第7話
失った右腕にあてがわれたのは、とある軍神の腕だった。
彼はかつて最高神として君臨しながらも、信仰の変化によって一介の軍神へと成り下がる。
それでも神々の世界を守る為、それに仇成す怪物を片腕と引き換えに地の底に封じる事に成功した。
しかし、その勇気の行動も虚しく神々の最終決戦は起きる。
それでも彼は世界を守ろうと、襲い来る怪物に片腕で立ち向かい、今度は自らの命と引き換えにそれを打ち倒した。
北欧神話でも並ぶ者無き勇敢な神、彼の名こそが神。
他の神でさえ恐れをなす偉業を成した神、その名は……。
「行こうぜ、……"テュール"!!」
消失物を肉体に同調させたところで、見た目に何かが変わる訳ではない。
だがその名を呼んだ瞬間、構えた右腕を包んでいた制服は弾け飛び、それを中心に風が吹き荒れる。
それに反応するようにさらに激しく身体を捩るグレイプニル。御手杵を折って逃れる事は出来ないだろうが、刺さっている地面がそろそろ限界だ。
「俺もあんまり長くは具現化させていられないんでな、悪いが終わりにするぜっ!」
眼前の巨体へ固めた拳を叩き込む人哉。
鎖の先端の後方、蛇に例えれば首にあたる位置へ命中した拳が鈍色に食い込み、無数の亀裂が走った次の瞬間に砕け散る!
先端を破壊されたことで支えを失い、地響きと共に沈むグレイプニル。先端の一部ではあるが損傷した事に変わりはないようだ。それでも、先端を破壊しただけでは決定打には程遠い。拘束を解かれ、再び首を持ち上げた鎖はジャラジャラとけたたましい音を立ててその巨体を叩き付けてくる。
「それはもう当たらねぇっつてんだろ!」
御手杵を手にした人哉はその攻撃を弾き返す、もしくは躱していく。そして、真っ直ぐに突撃してきた鎖を渾身の力で上方へ突き上げる。思考力を持たない鎖は、最初に軽々と躱されたにも関わらずそのまま落下しながら人哉に飛び込んだ。
「見せてやろうぜテュール、あんたの力を。神々の命で作られたに過ぎないあの道具に、片腕を失ってまで世界を守ったあんたの犠牲を無に帰しやがったあの出来損ないに、神の力ってやつをな!!」
今度は躱さない。迫る巨体から目を離す事なく、人哉は限界まで右腕を引いた。地上とは違い、上からの攻撃なら弾かれた瓦礫に視界を遮られる事も無い。これなら間合いを測れる、己の拳が最も威力を発揮出来る、この鎖を完膚なきまでに破壊出来る間合いを。
意識はしていなかった、だが、自然と喉から聞いた事も無いほどの咆哮が漏れ出した。
「ぅぅおああああああああああ!!」
拳と鎖が衝突した衝撃で人哉の足元は砕けて沈み、砂埃がその場を包み隠す。すぐに柔らかな風がそれを晴らすと、拳を突き出したままの人哉の姿があった。鎖は拳に触れた位置で静止している。
ジャラリ、とグレイプニルの先端が頭を垂れた。服従の意を示す従者のように。
それが合図かの如くその全身に亀裂が走り、巨大な鎖は鉄塊となって崩れ落ちた。
「終わった……のかしら?」
地に落ちる鎖とそれを見下ろす人哉の様子を緊張の面持ちで見つめていたスミレが、誰に問う訳でもなく呟いた。
「えぇ」
短く肯定する桐香。
「グレイプニルの因果が人哉へ同調していくのを感じます。受付さん、ドアを開けて頂けませんか?」
「もう空いてる。あのガキがぶっ倒れる前に早く行ってやんな」
100点満点の笑顔で受付嬢が正面を示した、まさにその時だった。
――みつけたぞ――
その場にいた全員の耳に、否、鼓膜を介さず直接脳に声が聞こえた。
当然、人哉の頭の中にも。
「……ぅ、あ……」
上手く息が出来ない。手足は震え、無様に膝をつく。眼前にはドラム缶に汲んだ水をぶちまけたかのような水滴。獣特有の不快な臭気を帯びた吐息が髪を揺らす。
ダラリと下がる腕から槍が滑り落ち、消える。つい数秒前まで猛々しい気配を纏っていた右腕はすでに力を失っていた。既に考える事を放棄した筈の頭がゆっくりと、上を向こうと筋肉を動かす。
――ひさしいな、ちいさきもの――
見てはいけない。見られてはいけない。認識してはいけないのだ。それなのに、目を閉じる事だけは出来なかった。
――いんがを、はたそう――
牙、牙、牙、牙、牙、牙、牙、牙……。見えるのは牙だけなのに確かに感じるのだ、見られていると。
蛇に睨まれた蛙。明らかに危機的状況の中で、人哉の思考はそんな言葉を絞り出していた。絶対的な自然の法則・食物連鎖の前ではすべてが等しく無力で小さい。
小さな存在にすぎない人哉もまた、その輪の中から抜け出す事は叶わないのだ。
「さしずめ獣に睨まれた少年、といった構図だね。だけど1つ忘れているよ」
牙と人哉を隔てる様に一本の縦線が引かれた。
「僕達は人間だ、己の非力を克服する手段……思考を持っている。思考する事が出来ない蛙は、蛇に睨まれれば硬直して自然の摂理に従うしかないのかもしれない。だが人間は思考をやめない限り活路を見出す事が出来るかも知れないんだ」
次いで現れた背中は人哉の視界から牙を覆い隠し、静かに語る。
「考える事をやめるな、上條人哉3級収集官。多くの脅威を思考によって凌駕してきた人間の誇りを失くしてはいけない」
そう言って掲げた風輪の右腕は神々しいまでの光を放ち、気付けば銀色の甲冑に包まれているではないか。
光は剣のような形状へと収束し、柄にあたる部分がその手に収まった。
「乙女よ、今お返ししよう」
短く息を吐いて振り下ろした剣は一層眩い閃光を放ち、背後に居た人哉は思わず目を覆った。
程なく光は収まり、目を開けた人哉は言葉を失う。
「あ……」
牙と牙の間に空があった。
「やれやれ、真っ二つにしてもまだ具現化を保っていられるとはね。恐れ入る」
感心したように腕組みをしてそれを見上げる風輪。視線の先で断面から巨体がずれ始め、牙、上顎、鼻を見送って。
「それ」と目が合う。
――おぼえがある、あのときのつよきものだ――
鋭い眼光が2人を捉えた。
――まあいい、いずれまたあおう。われをわすれないことだ、ちいさきもの――
次第に「それ」は周囲の風景に溶け込み始め、姿を消す。
最後まで人哉から視線を逸らさず、右腕を強く握り締めるその姿を瞳に映して。
「無様だねぇ、上條くん。ひょっとして泣いちゃってたかい?ハンカチを貸そうか?それとも替えの下着と制服を用意した方がいいかな。大丈夫大丈夫、末守さん達には秘密にしておいてあげよう。それから今回の修繕費だが……」
変わり果てた本部の有様を眺めながら、馬鹿にした口調で振り向いた風輪だったが、俯いたままの人哉に反応は無い。
今度は馬鹿にしたような表情で口を閉じる風輪。やれやれといった様子で歩み寄ると、何を思ったかその額を指で軽く突いた。
カクン、と僅かに後ろへ傾く頭部。それにつられるように人哉の身体は地面に吸い込まれていく。
「人哉っ!」
受け止めたのは桐香だった。心配そうに覗き込むと、ハンカチで顔に出来た傷を拭う。
「ごめんね、人哉。私が居るなんて言ったくせに1人にしちゃった……。でも……傷だらけになったけど……頑張ったね……人哉」
気を失ったままの人哉の頬を伝うものは、血ではなかった。
「やれやれ、頑張りに免じて修繕費は本部の払いにしておいてあげよう。次は勝てるといいね、上條君……」
ひとまず戦闘は一段落です。「それ」の正体もやっと明かされ、スミレの事情にも触れていこうと思います。