「どうしてですか?!お師匠さまはとても美人だと思います!」

そう言った少年を、少女は複雑そうな顔で振り向いた。

「私は人が天寿を迎えるよりずっと長く生きておる。

 何百年も生きた魔女が小娘で有り難味があるか?」

それは少年には分からない。魔法使いになれば分かるのかも知れないが。

不思議そうな顔で見上げる少年に、今度は少女から切り出した。

「さて、ウーノや。お前これからどうする気かね?」

え?と聞き返した少年は、まだ気付いていなかった。

「どうするかと聞いているんだよ。

 家に帰るかね?お前はもう魚になる必要もない」

はっと息を呑んで、少年も理解した。

お金は手に入った。金貨で三十枚。借金を返して十分な額だ。

薬もある。万病に効く千年苔の葉が一包みほど。

少年は、ぽかんと魔法使いを見返して、そしてようやく全てを悟った。

魔法使いの方便。魔法使いの優しい嘘。

「お師匠さま、もしかしてボクのために芝居をうってくださったのですか?

 ボクが……もう酷い目に会ったりしないように?」

「勘違いするな」

きっぱりと、お師匠さまは言い放った。

「奴は意図せずとはいえ、私の薬草を奪って金に替えたのだ。これは立派な営業妨害だ。

 貸し借りを生業とする者に、返すべき借りを返しただけのこと」

それを額面通りに受け取るほど、少年は愚鈍ではなかった。

けれど、言葉を挟むほど高慢でもなかった。

「お前にやった薬草や教本は餞別にくれてやろう。持って行くといい」

言いながら、お師匠さまは少年に背を向けた。

少年の手には、金貨と千年苔が残されている。

少年の得たものは、全て魔法使いに与えられたものだ。

魔法使いが少年を金貸しの恩人に仕立て上げてくれたから、金貨を得た。

千年苔は、魔法使いが少年に与えた薬草を間違えたからだ。

少年は魔法使いの下で小間使いとして働いたが、それは魔法を教わるためで、魔法使いの思いやりの対価には足りない。

少年の胸は一杯になってしまって、何か言いたいのに、それを選び出すことができないでいた。

「達者でな」

お師匠さまの足音が、さくさくと雪の上を去る。

その背を、少年は大声で呼び止めていた。

「お師匠さま!」

少女は足を止めて、少しだけ振り向いた。

「お師匠さま、……新しい薬の作り方を教えてください。

 それから、教本の中で分からないことがあるのです。

 ボク、掃除も炊事もがんばります。これからも一層修行に励みますから!」

「お前はもう修行せずともいいのだぞ」

平坦な声で告げたお師匠さまに、少年は大きく否定の形に頭を振った。

「いいえ、ボクは修行がしたいのです!教わってないことだってたくさんあります!」

「もう魚にならずとも良いのだぞ?」

「いいえ!ボクは魔法使いになりたいのです。お師匠さまのような立派な魔法使いに!」

お師匠さまは驚いたように目を丸くして、ウーノを見返した。

お師匠さまは首を傾げて、しかし、やがて微かに笑みを見せて、こう言った。

「好きにおし」

まるで、花のように柔らかい微笑みだった。


年が明けて季節は冬も深く、窓の外には白い雪化粧した森の木々。

釜戸に燃える火で暖かい部屋の中には、ふつふつと煮える鍋の前に少年、その斜め後ろで魔法使いが鍋を掻き混ぜる少年の手際を眺めている。

「お前は魔法使いになりたいと言ったが、さて、魚になるよりどれ程時間が掛かるかな」

ところどころダマになった半透明の赤い流動物は、見た目のグロテスクさとは裏腹に甘い香りを放っている。

「構いません。何年掛かっても、きっと魔法使いになって見せます」

へらから垂れる液体の具合を見て頃合と判じた少年は、鍋を火から下ろしてお師匠さまに意見を求めた。

「さ、お師匠様。苺のジャムができましたよ。

 でも、これがどんな魔法薬を作るのに役に立つのです?」

季節はずれの苺のジャムをスプーンですくって一口味見したお師匠さまは、満足そうに頷きながら答える。

「子供に苦い薬を飲ませるのに役立つのだよ」

子供だけではない。魔法薬にはとびきり苦いものやとんでもなく不味いものもある。

飲ませる時だけでなく、自分が飲む時にも役立つのだ。

「調合じゃなかったんですか?」

「薬の調合もだが、先に薪に火をつける修行をせよ。まだ小枝一本燃やせぬでないか」

もう一口とスプーンを伸ばすお師匠さまの目の前で、少年はさっと鍋の蓋を閉める。

「でもお師匠様、何も道具を使わずに火をつけるなんて無理です」

「不可能ではない。枝を擦り合わせるなりレンズを使うなり、方法はある。

 まずは己のできることから順番にだ。魔法でしかできぬことをするには早い」

少年は、そういうものですか、と不思議そうに呟いて、鍋を戸棚に仕舞ってしまった。

「お前にはもう少しじっくり魔法使いの心得を教えた方が良さそうだ」

行き場の無くなったスプーンを持て余して、不服そうなお師匠さまは意地悪気に言う。

「しかし才能がないとなれば即刻放り出してくれるからな」

少年はにっこりと言い返す。

「そうなったら、お師匠さまはもうボクのかぼちゃのスープが飲めませんね」

「……それは困るな」

お師匠さまは、眉根を寄せて言い負けた。

へらやまな板を洗い桶に運ぶ少年に、お師匠さまは声をかける。

「ウーノや、洗い物が終わったら買い物に行こうか」

「え?薬草も野菜もまだありますよ?」

抱えた荷に窮屈そうに振り向けば、

「しかし、かぼちゃは無かったろう?」

お師匠さまの返事に、少年はその意図を察して、笑って答えた。

「あぁ、お師匠さま。ボクは何だか急にかぼちゃのスープを作りたくなってきました。

 ボクが考えることまでお見通しとは、さすがはお師匠さま」

「うむ。お前も私の考えを汲むとは、中々魔法使いに近付いてきたな」

スプーンを洗い桶に突っ込んで、お師匠さまは言う。

「ジャムを二瓶よけておいておくれ。苺のお礼に持っていくから」

「魔法使いのお友達のところですね?ボクも連れて行ってください!」

「そうだな、そうするか。明日屋根の雪かきを済ませてからな。

 私は表で箒の手入れをしてるから、それを片付けたら声を掛けなさい」

「はい、お師匠さま!」

少年は泡立てたスポンジを手に元気良く答えた。


お師匠さまは、森の奥で長き年月を生きる、聡明にして寛大で立派な魔法使いさま。

魔法使いの弟子が一人前になるのは、恐らくまだずっと先のことだろう――。



―― 了




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[一言] とても面白かったです。
2014/06/22 11:29 退会済み
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