08. 姉妹の在り方
前話のあらすじ:
がーべら は ちゃぶだいがえし を おぼえた
8
ガーベラはすぐさまおれのことを抱えて、アラクネの巣へと直行した。
おれの意識は常に朦朧としていた。
火傷のせいか痛みはあまり感じない。
途中でモンスターに出会うことはなく、白いアラクネに叶う限りの全速力で、おれはアラクネの巣に担ぎ込まれた。
「ご主人様!?」
「せ、先輩!」
振り返ったローズが彼女らしくもない悲鳴をあげ、加藤さんが蒼褪めた。
「ご主人様!」
リリィが飛びついてきて、半ばもぎとるようにしておれの身柄を受け取った。
おれは床に仰向けに寝かされた。
鎧が引き剥がされ、血まみれの服が抜き取られた。
リリィが息を呑んだ。
あるいは、悲鳴を呑みこんだのかもしれない。
すぐさま、リリィの手から白い光が溢れ出した。
回復魔法だ。
鉄砲蔓につけられた弾痕からの出血がゆるくなる。
流石は魔法。おれは安心して温かな光に身を委ねた。
……ことが出来たのは、最初の一分ほどの間だけだった。
「ぁあぁあ、ああっ、があぁああ!?」
治療が進むということは、馬鹿になっていた神経が回復するということだ。
傷はまだ治りきっていないにも関わらず、である。
本来なら回復魔法には多少なりの鎮痛作用があるはずだが、現状はそのフォローできる範囲を超えていた。
勿論、鎮痛剤なんて気の利いた代物はない。歯を食いしばって堪えることしか、おれには許されていなかった。
加藤さんが何かを叫んだ。
口の中にリリィの指が入ってきた。舌を噛まないようにするために、指で顎を固定したのだ。
今度はリリィが叫んだ。
硬くつるつるした手足によって、体が押さえつけられた。痛みにのたうちまわるおれのことを、ローズが押さえつけたに違いなかった。
ガーベラの声だけが聞こえなかった。
彼女は何処に行ったんだろうか。
痛覚から切り離されて逃避する脳味噌の一部は、ずっとそんなことを考えていた。
「火傷は回復魔法でどうにかなる、けど……撃ち込まれてる種は……」
リリィの悲痛な声が聞こえた。
なにやらやりとりがあった。
ほとんど動物に退行していたおれには、言葉を理解するだけの能力がない。
いまのおれには何もない。あるのは痛みだけだった。
「……ローズ、ナイフを」
耳が音だけを拾った。
意味はよくわからない。
理解したく、なかった。
「ごめん、ご主人様」
異物が――体に――めり――込んで――
「うぐぉおっ、うぅおがっ、あぁあ!!」
痛い……痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い――ッ!
脳味噌に激痛が叩きつけられた。
これが痛みだというのなら、これまでおれが感じていたものは何だったのか。これはもう、おれという存在を破壊するために与えられたナニカだとしか思えなかった。
おれは悶え、苦しみ、不自由な体で可能な限りにのた打ち回った。
喰いしばられたおれの歯が、リリィの少女を模した肌に食い込んで、指を噛み千切りそうになった。
途端に、どろりと指が溶けて、変化したスライムの柔軟な体組織が、このままでは喰いしばり過ぎて折れてしまいそうだったおれの歯を受け止めた。
痛覚に電流が走るたび、不自然な動きで体が跳ねた。
反射的に暴れまわろうとした腕が、人形の腕に阻まれてぎしぎしと軋んだ。
肉が潰れて鬱血しても、体は勝手に跳ね回った。
腹、肩、鎖骨下、脇腹、腿。
次々に摘出される種が、ぼたぼたと重たく湿っぽい音をたてて床に転がった。
地獄のような時間が過ぎていった。
これがおれが犯した愚かさの代償だった。
いっそ意識を失ってしまいたいくらいだったが、それがまずいことはわかっていた。
イメージとしては嵐の船につかまる船員だ。手を離したら、それが最後。暗いところに沈んでいって、二度とは浮き上がってこられない……
おれはただひたすらに堪え続けた。
そうして、どれだけの時間が経っただろうか。
痛みが痛みだと認識出来なくなった頃、血腥い作業が終わった。
再び回復魔法が与えられた。
魔法は偉大だ。これがなければ、何度死んでいたものかわからない。
「そんな。どうしてなの……!?」
獣同然の存在に成り果てていたおれが正気を取り戻したのは、随分と時間が経ったあとのことだった。
「全部種は取り除いた。傷は塞がったし、火傷だって……」
回復魔法の白い光が、まぶたの向こう側に感じられた。
傷の痛みはなくなっていた。
ただ、体が異様にだるかった。
暴れまわれば体力が削られるし、酷使すれば筋肉は疲労する。命の危険を感じていたおれの体は、さっきまで大暴れしていた。あまり覚えていないが、そのはずだった。
だから疲れ果てているのは当然のことで……けれど、このだるさは、疲労ばかりが原因ではないように思われた。
根本的なところで、何かが体から抜け落ちてしまった感覚があった。
いまも抜け落ちているような悪寒がある。
たとえるなら、おれという器の底に穴が開いているような……
そのせいか、体中に力が入らない。
指先がぴくりとも動かなかった。
その上、意識の端から白い靄が迫りつつあった。
このまま意識が落ちたら、もう二度と目覚めない。そんな嫌な予感は、いまも消えずに残っていた。
それだけの大怪我をしてしまったということだろうか。
回復魔法が決して万能ではないことは知っている。
三階梯のリリィの回復魔法では部位欠損は回復出来ないし、重体のリリィは数日間の療養を余儀なくされた。死んでしまえばそもそも回復魔法での治療は不可能だ。
その限界をおれの体は超えてしまったのだろうか。
だとしたら、おれはこのまま死んでしまうのか。
……死にたくない。
死ぬわけにはいかない。
だって、おれはまだ彼女を……
「……妾のせいだ」
そんな時だった。
ガーベラの声が、聞こえた。
随分と久しぶりに彼女の声を聞いたような気がした。
おれは薄っすらと目を開けた。
たったそれだけの作業が、いまのおれにとっては酷い重労働だった。
細く視界が開ける。
傍にはリリィとローズがいた。
リリィはスライムから手の形に戻した右手をおれの口の中に突っ込み、もう一方の手には回復魔法の魔法陣をまといつかせ、おれの胸の辺りに置いていた。
さっきまでローズはおれに半ば馬乗りになって体を押さえつけていたはずだが、いまはおれの右側に座っていた。これは、またおれが暴れ始めた時に押さえつけるためだろう。
ローズの肩に手を置くようにして立つ、硬い表情をした加藤さんの姿も見えた。
……ガーベラは、何処だ?
目だけを動かし、おれはガーベラの姿を探した。
すぐに彼女は見つかった。
おれから三メートル以上離れた床の上、八本の脚を折って萎れている少女の姿があった。
「妾の……せいで……」
ガーベラは悄然と肩を落としていた。
ただでさえ透けるように白い顔が、いまは紙のように白くなっていた。
「……経緯を説明してもらえる?」
リリィが尋ねた。
抑制された声だった。声からも表情からも、彼女が何を考えているのかはわからない。また、パスを感じ取るだけの余裕も、いまのおれにはなかった。
「妾たちは――」
ガーベラは素直にこれまでにあったことを語り始めた。
二人で探索を始めたこと。おれの意図と、二人の間でのやりとり。なかなか眷属が見つけられず、他の方策を探し、よりモンスターの多くいる水源の存在に思い至ったこと。群れを相手にし始めて、うまくいきそうだと思った矢先の大惨事……
大筋で、彼女の認識はおれと同じだった。
ただ一点だけが、決定的に違っていたが。
「……全部、妾のせいだ」
ガーベラは真っ白な頭を抱えて蹲った。
「やはり、妾は変われなかった。持って生まれた性質は変わらぬ。妾は主殿にとっての災いでしかなかった」
ガーベラには負い目がある。
おれのことを傷つけてしまったという、拭えない過去だ。
それがいまや、ある種のトラウマとして彼女を苛んでいた。
「なんと愚かしい。わかっていたはずなのに! ともにいれば、いずれ主殿たちを傷つけてしまうということは……!」
おれはガーベラのために色々と画策していた。また、ガーベラという戦力なしには、今回のおれの『群れを相手にする』という行動は有り得なかった。
そういう意味では『ガーベラのせいでこんなことになった』という見方も、しようと思えば出来ないでもない。
それは勿論、そうした見方も出来るというだけのことで、失敗したのはあくまでもおれ自身だ。
ガーベラはよくやってくれていた。
此処でおれが辛うじてでも息をしていられるのは、全部彼女の尽力の賜物だ。
責任を感じる必要なんて欠片もない。自分のせいでおれが傷ついたというガーベラの認識は間違っていると、おれは断言出来た。
けれど、少なくともそれは彼女の中では真実なのだった。
「妾は主殿の傍にいては、ならなかったのだ……」
ガーベラは沈み込み……そして、おれの目論見もこの時点で崩れていた。
おれはガーベラに手柄を立てさせることで、出遭ったその時に生じた彼女の失点を挽回し、ローズに彼女のことを認めてもらうつもりだった。
なのに、失地挽回どころか、このザマだ。
理由が何であれ、ガーベラがおれを守り切れなかったことは事実だった。
おれのせいで彼女に失点を重ねさせてしまったのだ。
落ち込んでいるガーベラに声をかけてやろうにも、衰弱している体は、声を出すことさえままならない。
彼女のために弁明をしてやることも出来ない。
大切なものが失われていくのを、おれはただ見ていることしか出来ないのだ。
……ああ、くそ。
どうしてこのようなことになってしまったんだろうか。
おれだって考えなしに動いていたわけではない。
楽観的に、遊び半分でいたわけではないのだ。
どうしようかと考えて、思い悩んで、これで大丈夫なはずだと思って。
けれど見落としばかりで、頑張ってきた全ては裏返って、目を覆うばかりの大惨事。
痛い目に遭って、死にかけて、いまにも死んでしまいそうで。
挙句の果てに、大切なものを失うのだ。
本当にどうしてだろう。
おれはみんなが仲良くしてくれれば、それでよかったのに。
「ガーベラ」
その時だった。
落ち着いた声が、ガーベラの名前を呼んだ。
それがリリィの声であることに、最初おれは気付けなかった。
それくらいに、彼女は落ち着いていた。おれの危難を目の当たりにして、リリィは取り乱してなどいなかった。
歯並びの良い歯で艶やかな唇を軽く噛み締めてこそいたものの、顔色は平静を保っていた。
それは取り繕った落ち着きかもしれない。擬態したもの、なのかもしれない。もともと彼女はそういう存在で、自分を別のものに見せることに長けている。
だが、たとえそうであったとしても、取り繕えるだけの自分を彼女が保っているということは確かだった。
「ご主人様が傷ついたのが、あなたのせいだって言った?」
リリィの声色は、常より低かった。
「だから、ご主人様の傍にはいられないって?」
抑制された感情が、わずかに語尾に漏れていた。
それは、怒りだった。
リリィは静かに怒っていた。
けれど、それはおれが傷ついていることに対して生じた感情ではなかった。
「そんなことをご主人様が望むと思っているの? 何のために、ご主人様が無理をしたと思ってるの? その思いを無駄にするの?」
ガーベラが自分を責め続けていることに対して、リリィは腹をたてていたのだった。
「だが、妾は……」
「『だが』も、『しかし』も要らない。ガーベラは何もわかってない。ホント、何もわかってない。ご主人様の気持ちも……それに、わたしたちの気持ちだって……っ!」
リリィはかぶりを振ると、見る者をたじろがせずにいられない強い視線をガーベラへと向けた。
「ねえ、ガーベラ。わたしは仲間になる前のあなたに……『白いアラクネ』に教わったコトが一つあるの」
「妾に?」
「ええ。それはね、わたしには力が足りないってこと……心も体も未熟過ぎて、わたし一人じゃご主人様を助けられない。それはもう思い知ってるの。嫌ってくらいにね」
それは実際、『教わった』というより、『事実を突きつけられた』という方が正しいのだろう。
声色は苦く、けれどリリィは、自分にとって嫌なことから目を逸らさなかった。
「だけどその時に、力を合わせることの大事さも一緒に知ったつもり。多分ね、わたしたち眷属は、それぞれ色々なところが足りていない生き物なのよ。だから補い合わないと、姉妹同士で力を合わせないと……わたしたちは、駄目なの」
リリィの声には一本芯が通っていた。
恐らく、これは彼女の中では既に答えが出ている問題なのだ。
「わたしはご主人様の最初の眷属。それはつまり、ご主人様の眷属の長女だということ。だからね、わたしはそれにふさわしくなろうって決めたの」
胸を張って宣言するリリィの姿は、おれが知っている彼女の姿より、一回り大きく見えた。
「頼りない姉だけれど、わたしは妹を拒絶したり、見捨てたりしない」
「リリィ殿……」
「たとえあなたがあなた自身のことをどう思っていようとも、そんなの知らないんだから」
そういえばリリィは、おれのことを傷つけてしまったガーベラのことを、最初から受け入れていた。
どうしてだろうかと思っていたのだが、そんな風に考えていたのか。
「わたしは、あなたにもご主人様のことを支えてほしい。それは、以前に言ったよね」
「だが」
言いかけて、先程のリリィの言葉を思い出したのか、ガーベラは口を噤んだ。
「リリィ殿とともに支えようにも……いまの主殿に今更、妾が何を出来ると言うのだ?」
回復魔法の使い手であるリリィと違って、ガーベラには戦いに傷ついた者を癒す術がない。
「妾に出来ることなどない。出来ることがあるとしたら、こうなる前のことだったのだ。主殿のことを守りきれなかった妾に、今更何が……」
「ううん。出来ることならあるよ」
リリィは目を伏せ気味にして、ガーベラの言葉を否定した。
これまでの毅然とした姿から一転して、それは何処か申し訳なさそうで辛そうな表情だった。
「というより、ガーベラにしか出来ないことがある、かな」
「妾にしか出来ないこと? そんなことが、あるのか?」
こくりと頷き、リリィはおれに視線をやった。
「見ての通り、ご主人様は衰弱してる。どうしてだか、ガーベラにはわかる?」
「大きな怪我をしたからであろう。人間というのは脆弱なものなのだと聞く」
「うん。それは正しい。けど、この場合、そうじゃない」
ガーベラは訝しげに眉を寄せた。
「……どういうことだ?」
「わたしには人間として、水島美穂という名の他人の記憶がある。今日まで生きてきたモンスターとしての記憶もある。だから言えることだけど、いまのご主人様はふつうじゃない」
「ふつうではない、とな。具体的にはどういうことかの」
「ご主人様の傷はもうとっくに癒えてるの。わたしの回復魔法はきちんと効いている。此処まで回復しているなら、もう大丈夫なはずなのよ」
ますますガーベラは不可解そうな表情になった。
「だが、主殿の顔色はどんどん悪くなっておるではないか」
「うん。だから、衰弱の理由は別にあるの。それが何なのかも、わたしにはわかっている。どうして『そうなっている』のかまではわからないけどね」
「うむ?」
「ご主人様の体にはね、魔力が足りていないのよ」
端的にリリィは言って、ガーベラを見やった。
「ガーベラ。あなたも目を逸らしていないで、きちんと見てちょうだい。あなたにならわかるはずよ」
リリィの指摘に、ガーベラはびくりとした。これまで彼女はずっとおれから目を逸らしていたのだ。
促されてようやく、ガーベラはおずおずとおれへと視線を向けた。
「……確かに主殿の魔力は枯渇しておるようだな」
横たわったおれの姿を映した赤い目を細めて、ガーベラがつぶやいた。
以前におれの魔力の増加とその原因を見抜いた彼女も、リリィと同じ診立てだということは、おれの魔力がなくなってしまっているというのは事実なのだろう。
リリィは頷き、口を開いた。
「この世界で生きている者は多かれ少なかれ魔力を持ってるわ。特に多く魔力を蓄える生き物がモンスターだけれど、どんな生物にも魔力自体は備わっている。そして……どういうわけか、転移者であるご主人様たちも魔力を持っている。魔力に関してチートを持っているわけではなくてもね。誰でも魔法を使えるというのは、誰もが魔力を持っているということだから」
リリィはそこで一度言葉を切った。
「それも、いまはどうでもいいことね。とにかく……魔力が足りないというのは異常なことだっていうこと。本来あるものが枯渇して機能不全を起こすというのは、そう不思議なことではないでしょう? たとえばわたしなら体組織を保てなくなるし、ローズなら動けない。どういう風に魔力が生体機能に影響してるのかは知らないけれど、異世界出身の人間にも、魔力が枯渇することによる悪影響はあるみたいね」
「……リリィ殿が言いたいことはわかった」
事情を呑み込んだガーベラは、難しい顔をしていた。
「だが、それを妾にどうしろというのだ。原因がわからないのでは、治療のしようがないではないか」
「根治は無理ね。原因がわからない以上、狙って根治することは難しい。……だけど、対症療法なら出来るかもしれない」
「対症療法?」
「うん。ガーベラにはね、ご主人様に魔力を分けてもらいたいの」
リリィの要請を聞いたガーベラが、赤い目を見開いた。
「魔力を、だと?」
「うん。要するに輸血みたいなものを想像してもらえれば……っていってもわからないか。ええと、つまり、ご主人様との間にあるパスは魔力を通すわけでしょう? パスを通じて漏れた魔力がご主人様に伝わって、彼の魔力は増えていたという話だった。だったら、意図的に魔力を分け与えることも可能なはずじゃないかなってこと」
「リリィさん。ちょっと良いですか」
そこで加藤さんが口を差し挟んだ。
「わたしにとっては、輸血のたとえはわかりやすかったです。そこで疑問に思ったんですけど、『血液型の違い』のようなことが起きる可能性はないんですか?」
顔色は悪かったが、加藤さんは流石の冷静さを保っていた。処置に伴う危険性を指摘する。
「そうね。だけど、それは大丈夫」
リリィはちらりと加藤さんに目をやった。
「……だと思う。すでにご主人様はガーベラの魔力を受け入れているわけだから、問題が起きる可能性は低い……と、思う」
「もしも問題が起きたらどうするのだ!」
ガーベラの声は、ほとんど悲鳴に近かった。
無理もないことだった。リリィの考えはあくまで推測に過ぎない。下手を打てば、おれは彼女が行った『輸血』の結果、死亡してしまいかねない。しかし……
「うん。ガーベラの意見はわかる。そんなことをして何が起こるのか、わたしだって怖い。だけど……『そんなことをしなければ』どうなるかは、言わなくてもわかるでしょ?」
そうなれば、おれはこのまま衰弱死するだけだ。
勝負を賭けるなら、いま、この場面しかないのだ。
「どういうわけかわからないけど、ご主人様の魔力はどんどん減っている。だけど、減る量と同じだけの魔力を与え続ければ……」
「『うまくやれば大丈夫』だとしても、『うまくできるかどうか』がわからぬではないか! たとえば、許容量以上の魔力を与えてしまったら!? ひょっとしたら妾が……妾が、主殿を殺してしまう可能性だって……っ!」
「そこは、あなたを信じるしかないわ」
至極あっさりとした口調でリリィは言った。
表面上、彼女は平静を装っていた。
おれの口内にいまだに突っ込まれたままの指だけが、細かく震えていた。
「少なくとも、わたしたちの誰がやるよりもうまくいくはず。それに、あなたほどの魔力量なら、継続して魔力を与え続けることも可能だと思う」
二つの属性魔法と回復魔法を操り、魔力の扱いに長けているリリィだが、彼女はおれの衰弱を少しでも喰いとめるために、魔法をかけ続けていなければいけない。それに、彼女はガーベラほど保有する魔力が多いわけではなかった。
ローズでは創作以外の方面で魔力をそこまでうまく操れないし、加藤さんは問題外。
最初にリリィが言っていた通り、確かにこれは、ガーベラにしか出来ない仕事だった。
しかし、である。
たとえばの話、そうしなければ死んでしまうとわかっていても、怪我人の腹を裂くことの出来る人間が、どれだけいるだろうか?
ましてやそれが大切な相手だったら?
相手のことが大事であれば大事であるだけ、平静さを保つことは難しくなる。平静を保てなければ、失敗するのは目に見えている。これは時に、医者が身内の手術を躊躇するのと、まったく同じ理屈だった。
「わ、妾は、そんな」
もしも自分が殺してしまったら……
そんなことを思ってしまった時点で、身動きなんて取れなくなって当然だった。
そう。当然なのだ。
なのに、こうなることをリリィは予想していなかったのだろうか?
――そんなはずが、なかった。
「お願い、ガーベラ」
ガーベラをまっすぐに見つめていたリリィが、すっと深く頭を下げた。
「ガーベラがご主人様を傷つけることを恐れているのは知ってる。これがご主人様の命を奪ってしまうかもしれない行為であることも理解してる。だから、これがどれだけ残酷なお願いなのかも、わかっているつもり。だけどわたしはガーベラにこの場を託したいの」
全ての事情を理解していて、それでもリリィは頭を下げたのだった。
何が彼女にそうさせるのかは、すでに彼女自身の口から告げられていた。
「お願い、ガーベラ。ご主人様を助けて」
「リリィ殿……」
ガーベラはリリィのことをじっと見つめていた。
彼女の瞳の中には、おれを傷つけてしまうことに対する病的なまでの恐れが存在していた。けれど、下げられたリリィの亜麻色の頭が瞳に映るうち、恐れは徐々に溶けるように消えていった。
もともと、孤独を恐れる性質のガーベラは、その裏返しとしての『仲間のためになりたい』という気持ちが人一倍強い。
リリィの真摯な言葉は、そんな彼女の性質を大きく揺り動かすに足りるものだった。
やがてガーベラの端正な顔立ちからは弱気が抜けて、その代わりに決然とした意思が宿った。
白く細く長い髪が、ゆっくりと上下に揺れた。
「……あいわかった」
「ガーベラ!」
リリィが華やいだ声とともに顔を上げる。
ガーベラはやわらかな美貌に、ぎこちない笑みを浮かべて彼女に応えた。
「任されよう」
うずくまっていた蜘蛛が、折っていた脚を伸ばした。
ガーベラは立ち上がり、八本足で前に進み始める。
三メートル。二メートル。
おれとの間にあった距離がなくなっていく。
「……」
しかし、決然としていたはずのその歩みは、不意に迷うように鈍くなった。
原因は明白だった。
ガーベラの赤い瞳には、彼女のことを見上げる木製人形の姿が映っていた。
「……ローズ、殿」
定まったはずのガーベラの決意が揺らぎ、消えたはずの怯えが再び浮き上がった。
おれの身を委ねるということに、もっとも反対していたのがローズだった。
この大事な場面で彼女がどう思い、何を告げるのか。ガーベラはそれを考えずにはいられなかったのだろう。
果たして。
「……何をしているのですか」
のっぺらぼうな顔でガーベラのことを見上げるローズが言った。
「早くご主人様に魔力を与えて差し上げて下さい」
「え?」
ガーベラが間の抜けた声をあげた。
彼女は何を言われたのか理解できない様子で瞬きを繰り返した。
身構えていただけ、拍子抜けするような感覚を覚えたのかもしれなかった。
それは、おれも同じ気持ちだった。
「よいのか?」
「何がですか」
「ローズ殿は妾のことを信頼していないのではなかったのか?」
「……」
この問いかけにローズは沈黙した。
といっても、不機嫌に黙り込んだわけではない。どのように答えるべきか、考えている様子だった。
しかし、ローズが沈黙していた時間は、それほど長いものではなかった。
それはひょっとすると、彼女もガーベラとの関係について、これまでずっと考えていたからこそなのかもしれなかった。
「リリィ姉様も先程、同じことを言っていましたから、これは繰り返し……というより、蒸し返すような問いかけになってしまいますが」
ローズはそう前置きをして尋ねた。
「ガーベラは先程、『ご主人様がこのような目に遭ったのは自分のせいだ』と言っていましたね?」
「あ、ああ……」
「リリィ姉様には悪いですが、わたしは、あなたの言う通りだと思います」
ローズのことを見つめるガーベラの顔が、泣きそうなものになった。
どうしてもローズには受け入れてもらえないのだと、彼女はそう思ったに違いなかった。
けれど、それは早合点だった。
「ですが、それなら、わたしだって同じことです」
こんな風に、ローズは続けたのだ。
「いいえ。わたしの責任の方が遥かに重い。わたしはどうしてもあなたを許せなかった。どうしても受け入れられなかった。わたしの愚直さと頑迷さと未熟さが、この事態を引き起こした」
「い、いや。ローズ殿が妾を許せなかったのは、主殿を思えばこそであろう」
「だとしても、その結果がこれなのですから、言い訳にもなりません。少なくとも、わたしがあなたを責めるのはお門違いというものです。それなのに、これ以上の間違いを犯そうというのは、頑固を通り越して、ただ愚かというものでしょう」
そこまで言ってから、ローズは首を横に振った。
「いえ。これではまだ誤魔化しになってしまっていますね。……自分の心を殺さずに伝えなければいけないことも、あるのでしたか」
自分に言い聞かせるように言ったローズは、肩に乗せられた加藤さんの手へと一度顔を向けた。そして、改めてガーベラに向き直った。
「ガーベラ。わたしはあなたのことが好きになれません。『とある出来事』があって、あなたの望みについて理解を示すことは、なんとか出来るようになりました。自分ではどうしようもない望みというものがあるということは、いまなら理解出来ます。……ですが、それが気に喰わないということには、変わりありません。そんな理由でご主人様のことを傷つけたのかと、いまでもわたしはあなたに怒りを覚えます。しかし……」
ローズは自分の中の気持ちに目を向けるように一拍の間をおいたあとで、己の中の真実をガーベラへと告げた。
「それでも、あなたはわたしの妹なのです」
「ローズ殿……」
ガーベラの赤い目が、大きく見開かれた。
「そして、わたしだってリリィ姉様の妹なのです。『ご主人様があなたを受け入れているから、受け入れなければいけない』という義務感ばかりではなく……わたしにだって、妹であるあなたのことを受け入れたいと思う気持ちが、なかったわけではないのです」
自分の意見を殺しがちだったローズが、ガーベラに抱いている複雑な思いを告げるのは……思い返してみると、これが初めてのことだったかもしれない。
同時にそれは、わかりやすい和解と歩み寄りの台詞でもあった。
「ご主人様のこと、よろしくお願いします」
ローズは頭を下げて、ガーベラに道を譲るように身をひいた。
彼女たちには、和解の切っ掛けこそが必要だったのかもしれない。それがこのような機会になってしまったのは、運の悪いことだと言わざるを得ないが……
それでも、二人の眷属のわだかまりが解けたことは間違いない。それは、祝福されるべきことだった。
「主殿」
そうしてガーベラは、おれの枕元にやってきた。
ガーベラの顔に弱気の色はない。
彼女の背中をリリィとローズの言葉が支えているのがわかった。
「妾にその身を預けておくれ」
右と左の五本の指から、それぞれ白い糸が垂れた。
おれの全身の各所と、ガーベラの指とが繋がれる。
「始めるぞ」
そういって、ガーベラは蜘蛛糸に魔力を伝わせ始めた。
ほっそりとした指先が白く輝き、その光は糸を伝わって、おれの体へと流れ込んでくる。
おれという器の中から漏れ出ていき、足りなかった何かが、埋め合わされる。
全身が震えた。魔力というものの感触を、おれは初めて実感したのだ。
ガーベラは真摯そのものの表情で作業に没頭していた。
掛けられた期待に応えようという彼女の姿を、リリィとローズが見守っていた。
……もう、きっと大丈夫だ。
そう思った途端に、ふっと気が抜けた。
怒涛のように眠気が押し寄せてきて、おれの意識をさらって消える。
最後まで見届けることなく、おれはそこで意識を失った。
◆リリィ・ローズ・ガーベラ回。
というか、姉妹回ですね。タイトルの通りです。
◆次回更新予定は、3/8(土曜日)となります。
 






