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28. 辿り着いた場所

(注意)本日2回目の投稿です。(5/18)














   28



 頼りない足取りで、ベルタは森を進んでいた。


 意識は朦朧としている。

 鉄さびのにおいが混じった呼吸は苦しく、体は鉛を流し込んだかのように重い。


 もう休みたい。

 眠りたい。


 そう訴えかける体を、使命感で無理矢理に動かす。


 日比谷浩二を突破した彼女は、ぎりぎりのところで主の戦場に駆け付け、直後に離脱していた。


 どうにか敵の追撃からは逃げおおせていた。

 敵対したのがあの『光の剣』と『絶対切断』であることを考えれば、それは偉業といっても過言ではなかっただろう。


 とはいえ、代償は大きかった。


 歩くたびに、ぐっしょりと血に濡れた足は湿った音を立てた。


 腹は『絶対切断』の魔剣に裂かれている。

 主要な臓器がいくつか破壊されていて、臓物の一部はこぼれてなくなっている始末だった。


 少女の上半身は失われて、狼の腰からうしろは『光の剣』の攻撃をやり過ごした際に一部炭化していた。


 最高位の回復魔法でも、これは手の施しようがない。

 致命傷だった。


 いますぐにでも呼吸は途絶え、心臓が停まってしまっておかしくない。


 にもかかわらず、ベルタは移動を続けていた。


 意志力だけが、肉体を突き動かしていた。


「……」


 そうして、かなりの距離を移動した。


 どうやら追っ手はないようだった。


 そう判断したところで、とっくに越えていた限界に足を取られた。


 ベルタは最後の力で『荷物』をそっと木の根元に置くと、横倒しに倒れた。


 この状態では、一度倒れれば、もう二度とは立ち上がれないことはわかっていた。


「……」


 深い森のなか、ふと思い出したのは、主である少年との出会いだった。


 辿り着いた終わりの地は、すべての始まりである出会いの場所とどこか似ていたからだ。


 あの日、ベルタは少年を守ることができなかった。

 それからというもの、彼が深い失意と後悔を胸に抱き、魔王へと堕ちてあがくさまを見てきた。


 せめてその終わりに救いがあってほしいと願った。


 願いを抱えて歩き続けてきた。


 だが、それもここまでらしい。

 あとはもう意識を失い、そのまま永遠の眠りについてしまうだけだ。


 そうならなかったのは、そんな彼女に話しかける者があったからだった。


「……どうして戻ってきたのですか」


 命を賭してベルタがここまで運んできた大事な『荷物』――工藤陸その人が口を開いていた。


 彼は木の根元にぐったりと座り込んだまま、身じろぎもせずにいた。

 そうするだけの力が、もう残っていないのだった。


「無意味なことをするものですね」


 話した口から血がこぼれた。


 顔には死相が浮いている。


 固有能力の副作用で弱体化した少年の肉体は、普通の人間に比べても脆弱だ。

 あのまま光剣を受けていれば蒸発していただろうが、それをまぬがれたところで、余波だけでも致命的だった。


 命懸けでベルタは主を戦場から離脱させた。

 しかし、その主の命までは助けることはできなかったのだ。


「なぜ、このようなことをしたのです。こんなことに、なんの意味があるのですか」

「……」


 珍しいことだなとベルタは思った。


 いままで彼女の王は突き放すばかりで、こんなふうに個人的な考えを訊くようなことはあまりなかったからだ。


 そうして、ふと気付いた。

 これが想いを伝える初めての機会であるということに。


 気付けば、口を開いていた。


「意味などありません」


 そう答えるだけで、ずいぶんと気力が必要だった。


 すでに痛みさえ遠ざかりつつあり、代わりにひどく体が冷たかった。


 血を流し過ぎたせいか、目はとっくに見えなくなっている。

 いっそ眠ってしまいたいくらいだったが、どうにか意識を保った。


 最初で最後のこの機会をふいにするなんて、考えられなかった。


「意味などないのです、王よ。それでも、わたしは諦められなかった」


 無意味であることなど、重々承知だった。


 別に、この場に限った話ではない。

 自分の望みは叶わず、ただ無為に死んでいくだけだと最初から知っていた。


 それでも望まずにはいられなかった。


 だから今回だって、これまで通りにしただけだった。


「心から望むのであれば、そうせずにはいられない。意味があるかどうかは問題ではないのです」


 嘘偽りなく想いを告げると、沈黙があった。


 主がどんな表情をしているのか、すでに目の見えないベルタには確認できない。


 きっと、理解不能だと呆れているのだろうと思った。

 あるいは、冷たい無関心か。


 どちらでもなかった。


「……望み、ですか」


 少年は、ぽつりとつぶやいたのだ。


「愚かですね。ぼくに救いをなんて」

「……なぜ、それを」


 驚きの声が出た。


 主の口にしたのは、確かに彼女の望みに他ならなかったからだ。

 ただ、主に語ったことは一度もなかった。


 少し驚いた彼女だったが、すぐにことの成り行きには気が付いた。


「いえ。ひょっとして、真島孝弘が……?」


 実際、その推測は正しい。


 ――お前に救われてほしいと思っているやつもいるんだから。

 ――……ベルタのことですか。


 異界で工藤陸は、真島孝弘から話を聞いている。


 それ自体はありそうなことだとベルタは思った。

 だから彼女にとって意外だったのは、それを王が心に留めていて、ここで口に出したことだった。


「本当に、愚かです」


 想いを口にする少年の声には、隠しきれない失意があった。


「あなたはいつだって、首に掛かった鎖なんて引き千切れたはずでしょうに」

「……」


 そこで、ベルタはもうひとつ気付いた。

 初めてというのなら、主の想いを聞かせてもらえるのも、そうなのだと。


「鎖なんて引き千切ってしまえばよかったんです。どこへなりとも行ってしまえばよかったでしょう。あなたが不幸になることなんてなかったんですから」


 深い失望を込めて、彼は言った。


 しかし、彼がなにをどう考えてそのような発言に至ったのかが、ベルタにはわからない。


 ……たとえば、ここに真島孝弘がいれば、話は違っただろう。


 工藤陸という少年の真実に、ただひとり彼は辿り着きかけていたからだ。


 魔王の力を発現する前に付き従った眷属であるベルタが、命の恩人である轟美弥の忘れ形見とも言える存在であることを、工藤陸が知っていたらどうだろうか、と真島孝弘は疑問した。


 すでに魔王としての破滅の道を歩み始めてしまっていた少年が、唯一の例外である彼女を受け入れることはできなかっただろう。


 だとすれば、どうするか?


 どうしたのか。


 工藤陸はベルタに対して、常に突き放した態度を取った。

 真島孝弘のもとに護衛として派遣して、自分の命が危なくなっても呼び戻そうとはしなかった。


 破滅に向かう自分のもとから離して、居場所となりえる人間のもとへ預けたのだ。


 あとは鎖を引き千切って、どこへなりと行ってしまえばいい。

 そうして自由になればいい。


 それが唯一、魔王としてではなく、彼が望んだことだった。


 決して、こんなふうに目の前で絶望のなか死んでいく彼女の姿を見たかったわけではなかった。


 ……もう二度と、見たくなんてなかったのだ。


「ぼくに救いをなんて望むべきではなかった。そうすれば、あなたは幸せになれたのに」


 いまの彼の心には失意しかない。

 結局、彼は魔王としての果たすと誓った復讐も、少年としてのただひとつ抱いた願いも、叶えることができなかった。


 とはいえ、それも当然のことだったかもしれない。


 自分にはなにもできない。

 それは、工藤陸の根幹にある呪いと言っていい。


 いずれ絶望のなかで破滅するのが、彼の運命だった。

 この結末が必然として辿り着いたものだとしたら、もう彼は絶望に呑み込まれるほかにない。


 ……だから、そう。

 この結末を覆すことができる者がもしもいるとすれば。


 きっと、同じほど熱量でその逆を願い続けてきた者だけで。


「王よ。それは違います」


 はっきりと、ベルタは否定の言葉を口にしたのだった。


   ***


 このとき、ベルタは主の気持ちを正確に理解できていたわけではなかった。

 そうするためには、あまりにも彼女には隠されていたことが多過ぎたからだ。


 しかし、そこはこの際、大きな問題ではなかった。


 そんなことは、どうでもいい。


 少なくとも、いまの主の発言は間違っていると、彼女には言い切れたからだ。


 誤解されていると感じた。

 正しく自分の想いを告げなければならないと思った。


 そうすることを、いまの彼女は躊躇いはしなかった。


「望まなければよかったなどということはありません」


 はっきりと、言い切った。


「願いが果たせなかったことは心残りです。しかし、そう望んだことに後悔などありません。わたしは幸せになりたかったのではありません。かつて守り切れなかったものを、救いたかったのです」


 幸せになれるとわかっていた道を捨ててでも、ここに来ることを選択した。


 それは誰かに決められたことではなく、彼女自身が選んだことだ。

 後悔などあるはずがなかった。


「……ですが」


 工藤陸はなにか言おうとしたようだった。


 けれど、続く言葉は出てこない。

 それくらいに、ベルタの言葉には迷いがなかったからだろう。


 ――工藤陸にとって、最大の誤算がここにあった。


 真島孝弘のもとに送り出したベルタは、ただ漫然とときを過ごしていたわけではなかった。


 様々なことを知った。

 成長した。


 主である少年の思惑を上回るくらいに。


「それに、王は勘違いをなされています」


 もはや怖じることはない。


「鎖を引き千切ってしまえばよかったなんて、どうかおっしゃらないでください」


 穏やかに、告げたのだ。


「わたしは、あなたに繋がれていたかったのですから」

「……」


 破滅することよりも、突き放されるほうがよほどつらい。

 だから、この状況に絶望なんか、これっぽっちもしていない。


 それに、なにもかも悪いことばかりでもなかったとベルタは思う。


 少なくとも、死の間際に辿り着いたこの場所で、こうして想いを伝えることはできたのだから。


 これほど苦痛に堪えたにもかかわらず、ただ想いを伝えるだけというのは、あまりにもささやかな報酬と言うべきだろう。

 けれど、彼女にとっては、それだけで十分だった。


 だから、こう言い切れたのだ。


「わたしは絶望に引きずり込まれたのではありません。希望を目指して、この場に辿り着いたのです」


   ***


「……」


 工藤陸は、しばらく言葉を失っていた。


 その目は、いまにも息を引き取ろうとしている一匹の狼に引き寄せられて離れない。


 彼が魔王になる前に得ていた、唯一のもの。

 そう気付いたときにはもう手遅れだった、かつての希望のひとかけら。


 折角、離れさせたのに、戻ってきてしまった。


 いまこそ、彼は正しく理解した。


 突き放して距離を取って、あるべき場所で過ごさせれば、自由になってくれるだろうと思っていた。


 酷い思い違いだった。


 自分がどうしようと、ベルタは離れない。

 そう確信させるのに、いまの告白は十分だったのだ。


「……はは。なんですか、それは」


 少年は、小さく笑った。


 折れず曲がらぬ想いを前に、観念するように。


「そんなの、もうどうしようもないじゃないですか」


 それは、ある種の敗北宣言にほかならなかった。


 これまでベルタを突き放そうとしていた試みは失敗だった。


 結局、自分にはなにもできなかったのだと思い知らされた。


 工藤陸の根幹にある呪い。

 弱い自分にはなにもできない。


 それを、こんな最後の最後で思い知らされるなんてあまりに酷い。


 けれど――


「まったく、あなたは本当に」


 ――そう口にした言葉に、影はなかった。


 この瞬間に、気付いたからだ。


 もうどうしようもないと認めたいまだからこそ、ひとつだけ自分にはまだできることがあると。


 だから、焼き焦げた腕に力を込めた。


 自分自身を縛っていた呪いを振り切るように。

 まともに動かない腕を持ち上げて、差し伸べる。


 突き放す理由は、もはやなかった。


   ***


「わかりました」

「王?」


 ベルタは疑問の声をあげた。


 彼女はきちんと主の考えを理解できていたわけではない。

 だが、それでも、自分がその意図に反する行動を取っていたことは認識していた。


 きっと機嫌を損ねてしまうだろうと思っていた。


 しかし、いまの主の声はそんなふうではなかった。

 決して、そうではなかったのだ。


「ぼくの負けです。あなたの望みを叶えましょう」

「……え?」


 ベルタは自身の身に懐かしい感覚が戻ってくるのを感じた。


 魔王としての従属の力――彼女を繋ぐ首輪だった。


 無論、いまとなっては従属の力そのものに価値はない。

 一度は引き千切られたものであるし、なにより、死を前にして強制力なんてなんの意味もあるはずもない。


 だから、これはいまや、ただふたりを繋ぐだけのもので。


「あなたが望む限り、傍にいればいい」


 それが自分を受け入れる言葉だと理解するのに、一拍の時間が必要だった。


 理解した瞬間、大きな衝動が胸を震わせた。


「……あ」


 うまく声が出てこない。

 想いを伝えられる機会を得ただけでも十分だった。


 だから、まさか受け入れられるとは思っていなかったのだ。


 なにかの間違いではないだろうか?

 自分は死ぬ寸前に、都合の良い夢でも見ているのでは?


 そんな疑念を否定するように、伸びてきた手が頭に触れた。

 首筋までを撫でられる。


 それこそ都合の良い夢でも見ているようだった。


 けれど、その存在感は本物だったから――すべてが報われたのだと確信できたのだ。


「ああ……」


 死の感触に冷え切っていた体に、初めてのぬくもりを感じた。


 とろけてしまいそうなくらいに、あたたかなものに満たされた。


 確信する。


 きっと、これが幸せというものなのだ。

 もしも悲劇が起こることなく、この異世界でふたりで生きていくことになったとしたら、得られていたはずのもの。


 出会ったあの日に、失われた可能性。

 あったかもしれない、ふたりで歩む未来。


 たとえ、ほんの短い時間であったとしても取り戻すことができたと、感じられることが嬉しい。


 いや。これが終わりではない。


 だって、望む限り傍にいていいと言われたのだから。


 死がふたりを分かとうとも、たとえ地獄に堕ちたとしても離れたりしない。


 一緒にいる。

 これからはずっと。


「……いつまでも、お傍に」


 つぶやいた言葉が声になったかどうか、もうわからない。

 声を出すだけの力はなかった。


 けれど、想いは伝わった。

 この瞬間、繋がるものが確かにあったからだ。


 甘えるように鼻を鳴らすと、触れられた手に頭を押し付ける。

 胸に感じるぬくもりを噛み締める。


 力なくもゆったりと尻尾が揺れる。


 最期にひとつ息を吐いて――二度と醒めない温かな眠りに落ちた。


◆さらに更新します。

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