37. 仮面の下
(注意)本日3回目の投稿です。(6/23)
37
仮面の集団を相手取って、優奈とローズ、ロビビアの戦いは続いていた。
「くっ……」
防戦一方の状況に、優奈は歯噛みした。
少しでも隙があれば『韋駄天』は確実にそこを突く。
しかし、敵はまったく連携を崩す様子がなかった。
うまいというより、慎重な動きというべきだろうか。
聖堂騎士の戦い方を知っている優奈の目からすれば、その連携は決して盤石ではなかった。
長い時間の訓練で培われた滑らかさはなく、せいぜい互いの邪魔をしないように動けるレベルでしかなかった。
ただ、彼ら個人の戦闘能力の高さが、平均的な聖堂騎士のそれを大きく上回っていた。
ある程度、お互いの穴を埋めるだけでも十分過ぎるくらいに脅威だったのだ。
おまけに、彼らは決して無理をしなかった。
もしも彼らがもう少し積極的に攻めかかってきていたら、優奈のフォローも間に合わず、ローズかロビビアのどちらかはやられてしまっていたかもしれない。
あるいは、処理の間に合わなくなった優奈が、決定的なミスをすることもあったかもしれない。
けれど、彼らはそうすることで隙を晒して、返り討ちになるリスクを避けた。
慎重で嫌らしい戦い方だった。
そう優奈が感じずにはいられないくらいに、これは『韋駄天封じ』の手段だった。
「はぁああ!」
もはや何合打ち合ったのかもわからない。
少し力を込めて打ち払えば、敵はすぐに引き下がった。
代わりに別のひとりが攻撃を仕掛けてきて、ローズたちを脅かした。
半分竜になりかけたロビビアが硬質化した両腕で攻撃を弾き、ローズの斧が叩き込まれた。
優奈は踵を返して、ふたりのフォローに回ろうとした。
すでに彼女には手がなかった。
だからこその、繰り返し。
何十回と続き、これからも続いていく攻防の一幕。
そう認識していた。
仮面の集団も同じだっただろう。
千日手だ。
そこに、わずかな慣れができていたことを優奈が自覚したのは、ローズが動いたあとだった。
「シィ――ッ!」
ここしかないタイミング。
これまで通りと思って動いていた敵の虚を突くかたちで、ローズの手から放たれたのは、合計七本のナイフだった。
戦闘能力で劣っていても、死線を越えた数では、真島孝弘の眷属は負けていない。
戦いのなかで培った経験によって投擲されたナイフが、内蔵された模造魔石を爆発させた。
爆発自体はそう大したものではなかった。
少なくとも、敵に大きなダメージを与えられるようなものではなかった。
魔力の気配がした時点で、ある者は跳びすさり、ある者は防御した。
だが、同時にそれは、致命的な攻撃でもあったのだ。
「はぁあああ!」
爆発の隙間を、世界最速の『韋駄天』が走った。
それはまさに電光石火。
ひとりを蹴り飛ばし、もうひとりを鍔迫り合いで弾き飛ばす。
「そこぉ!」
「……うっ!?」
そうしてできた隙に狙ったのは、仮面の男のひとりだった。
そのひとりこそが、全体の中心になって動いていることを、優奈は見抜いていたのだった。
ひとり欠けただけでも『韋駄天』を押し留めるのは難しくなる。
それが司令塔であればなおさらだった。
「はああぁああ!」
「っぐ!」
優奈の怒濤の連撃に、仮面の男は苦鳴を漏らした。
剣戟は嵐のごとく。
応じる剣が追い付かない。
切っ先が肩を切り、仮面を削った。
攻撃に翻弄されて、左右に振られた男の体が決定的な隙を作る。
ローズの攻撃のお陰で、邪魔が入ることもない。
優奈は確かな手応えを得て、前に出た。
これは決まる。ここで決める。
「はあああ!」
裂帛の気合いとともに、優奈は踏み込んで――。
***
――この局面、不可思議な場所に飛ばされた孝弘たちの戦闘は、主に三方面で展開していた。
真島孝弘は加藤真菜を守りながらも、工藤陸と合流してトラヴィスとの戦闘を終了させた。
最後に思わぬ窮地に立たされたものの、怪物と化したトラヴィスの撃破には成功している。
優奈はローズとロビビアと共闘し、ついに敵のひとりを仕留めようとしていた。
あとはもう、戦闘続行が不可能な傷を与えればそれで終わりだった。
オットマーをはじめとする聖堂騎士たちと、奇妙な剣を操る仮面の男から逃げるリリィとガーベラだけは劣勢だったが、そちらもどうにか対抗はできていた。
余程の失敗がない限り、簡単に追い付かれることはないだろう。
謎の仮面の集団やトラヴィスの参戦など、思わぬ増援に脅かされる場面はあったにせよ、所詮、元聖堂騎士のオットマーではいまの孝弘たちを殺すことはできない。
少年の積み上げてきたものは、決して軽くはなかった。
それは事実だった。
事実では、あったのだが……。
「どうかなさいましたか」
主戦場から離れた場所で、疑問の声があがった。
声の主は、シランだった。
眼帯に覆われていない側の碧眼が、怪訝そうな光を宿していた。
その向けられる先にいるのは、禿頭の騎士ゴードン=カヴィルだった。
質実剛健にして誠実な騎士は、部下の騎士たちとともに、シランを守って移動を続けていた。
団長である傑物ハリスン=アディントンの薫陶を受けた騎士たちは、責任感が強く、献身的だった。
全員が少なからず怪我を負っており、血を流していない者はいなかった。
ゴードンは部下たちを鼓舞し、気遣い、自ら剣を取って指揮を続けてきた。
しかし、いつしか通路を進むうちに、彼は黙りがちになっていた。
シランは最初、それを疲労のためかと思った。
特にゴードンは『輝く翼』の力を何度も使っていたからだ。
そこで、シランは休憩を提案したが、ゴードンは拒んで前に進んだ。
実際、彼の戦闘力は落ちていなかった。
鍛え上げられた肉体は、酷使されてなお余裕を残していた。
ただ、厳つい顔に浮かぶ陰鬱な色だけが、どんどん濃くなっていった。
シランが黙っていられないほどに。
「いえ。わたしはなにも……」
「先程から、ずっと塞ぎ込んでおられるではありませんか」
誤魔化そうとするゴードンに、シランは周りを示してみせた。
「皆様、お気付きですよ」
統率者であるゴードンの様子がおかしいことは、当然、部下である騎士たちも察していた。
動揺が広がっており、士気にも悪影響を与えていた。
「なにかあるのなら、おっしゃってください」
このままでは、近く損害が出る可能性がある。
と、そうした判断もあったが、シランは同時に、本心からの気遣いの言葉を口にしていた。
目の前にいる人物をはじめ、聖堂騎士団という組織に属する騎士たちの多くが、敬意を払うべき相手であることを、この短い時間で確信していたからだ。
アケルで暮らしていた幼い頃から、樹海で活動していた騎士時代まで、シランにとって勇者を支える聖堂騎士は憧れの存在だった。
トラヴィスの件で疑いを抱きはしたものの、あちらが例外であることは、もはや明らかだった。
彼らは伝説に登場する者たちと同じ、使命に殉じる高潔な騎士だった。
なにかあるのなら、力になりたいと思ったのだ。
そうしたシランの想いは、正しく伝わったはずだった。
しかし、ゴードンの反応は芳しくなかった。
「シラン殿……」
彼はひどく苦しげな顔になっていた。
朴訥な人柄らしく素直な目元には、困惑と混乱がありありと現れていた。
そして、なによりシランを意外に思わせたのは、そこにかすかな恐れが見て取れたことだった。
ゴードン=カヴィルという男性が、この世界でも最高クラスの力を戦闘能力と、鋼の精神を兼ね備えた騎士であることは疑いようがない。
その彼が、いったい、なにを恐れているというのか。
シランは胸のざわめきを覚えた。
ひどく悪い予感がして――。
***
「――はぁああああ!」
優奈は愛剣を振り上げて踏み込んだ。
これは決まる。ここで決める。
そう心に刻んで、斬り掛かった瞬間だった。
「やっぱり強いな」
仮面の男が、声をあげたのだ。
まったく気負いのない、気安くも思える声色だった。
「――ッ!?」
それは、まるで魔法の言葉だった。
剣を振り上げ、踏み込み、叩き込む途中だった優奈の動きが、完全に硬直する。
その瞬間の『韋駄天』は、時間をとめられてしまったかのように無防備だった。
言い換えれば、良い的だった。
「悪いな、飯野」
「いっ!?」
男は本当に申し訳なさそうに言い、直後に走った激痛に優奈は顔面を引き攣らせた。
彼女の右のふとももに、骨を組み合わせたような不気味なナイフが生えていた。
意識の隙間を突くように、男がナイフを突き刺したのだ。
切っ先がふとももの裏から抜けていた。
「あっ、あぁああああ!?」
激痛に立っていることもできず、優奈は横倒しに倒れた。
通路の床に、小さな血の池が広がっていく。
なにか仕込んでいたらしく、黒色の液体が赤い血に混じっていた。
戦いの最中にあまりにも大きな隙を晒してしまっていたが、追い打ちはなかった。
ただ、男はどことなく申し訳なさそうな声で言った。
「本当に悪い。おれもこんな手は使いたくなかったんだ。だけど、お前は強過ぎた。こうするしかなかったんだよ」
「飯野さん……」
倒れ伏した優奈の姿を見て、ローズが呆然とした声をあげた。
急転直下。
あまりに呆気なく最大戦力は失われ、ローズたちの形勢は圧倒的に不利なものとなっていた。
「終わりだ」
「くっ」
男の宣言を聞いて、ローズとロビビアが険しい顔で身構えた。
お互いを庇うように寄り添い合う。
ふたりとも、最後の瞬間まで諦めるつもりはなかった。
そのときだった。
「う、うぅうううっ!」
地面で身悶えしていた優奈が、唸り声をあげて体を跳ね上げたのだ。
「なにっ!?」
細剣が翻り、リーダー格の男を襲った。
後方に跳び退ることで攻撃は回避されたが、お陰で優奈にも態勢を整える時間が与えられた。
彼女は片足一本で、ローズたちのもとに跳躍した。
「飯野さん!」
「お前……」
「ふーっ、ふー!」
優奈は荒い息をついて、駆け上がってくる激痛に堪えた。
ナイフはふとももに刺さりっぱなしだった。
それでも、優奈の戦意が挫けることはなかった。
「……その怪我で、まだ立ち上がって戦うのか」
仮面の男が、呆気に取られた様子でつぶやいた。
「どうせなら両足を潰しておくんだったわね」
優奈が足を傷付けられるのは、これで二回目のことだった。
容赦のなさが足りていない。
一回目のときは両足をやられてしまったけれど、今回は左足が残っている。
かろうじて立ち上がることは可能だった。
「……その仮面を外しなさい」
戦意を保ちつつ、優奈は険しい声で告げた。
「もう意味なんてないでしょう」
奥歯を噛み締めたのは、体の痛みに堪えるためだけではなかった。
無論、問い掛けに答える義務は、敵にはない。
ないはずだが……。
かまうことなく仮面の集団が攻撃を仕掛けようと動くのを、当のリーダーが手を上げてとめた。
諦めたように、彼は顔に手を伸ばした。
仮面が取り外される。
「あ、ぁあ……」
無意識のうちに、優奈の口からは悲痛な呻き声が漏れていた。
仮面の下から現れたのは、少年の顔だった。
人好きのする精悍な顔立ち。
いまはほろ苦い表情が浮かんでいた。
こんなところで、見るとは思いもしなかった顔だった。
「……神宮司くん」
「よう。飯野。こんなところで会いたくはなかったぜ」
神宮司智也。
探索隊での二つ名は『竜人』。
探索隊の離脱組メンバーのひとりであり、樹海をともに探索した優奈の戦友だった。
戦っている間に、そうと気付かなかったのは、あの仮面がそうした効果を持つ魔法道具だからかもしれない。
ただ、それは声にまで効果を及ぼすものではなかった。
現実を呑み込むための数秒の沈黙のあとで、優奈は震える唇を開いた。
「なんで、神宮司くんがこんなところで……どうして、こんなことを?」
声を聞いた時点で、彼だとわかってはいたけれど、信じたくはなかった。
こうしているいまも信じられなかった。
優奈にとって、探索隊メンバーはかけがえのない仲間だ。
神宮司智也をはじめとした幹部メンバーは、そのなかでも特に頼りになる戦友だった。
そんな彼と、このようなかたちで会うなんて考えもしなかった。
なにか大切なものがひび割れる音を、優奈は聞いた気がした。
それは自分の世界が軋み、砕けそうになる幻聴だった。
これまで優奈は、自分が正しいと思うもののために戦ってきた。
コロニーの防衛でも、樹海の探索でも、遠征隊の道中も、コロニーの生き残りを救出するときも、東の地で偽勇者を追っている間も、モンスターの暴走から集落を守ったときだって。
歯を食いしばって戦い抜いてきた。
そうできたのは、それに意味があると信じていたからだ。
自分が戦うことで、みんなが幸せになれるのだと思っていた。
そのためになら頑張れた。
つらいことがあっても、苦しいことがあっても、駆け抜けてきたのだ。
なのに、この状況はなんだろうか?
こんなことになるのなら、自分はいったい、なんのために……。
「……答えて、神宮司くん」
恐ろしい考えが浮かびかけて、堪えきれずに優奈は言葉をぶつけた。
「どうして!? 神宮司くんがオットマーに協力して、真島を殺そうとするなんて!」
かつては肩を並べ合って、樹海を探索したふたりの視線がぶつかり合った。
激しい動揺を見せる少女に対して、少年の眼差しが揺らぐことはなかった。
それはつまり、すでに心を決めてしまっているということだった。
「みんなで元の世界に帰るためだ」
「……え?」
「協力をすることで、帰してもらえると約束したんだ。だからおれはここにいる」
告げられる言葉は落ち着いたものだったが、むしろ優奈は混乱した。
「な……なにを言っているの。神宮司くん。みんなで、元の世界に帰る?」
それは、確かに以前に会ったときに、彼から聞かされていた話だった。
――実のところ、おれはただぶらぶらしてたわけじゃない。おれは……。
――どうにかして、元いた世界に帰るつもりでいるんだ。
言っていることは一貫している。
問題は、それ以外の部分にあった。
「そんなことを、オットマーができると本当に思っているの?」
転移者が元の世界に帰ることができないのは、この世界における常識だ。
それを、たかだか元聖堂騎士程度がどうにかできるなんて思えなかった。
「それだけじゃない。神宮司くんは、みんなで元の世界に戻るって言っていたじゃない。それなのに、真島を殺すっていうの?」
以前に会ったときの会話を、優奈は覚えていた。
――おれは十文字とは違う。
――あいつは馬鹿だ。仲間を殺してでも元の世界に帰る? そんなの許されるわけねえだろうが。
――おれたちは何人生き残ってる? 百人か? 二百人か? 千人来て、何百人が死んだ? おれは十文字の野郎とは違う。みんなで元の世界に帰るんだ。
義憤に満ちた言葉だった。
あれは、本心からの言葉だったはずだ。
それなのに、やっていることがこれでは、矛盾してしまっている。
そのようにしか思えないのに、返ってきたのは否定の言葉だった。
「違う。おれは真島を殺すつもりはない」
「――ッ!」
淡々と告げられる言葉が理解できない。
もどかしさに胸を掻き毟られるような気持ちが湧き上がる。
絞り出すような声で、優奈は尋ねた。
「だったら、どうして神宮司くんはわたしたちを襲ったのよ……!」
「それが、おれが約束した協力だからだよ」
返答は、あくまで静かなものだった。
「『真島孝弘の眷属が全滅すること』と『真島孝弘には表世界から姿を消してもらうこと』。このふたつが、おれが提示された条件だ。眷属には死んでもらう。だけど、真島は身柄を押さえて、大人しくしておいてもらうだけだ。殺しはしねえよ」
「な……っ!?」
優奈は驚きに目を瞠った。
確かに、それなら『転移者みんなで元の世界に帰る』という言葉と矛盾はしない。
けれど、だからといって、そんなことを認められるわけがなかった。
「なにを驚いてるんだ。相手はモンスターだ。これまでだって、いくらでも倒してきただろ?」
「ち、違う……! それは違うわ。前に話したでしょう。真島の眷属は、人間をただ襲うモンスターとは違うのよ。わたしたちと変わらない心があるの」
「だとしてもだ」
以前の自分と同じ間違いを繰り返しているのかと思い、誤解だと訴えかける優奈は、首を横に振る戦友の姿を見た。
「目的には変えられない」
頑なな言葉だった。
「おれたちが無事に帰るためだ。そのために、必要なことなんだ」
「……どうして」
優奈の説得は届かない。
まるで心に鍵をしてしまっているかのようだった。
パン子爵領で再会を喜び合った時間が、はるかに遠いものに感じられた。
もうなにを言っても無駄なのだ。
そう悟って、優奈はうなだれた。
「どうしてそんな、自分たちだけがよければいいみたいなことを……?」
断絶を感じた。
それは、かつてのふたりの間にはなかったものだった。
「わたしたちはただ『みんなを守ろう』って、それだけを思って探索隊に加わったし、遠征隊にも参加したんじゃなかったの? なにかを犠牲にしようだなんて、そんなふうに考えたことはなかったはずでしょう?」
コロニー時代、優奈たちはリーダーの中嶋小次郎の指揮のもと、まだどんな危険があるかわからなかった樹海を探索して回った。
守らなければいけないみんなのために戦った。
気持ちは同じだった。
そのときの自分たちは、確かに理解し合える仲間同士だったはずだ。
けれど、いまのふたりはあまりにも隔たっていた。
「それなのに、どうして……」
優奈の両目から溢れ出したものが、頬を伝って地面に落ちた。
それで変わるものは、なにひとつなかった。
ただ、かつての戦友の心に届いたものは、わずかなりともあったのかもしれなかった。
「……飯野の言う通りだ」
ぽつりと、少年は告げたのだ。
「確かに、あのときはそうだったな。だけど、それが駄目だったんだ」
そう言って、吐息をつく。
深い後悔の念がにじみ出るような溜め息だった。
ともすれば、それは涙を堪えるような仕草にも似ていたかもしれない。
「なあ、飯野。おれ、恋人がいたんだ」
「……え?」
「残留組でさ、守ってやらなきゃって思ってた」
それは、優奈が知らなかった事実。
そこに、優奈の知らない彼の傷が生々しく口を開けていた。
「あいつは『みんなを守ってあげて』って言ったんだ。『智也くんにはみんなを守る力があるんだから』って。ああ。さっき飯野が言ったのと、同じことを言ってたよ。おれは遠征隊に参加した。そして、あいつはコロニーで死んじまった」
「……」
「だからさ、飯野。おれはもう優先順位を間違えるわけにはいかねえんだよ」
もはや取り返しの付かない喪失と後悔。
それが、彼の動機だった。
あるいは、それは強迫観念めいたものでもあるのかもしれない。
優奈には、なにを言っていいのかわからなかった。
だって、実際、自分は彼になにをしてやることもできなかったからだ。
どれだけ駆け回ったところで、どれだけ頑張ったところで、できたことはなにもなかった。
ただそれだけが事実だった。
「それと、もうひとつ」
打ちのめされた優奈は、続く言葉を聞いた。
「さっき飯野は『元の世界に戻れると本当に思っているのか』って言ってたけど、おれは本気でそう思ってるよ。おれたちはみんなで戻れる。だから、おれはそれだけを目指して動いてる」
「……」
優奈にはわからない。
それが理性的な判断による断定なのか、恋人を失った少年の抱いた狂気による妄言なのか。
わからない。
確かなのは、彼が敵に回ったということ。
最悪の事態。
打ちのめされた優奈にわかったのは、ただそれだけで――。
***
――だから、優奈にはひとつ気付かなかったことがあった。
この場面で最も恐ろしい事実。
それは、強大な力を持つ『竜人』神宮司智也が敵に回ったこと……ではない。
注目すべきは、そうなるに至った経緯のほうだ。
敵は優奈がありえないと思ったことを実現させた。
真摯に取引を持ちかけたにせよ、騙したにせよ、あるいは狂わせたにせよ、『竜人』神宮司智也を味方に付けたのだ。
それだけのものを持っていたということになる。
その事実こそが脅威だった。
なぜなら、同じようにありえない裏切りが起こらないとは、誰も言いきれないのだから。
だから『これ』はそういうことだった。
たとえ、どれだけ信じがたいことだとしても。
「幹、彦……?」
「駄目だよ、孝弘。油断したらさぁ」
親友であったはずの少年が、血濡れた手でナイフを握り締めて、へらりと笑った。
◆本日の投稿はここまでになります。
ついにこのときが来てしまいました。
◆すごいタイミングになってしまいましたが、報告です。
『モンスターのご主人様』書籍12巻、コミック2巻が、来月の末7月30日に発売となります。
通販で予約等は始まっています。初めての同時発売になりますね。
Web 版ともども、応援いただければさいわいです!






