35. 同族嫌悪
前話のあらすじ
不死鳥のごとく! あの男が帰ってきた!
35
「トラヴィス=モーティマー!? ……どうして、お前がここにいるんだ!?」
「まぁああああじまぁああああ!」
驚愕に対する返答は、殺意を込めて突き出された脚だった。
本来であれば、まだ届く距離ではない。
だが、膨れ上がった胴体に無数に生えた手足は、異様なまでの伸縮性を兼ね備えていた。
「加藤さん!」
即座におれは彼女を抱き上げて、攻撃から逃れるべく地面を蹴った。
カウンター気味だったドーラのときと違い、いまは互いに距離があった。
直線的な攻撃が読みやすかったのもあり、回避には成功する。
だが、ほっとするよりむしろ血の気がひいた。
殴り付けられた石の床が大きく砕け、細かい破片を撒き散らしながらめくれ上がる。
怖気が走るほどに強烈な攻撃だった。
こんなもの、直撃したら盾の上からでも拉げてしまう。
白い蜘蛛の力を再現してぶつければ別だが、あんなものを常時使用していれば、あっという間に消耗させられてしまうだろう。
避けるしかなかった。
飛んでくる小さな破片から加藤さんの身を守りつつ、おれは怪物から逃がれる方向に後退った。
「まじまぁああ! ああああ!」
トラヴィスの――いいや、怪物の目には、おれの姿しか映っていないらしい。
ヒトにあるべき理性を失った化け物が、高い天井に背中をこすりながら、ものすごい勢いで突っ込んでくる。
「……不快な」
と、吐き捨てたのは工藤だった。
表情に生理的な嫌悪感を滲ませながら、不用意に近付いたトラヴィスに対して四色の羽を広げる。
「フリードリヒ、展開」
そうして発動するのは、第三階梯の大魔法だった。
この世界の人間が到達できる限界点。
樹海深部のモンスターでようやく扱えるレベルの魔法が放たれる。
さすがというべきか、良いタイミングだった。
とはいえ、わざわざ避けられないようにタイミングを見計らって攻撃を仕掛ける必要もなかったかもしれない。
怪物は避けようともしなかったからだ。
吹き荒れる風の刃が、足の一本をずたずたに傷付ける。
体液が石の床にぶちまけられ、肉片すら飛び散った。
不用意に踏み込んだ代償は、あまりにも大きい。
痛みにのたうち回るところに、もう一撃――と、考えるのが普通だろう。
しかし、怪物の異常性は、そんな段取りをあっさりと蹴散らした。
「じゃあぁああ、まあああぁあ!」
「……なっ」
一瞬たりとも怯む様子なく、反撃が繰り出されたのだ。
もともと『魔軍の王』には、直接の戦闘能力はない。
避けることもできずに、まともに喰らった。
「工藤……!」
ピンポン玉のように人間ひとり分の質量が吹き飛んで、怪物から遠ざかろうとしていたおれを追い越していく。
無残な肉片と化していてもおかしくない一撃だった。
だが、おれに工藤を心配している余裕はなかった。
「まぁじぃいぃいいまぁああ!」
「こいつ……!?」
一瞬、気を取られた隙に、怪物が攻撃を仕掛けてきていたのだ。
横薙ぎの一撃を、おれは身を屈めてやりすごす。
「先輩! 上!」
腕のなかの加藤さんが、切羽詰まった声をあげた。
反射的に横に跳ねた。
そこに、踏み付けがきた。
床材が派手に砕けてめくれ上がる。
ぞっとする。もう少しで、ミンチになるところだった。
「くそっ」
危ういところを逃れたおれは、巻き上がった瓦礫に紛れて距離を取ろうとした。
しかし、怪物に結合したトラヴィスの頭部が、こちらを見逃すことはなかった。
「しまっ……!?」
気付いたときには、すでに脚の一本が振り上げられていた。
これは、避けられない。
「ひひゃぁあ!」
喜悦に満ちた声があがった。
「まぁあああ、じまぁああああ!」
異形の脚が振り下ろされる。
その寸前だった。
「うるさい」
激情の見え隠れする抑えた声が、狂騒の咆哮を断ち切った。
影絵の剣が空間を走り、振り上げられた腕の一本が吹き飛ばされる。
「ドーラ!?」
どうやら先程の攻撃を喰らっても、まだ動けたらしい。
影絵の少女は怪物の前に立ち塞がると、口のなかの血を吐き捨てた。
「……先に王のもとへ行け」
「助かった!」
礼を言って駆け出す。
背後で怪物が咆哮をあげた。
「じゃまあぁあ、をぉおおお! するなぁああああ!」
「貴様こそ、王の御前でよくも恥をかかせてくれたな!」
狂気と怒気、影絵の剣と異形の手足が激突する。
そうしてドーラが足留めをしてくれている間に、おれは工藤のもとに駆け寄った。
「大丈夫か」
「……ええ。死んではいませんよ」
おれが辿り着く前に、工藤はすくりと立ち上がっていた。
片手でささっと体についた汚れを落とす姿からは、あれだけ強烈な攻撃を受けておきながら、痛みを感じている様子はない。
体の周りを、緑色の泥のようなものが覆っていた。
工藤の身を守る鎧にして盾。
ダーティ・スラッジのツェーザーだ。
怪物の先程の一撃は、一般人であれば肉体が爆破四散していてもおかしくなかった。
それを免れたのは、どうやらツェーザーの守りによるものだったらしい。
「そうか。無事でよかった」
おれは、ほっと息をついた。
その胸元を、抱きかかえた加藤さんが引っ張って小さく叫んだ。
「先輩! ドーラさんが!」
はっとして、振り返る。
殴りつけられたドーラが、大きく吹き飛ばされたところだった。
くるくると空中で回転しているのはドーラと、彼女が刎ね飛ばした怪物の長い腕の一本だ。
彼女は綺麗に着地すると、こちらに駆け寄ってきた。
「申し訳ございません、王よ! これ以上は抑え切れません!」
駆け寄ってきたドーラの両手の剣は折れていた。
片目も閉じており、駆ける動作には少しぎこちなさがあった。
短くも激しい戦いの結果だった。
もっとも、やられるばかりではなかったらしい。
彼女のうしろで狂乱する怪物は、足の数本を失っていた。
痛み分け……というには、ドーラのダメージが大きいか。
このまま続ければ自分が倒されてしまう可能性が大きいと考えて、決定的な状況になる前に、ドーラは切り上げてきたのだろう。
「逃げましょう、先輩」
加藤さんが再びおれの胸元を引いた。
「ここで無理にあの怪物と戦う必要はありません。ドーラさんのお陰で、怪物の動きはにぶってます。いまなら逃げられます」
「……そうだな」
あの怪物の逆恨みに付き合ってやる義理はない。
加藤さんの判断に頷きを返し、おれは駆け出した。
「工藤も行くぞ!」
「わかりました」
工藤は頷くと、背中に展開したフリードリヒの無機質な羽を震わせた。
痩身が宙に浮かぶ。
その羽は飾りではなく、空を飛ぶことができるのだった。
とはいえ、ツェーザーが防御特化なら、フリードリヒは魔法特化だ。
飛行の補助のために肝心の魔力を消費してしまうために、ここまでは使ってきていなかったが、こうなった以上は仕方なかった。
ドーラも駆け出して、全員で来た道を走り出す。
宙を飛ぶ工藤がこちらに視線を落としてきた。
「ところで、先輩。ずいぶんと熱心に名前を呼ばれていましたが、あの怪物はお知り合いですか」
「因縁のある相手ではあるな。聖堂騎士団の第四部隊の隊長だ」
「ああ。アケルで先輩を攻撃したという……ずいぶんと個性的な方のようで」
「あんな姿ではなかったんだけどな。あいつの『聖眼』は厄介な力だったが、怪物化の力はなかった。そもそも、あいつは撃退したあとにどういうわけか、魂を武器にする『勇者の遺産』の『霊薬』に使われていて……」
そこまで言って、ふと引っ掛かった。
「いや。そういえば、魂を引き剥がしたあとの肉体のほうは残っていたんだったか」
言いながら、通路の分岐点を曲がる。
「先輩……?」
そこで、腕のなかで加藤さんが声をあげた。
もっとも、駆け足に激しく揺られながらなので、途切れ途切れだった。
「『霊薬』で……魂を利用した、みたいに……体もなにか、魔法道具のため……有効利用……ですか?」
「そんなところだろうな。あと、あまり喋ると舌を噛むぞ」
と、声をかけておいたものの、加藤さんは黙らなかった。
「……そんな、魔法道具、が?」
「あるんだろうな。ああしてトラヴィスが怪物になっているってことは」
「いえ。あるかどうか……では、なくて……」
なにか言いたいことがあるらしい。
加藤さんは言葉を紡いだ。
「そんなもの、なんで……そもそも、この場所も……おかしい、ことが……ここも、ひょっとしたら……」
「おい! うしろだ!」
おれたちの会話を遮って、ドーラが叫んだ。
速度を落とさないまま振り返れば、追い掛けてくる怪物の姿があった。
「まさか、追い付いてきた……!?」
状況の考察は大事だが、いまは目の前の脅威のことだ。
おれが頭を切り替えると、ドーラが忌々しげに舌打ちをした。
「なんだ、あれは! 確かに、一度は撒いたはずだぞ!」
「……そもそも、あれは目がないからな。見えなくなったくらいでは、撒けていなかったのかもしれない」
においか、それとも魔力的な手段を用いたのか。
いずれにしても、追跡は可能ということだ。
また、一度は引き離していたはずなのに、追い付かれてしまったのにも理由があった。
「足が復活してるな。再生能力があるのか」
さっきドーラがやったように、脚を切り落としたところで、いくらかの時間稼ぎにしかならないということだった。
逆に言えば、時間稼ぎはできるわけだが……。
「時間稼ぎをするたびに、ドーラが傷付くことになるな」
「む。傷付くのがどうした」
おれがつぶやくと、並走するドーラが眦を吊り上げた。
折れた両手の剣を再生して、威嚇するようにこすりあわせてみせる。
「馬鹿にするな! わたしは王のために傷付くことを恐れたりはしないぞ!」
「そういうことを言ってるわけじゃない。いたずらに傷付けば、いずれ戦えなくなるだろう。それはまずい。じり貧だ。お前の戦力をアテにしているからこその話だよ」
「……む」
ドーラは強い。
トラヴィスの肉体を使ったあの怪物は、チート持ちとまではいかないまでも、それに準ずる戦闘力がある。
正面からやりあえるのは、ドーラだけだった。
「話はわかりますが、具体的にはどうしますか」
黙り込んだドーラの代わりに、工藤が声をあげた。
「中途半端なことをしていてはじり貧というのはわかりました。しかし、あの体も再生する肉で膨れ上がっているとなると、致命傷を負わせる手段は限られています。頭を落とすくらいしかなさそうですが……」
「王よ。僭越ながら、それはすでに試しました。ですが、あの怪物、あれで意外と防御が堅いのです。剣は届きませんでした」
直接戦闘を行ったドーラがこういうのなら、彼女単体で怪物の首を狙うのは難しいのだろう。
ひょっとしたら、あんな状態でもトラヴィスの経験が生きているのかもしれない。
まともな人格が残っているとも思えないのだが、残骸と成り果ててなお厄介な男だった。
それなりの方策をぶつける必要がある、ということだ。
だが、どうすればいいのか。
「それでは、ドーラに足留めをさせますか」
工藤の結論は、あっさりしていた。
「中途半端はいけない。だったら、ドーラが倒れるまで粘れば、それなりの時間を稼ぐことは可能でしょう。そう簡単には追い付かれないところまで逃げることはできるかと思いますよ」
「……使い捨てにするつもりか」
「そのための配下ですから」
工藤の返答は予想通りのものだった。
ちらりと確認した先で、ドーラもなんの疑問もなく主の考えを聞いていた。
感情を剥き出しにされていると忘れそうになるが、彼女もまた魔王の駒のひとつでしかないのだ。
これが当たり前のこと、なのだろう。
けれど……。
脳裏に一瞬、双頭の狼の姿が思い出された。
「……いや。別の方法を考えよう」
おれがいうと、ドーラは不可解そうな顔をした。
そうした態度はやはり、行動をともにし始めたばかりの頃のベルタを思い出させた。
その一方で、工藤はこの返答を予想していたのかもしれない。
「そうですか」
案外あっさりと引き下がると、問いを投げてきた。
「ですが、だとすればどうしますか。あまり時間はありませんが」
「……そうだな」
工藤の言い分は正しい。
まだだいぶ距離があるから、追い付かれるまでには五分程度か。
それまでにどう戦うのか決めなければならなかった。
選択肢は多くない。
おれは少し考えてから、返答した。
「……要は、ドーラがあいつの首を落とせるだけの隙を作ればいいわけだろう」
「隙ですか。まあ、そうですね」
相槌を打った工藤が視線を向けると、ドーラは大きく頷いた。
「無論です、王よ。見事あの不快な首、叩き落して見せましょう」
「だそうです」
「……ちょ、ちょっと、待ってくだ……さい」
そこで、会話に口を挟んだのは加藤さんだった。
振動で喋りづらいはずだが、そうせずにはいられなかったらしい。
腕のなかから、おれを見上げてくる。
「誰……が、隙を作るん……ですか?」
ここまではドーラが矢面に立っていた。
だが、彼女はトドメの一撃を与えなければならない。
そうなると、おれか工藤のどちらかが立ち向かう必要があった。
そこで加藤さんが飛行する工藤に目をやったのは、先程、怪物の攻撃をまともに喰らいながら平然としていた姿を見ていたからだろう。
「工藤くん……」
「……なにが言いたいのかはわかりますけどね」
縋るような加藤さんの目と、細めた工藤の目が合った。
そこでふとおれは、このふたりが言葉を交わすのは、これが初めてだということに気付いた。
工藤が加藤さんに敵意を見せないかどうかばかり気にしていて、ここまで、その事実にまで思い至らなかったのだ。
……お互いに避けていた、ということだろうか?
多分、そうなのだろう。
工藤の顔は、無表情だった。
いや。少し眉間に力が入っているかもしれない。
そもそも、魔王として振る舞う彼は、常であれば感情の底の見えない笑みを浮かべている。
表情を消したこと自体が、内心を表しているようにも思えた。
こんなときでなければ、加藤さんは工藤に話し掛けることはなかったし、その逆もなかったのかもしれない。
だが、いまの加藤さんにはそうするしかなかったのだ。
「お願い……します……力のない、わたしには……できない、こと……だから」
振動で途切れ途切れになってしまう彼女の声には、無力感が透けて見えた。
どうやら、この場面で戦えないことを、まだ気にしていたものらしい。
あるいは……これまでずっと気にしていたのかもしれないが。
そんなふうに思ったのは、加藤さんがひどく暗い顔をしていたからだった。
「わたしに、転移者の力が……あれば……」
紡ぐ声に落ちる影が、色濃くなっていく。
「とっくに、望みは……どうして……無力なままで……」
わずかな違和感があった。
おれの勘違いでないのなら、彼女の声に込められているものは、ただの『無力感』というより『罪悪感』に近いもののように感じられたのだ。
けれど、わからない。
能力が発現していない以上、彼女がそれを不甲斐なく思うならともかく、申し訳なく思う理由はないはずだ。
そのあたりを履き違えないくらいには、おれの知る加藤真菜という少女は賢いはずだった。
それなのに、どうして?
奇妙だった。
けれど、どれだけ不思議に思ったところで、彼女が暗い想いを抱いていることは変わらなかった。
だからこうして、避けていた工藤にもお願いをしている。
だが、必死な訴えを向けられた当人は、この状況に少し眉を顰めていた。
「そういうことではないのですけどね」
「……え?」
「あなたは勘違いをしています。残念ながらね」
仕方なさそうに言ったのは、なにかを諦める仕草に見えた。
「実際のところ、ぼくにもできないんですよ。あの怪物の相手をすることは」
「え? そんな……ですけど、さっきは……」
「だから、それが勘違いです。これは、先輩には伏せておきたかったんですけどね」
そう言って、工藤は左腕を伸ばしてみせた。
ややぎこちない動きだった。
腕の周りには、ツェーザーが纏わりついている。
いや。というよりは、これは……緑の汚泥が腕を動かしている、というほうが近いだろうか。
しかし、なんでそんなことを?
見る者の疑問に答えるように、もう一方の手で、工藤は左腕の袖をまくり上げた。
「お前、その腕……!」
思わずおれは、目を見開いた。
露わにされた工藤の左腕が、ぐしゃぐしゃに潰れていたからだ。
服の上から形を保っているように見えたのは、単にツェーザーが支えていただけのことでしかなかった。
とんでもない大怪我だった。
「さっきの攻撃、防御し切れてなかったのか!?」
「ツェーザーはさほど強力なモンスターではありませんからね」
驚き慌てるおれとは対照的に、壊れた自分の左腕に目を落として、工藤は平然としていた。
「限られたポテンシャルを特化させているので一面では強力ですが、それにも限界はあります」
「そんなことを言っている場合じゃ……!」
「別にかまいませんよ」
気にした様子もなく、工藤は袖を元に戻した。
「戦士でもないぼくは、どうせ戦闘に腕は使いません。それに、運が良かった。こちらはもともともう『死にかけて』いましたから」
「死にかけて……?」
淡々とした声に、怖気が走った。
そして、遅ればせながら気付いた。
この状況が異様であることに。
「……ちょっと待て。お前、痛くないのか」
さっきから、工藤はまったく痛がる素振りもなかった。
それで気付くのが遅れてしまったわけだが、この怪我は我慢でどうこうできるレベルではない。
こうして状態を知ってみれば、痛みをまったく見せないのは異様だった。
「工藤。その腕、どうした?」
「先輩ならわかるんじゃないですか」
工藤は返答に少し苦笑の気配を混じらせた。
その顔は、出会った頃にもまして肉が落ちている。
それはもう、ずっと前からだ。
気付けるだけの材料はあったのだ。
「……能力の副作用」
「ぼくは所詮、弱い人間ですからね」
工藤は静かに認めた。
「分不相応な強さに手を伸ばしたなら、足りないところはなにかで補填するしかありません」
悲しくなるくらいに、その顔には後悔がなかった。
過ぎた願いは身を滅ぼす。
あるいは、工藤の場合はもっと直接的な願いの反映なのかもしれないが。
一方通行のすえに行きつく失意と絶望に満ちた破滅を覚悟しているのが、魔王としての彼の在り方なのだから。
「別に、気にするようなことではありません。ぼくのような人間にとって、これは妥当な末路というものです。そして、だからこそ、ひとつ忠告しておきましょう」
そこで、工藤は加藤さんに視線を向けた。
その双眸に現われているものは、いまやはっきりと刺々しい感情だった。
おれに向けている感情が、同じ境遇にありながら別の道を歩んだ者に対する共感であるのなら、加藤さんに向けているのは同族嫌悪に近いもののように見えた。
だからこそ、見通せるものもあったのかもしれない。
工藤は、いまは服の下に隠れた左の腕を示してみせた。
「あなたは、ぼくと似ている。弱いところも、破滅的な性質も含めて。断言しましょう。あなたが能力を発現したとき、きっと『酷いこと』になる」
「――っ!」
なにか思い当たるところがあったのかもしれない。
加藤さんがびくりと震えせたのが、密着した体越しに伝わってきた。
「少なくとも、いまのあなたでは、待っているのは破滅です。その未来が恐ろしいから能力を発現できずにいるなら、下手なことは考えないほうがいい」
「わ、わたしは……!」
なにか反論をしようとしたのだろう。
ただ、加藤さんがそれ以上を続けることはなかった。
事実として、彼女は能力を発現できずにいるからだ。
……もっとも、それが悪いことかといえば、おれはそうは思わなかったが。
「ふたりとも、それくらいにしておいてくれ」
おれはふたりのやりとりをやめさせた。
言い争っているような時間はないというのもあったし、そもそも、このやりとりにはあまり意味がなかったからだ。
「もともと、ここはおれが出るつもりだよ」
「せ、先輩……!」
抗議するように加藤さんが呼び掛けてくるが、ここは譲れなかった。
「そもそも、どう見てもあの化け物はおれの姿しか見えてない。囮役として適任なのが誰なのか、考えるまでもないだろう」
「ですけど……!」
「もちろん、勝算なしというわけじゃない」
おれが言い聞かせるように声をかけると、加藤さんは黙り込んだ。
代わりに、工藤が興味を惹かれた様子を見せた。
「勝算ですか?」
「ああ」
頷いて、おれは口を開いた。
「サルビア」
それは、ずっと沈黙を続けてきた眷属の名だった。
霧が広がり、虚空から妙齢の女性が現れる。
ふっくらした唇には、力強い笑みが浮かべられていた。
「お待たせ、旦那様。ある程度はわかったわよ」
「魔法の展開は?」
「それもある程度は。幻惑は無理で、広範囲展開もできないけど」
「周囲の認識ができれば、十分だ」
ここまで顔を見せなかったサルビアだが、なにもしていなかったわけではなかった。
彼女にはずっと、この場所で魔法『霧の仮宿』を展開できない理由と、その対処法を探ってもらっていたのだ。
「それとね、旦那様。ちょっと話すことがあるのだけれど」
「わかった。ただ、あとにしてくれ」
なにか新しい事実が判明したらしい。
気にはなったが、話をしようとするサルビアをおれは遮った。
「いまは、あいつに対処する必要があるからな」
その直後、うしろから濁り切った吠え声が響いた。
いよいよ、怪物が追い付いてきたのだった。
「先輩……」
加藤さんが心細そうな声をあげた。
腕のなかからこちらを見上げてくる彼女は、胸が潰れてしまいそうな顔をしていた。
背後から迫る怪物は確かに強大で、立ち向かうなんて無茶だとしか思えないのかもしれない。
だけど、そんなことはないのだ。
それほど、おれがこの世界にやってきてから積み上げてきたものは薄くなかった。
「大丈夫だよ」
声を掛けておいて、おれは意識を切り替えた。
「加藤さんが罪悪感を覚える必要も、ましてや無理をする必要はない。ここは、おれが……おれたちが、引き受けるから」
「サーマー」
「そうね。いまの旦那様は強いもの」
左腕にアサリナが巻き付いて、五本の爪を備えた異形の腕を形成する。
体から霧が滲み出て、周辺の情報を取り入れ始める。
「それと、工藤」
最後に、同行者にも声を掛けておいた。
「お前にもあとでちょっと話があるからな」
潰れた左腕に一瞥をくれてから、軽く睨み付ける。
ベルタのことを思えば、工藤の体に関する話は、聞き流すわけにはいかなかったのだ。
「……わかりました」
睨み付けられておきながら、なぜか嬉しそうに工藤が笑い、空中で身を翻した。
魔法陣が展開する。
「初撃は請け負いましょう。切り札をひとつ使います」
「頼んだ」
返すと、工藤がますます笑みを深めた。
まるで仲間同士のやりとりだなと思いつつ、おれも悪い気持ちはしなかった。
「ドーラも頼りにしてるぞ」
「あ、ああ。任せろ」
慣れない様子で返すドーラに少し笑って、足をとめる。
加藤さんを床に降ろした。
あの怪物が見ているのは、おれだけだ。
積極的に攻撃を仕掛けたり、邪魔をしたりしなければ危険はない。
加藤さんは、むしろ離しておいたほうが安全だ。
そして、魔法『霧の仮宿』も使えるようになったいま、ようやく全力で戦う態勢が整っていた。
ここからが本番だった。
「行くぞ、トラヴィス!」
異形のものに変わった左腕をかまえて、おれは走り出した。
◆お待たせしました。
さらに更新します。






