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4. へし折れても

(注意)本日2回目の投稿です。(6/22)














   4




 少女の世界は閉じていた。


 目的に向かってひた走るための足は、もはやまともに動かない。


 そもそも、立ち上がるだけの気力がすでにない。

 なにもかもなくなってしまった。


 ……思えば、苦しいばかりの日々だった。


 転移の混乱から真っ先に立ち直ったのは、自分がどうにかしなければと思ったからだ。

 仲間たちの先頭に立って、恐怖を噛み殺して、まだなにがあるかわからなかった樹海に挑んだ。


 この頃は、まだ良かった。


 気心知れた仲間たちから離れて、崩壊したコロニーの救援のために、騎士たちを守って樹海を旅した。


 仲間のひとりが狂った獣に変わるのを見た。


 ひとりぼっちで荒野を駆け抜けては、偽勇者の噂話を追って、村々を回った。

 宿は着いてすぐ眠るための場所でしかなく、日が昇る前には目覚めて次の旅に飛び出した。


 集落を襲う何百というモンスターを相手取って、限界を出し尽して戦ったこともあった。

 大きな失敗をして失意に沈む仲間の姿を目の当たりにして、なにもできずに立ち尽くした。


 価値観のあまりにも違う相手に、言葉がまるで通じない徒労感を味わった。

 かつて肩を並べた戦友と剣を交えたときは、苦しくて悲しくてやるせなくて、息をすることさえつらかった。


 気の休まる時間なんて、ほとんどなかった。


 それでも、自分にできる限りを尽くしてきた。


 自分が正しいと思うもののために駆け続けた。

 そうすることでみんなが幸せになれるのだと信じていた。


 だから、苦しくても、つらくても、歯を食いしばることができたのだ。


 ……けれど、本当に自分が頑張る意味などあったのだろうか。


 いまとなっては、そんな想いだけが心を侵していた。


 思い知らされてしまったのだ。


 誰よりも速く駆け続けたはずなのに、いつだって、自分が見るのは間に合わなかった結果だけだった。


 ――助けを呼んで戻るはずだったコロニーが崩壊した跡。

 ――放棄されたチリア砦と、そこで失われた仲間たち。


 ――偽勇者騒ぎで失われた村々に、心を壊した河津朝日の姿。


 手の届かないところで、悲劇は生まれ続けた。

 誰より早く駆け付けたところで、終わったあとでは意味がなかった。


 さらには、掲げた正義さえも現実の前に揺らいだ。


 ――同じく正義を掲げているはずのマクローリン辺境伯に言葉は通じなかった。

 ――それどころか、志を同じくしていたはずの神宮司智也にさえ、言葉は届かなかった。


 あのとき、自分の世界はなにかが致命的に壊れたのだと思う。


 それでも、膝を折ってしまわないように堪えた。

 やってきたなにもかもが無駄だったなんて、認めるわけにはいかなかったからだ。


 そして、なにより自分には残された最後の砦があった。


 それが、探索隊という居場所だった。


 絶対のカリスマが率いる正義の一団。

 そのひとりとして、助けになれるなら……。


 そう思うことで、どうにか自分を保つことができた。


 けれど、想いは最悪のかたちで裏切られた。


 リーダーの中嶋小次郎その人が、すべての裏で糸を引いていた黒幕だったのだ。

 その事実を知らされたとき、今度こそ、自分がへし折れたことを自覚した。


 もはやどうすればいいのかもわからない。


 頑張っていれば頑張っていただけ。

 尽くしていれば尽くしていただけ。


 思い返される過去の自分は、愚かな道化としか思えなかった。


 どうしたって惨めで。

 あまりにも虚しくて。


 ……だから、初めてだったかもしれない。

 誰かに助けてほしいと思ったのは。


 けれど、それを口に出すことはできなかった。


 なぜだろうか。

 不思議だった。


 まさか、なにもかもなくしたくせに、まだ自分が助ける側の存在だと思いたがっているのだろうか。


 だとすれば、お笑いぐさだ。


 本当に。

 それでもやっぱり、助けを求めることはできなくて。


 そして、彼女は扉がノックされる音を聞いた。


   ***


 おれは、帝都に飯野が借りている部屋を訪ねていた。


「ああ、真島。なにか用?」


 出てきた飯野は一見、元気そうに見えた。


 戦いの際に重傷を負った脚は、刺されたナイフにタチの悪い毒が使われていたそうで、魔法でもまだ回復できず引き摺ったままだが、それ以外は特に調子が悪そうなふうでもない。

 部屋を訪ねてきた知人に対する、いたって平常の物腰だった。


「まあ、こんなところじゃなんよね。とりあえず入って」


 部屋に通された。


 島津さんからの頼みの性質上、ふたりで話したほうがいいように思えたので、ガーベラと他の護衛には部屋の外で待つように、前もって言ってあった。


 おれがひとりだけで入ってきたことになにか一言あるかと思ったが、飯野は特に気にした様子もなく、部屋に備え付けのテーブルにかけるように促してきた。


「なにか飲み物でも頼む?」

「いや。いい」

「ならいいけど」


 やりとりをしながら、対面に座った。


 飯野から口を開いた。


「来るとは思わなかった。体のほうは大丈夫なの?」

「おれはな」

「それはよかった」

「リリィとシランもほぼ回復してる。明日には、問題なく動けると思う」

「なら安心ね」


 そう言って、笑顔を見せる。

 なにげないやりとりだった。


 日常の会話として、不審な点は特にない。


 これが初対面の人間だったなら、この『いたって常識的でありふれた訪問者への対応』に、なにも思うところはなかっただろう。


「……」


 しかし、飯野優奈という人間を知っている者からすれば、話は別だった。


 違和感があった。

 いっそ、気持ち悪いくらいに。


 どうして島津さんが話を持ち掛けてきたのかを、おれは肌で理解していた。


 ありえないのだ。


 平常のままの態度?

 近況を聞くに終始するやりとり?


 いまは非常事態のまっただなかで、こいつはあの『韋駄天』なのに?


 ……ありえない。


 おれの知っているこいつは、世界を滅ぼそうなんて企みを知っていて、気にする様子を見せないような人間ではなかった。


 なにせ、問題が起こっている場所へと、自分から率先して駆け付けるような正義感の持ち主なのだ。


 普段の彼女であれば、たとえ自分が怪我で参戦できなくても、状況はどうなったのか真剣に聞き出そうとするだろう。

 できることがないかどうか、必死になって探すはずだ。


 それなのに、これはどうしたことだろうか。


 そもそも、おれを相手にして噛み付いてこないのがおかしい。


 ありえない。


「……戦力のほうも集まってる。あとは、リリィたちの回復を待って、戦いの準備を整えることだな」

「そう」


 試しに、こちらから話を振ってみるが、相槌が返ってくるだけだった。


 本当に、これがあの飯野優奈だろうか。


 いや。思い返してみれば、確かに兆候はあった。

 おれたちが追跡部隊として出て行く前には、奇妙なほどの焦燥に駆られた様子を見せた。


 その前から、どこか自信を失っているような、元気のない態度が垣間見えることも幾度となくあった。


 だが、いま目の前にあるこれは違う。

 飯野優奈を飯野優奈たらしめていたなにかが、すっぽりと喪われてしまったかように見えた。


 このとき、自分の胸のなかに生まれた感情を、おれはうまく言語化できなかった。


 ただ、その感情がおれを問い掛けずにはいられなくした。


「おい。飯野。お前、どうかしたのか?」

「……」


 普段であれば「なんの話よ?」と噛み付いてきてもおかしくない。


 けれど、飯野はそうしなかった。


「あなたは尋ねてくるのね」


 そう言うと、少し困ったように笑った。

 あまりにも、彼女らしくない力のない表情だった。


「みんな、気を遣ってなにも言わないから」


 どうやら島津さんは、直接は尋ねなかったようだ。


 できなかったのだろう。

 それくらい、いまの飯野の姿は彼女たちには触れられないものに感じられたということだ。


 気持ちはわかる気がした。


 力ない仕草で、テーブルの向こうで飯野はうなだれていた。


「だけど、そうね。あなたはわたしの仲間でもなんでもなかったわね」

「……」

「なら、いいかな」


 どこか投げやりで、それでいて弱々しく。

 取り繕うことさえ、もうできなかったのかもしれない。


 疲れ果てた声で、告白した。


「わたしはもう、自分がなんのために戦っていたのかわからない」


   ***


「……」


 聞き違いようもない。

 それは、挫折した者の言葉だった。


 頑張って、頑張って、それでも理想に手が届かずに、折れた人間の弱音だった。


「わたしがなにをしても無駄だった。頑張った意味なんてなかったのよ」


 吐き出される言葉に、へし折れた心の無残な断面が垣間見えた。


 いまの飯野はひどく傷付いている。


 きっと、ずいぶん前から限界だったのだろう。


 彼女は何度となく無力さを思い知らされて、現実に傷付けられてきた。


 そもそも、彼女にはなにもしないという選択肢だってあった。


 他の探索隊のメンバーがそうだが、なにもしなければ、傷付くことなんてなかったのだ。

 けれど、彼女はいつでも走り続けた。


 純粋に善意で他人を助けた数で言えば、恐らく、今回の転移者たちのなかで彼女は群を抜いているだろう。


 正義を貫き、弱きを守り、悪を挫くために動き続けた。

 たとえ傷付いても、走る足をとめなかった。


 しかし、中嶋小次郎の裏切りが最後のとどめとなってしまった。


 最後に抱いた想いを踏み躙られて、彼女はついにへし折れたのだ。


「飯野……」


 思いのほかショックを受けている自分がいることに気付いた。


 おかしな話、というほどでもない。


 確かに、互いに気に喰わない相手ではあった。

 だが、少なくともおれにとって、飯野は単に嫌いな相手というわけではなかった。


 この過酷な異世界を生き抜くなかで、おれが諦めたものを彼女は持ち続けていた。


 まったく関係のない人々でも、それがたとえ遠い地の出来事であったとしても、悪事があるとなれば駆け付ける。

 なにもかもを守り抜こうとする。

 まるで物語のヒーローのように。


 そんなことは、おれにはできない。


 おれにできるのは、大事な存在をこぼれないように抱え込むことだけだ。

 そうした生き方を恥じるつもりはないが、かといって、自分にできないことを無意味だというつもりもない。


 むしろ、逆だ。


 以前にも、加藤さんに話をしたことがあった。


 ――自分が諦めたなにもかもを持っている人間を見てしまうと、やっぱり、なにも思わないってわけにはいかないもんだよな。

 ――だけど同時に、自分が諦めたものだからこそ……続いてほしい、その道を貫いてほしいって気持ちも、どこかにあるんだと思う。


 この過酷な世界で、飯野はおれが諦めざるをえなかったものを掲げた。

 強固な意志で、困難な道を駆け続けてきたのだ。


 だが、何事にも限度というものがあったのだろう。


 飯野は強いから、弱音ひとつ吐くことなく堪えていたに違いない。

 本当にぎりぎりまで。


 だからこそ、へし折れたときのダメージは半端なものではなかったのかもしれない。


 それでいて、飯野の性格では、仲間相手に弱音を吐くことなんてできなかったのだろう。

 助けを求めることさえできず、肩をすぼめて視線を落とした姿は弱々しかった。


 思えば、皮肉な話ではあった。

 この世界にやってきて、最も広い地域で活動してきたのが彼女であることは間違いなく、たくさんの人が助けられたはずだ。


 なのに、彼女を助けられる者は、誰ひとりとしていなかったのだ。


 それはあまりにも、むごたらしいことに感じられた。


「お前は……」


 手を差し伸べるべきだと思った。


 口にしてやるべきだと感じた。


 ――お前はもう十分に頑張ったはずだ。

 ――これ以上、苦しむ必要なんてない。


 ――なにもかも無意味だったけれど、やれることはやったんだからそれでいいだろう。


 そう言ってやれば、彼女はきっと救われる。

 楽になれる。


 だから……。


「……」


 そう言ってやるべきだと、思いはしたのだった。


 けれど、どうしてだろうか。


 おれは、その言葉を口に出すことができなかった。


   ***


「……真島?」


 不自然な沈黙に、飯野が疑問の声をあげた。


 上目遣いにこちらをうかがう視線が、続く言葉を待っている。


 わかっている。


 多分、ここで彼女を楽にしてやれば、感謝はされるのだろう。

 これまでみたいに噛み付かれることもなくなるかもしれない。


 それどころか、気に喰わないと互いに思う関係にも……なんらかの変化がありうるのかもしれなかった。


 わかってはいるのだった。


 ……けれど、それと引き換えに、彼女を彼女たらしめているものは、永遠に失われてしまうだろう。


 きっと、彼女自身もどこかでそうわかっているはずだ。


 こんなに弱りながら助けを求める言葉を口にさずにいるのは、きっと、そのためだ。


 彼女自身にも、自覚はないかもしれない。

 けれど、ぎりぎりのところで堪えている。


 なのに、この異世界を駆け抜けてきた彼女に引導を渡す言葉を、おれが口にしてもいいものだろうか。



 他の誰でもない『自分にだけはその資格はない』のに……?



「……ああ。そうだったな」


 そこまで考えたところで、気持ちは定まった。


 改めて、こちらを見詰めてくる飯野を見返した。


 おれはこいつに複雑な感情を抱いていた。

 それでも認めずにはいられなかった。

 自分の道を貫いてほしいと思った。


 多分、それは憧れに近い感情だった。

 だから――そう。だからなのだ。


「飯野。ひとつ訊かせてくれるか」


 口を開いた。


 頭のなかに、ここに来るようにと頼んだ島津さんの顔が浮かんでいた。


 ――真島にしか、できないことだと思うから。


 なるほど。確かに、その通りだ。

 これは、自分にしかできないことだろう。


 仲間であればこそ、気を遣って言えないことはある。


 だが、おれは違う。

 自由にものを言える――たとえ、その結果、嫌われたとしても。


 言った。


「お前、本当にそれでいいのか?」


   ***


「……え?」


 なにを言われたのか最初わからなかった。


 飯野優奈は、ぽかんとした。


 ――ホントウニソレデイイノカ。

 音の連なりだけが耳に残って、意味を咀嚼できない。


 実のところ、彼女は期待していた。


 口に出している悪態ほどには、真島孝弘という少年の評価は、彼女のなかで低くない。


 というより、はっきりと高い。

 とても高い。


 自覚はないが。


 だから、きっとわかってもらえると思っていた。


 けれど、望む言葉は得られなかった。


 それどころか、返ってきたのは無神経としか思えない言葉だった。


 ――本当にそれでいいのか?


 かっと頭に血が上ったのは、至極当然の成り行きだった。


「い……いいわけないでしょう!」


 テーブルを叩き付けて、立ち上がった。


 うまく動かない足のせいで体勢が崩れかけるが、気にしてなんていられなかった。


「あなたに、なにがわかるっていうのよ!」


 恐ろしい剣幕だったが、ぶつけられた少年は平然としていた。

 まるでこの反応を読んでいたかのようだった。


 あるいは、待ち構えていたのか。

 待ち望んでいたのかもしれない。


「ああ。わからないな」


 肯定した。


「おれは、お前の仲間でもなんでもないんだから」

「……っ!」


 それは、さっき彼女自身が口にした言葉だった。


 確かに、その通りではあるのだった。


 目の前の彼は、仲間ではない。

 わからなくて当然で、わかってくれる義理もない。


 慰めてくれることだって。


「落ち込んでいるところ、邪魔をして悪かったな」

「……」


 立ち上がる彼を前にして、言葉も出ない。


 ひどく惨めな気持ちがして、テーブルに目を落とした。


「……嫌なやつ」


 小さく、口のなかでつぶやいた。


 頑張ってきたのだ。

 駄目だったのだ。


 どうしようもなく、傷付いたのだ。


 ……ちょっと優しくしてくれるだけでよかったのだ。


 そう恨めしく思っていたから、扉を開けたところで彼が足をとめたときには、その意図がわからなかった。


「なあ、飯野」

「……なによ」


 今更、なにを言おうというのか。


 そう思った彼女に、別れ際の言葉が告げられる。


「無駄だった。なんの意味もなかった。さっき、そう言っていたよな」


 慰めるつもりはかけらも感じられない。

 裏を返せば、口にされるのは掛け値なしの本音だということで。


「だけどおれは、お前のしてきたことが無意味だとは思わない」


 告げられた言葉に、少女は大きく目を見開いた。


   ***


 本当にそれでいいのかと尋ねた。


 なぜなら彼自身が、到底そうは思えなかったからだ。


 だからこそ『自分にだけは彼女の道に引導を渡す資格はない』と思った。


 憧れにも似た想いを抱いた、自分にないものを持っている相手だった。

 そんな彼女に「無意味でも十分頑張った」なんて、自分でも思ってもいないようなことを言うわけにはいかなかったのだ。


「じゃあな」


 告げるべきことを告げて、扉の向こうに少年は去った。


 ひとりの少女と、なにか大事なものを残して。


   ***


「……なによ、それ」


 呆然と、飯野優奈は立ち尽くしていた。


 自分で否定したはずのものを、思いがけず肯定された事実に混乱していた。


「無意味だとは思わない?」


 言われたままをつぶやき、ようやく理解が追い付いた。


 自分がとんでもない勘違いをしていたことに気付いたのは、そのときだった。


「なんてやつ」


 わかっていないだなんて、とんでもなかった。


 彼はきちんとわかっていた。

 なにもかも。

 そうでなければ、さっきの言葉が出てくるはずがなかった。


 たとえば、ここで『その行いは無意味ではない』と理詰めで諭されたとしても、飯野優奈は納得しなかっただろう。

 なぜなら、彼女自身がそれを無意味だと思ってしまっているからだ。


 だが、真島孝弘はそうしなかった。

 自分の意見として『無意味だとは思わない』と言いきった。


 彼がそう思うことを、否定はできない。


 そして、そうして自分のことを認めた人間が「本当にそれでいいのか?」と尋ねた意味を、彼女は誤解しなかった。


「なんてことしてくれるのよ」


 ぐっと拳を握り締めた。

 その指先に力が戻っていることに、気付かずにはいられなかった。


 それで、自分でもわかってしまった。


 世界中を駆けずり回った。

 徒労とも思えるひどく惨めな想いをした。


 へし折れる羽目にさえなった。


 けれど、それでもだ。


 自分は諦めてしまいたいわけでは、決してなかったのだ。


「嫌なやつ……」


 ぽろりと一粒、涙がこぼれた。


「……きらい。きらいよ」


 自分は彼がきらいなはずだ。

 そうでなければ、おかしい。


 彼女がへし折れたのは、これまでの自分を自分で認められなくなってしまったからだ。


 努力は無為に、気持ちは届かず、想いは踏みにじられた。

 ここでもう一度立ち上がるということは、またあの苦しみに直面しうるということでもある。


 要は、あの少年はまだ苦しめと言ったにも等しいのだ。


 慰めてだってくれなかった。

 だから……


「……だいきらい」


 飯野優奈は、顔を上げた。


 その目にもう涙はなく、弱さもまたなかった。


   ***


「……難儀なことだな」


 部屋を出たところで、ガーベラに言われてしまった。


 耳の良い彼女には、おれたちの会話が壁越しに聞こえていたらしい。

 そもそも、護衛である彼女にしてみれば、なにがあってもいいようにしておくのは当然のことなので、それについては別にかまわないが。


「あれは必要なことだったのかの? 妾には、よくわからんかったのだが」

「ああ。立ち直る切っ掛けを与えるためにはな」

「立ち直る?」

「いくら苦しくても、つらくても、あいつは諦めたかったわけじゃない。自分で自分を認められなくなっていただけなんだよ」


 不可解そうに眉を寄せるガーベラに答えた。


「誰かが認めてやれば、それでよかったんだ。それはもちろん、あれだけ落ち込んでいたんだ。多少の時間はかかるだろうが、あいつはそのうち立ち直るだろう」

「ふむ。あやつを評価しておるのだな。だが、別にそうするのは主殿でなくてもよかったのではないか」

「いや。島津さんたちにはできなかっただろう」

「ぬ?」

「それはつまり、あいつをもう一度、へし折れた世界に叩き込むことでもあるからな」


 もちろん、おれは自分がなにをしたのか理解している。


 その結果も受け止めるつもりでいた。


「そんな残酷なこと、なかなか仲間にできることではないだろう」

「なるほどの。つまりは……主殿。貧乏くじを引いたわけだな?」


 否定はできない。


 溜め息をつかれてしまった。


「妾にもわかるぞ。あんなことを言って。恨まれたのではないのか」

「いいんだよ、別に」


 苦笑して答える。

 本心からの言葉だった。


「どうせ、もともと嫌われてる。今更だ」

「なぜ、そのようなやつにお節介を焼くのだ……」


 珍しく本気で呆れられてしまったらしい。


 ただ、こればかりは仕方なかった。


「お人好しだの」

「それは違う。これは、おれがそうしたかっただけだ」

「ふむ。なら、これ以上は言わんがの。もっとも、実際にあやつがいずれ立ち直るとして、そのような未来を得るためには、やはり『災厄の王』とやらをどうにかせねばならんぞ?」


 ガーベラの言う通りだった。


 おれがしたのは、きっかけを与えただけだ。

 立ち直るまでにはまだ時間がかかるだろうし、足の怪我のことだってある。


 中嶋小次郎をどうにかしなければ、それこそ意味がなかった。


「まあ、負けられない理由が増えるのは悪いことではないだろう」

「ふむ。そうまでして助けてやったというのも、少々羨ましく思えるがの」

「なに?」


 ほんの少し拗ねたように言われて、おれは目を丸くした。


 ガーベラは少し唇を尖らせていた。


「その『負けられぬ理由』というのには、妾たちのこともあるのだろうな?」


 確認するように尋ねてくる。


 その様が可愛らしくて、おれは少し笑った。


「というより、まずはお前たちのことだよ」

「ならばよし」


 ガーベラは一転、元気よく笑った。


 きちきちと蜘蛛の脚を鳴らしてみせる。


「妾たちの手で、この世界を救ってやろうではないか」

「ああ」


 何事もそこから始まるのだ。


 そう思った、まさにそのときだった。


 決意を新たにしたおれたちのうしろで、扉が大きな音を立てて開いた。


「真島!」


 鋭く呼び掛けられて、驚いて振り向いた。


「……飯野?」


 びっこをひきながら出てきたのは、他でもない彼女だった。


 ただ、ほんの数分前までとは、なにもかもが変わっていた。


 凛々しい表情には強い意志が宿り、目を引き寄せられずにはいられない存在感を放っている。


 怪我をしているかどうかなんて些細なことだ。

 彼女を彼女たらしめるものが、完璧に戻ってきていた。


 そこにいたのは、まさしく探索隊の二つ名持ち『韋駄天』飯野優奈だった。


 だから、この展開は当然のことだったのかもしれない。


「リーダーとの……いいえ。『災厄の王』との戦い、わたしも参加するから」

「は?」


 呆気にとられた。


 だが、なにかの間違いなどではなかった。


「もう決めたから」


 ……さすがにこれは、予想していなかった。


 あまりにも速過ぎる。


 切っ掛けを与えてから、まだ数分と経っていない。

 だというのに、まさか立ち直ったうえに、心が折れた直接の原因である元リーダーとの戦いに参加すると言い出すとは。


 なんというか、さすがに強度が高過ぎではないだろうか。


「いや。脚が治ってないだろう、お前」

「治ってないからなんなの。いまでもあんたくらいなら倒せるわよ」

「……」


 その通りではあるのだが、言い方に少し気を付けてもらいたい。


 とはいえ、この憎まれ口もまた、いつもの調子が戻っているということでもあるのだが。


「危ないぞ」

「だから、なに?」


 一応、言っておくが、態度が揺らぐことはなかった。


「わたしは別に、自分のほうが強いから戦っていたわけではないわ。怪我をしたくらいで、とまるつもりなんてない」


 こうなっては、てこでも動くまい。


「わかった、作戦に組み込んでおく」

「そう。よろしくお願いするわ」


 つんと澄まして言うと、飯野は踵を返した。


 そのまま部屋に戻っていく。


 直前に、ふと足をとめた。

 こちらを見ることなく、口を開いた。


「わたしは、あんたにだけは馬鹿にされたくない」

「……そうか」

「あんたのことなんて、きらいなんだから」


 バタンと乱暴に扉が閉まった。


 その寸前に見えた、真っ赤に染まった横顔が印象に残った。


 ずいぶんと怒っている。

 思った以上に立ち直りが早かったのは、どうやら『嫌いな人間に馬鹿にされたくない』という気持ちも手伝ってのことだったらしい。


「また嫌われたな」


 といっても、元からだし、わかっていたことでもあったが。


 おれは溜め息をついて、ふとガーベラが変な顔をしているのに気付いた。


「どうした?」

「……なにやら、びびっときたぞ」

「なんの話だ」

「乙女センサーというらしいぞ。幹彦殿が言っておった」

「またあいつは適当なことを吹き込んで……いいから行くぞ」


 おれは溜め息をつくと、ガーベラを連れて部屋に戻った。


 作戦を練り直す必要があった。

 探索隊の『韋駄天』が復活し、戦いに加わるのだから――。



 戦いの日まで、あと二日。


 各々の想いを胸に、決戦のときは近付いていた。

◆飯野回でした。


絆を結んだ仲間たちとは違いますが、

これはこれでオンリー・ワンの関係性ではあるのです。お互いに。


果たして飯野が自分の気持ちを認める日は来るのか。今後の展開をお待ちください。



◆7/30 発売のコミカライズ版ですが、

内容はチリア砦編前半+砦の外でのローズ&加藤さんの話になります。


丁度、ウェブ連載がローズ変身回です(6/22現在↓ 下から見れます) 。ぜひご覧いただければと思います。

おくるみの繭を織る、くふふガーベラちゃんもいますよ。よろしくお願いします!

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― 新着の感想 ―
流石は真島。彼にしかできない方法で立ち直らせた。わずかあれだけのやり取りで立ち直らせたのは凄すぎる。クールだぜ。 ここからは余談。読みたい人だけ読んでください。 もし別の方法があったとしたら、彼…
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