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モンスターのご主人様  作者: ショコラ・ミント/日暮 眠都
3章.ありのままの彼女を愛して
68/321

14. 獣の告白

   14



 キトルス山脈越えのルートは険しい。


 道々の高低差をなるべく減らすために、道はぐるりと山を回り込むようにして蛇行しており、道のりを直線距離の何倍にもしている。


 それでも場所によって勾配は殺し切れずに大きくなり、おれたちも使っている魔力を用いた車では馬力が足りず、降りて押さなければいけないようなところも少なくなかった。


 救いといえば、帝国・同盟間の戦争時代に整備された名残なのか、道幅がある程度、確保されていることくらいのものだろうか。


 それにしたところで、倒木で道が塞がれているくらいは序の口。樹木の浸食を受けているところもあったし、下手をすると、長い年月のうちに土砂崩れなどで道が寸断されてしまっている箇所も多々あった。


 これが徒歩なら、最悪、眷属たちの体力任せに山のなかを突っ切っていくという手段が取れるのだが、車ではそうもいかない。

 迂回路でもあればいいのだが、そんな都合の良いものがそうそうあれば苦労はしない。


 かといって、車を捨てるという手段も取りがたい。

 おれたちが乗っているのは借り物の車だし、そうでなくても、この山道を抜ければ、また車のなかに姿を隠さなければならない者もいるからだ。


 仮にこれが、おれたちが元いた世界のことであるのなら、引き返すほかなかったかもしれない。


 その日、おれたちは山に入ってから何度目かわからない山道の寸断に行き遭っていた。


 道が崩れたときに一緒に倒れたと思しき、斜面に転がる木々を見てみれば、腐って中身が空洞になっており、表面は苔生して、ひょっこり毒々しい色の茸が生えていたりする。


 ずいぶんと昔に崩れて、修繕されることもないままになっているのだろう。

 利用する者が少なければ、整備の手間も省かれるのが道理だ。


 通るためには、最低限の修繕が必要だった。


「リリィ殿。前方の確認終わりました」


 ひとり進路の先まで足を延ばしていたシランが、駆け足で戻ってきた。

 山道に入ってからは同盟騎士団の鎧を再び身につけ、いっそう凛々しい印象の彼女は、寸断した道の向こう側で足をとめた。


「これまで通り、人の気配はありません。いつでも行けます」


 これまで誰かとすれ違うことはなかったが、ここはまったく使われていない道というわけではない。


 言い換えるなら、人目を気にしなければならないようなことをする場合は、念を入れなければならない、ということだ。


 シランの言葉を聞いて、片膝をついて崩れた地面を見ていたリリィが立ち上がった。


「オッケー。じゃあ、行くね」


 リリィは右手をすっと前方に伸ばした。


 その指先に、黄色の魔法陣が展開する。

 第二階梯の土魔法。――チリア砦で大量にモンスターを捕食することで、リリィが得たふたつの属性魔法のひとつだ。


 土砂崩れで寸断された路面に、ぼこぼこと土が盛り上がってくる。

 何度か同じ魔法を繰り返すことで、リリィは抉られていた地面を見事埋めてみせた。


 リリィが習得した土魔法は、こうした場面で非常に使い勝手が良い。

 ここまでの道程でも、リリィは新しく得た魔法の練習がてら、道を邪魔する木々をどけたり、穴の開いた路面に簡単な修繕を施したりと活躍していた。


 ただ、問題点がひとつ。

 それは、リリィの土魔法による路面の修繕では、技術的に高度な作業は行えないということだった。


 余程熟練しているか、あるいはそれこそ、土木作業に特化した魔法使いでなければ、土魔法をこうした用途で器用に扱うことはできないからだ。

 たとえば軍には、専門の魔法使いが、工作隊として所属しているくらいなのだという。


 リリィの場合、魔法で土を盛り上げて、寸断した路面を埋めることはできても、もとのように均された硬い地面を作ることはできない。


 あんまりデコボコした地面では、平地での運用を想定した車を走らせることはできないし、無理をすると車体が傷む恐れがある。


 とはいえ、おれたちはチームだ。

 ひとりの力で足りなければ、他の者が手を貸せば良い。


 リリィのお陰で、既に道は開けている。

 樹木などの障害物はなく、必要とされる足場はあるのだ。


 単に車の通行に向いていない、というだけで。


「じゃあ、ガーベラ。あとはよろしく」

「うむ」


 頷いたガーベラは、ひょいと身をかがめると、八本の脚を伸ばして足場を固定した。

 車へと伸ばされた両手が、泥除けのために前面に備え付けられた保護板を掴んだ。


 ぎぃと車体が軋む音が響いた。

 さして力を込めた様子もなく、ガーベラは車体を持ちあげていた。


 ハリボテを疑うような光景だが、しっかりとした造りの車に見た目通りの重さがあることは、ローズが事前に補強してなお、自重で軋む車体の音が証明している。


 子供の頃に図鑑で見た『蟻が自分の体の何倍もの重さのものを持ちあげられる』ことを示した写真を、おれは思い出した。


 蜘蛛はどうなのだろうか、などと他愛のないことを考えているおれの目の前で、車を抱え上げたガーベラが、慎重な足取りで歩き出した。


 ガーベラの多脚はデコボコとした地面でも安定性を失わない。

 上下の動きも最小限に、異様に滑らかな水平移動で車が運ばれていく。


 ガーベラの身体能力は、人間など比べものにならないくらい優れている。

 バランス感覚だって抜群だ。

 回数を重ねたことで、運搬作業に関して上達している部分もあり、危うげなんて欠片もなかった。


「……しかし、乗り物を持ち歩くっていうのも、ちょっと本末転倒な感じの絵面だな」

「確かに。そうかもしれませんね」


 おれのつぶやきを聞いて、傍にいた加藤さんがくすりと笑う。

 その隣で状況を見守っていたローズが、ガーベラに声をかけた。


「ガーベラ。少し右に傾いています。気を付けてください」

「おお、了解。しかし、ローズ殿の手が加えられているのだ。ちょっとやそっとのことで、壊れはせんと思うがな」

「ええ。余程、気を抜かない限りは、そうした危険を伴う作業ではないのは事実です。……ですが、負担が少なく済むなら、それに越したことはありませんから」

「ふむ。それもそうかの」


 仮面の下から投げかけられたローズの忠告に、ガーベラは笑って頷いた。


 おおらかで少し抜けたところのあるガーベラと、真面目で几帳面なローズ。

 最近気付いたのだが、このふたりはアンバランスなようでいて、意外と相性は悪くない。


 荷を揺らすことなく、案外と器用に笑いをこぼしたガーベラが、すっと視線を上方に向けた。


「気を付けよう。なかにはケイもいることだしの」

「わたしはガーベラさんのこと、信頼してますから」


 車のなかから、少女の声が返った。

 子供らしく明るい声だ。


「そこからの景色は、どうかの?」

「なんだか変な感じです。でも、新鮮ですね」

「楽しんでおるなら、なによりだの」


 ケイはガーベラの持ち上げる車のなかに乗ったままでいた。

 これはガーベラが言い出したことだった。


 面倒くさいだけの作業が、即席のアトラクションだ。楽しい雰囲気というのは伝播するもので、こちらとしても見ていて退屈しない。


 ……いまでは段々と対処法もルーチン化されて、こうした『遊び』の時間を作る余裕もできつつあるが、入山当初は悪路に手こずって、相当に大変だったのだ。


 正直なところ、樹海を旅してきた経験から、ちょっと山地での旅路を甘く見ていたところはあった。


 整備の行き届いていない山道では、結局、道程の大半はガーベラが牽引するかたちで車を運ぶことになった。


 そうすることで、運搬はできたものの、あまりに揺れが酷いので、人間は車に乗っていられなかった。


 降りて歩くとなると、立ち塞がる勾配が驚くくらいに体力を奪った。


 この世界に来てから魔力の扱いを覚えたおれや、幼いながらも騎士見習いのケイはともかくとして、このなかで一番体力のない加藤さんなどは、ローズに抱き上げられて移動していたこともあったくらいだった。


 場合によっては、車が通れるだけの道を確保するのに、数時間も足止めされた。

 車が引っ繰り返りかけて血相を変えたり、車輪が壊れて修理に半日かかったりもした。


 たまに遭遇するモンスターは、狭い山道での襲撃それ自体の脅威に加えて、戦闘の最中に車や道が破損しないように守らなければならない。


 急ぐ旅路でもないため、ゆっくりと進んでいたこともあり、気付けば、もう十日近くが経過していた。


 開拓村の村長の話が正しければ、そろそろキトルス山脈が抱えるアラリア河の支流に突き当たるはずだ。

 そこで行程はようやく半分といったところだ。


 山道でのトラブルにも慣れつつあるし、残りの半分はもう少し早く消化することができるだろう。


 最後の開拓村で補給できたので、まだ食料には余裕がある。

 何事もなく、このまま山道を越えることができそうだ。


 おれはそう思っていた。

 それが間違いだとわかったのは、翌日のことだった。


   ***


 不穏な気配というのは、たとえ眠っていたとしても、どうやら感じ取れるものらしい。

 朝。おれが重いまぶたを持ちあげると、蕩けた赤い瞳がこちらを覗き込んでいた。


「……」


 リリィではない。

 起きてすぐに彼女と目を合わせることはよくあるが、大抵の場合、それは抱き合って目覚めるかたちだ。

 おれ自身の寝起きが悪いこともあって、ちょっとだけ体温の低い少女の体躯を自分が抱きしめていることは、そこそこ長い夢現の時間に把握できている。


 よって、目の前に愛しい少女がいることに驚くこともない。


 しかし、今朝はそうではなかった。


 なんの前触れもなく、至近距離に、女神さえも裸足で逃げ出しそうな美貌があった。


 蕩けていた彼女の表情は、覚醒したおれと目が合った瞬間に、凍りついている。

 それがちょっとだけおかしくて――ああ、彼女らしいな、と現実逃避気味に思った。


「あ、うぅ……」


 驚きとともに呑み込んだ息を、呻き声とともに少女が吐き出す。

 皮膚が薄く敏感な口周りに、吐息がかかってくすぐったい。


 その感触がスイッチとなって、停止していたおれの意識が再起動した。


「……なにをしているんだ、ガーベラ?」


 就寝するおれにのしかかるような体勢で、白い蜘蛛が硬直していた。

 少女のものである上半身は、一方の手がおれの胸あたりに触れようとしており、もう一方の手は頬に掌を当てようとしていた。


 目に眩しい真っ白な髪が垂れ下がって、ひと房がおれの胸元から、無遠慮に服のなかへと入り込んでいた。


 下半身の蜘蛛から伸びる足は、左右一本ずつおれの頭の横の地面に突き立っていて、前のめりの少女の体を支えている。


 さあ、これから唇を奪いますよと言わんばかりの状況だった。


「違うのだ、主殿」


 凍りついていたガーベラが口を利いた。


「違うって、なにが?」


 言い訳のしようのない状況だと思うのだが。

 おれの質問に対して、ガーベラはやや早口に答えた。


「わ、妾はきちんと、我慢したのだ」


 我慢したらしい。

 なにを、とは問うまい。答えてもらっても、おれが困る。


「すやすやと寝息を立てる主殿を目にしながら、ふたりきりの状況で、夜明け直後からずっとだ。これは驚異的なことではなかろうか」


 空の白み加減からすると、いまは夜が明けてから小一時間と言ったところだろうか。

 それだけの時間、ずっと飽きもせず、おれの顔を眺めていたと自白しているのだが、当人は気付いていないらしい。


 更に、自白は続く。


「それで、じっと見ていたら、ついぼうっとしてしまってな。気付いたら、目の前に主殿の顔が……わ、わざとではなかったのだ。主殿の寝込みを襲おうとしていたわけでは、決して。このまま唇を奪ってしまえればなどとは……ちょ、ちょっとくらいは妄想したかもしれんが」

「ああ。もう良い。大体の経緯は把握できた」


 おれはそこで、ガーベラの話をとめた。

 ……段々、聞いているこっちが恥ずかしくなってきたからだ。


「とりあえず、離れてくれ」

「あ、うむ。すまん」


 ガーベラは少し身をひいた。

 それで、周囲の状況が少しだけわかるようになった。


 まだ朝の早い時間だった。

 近くにあるのはケイと加藤さん、あやめの寝息だけで、他のみんなは近くにいない。


 唯一、おれとガーベラのやりとりに気付いて目を覚ましたあやめは、鼻面を持ちあげて、ひくひく鼻を動かしたが、「違った。まだ朝ごはんじゃないや」とばかりに、もう一度、ぽてんと眠りに落ちてしまった。


「リリィたちは、どうしたんだ?」

「リリィ殿は少し前に、主殿のことを妾に頼んで、ローズ殿が作業をしておるところに行った。シランは妾が目覚めたときにはもうおらんかったが、周辺の見回りに行くと言っていたと、リリィ殿から言付かっておる」

「……そうか」


 おれは少しだけ眉を寄せた。


 リリィは多分、また新しいかたちの擬態の練習をしているのだろう。

 完全に彼女は行き詰っている。あまり根を詰めていないか心配だった。


 モンスターのなかでもスライムという生命力の高い部類に属する彼女ではあるが、そうとわかっていても、おれにとっては大事な女の子だ。どうしても心配になってしまう。


 シランも頑張り過ぎなところがあるので、ちょっと気になっていた。


 とはいえ、こちらに関しては、最近は少し落ち着いているようにも見える。

 セラッタを出た直後は、モンスターを見かけたら真っ先に飛び出していこうという、前のめりな姿勢だったが、この山道に入ってからは、人目がなくなって自由に動けるようになったガーベラに、出番を譲っている。


 目を離すと無理をしそうな性格ではあるので、経過観察が必要だとは思うが、とりあえず手を打ったほうがいいのは、リリィのほうだろう。


 時期を見て、リリィにはもう一度、声をかけてやる必要がありそうだ。


 ……いいや。その前に、ガーベラか。


「あのな、ガーベラ」

「な、なにかの、主殿」


 失敗した子供のような表情を見せるガーベラに、おれは苦笑いをこぼした。


「別に怒ってないから、そうびくつくな」


 人目がなくて気が緩んでいるときに、想い人の眠っている姿がすぐ傍にあって、ぼうっとそれを眺めてしまった――というのは、年頃の少女として責められるようなことではないだろう。


 ガーベラにとって自分がそうした対象だというのは、なんとも面映ゆい気持ちではあるが、まあ悪い気はしない。


 そうこうしているうちに、ついうっかりして、ふらふらと近づいてきてしまったというのも、ガーベラらしい話だ。


 それにしたところで、結局、彼女は最後の一線は守っているわけで、ちょっと呆れはしたものの、怒るようなことではなかった。


「……ただ、糸だけは回収してもらえると助かるが」

「糸?」


 おれが言うと、ガーベラはこくりと首を傾げた。

 そして、おれが目で示した方向――自分がいま覆いかぶさっている、おれの体へと視線を落とした。


「……」


 彼女の赤い瞳に映り込んだのは、おれの体に纏わりついた蜘蛛の糸だった。


 これでは、まともに動けない。

 さっきからおれは、完全に拘束されてしまっているかたちだった。


「はうあ!?」


 ガーベラが奇声をあげた。

 やはり気付いていなかったらしい。そうじゃないかと思った。


「す、すまぬ。これは無意識というか、本能的なもので、やろうと思ってやったわけでは……」

「さっきも言ったが、怒ってないから謝らなくても良い」


 どれだけ夢中になっていたのやらと、むず痒い気持ちでおれは苦笑した。


「ただ、今度からは気を付けてくれよ。蜘蛛糸もそうだが、寝起きのもな」


 おれの見守る先で、わたわたとガーベラは、拘束を解こうと手を伸ばしてきて――


「ああいうのは、恋人同士ですることなんだから」


 ――その指先が、ぴくんと震えて停まった。


「……恋人同士で?」


 小さなつぶやきが、少女の唇からこぼれ落ちた。

 むっと、考え込むように眉が寄った。


「ガーベラ?」


 おれは首を傾げた。

 おれの身を拘束する糸を断ち切ろうとした彼女の手が、停まっていたからだ。


「……思えば、ふたりきりで話ができる時間も珍しい。ふむ。これも良い機会かもしれんな」


 いいや。正確には、停まっていたのは、ほんのひと時のことだった。


「他人に『なぜ、お主は己の気持ちを伝えぬのか』などと偉そうなことを言っておいて、折角の機会を逃しておっては世話はない。……よし」


 なにやら頷き、ガーベラは気合を入れた。

 赤い目が、こちらを向いた。



 と、思ったときには、恐るべき大蜘蛛が、おれに襲いかかってきていた。



「……え?」


 気を抜いていたので、完全に虚を突かれてしまった。

 拘束状態にあったおれは、反射的に逃げることさえ封じられている。


 気付いたときには、伸ばされたしなやかな腕が、首のうしろに回されていた。


 顔面の左半分に、なめらかな布地の感触があった。

 その向こう側にある、張りと弾力のあるふくらみが、おれを受け止めていた。


 視界に大写しになっているのは、大きく開けた白い衣服の胸元だ。

 きめ細やかな肌が織り成す深い谷間が、息の届く距離にあった。


「なっ……!?」


 自分が少女のどの部分に顔を押し付けているのかを理解した瞬間、どくんと大きく鼓動が跳ねる。

 不意打ちにしてもほどがある。一瞬で、喉が干上がった。


「……主殿」


 そして、追い打ち。

 切なげな呼びかけが、耳朶を舐める。


 抱いた想いの重さに胸が潰れて、掠れた声が絞り出される。

 そんな、女の子の声で、ガーベラは言った。


「なあ、主殿。妾はな、人間のことはよくわからん。その弱さも、それと背中合わせの強さも理解できぬ。……うむ。アレはわからん。わからんとも。それだけは、『話をしていてよくわかった』のでな」


 押し付けられてかたちを変えるふくらみの向こうから、早足になったガーベラの心臓の鼓動が伝わってきた。

 彼女も緊張しているらしい。あるいは、興奮しているのか。きちりと、蜘蛛脚が鳴く音が聞こえた。


「根本的なところで、妾は獣の類なのだろう。だからやはり、獣なりのやり方で、自分なりの言葉で、伝えるしかない。そう、妾は思うのだ」

「伝える……なにを?」


 やっとのことで口に出した問い掛けを聞いて、ガーベラはおれの頭を抱きかかえる腕に、きゅっと力を込めた。


「妾はな、主殿。いまでも変わらず、お主のことを、この手に捕えてしまいたいよ」

「……っ」


 思わず、おれは息を呑んだ。

 そうせざるをえないものが、彼女の言葉には含まれていたからだ。


 もちろん、おれは彼女が抱いてくれている好意に、ずっと前――あのアラクネの巣にいた頃から気付いていた。


 おれたちの間にはパスがあるし、そんなものなくても、隠すつもりが欠片もない普段の態度を見ていれば、彼女の想いは明らかだ。それこそ以前にも、おれのことを捕えてしまいたいのだと、面と向かって好意を告げられてもいる。


 だけど、これはそれどころではなかった。


「妾は、主殿を押し倒してしまいたい」


 赤裸々で、あけすけで、真っ直ぐな……これはガーベラなりの、告白の文句なのだから。


「できれば主殿にも、妾の想いに応えてもらいたい」


 自分のことを獣なのだと、ガーベラは言った。

 ああ、確かにそうなのかもしれない。


 だけど、同時にガーベラは、女の子だ。


 それも、とびきりに魅力的な。


 ……たとえば、ここで彼女を抱き返したなら。

 もう気持ちに歯止めは利かないだろう、と確信できてしまうくらいに。


「妾では、駄目かの?」


 ほんのわずかに身を離して、ガーベラがおれのことを見下ろしてくる。


「ガーベラ……」


 熱に浮かされたように潤んだ血色の瞳に、魅入られる。

 理性が蒸発したような、夢のなかにいるような感覚が、全身を痺れさせている。


 不安そうな身じろぎが、密着する女の子の体から伝わる。

 耳には蜘蛛脚が鳴らす、きちきちという音。

 危ういほどの、やわらかさ。鼻先に触れる肌から立ち昇る、女の子の匂い。


「駄目でないのなら、証をおくれ。主殿が抱き返してくれれば、妾は……」


 そんな状況で聞かされるには、あんまりに熱烈な言葉に、おれの理性も蕩かされて――……。


   ***


 ――ガッ、ガッと、荒れた路面にぶつかる車輪が立てる音が、断続的に耳朶を叩いていた。


 おれたちは、山腹に巻きつくように作られた山道を進んでいた。

 右手には切り立った崖壁。剥き出しになった地層面は脆く、今日朝からすでに二回、道が崩れてしまっている箇所に行き遭っている。


 道の左手には、急斜面の下に流れの速い川が見えた。


 大陸中央の大河、アラリア河は広大な流域面積を誇っている。

 おれたちが山越えを試みているキトルス山脈も、アラリア河の支流を抱えている。おれたちの目の前に現れた渓流も、その一本に違いなかった。


 聞くところによると、キトルス山脈から流れ出す川をずっと下流に下っていくと、いくつかの他の支流と合流しつつ、おれたちの目的地である小国アケルと、その北にあるロング伯爵領の境界線上にある、昏き森に行き当たるらしい。


 取り残された樹海の切れ端である昏き森には、その成立の経緯から、必ず強力なモンスターが生息している。

 この川の下流にあるのは、『大地の怒り』と呼ばれる伝説級のモンスターの縄張りだ。


 アケルに腰を落ちつければ、訪ねてみる機会も持てるかもしれない。


 そんなことを考えていると、一緒に歩いていたリリィが、少し抑えた声で、おれに話しかけてきた。


「ねえ、ご主人様」


 視線はこちらに向いていない。

 おれたちのうしろ、他の同行者たちの更に後方を移動する車のほうを気にしていた。


「ガーベラがものすごい落ち込んでるんだけど、なにかあったの?」

「……あったというか、なかったというか」


 曖昧に返して、おれもちらりと振り返った。


 ローズがおれたちの車にオプションで付けた、人力車のような持ち手を引っ張って、ガーベラが山道をとぼとぼ歩いていた。


 ああ、これは重症だとすぐにわかる。

 どうしたものかと、おれは頬を掻いた。



 結局、あのあと、おれとガーベラとの間にはなにもなかった。


 キスもしていなければ、お互いに抱き合ってすらいない。


 ――駄目でないのなら、証をおくれ。主殿が抱き返してくれれば、妾は……。


 そんなガーベラの情熱的な願いに突き動かされて、おれは彼女を抱き返そうとした。


 けれど、できなかった。

 どうしてもできなかったのだ。


 ……両手が蜘蛛の糸で拘束されていたため、物理的に不可能だったのだ。


 糸を外してくれないと無理だ、と告げたときに流れた、なんとも間の抜けた空気の、居たたまれないことと言ったらなかった。


 なんというか、ああしたことは、きっと雰囲気が大事なのだろうと思う。

 一度、我に返ってしまえば、その続きをすることは難しい。


 打ちひしがれたガーベラは、「どうして妾は、こう、妾なのだ……」と、若干哲学的っぽいことを嘆いていた。


 本当に、なんでなんだろうなとしか言いようがない。


 もっとも、あっさりチャンスを得たと思ったら、良いところでそれをふいにしてしまうというのは、いかにもガーベラらしい話ではあるのだが。


「ふたりの様子を見たら、なにがあったのかは大体想像つくけど」


 今朝あった出来事について思い出していると、リリィが顔を覗き込んできた。


「ああもガーベラが落ち込んでいるってことは、逆にけっこう、惜しいところだったってことなのかな?」

「……」


 こちらがどきりとするようなことを、口にする。

 それでいて、リリィの表情は穏やかなものだった。


「わたしに言われるまでもないことだろうけどさ、ちゃんと受け止めてあげてね、ご主人様」


 具体的なことはともかくとして、本当にリリィには、なにが起きたのか知られてしまっているようだった。パスの助けがあるにせよ、女は鋭いということか。それとも、おれやガーベラがわかりやす過ぎるのだろうか。


「……リリィはそれで良いのか?」

「んー、ご主人様がなにを言いたいのかはわかるけどね。だけど、それって、割と的外れなんだよ」


 思わずおれが尋ねると、リリィは困ったような顔をした。


「ご主人様の世界の人間じゃない……どころか、人間ですらないわたしたちにしてみれば、それは、不誠実でもなんでもないことだし。そもそも、わたしたちはひとりひとりがご主人様の眷族だけど、ご主人様はみんなのご主人様だもの。わたしは水島美穂の記憶を持っているからともかく、他の子たちは、ご主人様がなにを気にしているのかさえわからないんじゃないかな」

「だけど、リリィはわかるんだろ?」

「理解はできるよ。だけど、実感はないかな。それはあくまで、水島美穂の価値観であって、わたしのものじゃないから」


 はっきりとした口調で言ってから、リリィは肩をすくめた。


「もちろん、ご主人様がぱっと切り替えられるタイプじゃないのもわかるよ。だから、正直、心配してたところもあるんだ。……けど、この分だと大丈夫そうなのかな。惜しいところまで行ったのなら、あともう少しってことだもの」


 リリィの言うことは、いちいちもっともだった。


 今回の一件でおれは、ちょっとでもガーベラの好意に応えてしまえば、それが決定打になると感じた。

 それくらいには、おれは彼女の存在に惹かれている、ということだ。


 正面から最短でぶつかってきたガーベラの告白は、おれにそれを自覚させるだけの破壊力を持っていた。そうして知った事実に、今更目をつむることはできない。


 小さく唸り声をあげたおれのことを一瞥して、リリィは微笑んだ。


「うふふ。ガーベラは真っ直ぐだものね。不器用で回り道できないけど、だからこそ、あの子は目的地に一番早く辿り着けるのかもしれないね。あの子のああしたところは、きっといざというときに、ご主人様の一助になると思う。腕力とは、別の部分でね」


 そして、リリィはぽつりとつぶやいた。


「これで、わたしも安心できるかな」

「……?」


 よくわからない発言だった。

 おれは、リリィの横顔に目をやった。


 そこには、透明度の高い笑みが浮かんでいた。


 どこかで見たことがある、と思って、思い出した。

 セラッタ近郊の宿場町。借り受けた家で、ふたりきりの彼女が見せた笑顔と、それは同じものだったのだ。


 見逃してはいけない、と直感的に思った。

 けれど、事態はおれの思いも寄らない方向へと転がっていく。


「それって、どういう……?」


 問い掛けた、まさにその瞬間だった。


「っ!」


 前を見ていたリリィの表情が硬いものに変わった。

 それと同時に、前方から物音がした。


「……っ」


 思考の切り替えは、一瞬だった。


 慣れ始めたとはいえ、山道は危険が多い。

 たとえば、土砂崩れ。あるいは、モンスターの襲撃。


 どんな場合でも対応できるよう、もともと、常に緊張感は持つようにしていた。


 可及的速やかに、状況を把握する。


 物音がした場所は、おれたちの前方。数メートルと離れていない。

 あまりにも唐突な物音とともに、そこに気配が生まれていた。


 なにかが近づいてきていることに、おれはこの瞬間まで気付かなかった。

 言い換えるなら、相手はおれに気付かれないよう、気配を隠して近づいてきたということだ。


 目的が穏当なものだとは期待できない。

 となれば、対応は決まっている。互いに声をかけ合う必要すらなかった。


 リリィは前にでて、おれを庇うような位置に立つ。

 おれ自身は剣の柄に手を伸ばしつつ、速やかに後退しようとして――


「やっと、追いついた」


 ――前方から投げかけられた声を聞いて、自分の判断が一部は正しく、また、一部は間違っていることに気付いた。


 正しかったのは、『目的が穏当なものではない』ということ。

 敵意を持って、『彼女』はおれの行く手を遮った。


 間違っていたのは、『気配を隠して近付いてきた』ということ。

 彼女は別に、そんなことはしていない。


 その必要がない。彼女は強者だ。そんな姑息な真似はしないし、思い付きさえしないだろう。


 彼女はおれたちの行く手を遮った。ただ、それだけだ。


 ただし、唐突にそこに現れたかと思えるほどの速度域、彼女だけが存在できるスピードによって、それを行ったまでのことなのだ。


「……飯野優奈」


 探索隊最速の少女、『韋駄天』飯野優奈がそこにいた。



◆お待たせしました。更新です。


◆感想返しですが、遅れていてすみません。

目は通させていただいていますし、書く元気をいただいてます。

時間があるときに改めて返していきたいと思います。

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