32. 繋がれる希望
前話のあらすじ:
(前略) ~水島美穂視点~
ただ、わたしたちそのものである炎には、決定的な違いがあった。
わたしの身を包んだのが青白い炎だったのに対して、リリィさんの体から生じているのは赤い炎だったのだ。
……あと、わたしが小さいのに対して、リリィさんはおっきかった。
なにがとは言わないが、おっきかった。
それが、わたしと彼女が決定的に違った存在であることを示しているようで、わたしは胸の奥で、昏い感情が身じろぎするのを感じていた。
水島美穂「なんかもうどうでもいい _(:3」∠)_ 」
リリィ「待って」
32
狂獣の咆哮が鼓膜をつんざいた。
おれの目の前にいるのは、もはや高屋純とは到底呼べない存在だった。
かつて高屋純だった生き物。
理性も知性も持たない一匹の獣だ。
本来の何倍にも膨れ上がった左腕が、大きく振り上げられる。
「グルゥゥオオオオ――ッ!」
雄叫びを上げる狂獣の体は、満身創痍だ。
利き腕は千切れ掛け、右胸は骨に届くほどの裂傷を負い、全身の至る所におれが与えた無数の切り傷があった。
これでは実力の半分以下……せいぜい二割か三割程度の力しか出せはしまい。
だが、その三割だけでも、おれの防御を盾ごと腕の根元から引き千切り、致命傷を与えるには十分過ぎる。
それだけの実力差が、おれたちの間にはあった。
だから、ここまでの戦闘では、狂獣の攻撃は回避することが大前提だったのだ。
そうすることで、どうにかおれはこの怪物と渡り合ってきた。
しかし、いまのおれはリリィを抱きかかえている。
咄嗟に攻撃から逃れることはできない。
傷付き倒れた仲間たちの助けも望めない。
絶体絶命という言葉が相応しい状況だった。
だから、諦めるしかない。
……なんてことは、ありえなかった。
絶望的な状況がなんだ。
覆しがたい苦境がなんだ。
そんなものに膝を屈するわけにはいかないのだ。
そもそも、おれひとりではリリィを取り戻すことさえできなかった。
深刻なダメージを負いながらも食い下がったガーベラ。
下半身を失った状態ながら戦いに参加してくれたローズ。
戦う力がないながらもローズを抱えて動いてくれた加藤さん。
必死になって一緒に戦ってくれた彼女たちがいたからこそ、おれはもう一度リリィをこの腕に抱きしめることができたのだ。
この状況は、彼女たちが繋げてくれたものだ。
おれはひとりじゃない。
だから、自分ひとりで勝手に諦めるなんて、あってはならないことだった。
最期まで、諦めることなく生き足掻く。
おれはそう覚悟を決めて――身の裡に流れる魔力を、叶う限りの速度で循環させ始めた。
右腕が抱きかかえたリリィで塞がっている以上、使える武装は左腕の盾だけだ。
逃げられないのなら、堪える以外に選択肢はない。
必要とされているのは、狂獣の一撃に堪えうる耐久力だ。
戦闘時のおれは魔力によって常に身体能力を向上させているが、それではまったく足りていない。
おれが脳裏に思い描いたのは、樹海深部最強の白き蜘蛛、ガーベラの姿だった。
かつてあの十文字達也を相手取って正面から対抗してみせたガーベラの剛力があれば、手負いの狂獣の一撃に堪えることは不可能ではないはずだった。
とはいえ、もちろん、彼女に匹敵する身体能力を発揮することなんて、人間にできることではない。
いいや。これは人間に限らず、モンスターでも同じことだ。
だからこそ、彼女は樹海深部最強のハイ・モンスターとして、勇者の伝説にさえ謳われる存在なのだから。
ただし……話をおれだけに限るなら、事情は少しばかり違っている。
なぜなら、おれが身体能力を強化するときに体に張り巡らせる魔力の流れは、ガーベラのものを模倣しているからだ。
この世界では、魔力の流れによって特異的な現象が起こる。
ガーベラと同じ魔力のパターンを持つおれなら、樹海最強の白い蜘蛛の身体能力と身体強度を再現することも、理屈の上では可能なはずなのだ。
無論、おれとガーベラとの間にある恐ろしいほどの実力差を考えれば、常時あれだけの魔力を稼働させ続けることは現実的ではない。
だが、ほんの一瞬だけならどうだろうか。
ガーベラと同じ強度で、魔力を駆動させることも可能なのではないか?
今日のおれは、これまでになく調子がいい。
自分でも、ちょっと不思議なくらいにだ。
そんないまだからこそ、こんな大それたことを、おれは思い付いたのかもしれなかった。
いまのおれならできる。
おれはそう信じて、自分の心を蜘蛛の糸で捕えた少女の、猛々しくも美しい戦場の艶姿を脳裏に思い浮かべた。
――ぎゅっと抱き締めた体の感触が、この両腕には残っている。
――愛しげに向けられた眼差しが、はっきりと脳裏に焼き付いている。
――これまで一緒に過ごしたどんな瞬間より、彼女の心を、その存在を近くに感じた。
だから、それを真似ればいい。
どくんと心臓が脈打った。
その鼓動に合わせるように、魔力を一息に巡らせた。
全身全霊を傾けた最大瞬間風速で、ガーベラの身の裡に吹き荒れる魔力の奔流を再現する。
魔力を流し込まれた筋肉が、本来ありえないパワーを生み出す。
骨格はより頑強になって、生み出された力を支える。
神経は体の末端にまで全力以上を求める信号を行き渡らせる。
そうしてもたらされた変化は、おれ自身の体だけにとどまらなかった。
盾を掲げた左腕の芯に、熱が生まれていた。
おれの左腕に宿ったもうひとつの命、アサリナが存在を主張していたのだ。
アサリナは寄生蔓――樹海深部のモンスターである鉄砲蔓の種が、チート持ちであるおれの身で芽吹いたことで突然変異を起こした、植物タイプのモンスターだ。
その在り方も当然、一般的な植物のものに準拠している。
貧弱な土壌に大木は育たない。
アサリナがどれだけのポテンシャルを秘めていようと、おれという人間に根付いている以上、自ずと限界は定められていた。
しかし、いま、その限界は更新された。
おれの求めるままに、アサリナはこの状況に最適な形へと進化する。
アサリナの宿る左腕内部の違和感が増大した。
筋肉や骨とはまた別に、力を生み出し肉体を支える器官として働くアサリナの根が、肘を越えて二の腕の半ばまで到達したことが感じ取れた。
それだけではない。
手の甲から生えた蔓が、手首から肩まで蛇のように這い上がった。
しなやかさと強さを兼ね備えたアサリナの植物体が、巻き付いた腕をしっかりと補強する。
工藤陸の眷属であるダーティ・スラッジのツェーザーがベルタに施した汚泥の盾が防御力をあげる外装なら、これは馬力と耐久力を増す強化外骨格とでも言ったところか。
内だけでなく外からも、おれの左腕は強化された。
「――」
そうした変化の、最後のことだった。
おれの裡から、ぴしりと小さな音がした。
それは急激な変化に堪え切れずに、現実の肉体が発した悲鳴か。
ただの幻聴か。それとも……。
「おおぉおおお!」
不安を振り切るように、おれは吼えた。
右腕に抱きかかえたリリィの体を意識する。
やわらかくて、温かくて、愛おしくて。失われてくれるなと強く願う。
その一心があればこそ、おれはどんな不安も振り切ることができたのだ。
「ガアアアアア!」
咆哮とともに、狂獣が丸太のような腕を振り下ろした。
変わり果てたその姿を正面から睨み付けながら、おれは現在できる全身全霊を込めて盾を突き出す。
おれの盾は、ほとんど殴りつけるような勢いで獣の腕に激突した。
「あぁああああああ!」
狂獣に成り果てた高屋の怪物の一撃。
だが、白い蜘蛛の魔力を宿すおれの一撃もまた、怪物のそれだ。
凄まじい衝撃が、左腕から全身を襲って――。
***
――意識が戻った。
「ぁ……?」
咄嗟には、状況が把握できない。
どうやらおれは、ほんの一瞬、気を失っていたようだった。
盾を備えた腕を突き出したまま、おれはその場に立っていた。
とりあえず、手足はついているようだ。
右腕には、ちゃんとリリィを抱き締めている。
目の前には狂獣の姿があった。
おれが意識を吹き飛ばされる直前より一歩分だけ、おれから遠いところにいる。
まるで思いがけず壁にでもぶつかったかのように、狂獣はふらついて一歩退いていた。
それこそが、おれの乾坤一擲が生み出した戦果だった。
見たところ、狂獣にダメージはなかった。
ほんのちょっとふらついたのだって、予想もしなかった事態に対処が遅れただけのことだろう。
それが証拠に、退いたのはたった一歩だけ。
足が地面を踏みしめると、狂獣はすぐさま怒りの雄叫びをあげた。
黄色の目は血走って、狂相の度合いは増している。
追撃はすぐにでも来るだろう。
逃げるにせよ、守るにせよ、迅速に対処しなければならない。
だが……。
「……かはっ」
出来損ないの呼吸が、喉の奥から血とともに漏れた。
横隔膜が痙攣している。
体が指先まで痺れて、まともに動かない。
それに加えて、異常な消耗が全身を襲っていた。
がくがくと震える足が折れて、おれは膝をついた。
「く……そ」
血の味とともに、自分の未熟さを噛み締める。
これがガーベラ本人だったなら、きっといまの傷付いた狂獣の攻撃くらい弾き飛ばして、追撃を喰らわせていただろう。
過去最高と言えるいまのコンディションでさえ、体内を巡る魔力の再現率が百パーセントとはいかなかったのだ。
それに、素の肉体のスペックに差があったせいで、同じ強化を施したところで結果が違っていたというのもあった。
本来ならおれの体を紙屑のように潰していた狂獣の一撃を受け止められたのだから、あの一瞬、おれがこれまでになくガーベラに近付いていたのは間違いない。
しかし、それでも樹海最強の白い蜘蛛は遠かった。
狂獣が再び腕を振り上げる。
今度こそ、おれの息の根を止めるために。
「くっ」
碌に動かない体で、おれはどうにか防御体勢を取ろうとした。
仲間たちが繋いでくれた希望を途切れさせないために、最後の瞬間まで諦めるつもりはない。
震える腕で、もはや大岩のようにさえ感じられる盾を持ち上げようとして――
「――もう大丈夫だよ、ご主人様」
ばきゃり、と響く破壊の音を、おれは聞いた。
それは戒めが解かれる音。
少女を縛り付ける鎖の断末魔だった。
そして、それはおれたちにとって、希望の産声でもあったのだ。
「ギャンッ!?」
目の前にあった巨体が吹き飛ばされる。
膝立ちになっていたおれは、傍らから伸びた腕に抱きかかえられた。
細くて、柔らかくて、心強い感触。
この世界にひとりで放り出された、その最初のときから、おれを守り続けてくれた腕だった。
だんっと地面を蹴って、腕の主は狂獣から距離を取る。
おれは丁寧な手つきで地面に降ろされた。
苦笑いが零れた。
「……結局のところ、助けられたな」
おれが彼女を助けるつもりだったのだが……そう、うまくはいかないか。
「格好悪いところを見せた」
「ううん。そんなことないよ」
魔法道具『罪科の縛鎖』から解放されたリリィが、おれの言葉にかぶりを振った。
亜麻色の髪が揺れる。
ちょっとだけ土で汚れた顔に、とても綺麗な笑顔の花が咲いた。
「前にも言ったでしょ。わたしたちのためになんとかしようと、必死になってくれるご主人様が好きなんだって。その気持ちはいまでも変わらない」
「リリィ……」
「ご主人様は格好いいよ」
おれの頬を愛おしげに撫でる。
「大好きだよ、ご主人様。あとは任せて」
そう告げて、リリィは立ち上がった。
黄色い眼に怒りの炎を宿す獣の姿を、凛とした眼差しで睨み付ける。
「あれは『わたしたち』がどうにかする」
◆もう一回更新します。
 






