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モンスターのご主人様  作者: ショコラ・ミント/日暮 眠都
2章.モンスターを率いる者
39/321

21. 人形の疑問

前話のあらすじ:


加藤さん「ちょ、ローズさん。そこダメ! 下はいま駄目ですから! ちょ、いやだからって、もん……やぁ、まっ、待ってください――ッ!?」

ガーベラ「な、なにをしておるのかの、あのふたりは……っ!?(どきどきどき)」


出歯亀ガーベラちゃん。仲良さそうなんで、ちょっと混ざりたい。

悶々としつつ本編に続く。

   21



「……こ、これからは女の子の格好をすると決めた以上、ローズさんにも専用の服を作ってもらうべきですよねっ」


 やや早口で言った友人を、仮面の下からわたしは眺めた。


 少し乱れた服のうえから体を抱くようにした真菜の顔には、ほんのりと朱が差している。仲の良い友人兼、体の弱い彼女を普段から見守っている文字通りの意味での『保護者』――別れる前のご主人様から頼まれたので、いまは胸を張ってそう言える――としての欲目かもしれないが、顔を赤らめて弱った雰囲気の真菜の姿は普段よりたいそう可愛らしく、見る者の庇護欲をそそる雰囲気があった。

 ともあれ、『普段より可愛らしい』と感じたその反応は、つまり、『普段見ない』珍しいものだということを意味していて、わたしに疑問を覚えさせた。


「――」


 首を傾げる。表情を作る。言葉を発する前に、同時に口を動かす心の準備をする。

 無意識のうちにこれらすべてを連動させるというのは膨大な作業で、そのうえ、ひとつひとつの作業が繊細極まりない調整を必要とするというのだからたまらない。

 人間というのはよくもまあこんな大変なことをやっているものだと感心する。どんな人間でもわたしより優れた処理能力を備えていることは疑いようのないことで、それだけで尊敬に値した。


 ……どうも人形である自分にコレができる日が来る気がしないのだが、泣き言を言っても仕方がない。わたしにできるのは、ただ愚直に努力することだけなのだから。


「真菜?」


 こうした作業を全て仮面の下でこなしたうえで、ようやくわたしは友人へと疑問を投げかけることができた。


「先程から顔が赤いようですが、体調でも悪いのですか?」

「……そうじゃありません。気にしなくていいです。こっちの都合ですから」


 真菜はこちらと目を合わせようとしない。

 ますます不思議な反応だった。わたしは少し心配になってしまう。


「無理をしていませんか。なにか変調あればすぐに言ってください。真菜はあまり体が強いほうではないのですから」

「いや。ホントに大丈夫ですから」


 真菜は両手を体の前で振った。やはり顔は合わせない。


「というか、ローズさんって真面目で勤勉だからわかりづらいですけど、たまにアレですよね」

「……? 確かにわたしはあまり頭のいいほうではありませんが」

「いやいや。そういう意味じゃなくてですね」


 いまひとつ真菜のいうことは要領を得ない。

 このままだと疑問の表情ばかりうまくなってしまいそうだ。それは少し、不甲斐のない話でもある。


「よくわかりませんが、真菜の協力のお陰で作業の目途は立ちました。とりあえず、今回確認ができた上半身から造ってみようと思います。真菜の協力がまた必要になると思いますから、そのときはよろしくお願いしますね」

「ま、またっ、ですか……?」

「なにか問題でも?」

「い、いえ。……わかりました」


 なにかに堪えるように真菜はぷるぷる震えていた。年齢の割にやや幼げな顔立ちは真っ赤になっている。

 この反応はひょっとして……と、真菜の顔を観察していたわたしは、ふと思い至った。

 さっきまでふたりでやっていた、わたしの体躯を制作するために必要な行程であるところの『確認』の最中も、ひょっとしてそうではないかと思っていたのだが……


 もしかすると真菜は、恥ずかしがっているのではないだろうか。


 しかし、だとすると、どうしてだろうか? 真菜が恥ずかしがる理由がわたしにはよくわからない。『触れて確認』というのは、もともと真菜自身の提案だったはずなのだ。実際、そうすることでわたしは、まだまだ問題点はあるにせよ、これだけ精巧な人形の顔を作り上げることができたのだし、である以上、今更そうした手段を選ばない理由がない。

 なのに真菜はどうして、なにを恥ずかしがっているのだろうか。

 恥じる真菜の内面について、わたしは思案する。思考する。想像する。


 ――『人間の感情の機微を理解する』というのは、わたしの掲げている課題のひとつだ。


 真菜は人間の少女としての繊細さと複雑さを備えているので、非常によい考察対象だと客観的にも評価できる。それに、わたしにとってはご主人様を除いてもっとも近くにいる人間であり、なにより親しい友人でもあるだけに、彼女のことを考える時間は退屈しない。

 わたしは真菜のことを理解したい。ご主人様や、わたし自身のことと同じくらいに、初めてできた友人のことを深く知りたいと思うのだ。


「……ふむ」


 そうして真菜が恥ずかしがっているその理由について考えているうち、わたしには思いついたことがあった。


 わたしが真菜を師と仰いで学習したところによると、人間の男性というのは女性の体型というものが気になる生き物らしい。

 そして、それと同じか、あるいはそれ以上に、女性は自分自身の体型を気にするものなのだそうだ。

 具体的には、胸とか、腰回りとか、お尻とか、脚などだ。

 もともと無性的な非生物タイプのモンスターであるわたしにはぴんとこないところもあるのだが、そういうものだと理解することは可能だし、それを前提として仮説を立てることも、やってできないことではない。

 だから、わたしが思いついたことというのは、ひょっとして真菜は、『リリィ姉様に比べて起伏が薄い体つきを気にしている』のではないだろうか、ということだった。

 自分で恥ずべきものだと思っているものを見せてしまったから、恥ずかしさに身を震わせている。なるほど。こう考えれば理屈は通る。

 だとすると、これは友人としてフォローしておいたほうがいいかもしれない。

 真菜の体はまったく恥ずかしいものではないのだから。

 そう判断して、わたしはひとつ頷くと、真菜に声を掛けた。


「心配しなくても、真菜の体はとても可愛らしかったですよ」

「う、うぅう……」


 真菜が真っ赤になった顔を両手で隠してうずくまった。

 撃沈だった。


   ***


「不用意なことを言ってしまったようで、申し訳ありません」

「……いえ。気にしないで下さい」


 わたしは頭を下げて謝った。真菜はいまだに地面にうずくまったままでいる。顔は隠したまま、おさげにした髪の間から覗く耳が赤い。


 ……ちなみに、これは余談ではあるのだが。

 わたしが『人間が肌を晒すことは恥ずかしいことだ』ということを知ったのは、もう少しあとのこと――普段から服を着るような習慣ができてだいぶ経ち、そうした感覚を自分でも実感するようになった頃のことになる。

 ましてや、『それ以上のこと』にまで考えが及ぶべくもない。わたしはまだまだ未熟だった。


「ですが、真菜。嫌なら嫌と言ってくださって構わなかったですのに」


 わたしがいうと、膝を折って座り込んだ真菜は、顔を隠した指の間から覗いた目でちろりとこちらを見上げた。


「……別に、ローズさんに触れられるのが嫌というわけではないですけど」


 少しだけ、その目は恨めしげだった。


「ただまあ、なんか目覚めちゃいそうっていうか。ローズさんって背が高くてすらっとしてて格好いいですし、声も低めで落ちついてて、女の子的にちょっとときめくんですよ。いまは見た目あんまりわたしたちと変わらないですしね。まあ、それはわたしのせいなんですけど」

「ええと、真菜? なんとなく褒められているというのはわかるのですが……目覚める? ときめく? というのは、一体……?」

「いえまあ、そこは冗談なんで、大真面目につっこまれると困っちゃうんですけど。……そう、冗談。冗談。あれは女の子同士のスキンシップ、スキンシップ……」


 再び顔を隠した真菜は、わたしにはわからないことをぶつぶつ呟く。


「真菜?」

「……せめて今度からは水浴びのあとにしてください」


 真菜の要望に、わたしは首を傾げた。


「水浴び、ですか? ええ。わかりました」

「多分、わかってないですよね。……まあいいですけど」


 溜め息をひとつ。

 真菜はかぶりを振って立ち上がった。


「ということで、ローズさんの服を準備しようと思います」

「わたしの服、ですか」


 どうやら立ち直ったらしい真菜の発言に、わたしは話を合わせた。顔に赤みが残っていることには言及せずにおくほうがいいのだろう、ということくらいはわかった。


「ガーベラにわたしの服の製作を頼むということですか」

「はい。どうせなら、ローズさんに似合うものを作ってもらおうと思うんです」

「わざわざですか? 別にわたしはこれで構いませんが。同じものを作ってもらえれば」

「いけません」


 わたしがいま袖を通しているリリィ姉様の服を示していうと、真菜はぴしゃりとこの提案を跳ねのけた。


「いいですか、ローズさん。女の子は毎日が戦争なんです。いうなれば、お洋服は剣であり槍であり斧であり弓矢でもあります。そんな色気のない服装ではいけません」

「……これは、リリィ姉様の服なのですが」

「あんなチートな人を参考にしたら駄目です」

「いえ、あの……別に姉様はずるくはないかと」

「あれだけ美人で可愛くて、好きな人のために尽くすタイプで、おまけにえっちな捕食系。先輩とはパスで心が繋がっていて、好きな気持ちは筒抜けで、耳元でお互いにいつでもラブレター朗読してるような状態なんですよ。これがチートでなくてなんなんですか」


 割と言いたい放題の真菜だった。

 ただ、頷ける部分はないでもない気もする。


「ローズさんだって、どうせなら着飾った自分を先輩に見てもらいたいでしょう?」

「それは……はい。その通り、ですが」

「だったら決まりですね。ガーベラさんに頼みに行きましょう」


 真菜はわたしを説き伏せると、てきぱきと行動の指針を決めてしまう。

 こういった方面で本当に真菜は頼りになる。わたしがあまり気にしないでいる部分がどれだけ女の子として大切なものなのか、折に触れて教えてくれるのだ。

 わたしは普段、戦う力のない真菜のことを気遣う立ち位置にいる。しかし、こうした方面では教わるばかりに回ってしまう。立場はぐるりと反転し、それでいて、それを負い目に思うことなく済んでいるのは、相手が真菜だからだろうか。

 助け合いながら姉と慕い、妹として慈しむ姉妹たちとはまた少しばかり違った感覚。これがつまり、友人という存在なのだろう。

 先に立って歩き始めた真菜の背中を、わたしは追いかけて歩き出した。


「あれ?」


 しかし、真菜はほんの数歩進んだところで足をとめてしまった。

 洞窟の入り口へと目をやって、彼女は瞬きをする。どうかしたのだろうか。


「ガーベラさんがいませんね」

「いない? そんなことはないはずですが」


 ガーベラは見張りをすると言って出て行った。

 てっきり、洞窟の外でご主人様の服でも作っているはずだと思っていたのだが。


「ひょっとして、砦を見に行っているんでしょうか」


 この洞窟が口を開けている急な斜面を、木々を掻き分けて少し登れば、ご主人様が向かった砦を一望できる場所がある。

 ご主人様の姿が確認できるわけではないので、あまり意味のあることではないが、それでも気持ちの問題というのはあるもので、わたし自身も日に何度か足を向けている。

 特にガーベラは頻繁に見にいっており、一昨日の夜などは歩哨らしい金髪の女と目が合った気がすると言って蒼い顔をして帰ってきたくらいだった。そのときには、注意するようにと言い含めたものだったが……


「いえ。それはないでしょう」


 わたしは首を横に振った。


「ガーベラも、わたしたちになにも言わずにどこかに行くほど愚かではありません」

「それもそうですね。とすると、きっと近くに……」


 言いながら歩き出した真菜が、洞窟の入り口から外に出ようとして、再び足をとめた。

 不思議に思いながらも、わたしも彼女の肩越しに入口から外を眺めた。


 そこに、白い蜘蛛がいた。


 ガーベラは洞窟の入り口脇で座り込んでいたのだ。そこは丁度、洞窟のなかからは見えない位置だった。

 どうやらきちんと見張りとしての役目は果たしているらしい。ならば、なにも問題はない。わたしはほっとした。

 ガーベラはあれで抜けたところがあるから、さっきは少し心配したのだが、どうやら取り越し苦労であったようだ。

 ……と思ったわたしは、すぐに彼女の様子がおかしいことに気が付いた。

 気付いてしまった、というほうが感覚的には正しいかもしれない。

 確かにガーベラは見張りの仕事についてはきちんと真面目にやっていた。しかし、ただそれだけというわけではなかったのだ。


「く、くく……くふ、くふふ……くふふふふ……」


 ゆるんだ笑みを浮かべる白い少女の姿が、そこにあった。

 それはもうだらしない、にまにまとした表情だった。

 整い過ぎるほどに整っていながらわたしの人形の相貌のような無機質さとは無縁という、それこそ奇跡のような顔立ちは、とても残念なことになっていた。


「ふふ、ふ、ふふふ」


 ガーベラは腕のなかに抱くようにした蜘蛛糸でできた繭を見詰めていた。

 それが彼女の相好をゆるめにゆるめている原因であるらしかった。


「ふふふふ……ふ?」


 わたしたちが彼女のそんな姿を見付けてしまったのから少し遅れて、本来鋭敏な感覚を持つはずのガーベラがようやくこちらに気付いた。

 ばっと振り返った白い少女の赤い目が、わたしたちを映し出す。ゆるんでいた口元がみるみるうちに引き攣った。


「……ふぁ!?」


 時間が凍りついた。

 わたしも、真菜も、当のガーベラも固まってしまって動けない。

 見てはいけないものを見てしまった――のだろう。洞窟のなかからすぐ見えない位置にいたのは、つまり、わざとそうしていたということだろうから。


「……ローズ殿、かの?」

「え、ええ」


 そういえば、わたしはいま、姿かたちが普段とはまったく違っていたのだったか。

 ガーベラがわたしをわたしとして同定できたのは、洞窟から真菜と一緒に出てきたことと、眷属同士のつながりがあればこそだろう。


「ちょっと思うところありまして、このような姿になりました。ガーベラはいま、なにをして……」

「わ、わわ、妾は……」


 ガーベラは口をぱくぱくとさせて絶句する。

 余程に恥ずかしいのか、本来透けるように白い顔色は真っ赤だ。それきり言葉を継げなくなってしまい、場に気まずい沈黙が落ちた。


 こんなことは初めてで、わたしはどうすればいいのかわからない。

 圧倒的に経験というものが不足していた。

 ああいや。厳密には、こうしたシチュエーションはこれが生まれて初めての経験というわけではない。『見てはいけないもの』というのなら、以前にわたしは、ご主人様とリリィ姉様が裸でキスして同衾している場面に行き遭ったことがあった。どうもあれは見てはいけないものだったらしく、ご主人様が非常に気まずげな顔をしていた覚えがある。

 あのときのわたしはそうした機微に疎かったので、特にそれ自体に関しては、どうとも思うことはなかった。


 いまは違う。

 ものすごく、気まずい。

 成長を感じる一瞬だった。……なにもこんな場面でなくてもいいのに。


 ガーベラも動かない。これまで色々いざこざもあったものの、いまでは曲がりなりにも『妹』と認識している少女は頭をぐらぐらさせていた。

 半ば涙目になっていて、白皙の頬は茹ったように赤い。指先で少しつついたら、ぱちんと弾けてしまいそうな危うさがあった。迂闊には動けない。


 わたしは思わず、隣の友人を頼っていた。

 巡らせた視線に一拍遅れで気付いた真菜は『え? わたし?』と言わんばかりに軽く目を見開いた。口元が引き攣る。


「……あー、えっと。そういえば」


 目まぐるしくフォローの台詞を考えているのか、やや上っ滑りした声で真菜がいう。


「ある種の蜘蛛は卵をくるんで繭を作る、とか水島先輩に聞いたことがあるようなないような……」

「そ、そう……なのですか?」


 あとから考えてみれば、なのだが。

 ここで真菜に頼ったのは、あまりいい判断とは言えなかった。

 繊細で聡明な真菜だが、基本的にその洞察力は事前にしっかりとした準備をしたうえで発揮されるものだ。

 言い換えると、意外と即応力は高くない。

 つい先程、為す術もなくわたしに服を剥がれたように、だ。

 加えていうのなら、わたし自身についてはお察しである。とりあえず、あまりの気まずさから真菜に話を合わせようとしか考えていなかった。


「しかし、卵もなにもガーベラはまだ繁殖行為を行っていないはずですが。少なくとも、ご主人様とは」

「あ、いえ。別にガーベラさんが先輩以外とどうこうなったということではなくてですね。わたしが言いたいのは、つまり、きっとあれは先を見据えた練習なんだってことです」

「練習、ですか?」


 尋ね返すわたしに、真菜はいつもわたしにそうしてくれているときの癖が出たのか、丁寧に砕いて例を挙げて教えてくれた。


「わかりやすく人間でいうと、好きな人との間に生まれる赤ちゃんのために産着を作っているみたいな感じですかね」

「まだそういう関係でもないのに、あんなに愉しそうにですか?」


 わかりやすくいったらダメだった。

 確認をしてしまったのも追い打ちだった。


「――っ!」


 顔を真っ赤にしたガーベラが、声にならない悲鳴をあげて涙目で逃げ出した。


   ***


「……失敗しました」


 真菜はやや気まずげな表情でつぶやいた。


「悪気はなかったんですけど……」

「真菜は『蜘蛛の本能なのだから仕方がない』と言いたかったのでしょう」

「まあ、そうなんですけど。本能だからこそ恥ずかしいということもあるわけで。フォローの方向を間違えました」

「……難しいものですね」


 あのあと我に返って戻ってきたガーベラにわたしの衣服に関する依頼を終えたわたしたちは、砦の全容が臨めるスポットへと向かうことにした。

 顔を真っ赤にして涙目のガーベラの近くにいるのが、大変気まずかったからだ。

 彼女には悪いことをしてしまった。しばらくそっとしておいてやろうと思う。

 反省しつつ、わたしは真菜を補助して斜面を登っていった。


「……む」


 いつものように無頓着に茂みに突っ込むと、木の枝に服がひっかかるのが少し鬱陶しい。これは慣れるまで、多少時間がかかりそうだった。

 わたしは片手の斧の石突を杖のように地面に突き立てて、振り返って真菜にもう一方の手を差し出した。


「平気ですか、真菜」

「だ、大丈夫です」


 少し息を切らせた真菜が、わたしの手を借りて斜面を登る。


「少し休憩を取りましょう」

「い、いえ。その必要は、ありません」


 膝に手をついて息を整える真菜が、わたしを振り仰いで言った。


「わたしももう、随分と長いこと森のなかで生活してますから……いい加減、歩くのも慣れますし、体力もついてます。心配は要りませんよ」

「それでも真菜は小柄ですし、体も華奢で脆いですから、どうしても心配になるのです」


 わたしの言葉を聞いて、真菜はちいさく苦笑した。


「ローズさんって、少し過保護なところがありますよね。まあ、それは素直に嬉しいんですけど」

「真菜が倒れたのは、まだ二日前のことなのですから、心配するのは当然のことでしょう」


 本来なら、真菜は今頃ご主人様と共に砦にいる予定だった。そうならなかったのは、その寸前で体調を崩してしまったからだ。


「ご主人様だって、随分と真菜のことを気遣っていらっしゃいました。自分の体に気を配ってあげてください」


 わたしがいうと、ぴくんと真菜が肩を揺らした。


「……そう、ですか? ローズさんの目からも、そう見えました?」

「ええ。最近のご主人様は真菜のことを気にしていらっしゃいます。いえ。もっと前から表に出そうとなさらなかっただけで、そうだったのではないかと思いますが」


 以前に比べれば、ご主人様が真菜に話しかける機会は増えている。それはどうも、わたしが真菜への魔法の手ほどきの許可をもらったあの夜が境になっているようだ。

 あの夜、彼のなかでなにか変化があったらしい。それが一体どういった心境の変化であったのかは、わたしの想像が及ぶところではないが、それが決して彼にとって悪い変化ではなかったということは察することができていた。

 もともと、なんだかんだともっともらしい理由をつけながらも、ご主人様は真菜のことを気にしていた。彼女のことを疑い、もっとも警戒していた時期でさえ、彼女の体を気遣う台詞を何度も口にしていたことを、わたしはちゃんと覚えている。


 そもそも、まだ余裕のない時期にわざわざ真菜という足手纏いを抱えることにしたこと自体、ご主人様の性質を表している。

 思い返せば、あの頃のご主人様はしきりに『責任』という言葉を使っていた。

 確かにご主人様は元来責任感の強い性格をしているが、どうも真菜に対しては『責任』という言葉をある種の『言い訳』として使っていたふしがある。

 人間不信で人間嫌いのご主人様が、それでも山小屋で保護した女の子を助けるために、彼女のことを助けたいと思う自分のなかの『人がましさ』を守って無意識のうちに自分に対して使っていた言い訳……あの頃のご主人様のことを思い返すと、そんなふうにわたしには感じられるのだった。


 果たしてなにが切っ掛けだったのかはわたしにはわからないが、最近ではそうした気遣いを素直に表面に出せるようになったようだ。その結果、ご主人様と真菜の会話は増えていた。

 いまでは、魔力の扱いについてふたりで伸び悩みを励まし合うようなシーンもあって、そんなふたりを見て素直にわたしは嬉しく思っていた。


 わたしという友人がいるものの、同郷であり、似たような境遇にあり、同じ人間であるご主人様と会話を交わすのは真菜もやはり楽しいらしく、声をかけられているときには嬉しげにしていることが多い。ずっと一緒にいるわたしには、はたで見ていると真菜の口元がほころんでいることがわかるのだ。

 とはいえ、どうやら声を掛けているご主人様本人は、そんな彼女の様子に気付いていらっしゃらないようだが。


「真島先輩に心配をかけるわけにはいきませんね。わかりました、少し休みましょうか」


 おさげを撫でさすりながら、真菜がこくりと頷く。

 説得に成功したわたしは、何度か休憩を挟みつつ真菜をつれて斜面を登っていった。


 やがてわたしたちは小さな崖に辿り着いた。生い茂った木々に邪魔をされずに砦を見渡せる絶好のポイントだ。

 わたしは年月を感じさせる赤茶けた重厚な砦へと注意を向けた。

 あそこにいま、ご主人様がいるのだ。今頃、どうしているだろうか。目的にはどれくらい近づいているのだろうか。なにか困ったり戸惑ったりしていないだろうか。


「……」


 わたしは気付くと、深い森を切り取って聳え立つ砦に意識を吸い取られてしまっていた。

 わたしはリリィ姉様ほどご主人様にべったりというわけではなかったが、それでも、この自我が芽生えてからというもの、ご主人様の顔を一日も見なかったことはなかった。

 自分がいま、ご主人様から離れたところにいることを思うと、どこか落ち着かない気持ちになる。

 彼の傍にいたい、と素直に思う。


 この身に代えてでも、主の身を守りたい。我が身は主の盾なのだと、だから木っ端になろうと守り抜いてみせると、そうした自覚から彼のもとにいたいと願う……

 ……いまは、そうした気持ちばかりではない。


 もちろん、そうした気持ちがなくなったわけでは決してない。むしろ強くなってさえいる。わたしはご主人様を守る盾でありたい。そこは決して変わらないわたしの芯の部分で在り続けている。

 ただ、わたしの人形の胸には、いまは他にもうひとつの気持ちが宿っていた。

 それは、ただ純粋に『ご主人様の傍にいたい』という想いだ。

 眷属としての自分の役目とは関係ない。わたしはただご主人様の傍にいて、彼の存在を感じていたかった。


 それが、『ご主人様に抱きしめてもらいたい』という願いを生んだ感情と同じ起源をもつことは明らかだった。


 いまのわたしは、そうした自分の気持ちを『僭越で身の程知らずなことだ』などと切り捨てずに、大切なものとしてこの人形の胸に抱きしめることができている。

 これはひとえに、隣にいてくれている友人のお陰といえた。


 自分を殺したら駄目だと真菜は言った。なにかをしたいという気持ちを、人形の女の子としてご主人様に抱きしめていただくための努力を、誰にも否定できない大事なものなのだと諭してくれた。

 諦めちゃ駄目だと言ってくれた。

 わたしの願いは叶えられるものなのだからと励ましてくれた。


 真菜と友人となったあの日のことは忘れない。彼女の言葉に支えられて、わたしは自分の心に真摯に向かい始めたのだ。

 いつの日か、いまはまだ胸のなかにあるこの感情に名前をつけることができればいい。そして、それをご主人様に告げることができたのなら――……


「……」


 そうしてご主人様のことを想いながら、どれだけの時間、赤茶けた砦を眺めていただろうか。

 不意に強い風が吹き、木々がざわめいた。

 服がはためき、その慣れない感覚にわたしは我に返った。それと同時に、随分と長いこと、こうしていることに気付く。しまったとわたしは焦った。

 すっかり夢中になって、物思いに耽ってしまっていた。わたしだけならそれでもいいのだが、この場には真菜もいる。彼女にとっては退屈な時間だったに違いなかった。

 ただでさえ、昨日から真菜には何度となくこの場所に付き合ってもらっているのだ。ご主人様のことを想うこの気持ちは大事なものだが、そのせいで友人に退屈な思いをさせてしまうのは違うだろう。


 わたしは反省して、真菜のほうを向き直り――


「……」


 ――自分が勘違いをしていたことに気付いた。


 そこには、ひどく真摯な瞳で砦を見つめている真菜の姿があったのだ。

 ほんのりとちいさな微笑を口元にたたえた姿は、もともと華奢で細い真菜の印象に儚いものを加えている。そうしている彼女は、いまにも消えてしまいそうに見えた。

 そのくせして、その目は砦に吸いつけられて離れない。もちろん、退屈さなんて微塵も漂わせていなかった。

 わたしが見ていることにも気付かずに、ともするとわたしより熱心に、真菜は砦を見詰めている。わたしと同じようにここから見える砦に――ひいてはそこにいる人物に想いを馳せているのだった。


 勘違いというのは、つまりはそういうこと。

 真菜のご主人様に対して傾ける感情の大きさを、わたしはずっと見誤ってきたのだった。


 真菜と出会ってからわたしは、最初は監視として、途中からは友人として、ご主人様よりも長く彼女と一緒にいた。だから、真菜がご主人様と空気を共有していた時間は、大体わたしと同じくらいだということになる。

 言い換えるとそれは、あの山小屋でご主人様に出会ってからこれまで、わたしと同様に真菜もまた、彼の顔を一日と見ない日はなかった、ということだった。

 この件について、わたしと真菜の条件は似通っていた。そして、それに関する反応もまた非常に酷似したものだったのだ。

 だったら、その胸に抱いた想いもまた、同じものなのではないだろうか。


 そうして考えてみると、腑に落ちることもあった。

 かつてわたしとリリィ姉様は、真菜のことを警戒していた時期があった。そのことについて尋ねると、真菜は怒っていないと言っていた。その理由について、彼女は『眷属であるわたしたちに共感しているから』と答えたのだ。

 同じ人間であるご主人様ではなく、わたしたち眷属のほうに共感しているのだと。

 ひょっとしてそれは、わたしと彼女が同じ想いを抱いていたことの証拠ではないのだろうか。


 そうして気付いてしまった事実は、わたしのなかである種の切っ掛けとなって弾けた。

 それを種火と言い換えてもいい。これまで彼女と過ごしてきた時間は導火線で、いま、そこに火がついた。

 加藤真菜という少女がひた隠しにしてきた真実へと、わたしの思考は駆け抜けていく。


「真菜」


 思わずわたしは、友人の名前を呼んでいた。

 これで真菜は我に返った。不自然に数度瞬きをしたあとで、こちらに視線を巡らせてくる。


「ああ。すみません。ちょっとぼうっとしていたみたいです。そろそろ帰りましょうか」


 真菜は何事もなかったかのように小さく笑みを浮かべてそう言った。

 その振る舞いからは、ほんのつい先程まで、あれほど熱心に砦を眺めていたことなど微塵もうかがえない。

 そこにいるのは、いつもの真菜だ。そう。いつもの……ひょっとして、それはつまり、これまでも真菜はずっとこうしていたということだろうか。


 なんだそれは、とわたしは愕然とした。

 わたしは真菜に、自分の心のなかにある大切なものを教わった。真菜がいなければ、わたしはご主人様に向けるこの想いに蓋をして、胸の奥の倉庫に鍵をしめて、放っておいてしまっていたのだ。

 わたしがこの想いを胸に大事に抱きかかえていられるのは、全部、真菜のお陰だった。


 なのに、その真菜が自分の心を蔑ろにしている。なかったことにしてしまっている。そんなことが許されるだろうか。

 そんな友人のことを、見て見ぬふりをする。そんなことが、果たして許されるものだろうか。そんなことで、わたしは彼女の友人と言えるのか。


「どうしました、ローズさん?」


 帰ろうとして歩き出したところ、わたしがついてきていないことに真菜が気付く。

 不思議そうな顔をして振り返った彼女に、わたしは問いを投げた。


「真菜。あなたは、ご主人様のことをどう思っているのですか?」


 ――ぴきり、と感情の薄い真菜の表情に、深く大きなひびが走った。


◆お待たせしました。

申し訳ありません。日をまたいでしまいました……


◆後半はまたのちほど。近日投稿予定。

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