34. 残された謎
(注意)前日にも投稿しています。
34
鋭い刃が肉を貫き、どぷりと血液が噴き出す。
命を断ち切る鈍い音が、通路に低く響き渡った。
「……」
その音を聞きながら、おれは唖然として立ち尽くしていた。
おれはまだ、自分の剣を振り下ろしていない。
どこからか飛んできた真っ黒な剣が、俯せに倒れた十文字の背中に突き刺さっていた。
まるで影絵そのものの見てくれをしたその剣が、瀕死だった十文字の命を奪ったのだ。思いもよらぬその光景が思考を凍りつかせる。
「孝弘殿!」
叫んだシランが、おれの前に出た。
そこに襲いかかってきたのは、無数の影絵の剣だった。
「ぐっ、ぐぐ……っ」
飛来した剣を、シランは次々に弾き飛ばす。
だが、あまりにも数が多い。おれを庇ったままでは、さすがのシランも押し切られてしまうだろう。おれはほとんど無意識のうちに背後に跳び、シランもこれに続いた。
さっきまでおれたちのいた場所に、何十本という剣が突き立った。
だが、それだけでは終わらない。後退するおれたちに、さらに剣が追いすがってきて――
「ご主人様!」
「さがれ、主殿!」
――合流したリリィとガーベラが、これを迎撃した。
ガーベラの両手から広く網のように射出された蜘蛛糸が、影絵の剣を絡めとる。いくらかの取りこぼしは、リリィが槍で弾き返した。
これはさすがに突破できない。襲撃者もこれ以上の攻撃は無駄と判断したのか、それとも、一度に放てる剣の数に限りがあったのか、通り雨のようだった攻撃がやんだ。
「なにが……」
跳ねる心臓を押さえつつ、おれは状況を確認しようと努めた。
通路はいまや影絵の剣が無数に突き刺さって、まるで針山のようになっている。
その向こう側に、上半身だけを床から生やした大きな影絵の人型があった。
以前にも見たことのあるそのモンスターは、この世界でドッペルゲンガーと呼ばれているものだ。
しかし、目の前に現れたその個体は、これまでおれが見知っていたものとは少し様相が異なっていた。
一言でいえば、大きいのだ。
上半身のみをかたちづくる影絵の背丈は軽く三メートルに届くほど。人間ひとり呑み込んでいるのではないかというくらい腹回りも大きく膨れ上がっているため、その姿は通常の個体より何倍も大きく見える。
「ご主人様、気を付けて。なにか様子がおかしい」
槍を構えたリリィが警告を発した。
変化はその直後――針山のように通路に突き立った、影絵の剣に起きた。
「これは……」
剣のかたちをした影が、次々と崩れていったのだ。
崩れた影は何本か分ずつ混ざり合い、新しいかたちに再構成される。
やがて影たちは、数十体のドッペル・ゲンガーの姿を取った。
あっという間に、通路はモンスターに埋め尽くされてしまっていた。
一匹の巨大なモンスターから、多数のモンスターが生まれた。――初めて見る現象ではあったが、幸い、おれはこれに該当する存在について、以前に耳にしたことがあった。
「モンスターを生むモンスター……『クイーン・モンスター』か?」
モンスターとは魔力を持つ生き物だ。そして、ある程度以上の魔力を蓄積させたモンスターは、新たな個体を生み出すようになる。そうした生殖能力を持つ個体を、おれたちはクイーン・モンスターと呼んでいた。
目の前の個体は、その一体に違いなかった。
だから、そこまではいい。目を見張る現象ではあったが、ここまではおれの知識の範疇にある出来事だ。
おれの知識に反するのは、そこから先の事実だった。
「ご主人様。これって、本当にクイーン・モンスターなんだよね?」
リリィが掠れた声で言った。
「だったら、どうして『わたしたちやご主人様とパスが繋がってない』の?」
転移者のひとりとして、おれは『保有魔力量の高いモンスターと心を繋げる』能力を持っている。対象となるモンスターは、便宜的な分類でいうところのレア・モンスター以上となる。
クイーン・モンスターは、それより上位の存在だ。なのに、『ドッペル・クイーン』とでもいうべき目の前のモンスターとおれとの間には、パスが構築されていなかった。特殊なケースだったシランのときでさえ、パスを繋げる糸口くらいは掴めたというのに、それすらも感じ取れない。
つまり、目の前にいるモンスターは、おれの知っているルールから外れた存在だということになる――……
「……お前は、いったい?」
そこでおれが疑問の言葉を口にしたのは、返ってくるものを求めてのことではなかった。
パスが繋がっていない以上、たとえクイーン・モンスターであったところで、目の前のモンスターに自我の芽生えはない。従って、反応などあろうはずがないのだ。
そのはず、なのに――
「まさかあの十文字達也を、正面から打ち破るとは思わなかった」
――果たして、応答はあった。
精悍な印象の少年の声だった。それを聞いて、おれは息を呑んだ。
なぜなら、返ってきた声というのが、他ならぬ『十文字達也』のものだったからだ。
もちろん、本人のものではない。彼はもう死んでいる。
そこにいたのは『十文字達也』の精巧な複製品だった。
ドッペルゲンガーの大群が、一斉に彼の姿をコピーしていたのだ。
見た目だけではあるが、その再現性は本物との区別などつかないくらい完璧だった。ただ、ひとつだけ大きな違いがあるとしたら、コピーされた『十文字達也』の顔には、表情と呼べるものが一切存在しなかったことだろう。
良くも悪くも彼を人間たらしめていたもの――おびただしい犠牲を生み出した我欲も、それを顧みない傲慢さも、徹底した他人への冷徹さも存在しない。
たったそれだけのことが、目鼻立ちをナイフでずたずたにされるよりよっぽど無残に、『十文字達也』という存在を損ねていた。
そんな貌のない彼らが、無感情な眼差しを一斉にこちらに向けている。
見ているこちらの精神を不安定にさせるような、それは一種異様な光景だった。
「見事だと言っておこう、もうひとりの王」
口をひらいたのは、数十名にも及ぶ『十文字達也』のうち、もっとも近くにいた一体だった。その声は機械のように無味乾燥で、およそ感情と呼べるものが読みとれない。
「見させてもらったぞ、その力。そちらの凶悪なアンデッド・モンスターを、よく手懐けることができたものだ」
これは、また別の一体が言う。そして、また別のものが口をひらいた。
「ガーベラといったか、そっちの大蜘蛛は怖いな」「擬態しているスライムも、枠を外れている」「リリィと呼ばれていたな」「他にも色々」「あやめに、アサリナ」「砦の外にもいると言っていた」「ローズだったか」
次々と役者を変えて、しかし役どころは『十文字達也』のひとりだけで、彼らはここにいないローズも含めたおれの眷属の名前をあげていく。
「おれたちの王と、やりかたは違うようだが」「末恐ろしい力だ」「いまでも十分に脅威だ」「おれもこいつの命を、ずっと狙っていたのだがな」
最後の言葉を口にした個体は、唯一モンスターの姿を取ったままのドッペル・クイーンの前に、本物の十文字の骸を捧げた。
とめる暇もなかった。
十文字の亡骸は、ドッペル・クイーンが大きくひらけた口のなかに呑み込まれていった。
巨大な影絵が蠢き、耳を塞ぎたくなるような湿った音が響いた。『食べたもの』を咀嚼しているのだ。ただでさえ大きな腹が、さらに大きく膨らんだ。
こうして十文字達也は、モンスターの餌となって、この世界から永遠に姿を消した。
……いいや。正確には、姿形だけは残っていた。
それも、数十にもコピーされて。
そのうちの一体、ドッペル・クイーンに十文字の亡骸を捧げた『十文字達也』が、腹をさすりながら振り返った。
「ごちそうさま」
「……喋った?」
おれたちが共通して抱いた疑問を、リリィが口にした。
「ドッペル・ゲンガーが、自分の意志で?」
ドッペル・ゲンガーのモンスターとしての特性は、対象の姿形をコピーをすることだ。
しかし、たとえ人間をコピーしたところで、彼らが言葉を操ることはない。モンスターである彼らには自我が存在しないからだ。
なのに目の前の個体は言葉を操っている。それはすなわち、どのようなかたちであれ、自身の意思を持つことの証拠だった。
「……まさか」
そうした存在にひとつだけ心当たりがあって、おれは小さく呻き声をあげていた。
「坂上が言っていた『話のできるモンスター』っていうのは、こいつのことか」
それは、追い詰められた坂上が口にしていた存在だった。
彼は意思持つモンスターを介して、他のモンスターに指示を与えていたと言っていた。それがこいつだとしたら、おれの能力が通用しないのも理解できる。
おれもチート持ちだが、こいつも他のチート持ちの固有能力の下にいるのだ。ルールが変わったのではなくて、別のルールが割り込んできている。だから、競合するおれの能力が通じない。
逆にリリィたちも大きな影響を受けている様子がないことを考えれば、これでまず間違いはないだろう。
「つまり、お前が『ベルタ』か」
それを聞いた大勢の『十文字達也』が――一斉に、笑う。
笑み……これは、笑み、なのだろう。一瞬、それがふつう笑顔と呼ばれる代物だということに気付けなかった。
人間が笑うときには、たとえ作り笑いであったところで、そこになんらかの感情が付随するものだ。しかし、その笑みは皮膚に張り付いた『なにか』にしか見えず、ただただ、おぞましさしか感じない。
なまじひとのかたちをしているからこそ、人間では有り得ない挙動には強烈な違和感が伴った。
見ていてひどく気分が悪い。吐き気がする。無数に蠢くムカデの群れでも見ている気分だった。目の前の光景に、まるで現実味が感じられない。
おれはもう、なんだか頭がくらくらしてきて――
「……呑まれるな、主殿」
――たおやかな手が、おれの肩に乗せられた。
「ガーベ、ラ?」
「猪口才な手を使うものだ。幻惑とはな」
……幻惑とガーベラは言った。
そう言われて初めて、おれは自分の意識に靄が掛かっていることに気が付いた。
幻惑の力を持つモンスターがいることについては、コロニー時代ではなく、ここチリア砦でケイがしてくれた講義で聞いた覚えがある。
幻惑は肉体ではなく精神に揺さぶりをかける。魔力を操ることができれば、ある程度レジスト可能なのだが、なんらかの条件に嵌ってしまうと格段に掛かりやすくなってしまうという性質があった。
たとえば、一部の植物系モンスターの場合、咲き誇る花弁の美しさや、芳醇な香りに意識を奪わせ、それを以って対象を幻惑するのだという。
ドッペル・ゲンガーがそうした力を持つということは、これまで聞いたことがない。これはドッペル・クイーン『ベルタ』固有の力と見るのが正解だろう。そして、その条件というのは――
「気をしっかり持て、主殿。どうも呑まれれば、それだけ幻惑に掛かりやすくなるらしいからの」
「……それが、幻惑の条件か」
おれは呻き声をあげた。この場面、畳みかけるように起こった異常事態が計算されたものであったことを理解したからだ。
事実、リリィやシランでさえ、目の前の異様な光景に呑まれかけていた。
そのなかでガーベラひとりだけが冷静さを保っていたのは、他ふたりとは違い、彼女は人間としての経験を持ち合わせていなかったこと。それに加えて、彼女のスタンスが影響していた。
「忘れてくれるな、主殿よ。いまの主殿には妾がいるということを。恐れることなどなにもない。こやつがなんであれ、妾たちに悪意を持つ敵であることは間違いない。であれば、話は簡単だ。叩き潰してしまえばいい。違うかの?」
なんであろうが、目の前に立つ障害は叩き潰せばそれでいい。
ガーベラのロジックはシンプルだ。それ故に、どんなときでも揺るぎない。ドッペル・クイーンにしてみれば、こんなのほとんど鬼門みたいなものだろう。
「どうやら特別なのはうしろのデカブツ一匹だけで、あとは意志持たぬ端末のようだ。あれを潰せば、それで終わる」
きちきちと蜘蛛脚を鳴らすガーベラに、大勢の『十文字達也』がびくりと震えた。
「……やっぱり怖いな」「あんたは怖い」「おれなんかとは存在からして違う」「妬ましい」「羨ましい」
どこか恨めし気にいう『十文字達也』に、ガーベラはかたちのいい鼻をつまらなげに鳴らした。
「黙れ。貴様如きが妾を呑もうとは笑止千万。弱った獲物を掻っ攫う腐肉喰らいの分際で、のこのこ出てきたことが間違いだったと知れ。喰らう側と喰らわれる側がどちらなのか、その身に教えてくれよう」
絶世の美貌を誇る少女から、膨大な殺意が噴き出して通路を満たした。
激戦で受けた傷はまだ回復し切っていないとはいえ、樹海深部最強の白い大蜘蛛は健在だ。たかだかクイーン・モンスター程度とは、生物としての格が違っている。
ドッペル・ゲンガー程度の影では、彼女の白は侵せない。物理的な圧さえ伴いそうな殺意の奔流は、まともな感情のない存在でさえ圧倒した。
「う、うう……」
仮面の笑みを浮かべたまま、十文字の姿を借りたドッペルゲンガーたちは震えあがる。すべてが借り物の彼らだが、その怯えだけは本物だとわかった。
だからこそ、おれは不審に思った。
ガーベラのお陰で幻惑は解けている。靄が晴れた思考が、違和感を訴えた。
おれの眷族とは違い、どうも感情というものが希薄らしい目の前のドッペル・クイーンだが、だからこそ、いま覚えている恐怖は大きなものであるはずだ。
なのに、なぜ、こいつは『のこのこ出てきた』のだろうか? こうなることは、わかり切っていたはずなのに……。
「……腐肉喰らいか」「ああ、そうだな」「否定はできない」
疑惑の眼差しの先、『十文字達也』たちが口をひらいた。
「おれではお前に勝てない」「だが、勝つ必要はない」「戦って勝てない相手の対処法はひとつ」「戦わなければいいだけのことだ」
ガーベラが眉を顰めた。
「逃げるつもりか。愚かな。妾がそれを許すとでも?」
加えられる威圧に怯えながらも、『十文字達也』が言葉を途切れさせることはなかった。
「そのつもりだ」「おれは目的を果たした」「あとは逃げるだけだ」「十分に逃げられるとも」「やれるものならやってみればいい」「その間に、なにがどうなってもしらないがな」
その台詞のなかに、聞き逃せないものがあったのだ。
「ちょっと待て。ガーベラ」
おれはガーベラを手振りで抑えて口を開いた。
猛烈に嫌な予感がしていた。
「『なにがどうなってもしらない』だと。お前、なにを知っている?」
無表情な十文字の顔が、一斉にこちらを向いた。
「伝わってくれたようでなによりだ」「このまま、引き千切られてしまうかと思った」「それはお互いにとって都合が悪いからな」「いいさ、教えてやる」「わかりやすく言うのなら、そうだな……」
貼りついたような笑顔のまま、大勢の『十文字達也』が口を揃えて言った。
「おれの名は『ベルタ』じゃない。『アントン』だ」
その言葉の意味を――おれは一瞬のうちに理解した。
通路の向こうから、狼の遠吠えが響いてきたからだ。
「……っ! やられた!」
「ど、どうした、主殿? それに、いまのは……」
呑み込めていない様子のガーベラに、おれは答える。
「こいつはただの時間稼ぎだ。目的は坂上の奪還だ!」
「なんだとっ!?」
こいつが『アントン』だというのなら、他に『ベルタ』が存在するということになる。『話ができるモンスター』は、一体ではなかったのだ。
別行動をとっている同盟騎士団は、気を失った坂上を拘束している。このドッペル・クイーン……アントンがおれたちの気を引いているうちに、ベルタはそちらを狙ったのだ。
同盟騎士団は精兵揃いだ。相手がただのモンスターなら、おれたちが向かうまで耐えることもできるだろう。だが、『話ができる』以上、騎士団を狙ったベルタは、通常のモンスターより強力な個体に違いない。非常にまずい事態だった。
まず最初に考えなければならないその可能性を失念していた。
いいや。そうさせられていたのだ。目の前のアントンによって。
おれたちが理解したことを確認して、アントンが通路をじりじりと後退し始めた。『目的を果たしたから逃げる』という当人の言葉通りの行動だ。本当ならここで逃す手はないが、いまはこいつにかまっている暇がない。
「団長たちのところに急ぐぞ。シランは殿を頼む!」
おれはうしろを振り返ることもなく、一目散に通路を駆け出した。
***
騎士団がおれたちから離れたのは、あくまで十文字との戦いに巻き込まれないようにするためだ。それほど遠くに離れていたわけではない。おれたちはすぐに騎士たちと合流することができた。
通路に騎士たちが倒れていた。
壁に叩きつけられた者、薙ぎ倒された者を、無事だった者が介抱している。そのなかには、団長や幹彦の姿もあった。
「孝弘さん!」
おれの姿を認めたケイが、金色の髪を振り乱して走ってきた。
泣き顔の彼女に抱きしめられてぐったりとしている子狐の姿を見て、おれの顔面から血の気が引いた。
「あやめ!?」
大声をあげたのは、おれのすぐうしろにいたガーベラだった。
駆け寄ってくるアラクネの姿を見て、小さく悲鳴をあげて逃げ腰になりかけたケイだったが、おれと一緒にいる彼女が敵ではないことはすぐにわかったらしい。その場に踏みとどまった。
おれはガーベラとともに、拙いながら回復魔法を掛けているケイの腕のなかにいるあやめを覗き込んだ。
「……よかった。息はある」
まずはほっとした。
こう見えて、あやめはただの仔狐ではない。モンスターなのだ。それなりに頑丈にできている。
おれはリリィを呼んで、傷ついたあやめに回復魔法を掛けてもらった。
そうして改めて、ケイに向き直る。
「なにがあった?」
「ふたつ首のある狼が襲い掛かってきたんです」
双頭の巨大な狼。そいつがベルタだろうか。
苦い思いが込み上げる。おれたちは、まんまと裏をかかれたというわけだった。
「あやめちゃんは、わたしを庇って……ごめんなさい」
「いや。謝ることはない。話をしてくれてありがとう」
落ち込むケイの頭をぽんと叩く。彼女を責めても仕方がないことだった。
「あとのことはおれに任せて、ケイはシランと一緒に怪我人の治療をしてくれ」
「……え? シラン、姉様? 姉様がいるの?」
姉のものに似た蒼い目を見開いてケイが言ったところで、遅れてこの場に到着したシランが、こちらに駆け寄ってきた。
「孝弘殿。アントンですが、いまのところ、追いかけてくる様子はありません」
「そうか」
隙のない彼女には、殿として後方を警戒してもらっていた。いまも視線は来た方角を向いたままで、警戒を解かない硬い調子で報告する。
「ひとまずは、安全かと思います。ただ、しばらくは様子見を……」
「シラン姉様!」
姉の姿を認めたケイが、シランに抱きついた。
そのまま、ケイはわんわんと泣き始めてしまう。
「ケイ……」
困った様子で、シランはケイの頭に手を置いた。
一度は失われたと思った姉との再会だ。感極まるものがあって当然だろう。
彼女のことはシランに任せることにして、おれはあたりを見回した。
坂上の姿はどこにもない。既に奪われてしまったあとのようだった。
不幸中の幸いだったのは、目的が坂上の身柄の奪還であったためか、騎士団を含めて死者が出なかったことくらいのものだろうか。
……しかし、なぜ今更と思わざるを得ない。
坂上は一度、おれに殺される寸前まで追い詰められていた。十文字の乱入によってうやむやになったものの、タイミング次第では、坂上はおれに殺されてしまっていてもおかしくなかったのだ。
なのに、アントンやベルタの主――アントン当人の言葉を借りるなら『王』である坂上が大声で助けを求めたとき、なにひとつとして反応はなかった。
あのときは、どちらも近くにいなかったのだろうか?
……いいや、それは考えられない。なぜなら、アントンはさっき『ここにいないローズの名前』を口にしていたからだ。
ローズの存在を知っているのはおれたちだけだ。そのおれたちにしたところで、この砦にやってきてから彼女の名前をオープン・スペースで口にしたのは、一度きり……ベルタに助けを求める坂上の声を聞きつけてやってきたガーベラと合流した、そのときだけなのだ。
アントンがローズの名前を知っていたということは、あのとき、どこか近くに潜んでいて、おれたちの会話を聞いていたということになる。
それなのに、アントンは坂上を助けなかった。
思い返してみれば、坂上はアントンには助けを求めていなかったが、まさか『自分の名前が呼ばれなかったから』なんて馬鹿げた理由もないだろう。今更になって助けるのもわからなければ、『王』とまで呼んでいた相手を一度は見捨てたというのも腑に落ちない。
どうも状況がちぐはぐに感じられてならなかった。まるでなにか前提を間違っているかのような……。
「ねえ、ご主人様」
「なんだ、リリィ。……ああ、応急処置が終わったのか」
呼ばれて視線を向けてみれば、リリィの腕のなかで、あやめが小さく寝息をたてていた。
「これでひとまず、あやめは大丈夫だな」
小さな体を撫でてやって、おれは思考を切り替えた。
「……よし。だったら早く、坂上を追おう」
いまから追いつけるかどうかはわからないが、ほうっておくわけにもいかない。せめて、この砦にいるのかどうかくらいは確認しておかねばならなかった。
「シランはここに残ってもらうとして、ガーベラはついてきてくれ。リリィもこっちだ。お前の『鼻』が必要だからな」
「うん。それはもちろん、オッケーなんだけど……」
頷いたリリィだったが、なぜかその表情は思案げなものだった。
「リリィ?」
「うーん。あのね、ご主人様。その、『鼻』について話があるの」
水を向けると、リリィはファイア・ファングの嗅覚を擬態可能な自分の鼻を指先でつついた。
「なんだ、改まって」
「う、うん。わたしの勘違いかもしれないし、そんなのありえないって思うんだけど」
リリィは妙に歯切れが悪かった。不審に思いつつ、おれは彼女の話に耳を傾ける。
「さっきのアントンからね……においが、したの」
「におい? なんの?」
自分でも半信半疑と言った様子を見せるリリィから返ってきた答えは、おれをいたく困惑させるものだった。
「……探索隊の、渡辺芳樹」
それは、十文字に首を飛ばされたもうひとりのチート能力者の名前だった。
「渡辺芳樹は首を飛ばされて死んだはず、だよね。だからわたしも、勘違いかなって思ったんだけど……」
覚束ない口調でリリィは続けた。
ふつうに考えたら、渡辺のにおいがアントンからする理由がない。
とはいえ、ここでわざわざ口にしたということは、本当にリリィは渡辺のにおいを感知したのだろう。とすると、それは……。
「……ねえ、孝弘」
声を掛けられて視線を巡らせれば、そこには幹彦の姿があった。
「いまのって本当?」
おれたちの会話を聞いていたらしい。
「それって、あいつが生きていたってこと?」
「いや。さすがにそれは有り得ない。あいつは確かに……」
「可能性だけならあるんじゃないかな」
幹彦はかぶりを振った。
「リリィさんが言っていたじゃんか。覚えてない? ほら、おれと孝弘が、『兵士たちのなかにドッペル・ゲンガーが紛れ込んでいる可能性』について心配していたときのことだよ」
「わたし……?」
驚いた顔のリリィに、幹彦が視線をやった。
「リリィさんはさ、『ドッペル・ゲンガーについては、それほど気にしなくてもいい。さっきの内壁の上みたく兵士がひしめいていたら、どれがそうなのか判別つかなくて大変だけど』って言ったんだよ。それってつまり、あの場で渡辺がドッペル・ゲンガーに成り変わっていたとしても、わからなかったってことじゃないの?」
「あっ」
リリィが小さく息を呑み、幹彦が頷いた。
「ましてや、十文字があの場を吹き飛ばしたのは、おれたちが着いてすぐのことだったんだ。そういう可能性は、十分にあるんじゃないかな?」
◆あとちょっとだけ続きます。一話分かな。
昨日中に終わらせたかったですが、ちょっと眠過ぎて無理でした。
(前書きに『本日三回目の投稿です』と書く野望は潰えた……)
◆多分、ラストの投稿は今日か明日。
それが無理なら週末で。






