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モンスターのご主人様  作者: ショコラ・ミント/日暮 眠都
2章.モンスターを率いる者
41/321

23. 日常の崩壊

前話のあらすじ:


(前略)


「なかなか厳しい状況ですけど、ローズさんはどうするつもりですか?」

「一か八かになりますが、この斧を投げつけようかと――」

「言うと思いましたけど、やめたほうがいいと思います」

「――えいっ」

「角度的に多分、そうするとあのスライム、ここに落ちてきちゃ……きゃあぁああ!?」


落ちてきた。

   23



 ――チリア砦滞在三日目。

 前日と変わらず、穏やかな朝だった。


「……眠い」

「ご主人様は相変わらず朝弱いねえ」


 呆れたような、それでいてどこか微笑ましげなものが混じった声でリリィが言うのを聞きながら、おれは欠伸を噛み殺した。


 まだ空も薄暗い早朝。おれたちは部屋でシランが来るのを待っている。

 昨日のうちに、剣を教えてもらう約束をしているのだ。


 シランは早朝に体を動かす習慣があるらしく、それに付き合いませんかと誘われるかたちだった。


 シランは良い教師だ。我流で剣を振っていたおれにとって、昨日の訓練は期待していた以上に学ぶところが大きく、充実した時間だった。そんな彼女からもう一度指導が受けられるというのだから、早朝だからといって文句なんてない。


 ただ、ひとつ残念なのは、そのあとでシランは朝から昼頃まで砦を出て哨戒任務に当たると言っていたことだ。本来なら樹海深部へと長期の遠征に出ていたシランには休暇が与えられるはずだったのだが、所属する同盟騎士団の人手不足から休日を返上する羽目になったらしい。


 じっくりと話をするだけの時間があれば、おれは彼女に話したいことがあった。大事な用だ。しかし、それはまた今度にするほかなさそうだった。

 もっとも、急ぐ理由も特にない。

 この砦にいる以上、その機会はいくらでもあるのだから。


 おれが半分寝ぼけているうちに、身支度も含めた応対の準備はリリィが整えてくれた。なぜか普段の五割増しでつやつやした笑顔の彼女に甘えて、シランが来るまでの時間をベッドに腰掛けて半覚醒状態でいることを許されたおれは、しばらくしてノックの音を聞いた。


 おれの左腕に抱きついて上機嫌だったリリィが素早く立ちあがり、応対に出て扉をあける。

 廊下には片手をあげる、やや小柄な眼鏡の少年の姿があった。


「おっす。おはよう、孝弘、水島さん」

「あれ? どうして鐘木くんが?」


 首を傾げるリリィの向こうから顔を覗かせて、幹彦が部屋のなかにいるおれに手を振った。


「きちゃった」

「……おはよう」

「友人にネタ発言をスルーされた件。つーか、孝弘半分寝てる?」


 部屋に入ってきた幹彦は苦笑気味のリリィに尋ね、その直後にくわっと目を見開いた。


「部屋に男女がふたりきり。眠そうな男。……こ、これが、伝説の『昨晩はお楽しみでしたね』ってやつ!?」

「……昔っからおれが朝弱いのは知ってるだろ」

「あ、そだっけ。たはは、それは失礼。……でもさりげに孝弘、おれの発言否定してないよね。そのあたりどうなん、水島さん?」

「え? あ、うん。――どうだろうね。ふふ」

「意・味・深ッ!? 訊かなきゃよかった! 団長慰めて! ……って無理か。あの人ガード固過ぎんだよ畜生だけどそんなところも好き!」

「……お前は朝から元気だな」


 ただまあ、お陰で目は覚めたかと、おれは少し痛む額を押さえて頭を振った。


「それでお前、こんな朝早くからなにしに来たんだ」

「ん。あー、まあ。それなんだけどね」


 改めておれが尋ねると、幹彦は少し恥ずかしげにぼさぼさ頭を掻いた。


「孝弘がシランさんに剣を教わるって聞いたから、おれも混ぜてもらおうかと」

「幹彦が? それはまた、どういう風の吹きまわしだ?」

「……うーん。えぇっと、話が進まないからこの際、言っちゃうけどさ」


 幹彦は眼鏡の下で、その目を泳がせた。


「おれもたまにシランさんに訓練つけてもらってるんだよ。だからまあ、そういうこと」

「……」


 努力している姿を見られるのが恥ずかしい――こいつがそういう性質をしていることは知っている。

 おれは小さな笑いの発作に襲われた。『相変わらず』なのは、どうやらこいつも同じことらしい。


「それにほら、孝弘と一緒だったら、少なくとも勇者ノリの連中とチート覚醒目指して体動かすより、楽しいし。シランさん、団長の信頼厚いしさ。あと、おれも一応、身体能力の強化と簡単な魔法くらいなら使えるから」

「ああ。なるほど。進捗が同じおれと一緒に訓練を受けた方が効率がいいってことか。……しかし、おれは魔法は使えないぞ」

「おれだって使えるのは、せいぜい第一階梯の水属性魔法くらいだって。といっても、これを教わってなかったら樹海のなかで野垂れ死んでただろうから、これはこれで、これまで十分過ぎるくらい役には立ってくれたけどね。身体能力強化はここに来てから教わって、それからはもっぱら『こっち』を鍛えてる。魔法よりまだ可能性はありそうだからね」


 そう言って幹彦は、腰にある短剣の柄尻をきんと指先で弾いた。


「そういえば、幹彦は短剣を使うのか?」

「おうさ」


 刃渡り三十センチほどの頑丈そうな拵えの短剣が四本、幹彦の腰には下がっている。

 しゃん、と音をたてて、幹彦は二刀を逆手に引き抜いた。その滑らかな動作は堂に入っている。これだけでも、幹彦が真面目に鍛錬に取り組んできたことがうかがえた。


「……二刀流?」

「そ。カッコイイっしょ?」


 こういうところは幹彦らしいが。

 予備の武器もきちんと用意しているあたり、お遊びではなく実戦を想定してはいるのだろう。剣をおさめた幹彦は胸を張って言った。


「目指すは武芸百般。おれは団長の騎士になりたいかんね。とりあえずとっつきやすい武器から手に馴染ませようと思ってシランさんに師事してるってわけ。それで、肝心のそのシランさんは?」

「おれたちも待ってるところだ。もうそろそろ来るんじゃないかと……」


 言いかけたところで、ノック音。

 噂をすれば影が差すとでもいったところか。再びリリィが扉へと向かった。


 今度こそ、現れたのはシランだった。兜を脇に抱えて、エルフ特有の透明感のある清楚な容姿を、今日は白い鎧で覆っている。今朝からあると言っていた哨戒に備えてのことだろう。


「おはようございます、孝弘殿、美穂殿。……おや。幹彦殿もいらっしゃいましたか」

「ああ。おはよう、シラン。……どうかしたのか」


 おれは眉をひそめた。

 控え目ながら整ったシランの表情を曇らせるかげりを見つけたためだった。


「申し訳ありません、孝弘殿。鍛錬の件についてなのですが、少しお待ちいただいてもよろしいでしょうか」


 憂い顔のシランが頭を下げた。


「別にそれは構わないが。なにかあったのか?」

「ええ。それが、今朝の訓練の準備をするよう言いつけておいたケイの姿が、どこにも見えないのです」

「……なに?」


 思わずおれは目を細めた。


「このようなことはこれまで一度もなかったものですから、心配でして」


 言葉通りシランは動揺しているようだ。

 彼女がどれだけ姪であるケイのことを大事にしているかということは、おれも昨日の霊廟でのやりとりで知っている。動揺するのも仕方なかった。


「申し訳ありませんが、わたしはこれからあの子を探そうと思います。お約束を破ることになりますから、まずはご連絡をと……」

「事情はわかった。それなら仕方ない。ケイのことを探してやってくれ。……というか、おれたちも手を貸そう」

「え? いえ、それは……」


 恐縮した様子でシランがおれの申し出を固辞しようとしたところで、へらりと笑みを浮かべた幹彦が口を差し挟んだ。


「いいからいいから。おれたちもやることなくなっちゃって暇だしね」


 幹彦はシランの背中を押して廊下まで出た。

 おれたちもその後ろについていく。足をとめた幹彦と、目と目が合った。


「それに、ひょっとしたら、おれたちの側の不始末かもしれないし……ね?」

「幹彦殿? それはどういう……?」

「いいから、シランさんは早く行って」

「は、はあ。それでは、申し訳ありませんが、よろしくお願いします」


 戸惑いながらもシランは頭を下げて去っていく。

 その背中を見送った幹彦が、こちらを振り返った。その表情は厳しい。


「ここに来て三日目。馬鹿が馬鹿やり始めるのには丁度いい頃合いだよね?」

「……幹彦も同じことを考えていたか」


 眉を顰めずにはいられなかった。

 昨日、話をした感触だとケイは真面目過ぎるくらいに真面目な子だ。まさかサボってどこかで遊んでいるということはないだろう。とすると、なにかがあったと考えるのが正しい。

 そして、これまでなかった『なにか』があったとするなら、それは最近この砦を訪れた人間が持ちこんだ厄介事である可能性が高かった。


 シランと違っておれも幹彦も、この地を訪れた転移者が英雄などではなく、ただのティーンの少年少女であることを知っている。こうもちやほやされれば、なにか勘違いをして自分勝手な行動に走る者がいてもおかしくはなかった。


「ちっ、こんなことなら、きちんとあいつらのこと見張っときゃよかった!」


 幹彦が苛々と床を蹴った。


「落ち着け。まだそうと決まったわけじゃない」


 おれは幹彦をたしなめる。


 そうだ。まだそうだとは決まっていない。

 けれど、もしも、もしも『そう』なのだとしたら……


 おれの脳裏に思い浮かんできたのは、自死を選んだ水島美穂の遺体。そして、いつかの山小屋で見た加藤さんの姿だった。


「……とにかく、早く探そう」


 かぶりを振っておれがいうと、幹彦は表情を厳しくしたまま頷いた。


「そだね。なにか見てる奴がいても、シランさん相手だと『勇者への特別な配慮』で口を噤んじゃうかもしれない。おれたちなら立場は対等。聞き出せるでしょ」

「手分けをしよう。おれは水島さんと一緒に動く。幹彦はまた別に探してくれ」

「うん。それがいいと思うよ。馬鹿相手には、水島さんだって危ないかもだから。それじゃ、またあとで」


 手を振って慌ただしく駆け出した幹彦と分かれて、おれたちはケイの行方を探し始めた。


 廊下を早足で歩いていく。慇懃な礼をする兵士たちには、いまは構っていられない。幹彦の言っていたように彼らに聞き込みをするつもりはなかった。


 あれで焦っていたのか幹彦は気付かなかったようだが、おれたちはこの世界の言葉を扱えない。聞き込みなんてできないのだ。長くこの砦にいる幹彦は知り合いに『翻訳の魔石』持ちがいるかもしれないが、おれにはそうした心当たりもない。

 とはいえ、だからといって闇雲に歩き回るつもりもない。


「リリィ」

「わかってる。わたしの『鼻』が必要なんだね」


 以心伝心。おれは昨日シランから剣の手ほどきを受けた部屋へと辿り着いた。


 おれはここで今朝も体を動かす予定だった。つまり、シランから準備を言いつけられたケイは、ここか、あるいはその近くまで来ていた可能性が高い。


 おれはリリィにファイア・ファングの狼の鼻を擬態してもらい、最新のケイのにおいを追ってもらった。

 リリィに先導されて、おれの足はどんどん人気のないほうへと向かっていった。

 すんすんとリリィが鼻を鳴らした。


「古びた鉄の臭いがするね。多分、武具だと思う」

「とすると、このあたりは保管区域ってところか」


 わかりやすくいえば倉庫だ。道理で人気がないわけだ。

 こんなところで、ケイはなにをしているのか。……なにをされそうになっているのか。嫌な予感が現実味を帯び始める。自然、歩が速まった。


「……いた」


 ほどなくして、おれたちは人気のない廊下に金髪の少年少女のふたり連れを発見した。


 一方は透明性の高い生来の金髪をもつ少女。その手首を握っているもう一方が、根元が黒くなりつつある染色をした金髪の少年だった。


 少年は年端もいかぬ少女を引きずり、部屋に連れ込もうとしていた。少女は幼くも整った顔立ちを怯えに引き攣らせて、抵抗できずにいるようだ。


「……」


 想定していた最悪のケースだった。

 ただ、最悪の事態までには至っていない。


 どうやらおれは間に合ったらしい。


 足早に近づいていくこちらの存在に少年が気付いた。

 眉をひそめて、不快げに表情を歪め、少年はなにかをわめいた。

 昨日の朝に遭遇したときよりも、随分と態度が大きい。

 なぜだろうかと考えて、おれはあのときとは少し状況が違うことに気が付いた。


 ここには探索隊がいないのだ。

 わかりやすくて嫌になる。


 納得したおれは歩をゆるめることなく距離を詰めると、汚い罵り文句を投げかけてきている少年の頭を鷲掴みにした。


 問答無用だ。


 少年が反応する前に、少女が連れ込まれようとしていた部屋の扉へと顔面を叩きつける。

 鼻血を噴いた少年が、悲鳴のひとつもなく意識を失って倒れた。


 まるで隙だらけだった。自分勝手な欲望で他人を傷つけようとしておいて、自分だけは攻撃されることはないとでも思っていたのだろうか。リリィの手を借りるまでもなかった。


 だがまあ、こんなものなのかもしれない。

 厳しい戦闘訓練を受けたわけでもなく、死線に立った経験があるわけでもない。どんな種類の覚悟があるわけでもなく、いまだって勇者という特権を盾にしてやりたい放題。ただ暴力を振るう側にしか立ってこなかった――そんな人間が相手なのだから。


 少年から視線を切って、おれは振り返った。


「大丈夫か?」


 尻餅をついて目をまるめたケイが、おれのことを見上げていた。ぽかんとしている。


「……あ。そうか。なにを言ってるのかわからないのか」


 ここには『翻訳の魔石』がない。おれは転移者で、ケイはこの異世界の住人だ。言葉が通じないのだ。

 どうしたものかと頭を掻いたところで、ケイがなにかを叫んで立ち上がった。


「――、――っ! ――!」

「うおっと」


 かなり機敏な動きだったので驚いてしまったが、どうも縋りついてきただけのようだ。口走る言葉におれの名前が何度か混ざっていた。


「――っ、――っ」


 そのままケイは泣き出してしまう。怖い思いをしたのだろう。未遂であったとしても、心になにひとつ傷がつかないわけではないのだ。

 なるべく優しく頭を撫でてやり、もう一度、肩越しに振り返る。


「……」


 そこには、派手に鼻血を撒き散らして倒れる金髪少年の姿があって――


「殺しちゃ駄目」


 ――おれの肩を掴んでリリィが言う。それで、おれは我に返った。

 決まり悪く頭を掻く。明確な殺意があったわけではなかったが、あのままだったらなにをしていたのかわかったものではなかった。


「……悪い」

「ううん。ご主――真島君が、こういう連中のこと大嫌いなのも、その理由も、わたしは知ってるもの」

「……」


 もともと、リリィが水島美穂のふりをしている以上、余程のことがない限りはおれが矢面に立って動くつもりではあった。なので、ここまでは予定通りだ。

 しかし、ここでとどめを刺してしまうのは予定にないことだ。


 今更、必要なときにこの手を血で汚すことを躊躇ったりはしないが、いまは単純に場所が悪かった。

 あの山小屋にいた三人組や、加賀のときとは違うのだ。ここは無法の森のなかではなく、既に人間の領域だということを忘れてはいけない。


 相手が幼い少女に乱暴を働こうとしていた下種であり、恐らくは勇者としての特権から罰せられることはないだろうとわかっても、ここで手を下すわけにはいかないのだ。


 ……一体なにが正しくて、なにが間違っているのか、わからなくなるような話だが。


 割り切れないものを感じつつ、おれは胸に縋りついて泣くケイの頭を撫でた。


「……?」


 と、そこで、おれはこちらを見ている視線に気付く。

 さっきまでは視野狭窄していて見逃していたが、廊下の壁際にへたりこむもう一人の少年の姿があったのだ。


 見覚えがある。『いじめられっこ』の少年だった。なぜか頬を腫らしている。


 おれよりその存在に早く気付いていたリリィが彼のもとへと歩み寄った。


「大丈夫? ええと、きみは……」


 言いかけて、はっと彼女は振り返る。咄嗟におれのほうへと縋りつくように身を寄せたのは、実際は護衛としての本分を果たすためのことだ。


 意識を取り戻した金髪少年――坂上が立ちあがっていた。


「この……このっ! ふざけた真似、しやがって……!」


 鼻血を垂らしながら、坂上は血走った目でおれのことを睨みつけていた。


「こ、後悔……後悔、させてやるっ」

「お前……」


 まったくの逆恨み。どことなく狂気をはらんだ怒りは、いかにも浅い。

 だが、そこには浅はかな人間特有の危うさがあった。


 モンスターを相手にするときとはまた別の危機感が、おれの背筋に怖気を走らせる。

 こういう人間はなんでもする。予感があった。こいつは絶対に、見当外れなこの恨みを忘れない。その結果生まれるのは、目を覆う悲劇だ。


 掛け替えのない尊いものが失われることに、大層な理由なんて必要ないのだ。むしろ、得てしてこういう小物のほうが厄介だということを、おれは経験から学んでいる。


 ケイはいい子だ。

 シランは誠実で真面目に他人に向き合うことのできる少女だし、水島美穂も加藤さんもあんな目に遭っていい人間では決してなかった。


 なのに、どうして彼女たちがこんな奴らに傷つけられなければならないのだろうか?

 おれはこの場でこいつを見逃してしまっていいのだろうか?


 ……この場で排除してしまったほうが、いいのではないか?


 このままでは水島美穂や加藤さんの身に降りかかったような不幸が起こらないとも限らない。というより、既に起こりかけてしまっている。失ってからでは、なにもかも遅いのだ。


 たとえ、おれの立場が悪くなるのだとしても、この場でこいつを……


「後悔させてやるぞ……っ!」


 おれの手が無意識に腰の木剣へと伸びかけた、その寸前。


「――なにをしている!」


 おれたちの間に、男の声が割って入った。

 注意は坂上に残したまま視線を向けると、そこに探索隊の十文字がいた。

 彼は怒りの形相で、こちらへと近づいてくる。タイミングがいいのか悪いのか。こうなってしまえば、おれは手を止めざるを得なかった。


「また揉め事か。今回はなにを……」

「ちっ。なんでもねぇよ!」


 坂上の変わり身は早かった。

 おれのことを憎々しげな目でひと睨みすると、十文字の脇を抜けて足早に去っていく。


「くっ、待て! 坂上!」


 十文字は少し迷ったようだが、おれたちを一瞥したあとで坂上を追いかけることに決めたらしい。


「真島と水島、あと、そっちのは工藤とか言ったか。お前たちにも、あとで話を聞かせてもらうからな」


 あとはこちらの言い分も聞かずに、十文字は行ってしまう。

 去り際に苛立たしげな愚痴が聞こえた。


「まったく。いつまで元いた世界のつもりでいるんだっ。ここは異世界で、なにもかもが違うってことがわからない奴に、なぜおれがわずらわされなければならない……っ!」


 リーダー役も大変なのか、三日目にしてどうやら十文字も随分と溜まっているようだ。まあ無理のない話ではある。十文字だって、チート持ちという以外はただの学生でしかないのだし、坂上のような問題分子がいては頭を抱えたくもなるだろう。


 ――ここが異世界で、おれたちが元いた世界とはなにもかもが違っている。


 昨日も十文字は似たようなことを言っていた覚えがある。確かにそれはその通りだ。

 坂上にはそのあたりがまるでわかっていないというのも、その通りだろうと思う。


 ただ、その一方で、これまで本当の意味での困難に突き当たったことのない十文字に、本当の意味でその『違い』がわかっているのかどうかは、正直なところ、疑問だった。


 おれと違って、彼らは元いた世界の価値観を保持している。『素晴らしいもの』を素晴らしいと気付くこともなく持ち続けていられている。それなのに、なにが違って見えるというのだろうか。


 なんて、そんなふうに思ってしまうのは、それこそ不幸な者が幸運な者に抱いてしまう、つまらない嫉妬心の為せる業なのだろうが――


「……なにを言っているのだか。なにも変わってなんかいませんよ」


 ――と、そんなことを考えていたときだったから、その台詞は妙に強く印象に残ったのだ。


 振り返れば、十文字の登場に気を取られているうちに、ひとり残された『いじめられっこ』が立ちあがっていた。


「きみ、大丈夫? 頭を打ったりしてない?」

「ありがとうございます、先輩」


 気遣わしげにリリィが少年に声を掛けると、少年は線の細い顔立ちに気弱げな笑みを浮かべた。


「大丈夫です。ええ。これくらい慣れてますから」


 意識はしっかりしているようで、立ち上がった際の動作にも危うげなところはなかった。とりあえず、大きな怪我の心配はなさそうだ。


「ん。どうした?」


 そのとき、おれの胸に縋りついてきていたケイが身じろぎをした。


「――、――っ」


 やはりなにを言っているのかはわからないが、なにか主張したいことがあるらしいということはわかった。


「――、――」


 鼻を啜りあげて身を離したケイは、おれたち転移者にはわからない言語でなにかを言って、頬を腫らした少年に頭を下げた。おれはケイから少年へと視線を移す。


「……ひょっとして、お前、この子のことを庇って殴られたのか?」

「あはは。なにもできませんでしたけど。お恥ずかしい限りです」


 愛想笑いをして腫れた頬を掻く。触れて痛みを覚えたのか、唇の端が引き攣った。

 笑みを引っ込めて、少年は軽く頭を下げる。


「先輩が来てくれてよかったです。その子のことはお願いしますね」


 少年はおれたちの脇を通り抜けて去ろうとする。


「ちょっと待ってくれ。えっと……」


 その背中に向けておれは呼びかけようとして、名前がわからずに一瞬口ごもる。

 さっき探索隊の十文字が呼んでいたはずだ。確か……


「……工藤、だったか」


 森のなかで救助された残留組十余名と合流したときに全員の名前を聞いたが、そんな名前を聞いた覚えがうっすらとある。


 ――工藤陸。確かそんな名前だった。


「はい。なんでしょうか」

「さっき、『なにも変わってなんていない』って言っていたが」


 振り返った工藤に、おれは問いかけた。


「どういう意味だったんだ?」

「……ああ。それですか。独り言のつもりだったんですけどね」


 工藤は苦笑をこぼした。諦めたような表情だった。


「強い奴が好き勝手に振る舞える。ぼくたちの世界はいつだってそうだっただろうに、って思っただけです」

「……」


 望まず坂上の子分か下僕めいた関係にあるらしい工藤にとって、たとえ異世界にやってきてしまったところで、世界はまるで変わらない地続きのものに見えている……ということか。


 それはひょっとすると、『変わってしまった』おれ自身と比較することでしか彼らを見ていなかったおれが知ることのなかった、『変わっていない』ことの負の側面なのかもしれなかった。


「変なことを言ってしまって申し訳ありません。失礼します」


 軽く頭をさげて、今度こそ工藤は去っていく。その背中を見送るおれに、リリィが身を寄せてきた。


「どうしたの?」

「いや」


 おれはかぶりを振った。たいしたことではなかった。

 ただ、いまのやりとりに、どこか納得してしまっている自分がいたのだった。


 ――強い者が好き勝手に振る舞える。


 おれたちがかつていた世界では、個人の胸のなかにある道徳心や倫理観、正義感といったものとは別に、法律という規範があり社会の秩序を維持していた。

 そして、そうした仕組みを裏打ちしていたのは、各種の治安維持機構だ。これをわかりやすく警察と言い換えてもいいし、もっと極端な例として軍隊がそれを担っている国を思い浮かべても構わない。


 しかし、おれたちが転移してきた樹海には、そうした『抑止力』が存在しなかった。

 そのために一部の力のある者たちが好き勝手に振る舞った結果が、コロニー崩壊という惨劇だったのだ。


 元いた世界も、あの深い森のなかも、いまいるこの砦でも、人間というものの本質は変わらないのかもしれない。ただ、より強い力がルールを定めているのだとするのなら……


「――、――っ!」


 服の胸のあたりが引かれて、おれは視線を落とした。赤い目をしたケイが、おれのことをじっと見上げている。


「……とりあえず戻るか。シランが心配してる」


 どんな世界であろうと、おれたちにできることは変わらない。大事なものを守るために全力で抗うだけだ。


 益体のない思考を切り上げて、おれはケイの頭をぽんと撫でた。シランのものに似て、精緻に整った顔がやわらかくほころぶ。

 いまは、この笑顔が守れただけでよしとしよう。


   ***


 結局、早朝訓練はお流れになってしまった。

 おれは服を新しいものに着替えてから部屋を出て、砦にいる他の生徒たちと肩を並べて朝食を摂った。


 今日は特に魔法を重点的に教わるのだと『まとめ役』的なポジションにある三好太一が語っていた。昨日の訓練では激しく体を動かしたので、連日それは体力的に厳しいという声があがった結果らしかった。


 朝食の席に工藤の姿はあったが話をする機会はなく、朝の一件絡みか十文字と坂上の姿はなかった。『韋駄天』の飯野はまだ帰ってきておらず、探索隊では戦杖を持つ小柄な渡辺だけが、砦の責任者を含む大勢の人に囲まれていた。


 食事を終えたあとで、おれたちは哨戒のため砦を出るシランのもとに向かい、ケイを預かり部屋に戻った。


 そうして始まったのは、お勉強の時間だ。ただし、教師役はおれたちではなく、幼い少女のほうだが。

 ちいさなテーブルに書物を広げて、ケイはこの世界にいるモンスターについて知っていることを教えてくれた。


「全てのモンスターの起源は樹海にあるんだよな。だったら、樹海の外だと、あまり強いモンスターはいないんじゃないのか?」

「基本的にはそうなります。ですけど、例外もあります」


 おれの問いに、頬を紅潮させたケイが答えていく。

 しっかり握った拳は膝の上で、やや前傾になった姿勢は真剣に答えてくれようとする彼女の熱心さを表していて、なんとも可愛らしい。首からは、指先ほどの大きさの赤い魔石が下がっていた。


「歴代の勇者様が樹海を切り拓いていくうちに、各地に樹海の切れ端が残っているんです。これを『昏き森』っていいます。そこには普通じゃなかなか倒せないくらい強いモンスターが巣を作っていることが多いんです。それこそ、森を削ろうとすれば甚大な被害を覚悟しなきゃいけないくらいの。さっき話をしたうちだと、『グリード・キングダム』とか、『大地の怒り』あたりが有名ですね」

「なるほど。切り取られた樹海が残っているのには、それだけの理由があるってことか」

「はい。逆に定住性がないものでは、樹海の外で災害扱いされているものもあります。こちらは定住性のものと違って被害が甚大ですから、かなりの数が勇者様によって討伐されてます」

「それも勇者の仕事のひとつってことだな」

「そういうことになります。他のケースだと、小国ひとつを支配したモンスターについて語られている伝説もあります。といっても、これは教会では認められていない外典ですけど」

「認められてない?」

「だって、モンスターが理性を持って国を支配するなんてありえないですもん」

「……まあ、そうだな」


 視界の端でベッドに座るリリィがくすりと笑った。


「帝国首都では昔から劇にもなっているそうですよ。悲劇の不死王カール。もともとは魔道に優れた魔法国家の王が、恋人であった女勇者様の死に狂い、ついにはアンデッド・モンスターであるリッチに姿を変じてしまう物語です。不完全なものとはいえ高い不死性を持つリッチであるうえ、強靭な意志力によって知性を残した不死王を誰も倒すことはできず、ついにはかつて女勇者様の率いていた聖堂騎士が派遣され、不死王は浄化の炎のなかに消えるんです」

「ということは、もうその不死王とやらは死んでしまっているのか?」

「ふふ。あくまでこれはお伽噺ですよ、孝弘さん。教会では、狂った王が国を率いて行った、帝国への反乱だって言ってました。何百年も前のひとですから、もう亡くなってて当然です」


 そうか、と相槌を打ち、おれは気付かれないように溜め息をついた。残念だ、と。


 こうしてケイから有名なモンスターの話を聞いているのには、もちろん、意味がある。というのも、人間世界に足を踏み入れたことで、おれたちはこれまでよりモンスターの世界から遠ざかることになる。それはつまり、モンスターを率いて戦力にするおれ自身の戦力増強が妨げられるということだ。


 しかし、人間世界では情報収集をよりスムーズに行えるというメリットもある。


 強大なモンスターの情報を集めれば、おれの眷族となり得るようなレア・モンスターないしはハイ・モンスターと接触することが可能かもしれない。ケイの話を聞く限り、おれという存在なしに意識を持つモンスターがいそうな感もあり、そのあたりも興味をそそられるところだった。


 もちろん、そういった理由がなかったとしても、モンスターの情報を集めておくことには意味がある。樹海の表層部のモンスターについては、特に豊富な情報が存在していた。一口に表層部といっても地域性があり、おれが直接遭ったことのないものもたくさんいて興味深かった。


 また、こんな面白い話も聞くことができた。


「この樹海の北域でも有名なモンスターがいるんですよ。五百年前に確認された白い蜘蛛なんですけど。嘘か真か、この世のものとは思えないようなとても美しいアラクネが、勇者様の英雄譚のなかに登場するんです」


 おれは丁度、口に運んでいたところだった茶を噴き出しそうになった。


「し、白いアラクネ……?」

「あ。興味がおありですか? 五百年前の最深部への遠征では、引き返す途中で疲弊しきっていた軍を散々に蹴散らしたのだとか。軍を守ろうと決死の戦いを繰り広げた勇者様が、既に瀕死の重傷を負われた身でありながら壮絶な戦いを繰り広げられたんだって伝わってます。結果は勝負が付かずに引き分けだったそうです。ひょっとすると、いまでも白い蜘蛛は樹海を彷徨っているのかもしれませんね」


 いいえ。いまはこの砦の近くにいるはずです、とはまさか言えない。


 自意識のなかった頃とはいえ、ガーベラもやんちゃをしていたらしい。いや。以前に話は聞いていたのだが、まさか大将格と戦っていたとは思わなかった。


 ともあれ、このようにケイを部屋に迎えた時間は、なかなか有意義で楽しいものとなった。

 昼食も一緒に摂って、講義は午後になって哨戒から帰ってきたシランが顔を出すまで続いた。


「ケイを預かっていただきありがとうございます。ケイは孝弘殿のお役に立てましたでしょうか」

「ああ。色々と面白い話を聞かせてもらったよ」

「それはよかった」


 顔を赤くしてはにかみうつむくケイを微笑ましげに見たあとで、シランはおれと距離を詰めて声をひそめた。


「頼まれていた件についてですが、孝弘殿と美穂殿の世話役として、ケイを付けることは認められました」

「っ! そうか。それはよかった」


 ケイをおれたち付けの世話役とするように、シランを通して頼んでおいたのだ。

 流石は勇者という立場だけあって、これくらいの我が侭は通るものらしい。もっとも、もともとケイがシランのお付きでしかなく、騎士団での仕事を受け持っていなかったというのも大きいのだろうが。


 このように取り計らった理由については言うまでもない。世話役とはいうものの、実際のところは、おれたちの勇者という立場のもとにケイを庇護したのだ。

 あの場は探索隊が割って入ったことで坂上が引き下がったが、あの手の輩は責任転嫁と逆恨みに長けている。なるべく目の届く範囲にケイの身柄を置いておくに越したことはなかった。


「しかし、未だに信じられません。まさか勇者様が……」

「気持ちはわかるけどな、本当のことだ。まさかケイのいうことを信じてやらないわけではないんだろ」

「ええ。それはもちろん、そうですが」

「おれたちもこの目で見たわけだし、つまらない諍いにもなった」


 シランにしてみれば、勇者というのは生きた伝説であり、信仰の対象だ。まさかそれが、幼い少女に邪な考えを抱くとは想像さえしなかったのだろう。おれの言い分は呑みこみ難いものだったらしく、眉の間に皺を寄せていた。

 とはいえ、彼女には現実をきちんと直視してもらって、自分たちの身を守ってもらわなければならない。


「これはケイにも言っておいたが、なにかあったら、とにかくおれたちのところまで逃げてきてくれ。おれたちだって同じ勇者という立場だ、庇ってやることもできるはずだからな」

「……ありがとうございます。ケイの件ではお手を煩わせてしまったようですし、本当に孝弘殿にはなんと言っていいか」

「気にするな。悪いのは坂上だし、おれは手をわずらわされたなんて感じていないよ。それに、あんないい子が坂上なんかに傷つけられるのを、見て見ぬふりなんてできるはずがない」


 そういっておれが向けた視線に、ケイが気付く。幼い顔に笑みの花が咲いた。


「孝弘さん! 姉様も来たことですし、そろそろ行きませんかっ?」


 駆け寄ってきたケイが、おれの手を引いた。

 早朝の一件があったためか、それとも今日は半日一緒にいたからか、おれにもだいぶ懐いてくれたようだ。


「ああ。わかった」


 ケイも来てしまったことだし、内緒話は切り上げることにして、おれはシランへと視線を向けた。


「シランもそれでいいか?」

「ええ。構いません。哨戒任務は臨時のものですから時間はあります」


 流れてしまった早朝訓練の代わりに、今日はこれからシランに付き合ってもらうことになっていた。


「半日になった休みを使わせてしまって悪いな」

「いえ。これはこちらから申し出たことですから。それに、昨日も言いましたが、どうせ訓練以外にすることなどないのです。孝弘殿は熱心ですから、こちらとしても教え甲斐があります」

「シランの教え方はうまいからな。真面目にやらないともったいない」

「そ、そんなことはないと思いますが……」


 視線を伏せたシランは尖った耳を指先でいじった。それはどうも照れているときの彼女の癖であるらしい。おれは笑いを誘われつつ、ひとつ注文をつけさせてもらった。


「ただ、もう少し厳しくしてくれてもいい」

「……これ以上、厳しくすると怪我をする恐れがありますが」

「骨が折れる程度なら文句は言わない。というか、どうせ回復魔法で治るんだから、思いっきり厳しくやってくれ。そうでないと意味がない」

「は、はあ。昨日も体力の限界まで体を動かしていたようですし、孝弘殿が本気で言っていることは疑いませんが……」


 シランの声は少し呆れていたが、同時にそこには好意的な感情が含まれているように感じられた。


「お話が終わったなら行きましょう、孝弘さん。今日はわたしもシラン姉様に稽古つけてもらうんですよっ。一緒に頑張りましょうね!」


 おれたちの会話が終わったとみたのか、ケイが握ったままだったおれの手を少し強く引く。そんな妹分を見て、シランが困ったように眉を寄せた。


「ケイ。あまり孝弘殿に馴れ馴れしくしては……」

「いいじゃない、シランさん。真島くん、弟はいるけど妹はいなかったって話だし、懐かれて可愛いみたいだし」


 困り顔のシランをリリィが取りなす。


「ですが……」


 がっちりとおれの手を握り締めたままの姪の姿を見て、シランは眉を下げた笑みを作った。


「……いえ。わかりました。申し訳ありませんが、孝弘殿。ケイのことをよろしくお願いします」


 やった! とケイが小さくつぶやいてみんなの笑いを誘う。

 モンスターがうろついている樹海のなかとは思えないほど平和な光景がここにある。きっとシランが守りたいと言っていたものはこれなのだろうと、おれは肌で感じていた。


   ***


 シランが先に行って準備を整えるというので、おれとリリィはケイに付き合うことにした。


 ケイが準備した汗拭きと水筒を持って、シランの待つ鍛錬場へと向かう。ケイは大きな革袋を抱えていたので、他の荷物はおれとリリィとが運ぶことにした。

 革袋にはケイが稽古をつけてもらうための道具が入っているということで、その重みさえ楽しげに少女の足取りは弾んでいた。


 ちなみに、今朝の訓練に参加しようとしていた幹彦にもシランは声を掛けておいたそうで、あいつはあとで合流するという話だった。多分、ぎりぎりまで団長と一緒にいて、将来に向けた勉強を兼ねた手伝いをしているのだろう。


 これまでシランに習ったことを楽しげに語るケイとともに、おれたちは指定された部屋に辿り着いた。


「……?」


 数人が体を動かすのに丁度いい広さの部屋に入った途端、おれは張り詰めた空気を鼻先に感じて足をとめた。


 凛とした横顔を見せて、右手に剣を、左手に大盾を構える完全武装の少女の姿があった。


 ふっと呼気が吐き出される。

 重い鎧を身に着けていながら、踏み込みは鋭く、それでいて滑るよう。いつ振り上げたかもわからぬ剣が袈裟がけに振り下ろされる。切り返し、くるりと頭の上で切っ先が向きを変え、今度は逆袈裟。横薙ぎからの突きの連携。鋼鉄の塊を振りまわしているとは思えないくらいに軽やかに、千変万化の剣技が閃く。


 動きをひとつひとつ確認するかのように、決して動作自体は速くない。なのに、その剣の運びは目で追うことが極端に難しかった。


 あまりにも動きが滑らかで、無駄がないのだ。まず日常で目にすることのない動きだった。きっとこれは、血の滲むような研鑽と命賭けの実戦で得たものなのだろう。ともすると目の前の少女自体、『剣を振るう』ためにある存在と錯覚してしまうほど、少女は剣と一体のものとしてそこに在った。


 これがモンスターとの戦いの最前線で戦う騎士たちの当たり前なのだとしたら、意外と転移者のチート能力などたいしたことはないのではないだろうか……


「……何度見てもすごいな」

「すごいでしょう」


 思わずこぼしたおれの言葉に、ケイが無邪気に同意した。


「それに、姉様は剣だけじゃないんですよ。精霊使いとしてもとっても優秀なんです」


 ケイの声には、姉と慕う少女に対する尊敬の念が溢れていた。


「そもそも、エルフでも精霊と契約できるのは極一部だけです。精霊は契約者を試します。資格なき者が契約に挑めば、待っているのは死だけです」

「試練を超える必要があるってことか」

「はい。必要とされるのは気高き魂。そして、純度の高い祈りとされてます。そのために、わたしたちエルフは幼い頃から厳しい修行を積むんです。それでも、精霊使いに至れるのは極わずかでしかありません」


 きらきらと目を輝かせて、ケイは胸に抱きかかえた革袋をぎゅっと掴んだ。


「わたしもいつかは姉様みたいに……」

「そう持ちあげるものではありませんよ、ケイ」


 不意にシランがふるっていた剣をとめて、こちらに振り向いた。

 集中しているように見えたが、ちゃんとこちらに気付いていたらしい。


「わっ、姉様!? 聞いてたの!?」

「聞こえますとも」


 剣をおさめてこちらに向かってきたシランが指を立てて言った。


「いいですか、ケイ。わたしなど、まだ道も半ばの未熟者です。あなたも来年には従士となり、騎士を目指す身の上。目標とするのは、より高みでなければなりません。わかりますね」

「は、はい。姉様」

「今日はあなたのことも見てあげる約束でしたね。準備してください」

「わかりましたっ」


 完全にお説教モードになったシランの指示に従い、わたわたとケイが部屋に駆けこんだ。持ってきた革袋を置くと、その場でワンピースをがばっと脱いで着替えを始める。礼儀として、おれは部屋から視線を逸らした。


 そんなおれの分もリリィが荷物を持って部屋に入る。仲良くなった彼女たちは、なにやら談笑し始める。

 廊下に残されたおれは、こちらに向き直るシランに声をかけた。


「そう厳しくし過ぎることもないんじゃないか?」

「わたしにはあの子を一人前に育てる義務がありますから」


 ケイに聞こえないよう少し声をひそめて、シランが答えた。


「そうでなければ、亡くなった兄夫婦と、あの子のことをずっと気にかけていた母に顔向けができません」


 そういうシランの姿は、続柄はどうあれ、完全に姉としてのものだった。

 あやめのことを気にするガーベラにも似たところがある。もっとも、あちらは隙も多いが。


「しかし、聞いた感じだと、あの歳で剣も魔法もそこそこ使えるんだろう? 実際、『翻訳の魔石』も使いこなしていたわけだし」


 今朝の坂上の一件だって、抵抗さえ許されない立場の差と、年上の男から迫られるという恐怖と混乱がなければ、おれの手助けなんて要らなかったかもしれない。


 あの歳でたいしたものだと思うのだが、シランは首を横に振った。


「この樹海で戦い抜くためには、まだまだです。それに、あの子にはどうにも迂闊なところがあります。目が離せません」

「自慢のお姉さんのことを話したくて仕方がなかったんだろう。いいじゃないか」


 ひょっとしたら、そうした機会はあまりないのかもしれない。

 シランもケイもエルフだから、話をできるのは気心の知れた身内だけだ。おれたちのように彼女の話に耳を傾ける部外者の存在は珍しいのだろう。


「実際、シランの腕前はたいしたものだ。ケイが自慢したくなるのもわかる」

「そんなことはありません」


 おれは本気で言ったのだが、これをシランは否定した。


「この程度、たいしたことではありません」


 謙遜してそう言っているのかと思ったが、彼女の顔は平静なものだ。

 どうやら彼女は本心からそう言っているらしかった。


「もちろん、わたしも自分にできる限りの努力はしてきたつもりです。……しかし、どうしても、それでは足りないのです」


 シランの表情は優れない。声色はやや暗くさえあった。


「そう。足りないのです。この身では。どれだけ鍛えたとしても、守り切れずに仲間たちは次々に死んでいく」

「シラン……」


 暗い表情をしたシランの目には、この樹海で戦死したという兄や、これまでに弔った仲間たちの姿が映し出されているのかもしれなかった。


「我らにできることはあまりに少ないのです。年々村は消え、人は喰われ、徐々に森は世界を浸食していきます。たとえこの手に剣を持ち命を賭けて戦ったところで、我々ではそれを喰いとめることが精一杯。一度失ってしまえば、もう二度と取り返すことはできません」


 みしりと音がして、シランの拳が握りしめられる。


「だから……」


 不意にシランの澄んだ蒼い瞳が、おれたちの――彼女たちにとっての『勇者』の姿を映し出した。


「孝弘殿は、我々と勇者様方との大きな違いがなにか知っていますか?」

「違い……? そんなものがあるのか?」


 訝しく眉を寄せたおれに、シランは頷いた。


「ええ。異世界からまかり来た稀人たる勇者様方と、我らとの違いは、魂にあると言われています。魂の持つ力が、強大な能力を生み出しているのだと。人の本質は肉ではなく魂にあります。つまり、我らと勇者様方は本質からして違うのです」


 ……そんなことはない、もしも違いがあるとしたらそれは単に生まれた世界が違うだけだ。


 そうおれは思ったが、それを軽々しく口に出すことはできなかった。

 静かなシランの言葉には、独特の重みがあったからだ。

 きっとそこにあるのは、努力して、努力して、努力して……それでも届かなかったものへと抱く、諦めきれない羨望だろう。


 それは『作り上げられた勇者像』を偶像として、信仰というかたちで結実しているようにおれには思えた。


 この、『作り上げられた勇者像』というのは、勇者の伝説について話を聞いたときに感じたことだった。


 シランが語る伝説のなかで、異世界より降臨した勇者たちはみな、苦しむ民衆を救うために戦いに身を投じていた。たったひとりの例外すらなく、だ。


 義を見てせざるは勇なきなり。なるほど、それは素晴らしいことだ。

 しかし、そればかりでは綺麗過ぎる。人間というのは造花ではない。十人十色というのは必ずしもいい意味ばかりではなく、不幸を見て同情する者もいれば、冷たく目を逸らす者もいるものだ。

 これまでこの世界に転移してきた人間が全員善人なんてことは有り得ない。それならおれたちの世界に警察は必要なかったはずだ。あまりに綺麗過ぎる勇者の伝説には、歴史の改竄があり、捏造が存在することを意味している。『作り上げられた』というのは、そういうことだ。


 しかし、それもまた一概に悪いことだとは言えない。

 泥にまみれた本当よりも、ときに綺麗な作り物が必要とされることだってあるのだから。


「『ここは願いが叶う世界なのだ』と、初代勇者様はおっしゃったそうです」


 シランの声には熱があった。


「あまりに簡単な言葉であるために解釈については諸説ありますが、いまよりもっと人が追い詰められていた暗黒の時代に、『望みを捨てるな』と人々を励ますために残された言葉だというのが主流です。わたしもまた、この言葉に励まされてきました」

「……」


 おれには初代の『ここは願いが叶う世界なのだ』という台詞は、『なんの力もなかった平凡な自分だって、ここでなら夢に見たような英雄になれる』といっているようにしか聞こえなかった。

 しかし、シランたちにとっては違うらしい。


 ただ、それを口に出して指摘する気には、やはりならなかった。シランにとって、その幻想は大事なものだ。それを壊すような無神経なことを口に出せるはずがなかった。


「あと数年足らずでケイも戦場に出るでしょう。騎士団の損耗率から考えると、あの子もまず生きて村に帰ることはないでしょう。それに、たとえなにか事情があって故郷に帰ったところで、あの村がいつ森に呑みこまれてしまうことかわかったものではありません。そして、そんな現状をわたしはどうしようもないのです。わたしには、数千年続いてきたこの果てなき戦いを、あの子が戦場へと出る前に終わらせることなんて到底できないのですから……」


 稽古着に着替え、皮の防具類を身につけていく姪の姿を、シランはどこか悲しげな目で見つめていた。


「わたしは無力で、どうすることもできなくて。……だけど、希望は舞い降りました」


 シランはおれたちに微笑みかけた。


「これほど多くの勇者様がこの世界を訪れたことは前例がありません。ひょっとしたら、今代こそ我ら人類は長年の脅威から解放されるのかもしれません」

「……」


 その微笑みを見ながらおれは思う。

 これは無理かもしれない、と。


 おれはシランにひとつ話したいことがあった。

 昨夜、リリィと話し合った協力者についての話だった。


 おれはリリィたちを率いる主として、信頼できる相手を見極めて協力を頼もうと決めた。

 しかし、相談を持ちかける以上、裏切らないと思えるだけではいけない。この世界の事情に通じている人間を選ばなければ、相手を困らせてしまうだけだ。


 そうして相談相手を探そうと考えたときに、おれの頭にまず浮かんだのがシランだった。

 しかし、シランにとっておれたちという存在があくまで『作り上げられた勇者』のひとりだとするのなら、『誰にも知られずに砦を出て行きたい』なんてことは言えない。

 それはつまり、『勇者として生きていくつもりはない』ということなのだから。


 ……残念だが、これは別を当たるしかないか。

 そう判断をしかけたところで、シランが不意に微笑みを引っ込めた。


「しかし、いまは思うのです。これはわたしの勝手な期待だったのではないかと」

「シラン……?」

「異世界よりまかり来る稀人たる勇者様は、世界という大きなもののために戦う英雄なのだと、わたしは教えられてきました。歯を食いしばって堪えていれば、いつの日か彼らがわたしたちを救ってくれる。それを希望に戦ってきた過去を否定するつもりはありません。しかし……」


 予想もしない言葉に戸惑うおれに、シランは真摯な瞳を向けていた。


「霊廟で孝弘殿は、故郷を、同胞を、仲間を守りたいという、わたしの気持ちがわかるといってくださいました」

「……ああ。言ったな」

「その言葉が嘘ではないことは、剣を振るう孝弘殿の姿を見ていればわかりました。孝弘殿が守ろうとしているのは、決して物語の勇者様が守ろうとしていた世界などというものではないのだと……大事な誰かを守るために、必死になっているのだと感じました。孝弘殿は、わたしと同じなのだと思ったのです」


 シランの言葉にあるのは、同じ思いを抱く者に対する共感だった。

 おれ自身、地下霊廟でシランに対して抱いていたものでもあった。それを、彼女も感じていたのだ。


「実際、孝弘殿は他の勇者様方に対して一線を引いた態度を取っているように見えます。そして、もしもわたしのこの考えが正しいのだとすれば、わたしが孝弘殿に向けていた期待は、わたしの勝手な幻想でしかありません」

「……怒らないのか? おれはシランの期待を裏切ったわけだろう」

「押し付けた期待を裏切られたと憤るのは、あまりに不実というものでしょう。むしろ、わたしのほうこそ孝弘殿には謝罪せねばなりません。勝手に投影した幻想に語り掛けていたわたしのことを、どうか許していただきたい」


 そういうシランの目は、いまここにいるおれのことを見つめていた。


「準備終わりました! ……って、シラン姉様? 孝弘さん? どうしたんですか?」


 稽古着に革鎧を身に着けたケイがこちらに駆けて来て、不思議そうな顔でおれたちを見比べる。リリィはなにか察した様子で、ケイの肩に手を置いてとどめた。


「シラン、おれは……」


 おれは口を開きかける。

 言葉を待つシランが――そのとき、突然、顔色を変えた。


「っ!? お待ち下さい、孝弘殿」


 彼女の振り仰ぐ先に、黄色い光をちかちかと発してじたばたしている精霊の姿があった。


 既視感のある光景だった。

 チリア砦に辿り着く前、グリーン・キャタピラに襲われた直前と同じなのだ。


「モンスターか?」

「ええ。砦の近くにいるようです」


 緊張するおれのことを見て、シランは頼り甲斐のある笑みを浮かべた。


「ご安心を。モンスターの襲撃など、ここチリア砦では日常茶飯事です。実際、今日は我々がこの周辺を哨戒しましたが、異常はありませんでした。恐らく、移動性のモンスター……『トリップ・ドリル』あたりでしょう。たいしたことはありません」


 シランはおれの脇を抜けて廊下に出た。


「恐らく、まだ他の者は気付いていないでしょうから連絡をしてきます。お話は帰ってきてから改めて」

「ああ」


 おれが頷くと、シランは清涼感のある笑みを浮かべた。


「大切なもののために己の全てを捧げられるあなたは、尊敬できる。たとえ、勇者ではないとしても。お話できるときを楽しみにしています」


   ***


「さっきシランさんとすれ違ったんだけど、なに、なんか急な用事?」


 シランが去ってすぐ、幹彦が顔を出した。


「モンスターが出たって言って出て行った。こういうことは多いのか?」

「ああ、それでか。うん。それなりに多いよ。三日に一度は確実にあるかな。大抵の場合、シランさんが最初に気付いちゃって、あんまり軍の歩哨の意味がないとか。高性能レーダーみたいだよね」

「そうだな」


 実際のところは、あやめやアサリナのことに気付けないことからもわかるように、精霊を介したシランの索敵能力で知れるのは『敵が来た』ということだけなので、レーダーとは少し違うが。

 もっとも、それでも十分に有効な索敵手段ではある。幹彦の口振りからも、砦で重宝されていることが伺えた。


「多分、砦に近づいたモンスターを駆除するために、同盟騎士団が出ると思います」


 自分のやや細身の剣の手入れを始めていたケイが顔を上げて言った。おれは首を傾げる。


「砦の防衛は軍の管轄じゃなかったのか?」

「もちろん、軍のほうも防衛体勢は整えますけど、基本的にあの人たちは亀ですから」

「森には出ない、と」

「はい。極たまにですけど、砦まで抜けてしまうのがいて、そうすると、騎士団が文句言われるんですよね。砦の防衛は軍の仕事なのに、酷いと思いません?」

「まあ、文句言うなら自分らで出ろって話ではあるよね」


 憤慨するケイを見て、幹彦が苦笑した。


「とはいえ、そういったら今度は、森のなかは騎士団の管轄だろって話になるんだろうけど」

「……面倒な話だな」

「組織なんてそんなもんでしょ」


 眉を下げたおれの言い分に肩をすくめてみせた幹彦が、なにかを思いついたとでもいうように指を鳴らした。


「そうだ。孝弘さぁ、折角だから見学してみない?」

「見学……って、モンスターとの戦闘をか?」

「そそ」


 それは魅力的な提案に思えた。

 正直なところ、異世界人の戦闘というのには興味がある。なにか参考になることもあるかもしれない。


「見られるのか?」

「兵士に混じって間近で見たいとか我が侭言わなければね。いや。言い張ればそれだってどうにかなる気がするけど、孝弘、ケイちゃんのこと泣かせたくないでしょ?」

「泣きませんっ! ……反対はしますけど」

「見学自体はいいのか?」


 無理を言って困らせて、幹彦の言うように泣かせたくはなかったので一応確認すると、ケイはこくりと頷いた。


「北東の見張り塔からにしましょう。あそこなら、砦のまわりを半分くらいは見渡せますから」


 そういうケイの案内に従って、おれたちは砦を移動した。

 廊下をやや慌ただしく兵士たちが行きかっているのは、モンスターが現れたためか。何度か兵士とやりとりをして通行の許可を得て、おれたちは塔の頂上へと続く螺旋階段に辿り着いた。


「そういえばさ、孝弘」


 階段を登っている途中で幹彦が口をひらいた。楽しげな口調だった。


「ケイちゃんをお妾さんにしたって聞いたけど、ホント?」

「お、おめ……っ!?」


 これに反応したのは、おれではなくてケイのほうだった。階段に蹴っ躓いて、転びそうになる。おれはといえば、生憎、付き合いが長いせいで幹彦が馬鹿なことをいうのには慣れていた。


「シランさんにも手を出してるとかなんとか」

「み、幹彦さん、それ、誰が言ってるんですか!?」

「転移者連中は大体知ってるかなぁ。……まあ、触れ回ったのは、おれなんだけど」

「幹彦さん――ッ!?」


 もう完全に相手が勇者だとか忘れて、ぽかぽかケイは幹彦の肩を叩いている。この場にシランがいれば咎めただろうが、いまは幹彦が楽しげに笑っているだけだ。

 完全に愉快犯の顔だが、そこまで考えなしでもないだろう。

 そういうことにしておいたほうが、確かにふたりの身柄は安全なのだ。事後承諾になったこととか、探索隊あたりがうるさそうなこととか、そのあたり文句がないではないが、幹彦は幹彦なりにこのエルフの姉妹を守ろうとしているのだろう。


 こんなやりとりをしているうち、最上階に着いた。

 部屋には数人の兵士がいて、大きく切り取られた窓から外界を警戒している。


「おや。幹彦様、こんなところにどうして?」

「ちょっと見学。こっちは連れね」


 顔見知りらしい兵士と幹彦が言葉を交わした。


「モンスターが出たって聞いたけど、どこ?」

「まだ見えません。いま丁度、騎士団が出るところです」

「おっけ。ならとりあえず、正面か」


 幹彦がいくつかある窓のひとつに近づいた。

 チリア砦は上から見ると多角形のかたちをしているが、どうやらここはその多角形の角にある円塔のひとつらしい。丸く張り出した壁に設えられた窓からは、ゆっくりと開きつつある砦の鉄扉が見えた。

 硝子は嵌まっていないので、窓からは風が吹きこんできている。森のにおいがした。


「……ん?」


 リリィが小さく声をあげた。鼻を鳴らして眉をひそめる。


「どうした?」

「あ、いや。気のせいかな、いまなにか……」

「お! 出てきたよ!」


 リリィが言いかけたところで、幹彦が声をあげた。

 見れば、鉄扉が開ききっている。二十名ほどの全身鎧の騎士たちが門から外に出てきた。見たところシランの所属する同盟騎士の装いだが、流石に今日はもうシランは動員されていないらしく彼女の白兜の姿はない。

 城壁の上には弓矢を持つ兵士たちがずらりと並んでいる。こちらはシランの警告で動いた砦の防衛戦力だろう。


 砦のまわりを囲む堀をまたぐ跳ね橋が降りて、騎士たちが橋を渡り始める。

 最後のひとりが渡り終えたところで、不意に騎士たちが足をとめた。

 なにかあったのだろうかと思ったところで、隣で見ていたリリィがおれの服の裾を掴んだ。


「ま、まずいよ」

「なにが……」


 尋ね返そうとしたおれにも、すぐにその音は聞こえてきた。

 地響きだ。森が震えている。なにかが来る。


 そう思ったときには、緑色の津波が森から溢れ出していた。


 体長三メートル以上ある巨大な芋虫、グリーン・キャタピラの大群だ。

 十匹、二十匹どころの騒ぎではない。森から現れたグリーン・キャタピラのその数は、百は下るまい。砂煙をあげて、怒涛のごとく押し寄せてくる。


「な、なんだありゃあ」

「嘘だろ、おい。おれは夢でも見ているのか……」

「な、なんでこんなたくさん……お、おいっ、やばいぞ。早く跳ね橋をあげないと!」


 見張り塔にいる兵士たちがざわめく。彼らの反応からも、これが異常事態であることは明らかだった。


 驚愕に反応が遅れたのか、ようやく跳ね橋が上がり始める。

 それと同時に、城壁の上から矢が放たれ始めた。魔法による炎弾が混じり、門前の空間は鉄と火が混じる死地と化した。


 ……しかし、それはあくまで常人にとっての話。押し寄せる怪物の波はとまらない。

 矢が刺さる。表皮が燃える。しかし、この程度の攻撃では、生命力の強いグリーン・キャタピラは殺せないし、とめられない。

 元々、恐らく砦の防備は数体程度のモンスターに多数の攻撃を集中させることを前提にしていたのだろう。それが分散してしまっては効果が薄いのも当然だった。


 大群の尖峰はついに跳ね橋へと差し掛かった。

 そこには、跳ね橋を渡って帰ることのできなかった――いや。砦へ帰らずその場を死守することを選択した騎士たちの姿があった。


 いくら深く掘られているとはいえ、こんな堀ではモンスターの侵攻を喰い止めることはできない。もともと足どめを想定された設備でしかないのだ。

 しかし、拠点防衛においてはその足どめが重要だ。堀を超えるためにまごついている敵はいい的になり、防衛側を有利にさせる。しかし、それも跳ね橋を押さえられてしまえば効果は半減だ。


 故に跳ね橋を渡らせるわけにはいかない。騎士団二十余名を率いる現場のリーダーは、そう判断したに違いなかった。

 離れたここまで届く、鋭い号令が下された。


「総員、突撃ィイイ!」


 重厚な鎧に身を包みながら、あまりにもちっぽけに見える二十余名の騎士たちが蟲たちへと突進し……数秒ともたずに、緑の波に呑みこまれた。


「いやぁあ!?」


 口元を押さえてケイが悲鳴をあげた。

 既に騎士たちの姿は蟲の巨体と土煙とに隠れて見えない。尊い犠牲のもと、稼がれた時間だけが彼らの残したものだった。

 しかし、それは貴重な数秒間だ。

 彼らの犠牲によって、跳ね橋があがる時間が稼がれたのだから。


 ……そのはず、だったのだ。

 なのに、どうして、あの跳ね橋は途中でとまってしまっているのだろうか。


 中途半端な位置でとまっている跳ね橋に向かって、グリーン・キャタピラの巨体が跳ねた。何匹かは堀の底に落ちたが、残りが橋に取りついた。


「おい。おいおいおいおい。冗談だろ、よせよ、おい。やめろ!」


 幹彦が引き攣った声で怒鳴る。

 おれたちが見守る前で、しがみつく蟲の数が増えるたびに橋は勾配を緩くして、ついにはその重みに耐えかねて対岸に落ちた。


 道はひらけた。もはや遮るものはない。

 芋虫たちは鉄門に向けて全速力で行進する。突撃する。進撃する。みるみるうちに砦の門を塞ぐ鉄扉へと迫る。

 そのまま速度を落とさず、芋虫たちは巨大な鉄扉に激突した。

 轟音とともに砦が揺れた。


「うっ」


 緑色の体液がぶち撒けられた。

 次から次へ。まるで身投げする殉教者のように。あるいは、火のなかに飛び込む蛾のように。なんの躊躇もなく芋虫はその巨体を鉄門に叩き付ける。

 そのたびに、激突した頭部がひしゃげ、崩れて、飛び散った。


 死んでいくのだ。競うように。吐き気をもよおすその在り方はどこかグールのそれを思わせて、生物として最低限存在するはずの生存に対する執着が感じられない。


 しかし、そうした己の体さえ自壊させるほどの攻撃は、確実に砦を壊していく。

 一撃で軋み、二撃で震え、三、四、五と続くと隙間があいた。鉄の扉が揺らいで、傾いで、最後には蝶番が弾けた。同胞の濃い緑の体液を浴びて、緑の濁流と化したグリーン・キャタピラがこぞって門をくぐり抜けていく。


「モンスターが、侵入した……?」


 誰がつぶやいたものか、唖然とした声が耳朶を打った。

 おれが茫然自失としていた時間は、多分、その場では短いほうだった。

 だから、すぐ傍でリリィがはっと体を強張らせるのにも気付くことができたのだ。


「駄目、こっちにも来るッ!」


 門前に釘付けになっていた視線を巡らせれば、そこには空飛ぶ弾丸――体長七十センチを越える大カブトムシ、スタブ・ビートルの群れが見えた。


 次の瞬間、おれたちがいる見張り塔の最上階は、崩落した。

◆遅れました。忙しくて家に帰ってこれなかったよ。

がっつり分量はあるので許してください ・゜・(ノД`;)・゜・

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