03. 心の中にある深い洞
前話のあらすじ
きちきちきちきち我慢の子。
きちきちきちきちきち……きち……きち。
3
森は危険が溢れている。
それが行ったことのない場所なら尚更だ。
ただ移動するだけでも、気をつけなければいけないことはたくさんある。忘れてはならない。ここは人間の領域ではないということを。
……それはわかっていたはずだったが、失敗がゼロとはいかないのが人間というものだ。
「うおっ!?」
一歩前に出した足が滑った。
疲れのせいか視界がにじんだところで、繁茂する草のせいで足裏がグリップを失ったのだ。
途端、おれはバランスを見失った。
慌てて突き出した手は目的の木の枝にわずかに届かず、おれは無様にすっころぶ――すっころびかけた、というべきか。
「危ないのう。気を付けよ、主殿」
「……悪い」
引っ繰り返りかけたおれのことを、即座に回り込んだガーベラが抱き留めていた。
あたりの警戒をしつつ、おれのことも見てくれていたらしい。素早い対応だった。
結果、おれの後頭部は彼女の豊かな胸に半分埋まってしまっていたが、ガーベラにはそれを気にした様子もない。上下逆様になった整った顔が、おれのことを後ろから心配そうに見つめていた。
「大丈夫かの?」
「手間をかけたな」
「別にこれくらいは構わんがの」
そう言って、ガーベラはおれが地面に足をきちんとつけたことを確認した。
「……」
そして、一度ぎゅっと胸に押し付けるようにしておれの頭を抱きしめてから、手を離しておれのことを解放した。
「……」
「な、何かの?」
振り返ったおれがジト目で見ると、ガーベラは上擦った声で言った。
きちきちと蜘蛛脚が音をたてていた。どうやら彼女のこれは、癖のようなものらしい。
「べ、別に妾は役得などと思ってはおらんぞ」
「語るに落ちるって言葉があるんだけど、意味はわかるか?」
「な、なんとなく」
「……。まあいい」
あまり責めても仕方がないので、おれはそのあたりで切り上げることにして、探索を再開した。
ほっとした様子で、ガーベラも森を進み始める。
今度こそ気をつけながら森を歩きながら、おれはつぶやいていた。
「……これは、困ったな」
こんなことを考えるのは照れ臭いのだが、ガーベラはおれに明確な好意を抱いてくれているらしい。
此処まであからさまに好意を示されて、彼女の気持ちに気付かないほど、おれは鈍感ではなかった。
ひょっとすると、それでも普段のおれなら、彼女から向けられた好意を単なる自惚れかと疑ったかもしれないが……
おれは特に異性に人気のあるタイプの男というわけではない。
不細工というわけではないが、顔が良いという程でもない。あえて言うなら真面目そうな印象の、あくまで平凡な顔立ちだ。
一緒にいても面白くない、話をしていてもつまらない男だと自覚している。
おれのような男が、魅力的な異性からおいそれと好意を向けられるはずがない。
ガーベラが相手でなければ、おれがそう思ってしまった可能性は大いにあった。
だが、そうした『逃げ』を、ガーベラの真っ直ぐな態度は許してくれなかった。
向けられる好意自体については、おれは素直に嬉しかった。
……下半身が蜘蛛である彼女から好意を向けられることを、通常の男子がどう感じるのかは知らない。
嬉しいと思えるのだろうか。
気持ち悪いとすら感じるのではないか。
そうした人間からすれば、おれは単なる異常者だろう。
だからなんだという話だが。
今更、他人の目なんて気にするつもりはおれにはない。
おれは彼女のことを仲間として好いている。
それを男女の仲に進めることにも、心理的に大きな抵抗はなかった。
だが、おれは既にリリィの好意を受け止めてしまっている身だ。
日本で生まれ育った男子の当たり前の感性として、男性として一人の女性を愛するべきだという感覚は持ち合わせている。
一人の男として、ガーベラの好意には応えられない。
おれの価値観では、それは不誠実な行いであり、あってはならない裏切りだった。
そう思う。……少なくとも、相手が人間の女性であるのなら、おれはそこで思考をストップしてしまっていたことだろう。
だが、それと同時におれは此処が現代日本ではないということ、この異世界にいるということを自覚せずにはいられなかった。
おれは眷族である彼女たちの主だ。
おれにとって彼女たちが特別であるように、彼女たちにとっても、おれという存在は特別なものだと知っている。
それは、生死を乗り越えたあの晩に、十分過ぎるくらいに知ることが出来た。
おれと彼女たちの関係は、もとの世界には存在しない類のものだ。
当然、あの頃の価値観を持ち込むべきではないし、そうすれば無理が出ることは明らかなことだった。
きちんとイチから考え直さなければならない。
彼女たちとの関係のことを。
……ガーベラとローズの関係のことといい、考えるべきことが多くて、頭が痛くなりそうだ。
だが、コトはおれにとって大事な彼女たちに関することなのだ。真剣に考えなければいけないし、何より、おれがそうしたい。
こんなことを悩むことが出来るだけの余裕が出来たことを、おれは喜ぶべきなのだろう。
「困ったとは、何の話だ?」
おれの独り言が聞こえていたらしく、前をいくガーベラが振り返った。
まさか彼女との今後の関係について悩んでいると素直に答えるわけにもいかない。おれは曖昧な笑みを浮かべた。
「眷族になってくれるモンスターが、なかなかうまく見つけられないものだなと思ってな」
誤魔化すために口にした台詞だったが、これはこれで、実際に困った状況ではあった。
おれたちが二人で探索を始めてから、既に三日間が経過していた。
この三日間、勇んで探索を続けたものの、新たな眷族を見付けることは出来ていない。
収穫がなかったわけではない。
ガーベラの下半身、蜘蛛のふっくらとした腹部には、コロニーで鉄砲蔓と呼ばれていたモンスターが回収されている。これは、木に巻きついた蔓性の植物の見た目をしたモンスターで、百合のような花から種を散弾のように飛ばしてくるものだ。
これをリリィに与えることで、彼女はより強くなる。
また、今更微々たるものかもしれないが、モンスターを倒すことにより、ガーベラも魔力を蓄積する。それは決して意味のないことではない。
探索自体は順調なのだ。
だが、それはおれの求めている『結果』ではなかった。
そもそも、どうしておれがすぐにでも探索に出ようと思ったのか。
それは、おれ自身が何もしていない時間に堪え切れなかったというのもあるが、それ以上に、おれたちの状況が変化したからというのが大きい。
白いアラクネとの戦いは壮絶なものだったが、力を合わせて危機を乗り切った結果として、おれたちは力強い味方を得ることが出来た。
おれたちの置かれた状況は、あの夜を境にして大きく変わったといっていい。
これまでと比べるべくもなく、先行きは明るいものだ。
いまはガーベラの名前を得た白いアラクネは、この森で最強のモンスターの一体だ。彼女と互角にやりあえるモンスターなどそうそういないことは、リリィとローズの奮戦が逆に証明してしまっている。
通常モンスターの脅威に怯えなくてもよいというだけで、行動の自由度は飛躍的に上昇する。
それに加えて、レア以上のモンスターはおれのチート能力の対象なのだから、脅威ではない。
あえていうのなら、ガーベラのようなハイ・モンスターに関しては、彼女の時にそうであったように、接触に危険が伴うかもしれないが……これは狙ったって出会えるようなものではないだろう。
安全のために、これまでは慎重に行動せざるを得なかったが、これからはそうではない。眷族を集めるために、より大胆な行動を取れるようになっているのだ。
たとえば、ガーベラだけを伴って森を探索している現状も、その一つだろう。
リリィが動けない状況でも、おれは探索を続けていられている。
そこに結果が伴っていないのは、残念なことではあるが。
「これは少し、やり方を変えるべきかな」
結果が伴っていないのは、単純におれのやり方が悪いからだ。
現在の探索方法であっても、時間の有効利用という観点では決して悪くはない。
悪くはないが、それでは以前と何も変わらない。
効率を上げるためには、より効率の良い方法を取る必要があった。
まずは探索場所を変えることが必要だろう。
探索が上手くいっていない原因としては、何よりモンスターとの遭遇について、数をこなせていないというのが大きい。
三日間で八体。
この短い期間で決して悪い数ではないが、この中に眷族になってくれるようなモンスターがいないのは、仕方のないことだと言える。
数をこなすためには、少し遠出をする必要があった。
この辺りはまだ、探索隊が行っていた狩りの影響があるためだ。此処からもう少し離れれば、もっと多くのモンスターに出遭うことが出来るようになるだろう。
「主殿?」
「……」
黙りこんでしまったおれのことを不思議そうに見つめるガーベラを見やる。
彼女がローズに信用されるためにも、成果を出さなければならない。
「ガーベラに一つ話があるんだが」
おれは決意を新たにして、こちらを見つめる二つの赤い瞳に対して、口を開いたのだった。
***
おれは森の開けた場所を見付けると、そこで腰を落ちつけて、神妙な顔をしたガーベラにおれの考えを言って聞かせた。
「要するに、妾に遠出に連れていけということかの?」
「まあ、大体はそういう理解で構わない。近場でモンスターが多くいるところがあれば、それでもいいが」
ガーベラは眉の間にしわを寄せた。
「うーむ。そうじゃの。それなら、心当たりが一つある」
「本当か? なるべくなら日帰り出来る範囲がいいんだが」
日帰り出来ないとなると、ローズが反対する可能性があった。
「うむ。此処らあたりにいくつかある泉の一つなのだがの、多くの生き物が生活水として利用しておるから、あそこならモンスターとの遭遇自体はそう難しくなかろう」
「おお。それはいいな」
こういう情報がほしかったのだ。
「よし。今日はこれからそこに行ってみようか」
「わかった。任せておくれ」
役に立てるのが嬉しいのか、ガーベラの声は弾んでいた。
「それじゃあ、これから詳細を詰めよう。悪いが、相談に乗ってくれ」
「わ、妾がか?」
しかし、おれが相談を持ちかけると、途端にガーベラは及び腰になった。
「面倒か?」
「い、いや。そういうわけではなくての!」
慌てた様子でガーベラは両手を胸の前で振った。
「他にもっと適当な者がいようと思っただけのことだ」
「といわれてもな」
おれは頭を掻いた。
「此処にはガーベラしかいないだろ」
「う、うむ。そうなのだが……ほら、今日は一度帰っても構わないのではないかの」
「うーん。そうは言ってもなぁ」
「なんじゃ」
「たとえばリリィだけど、正直なところ、彼女にはあまり負担をかけたくないんだ」
彼女には療養に専念してもらいたい。そろそろ動き回っても問題ない程度に回復はしているようだが、それでも、あまり余所事で煩わせたくはなかった。
「ローズには話せない。それはわかるだろ」
「うむ。それはそうだな……」
ガーベラはやや沈んだ様子を見せた。ローズに話をすれば反対される可能性が高いことは、彼女にもわかっているのだ。
「しかし、それでもやはり妾は不適切なのではないかの。妾はこれまで力に任せて全てを解決してきた女だ。頭を使うのはうまくない」
「おれはそうは思わないが」
ガーベラが他の眷属たちに比べて頭が悪いとは、これまで数日、彼女とやりとりしてきたおれには思えなかった。彼女は単に心が幼く、不器用で、その上、巡り会わせが悪いだけで、決して愚か者というわけではない。
だが、彼女自身はそうは思えないらしい。
「他にも相談相手はまだおるであろ。たとえば……なんだ、加藤とかいった、あの恐ろしい小娘はどうだ?」
ガーベラの中で、加藤さんの評価がだいぶ散々なことになっていた。
おれの同行者の中でも圧倒的に強いガーベラが、もっとも腕力に乏しい加藤さんのことを恐れているというのもおかしな話だが、それだけあの晩のやりとりが堪えているということだろう。
「あの娘は大したものだ。妾などより、余程、こうした相談ごとには向いていよう」
確かに加藤さんに相談すれば、何らかの示唆を与えられる可能性はあるだろう。
そう期待させるだけのものが彼女にはある。
ガーベラの提案は、本来ならそう悪いものではなかった。
だが、おれは首を横に振らざるを得なかった。
「加藤さんに相談するのは、何と言うか、違うだろ」
「何が違うのだ?」
「何がって……」
此処で疑問を向けられたことに、おれは戸惑った。
これまでリリィやローズを相手にしていれば、これだけでも納得してくれることだったからだ。
「加藤さんは眷属じゃない。人間だ」
「人間であるといかんのか?」
ますますガーベラは不思議そうな顔になった。
どうにも話が通じない、といった風に。
「人間だから、仲間ではないということかの。だが、妾が過ちを犯したあの晩は、リリィ殿やローズ殿と一緒に、主殿のことを助けておったろ」
「それは……」
おれはガーベラの指摘に反論をしようとして、それ以上、言葉が続かなかった。
ガーベラの言い分が正しかったからだ。
加藤さんは人間だが、おれのために戦ってくれた。
手に武器を持っていたわけではないが、彼女は彼女なりのやり方でおれのために体を張ってくれた。命を賭けておれのことを救ってくれた。
だから……いや。待て。話が変な方向に転がっている。
これはマズイ気がする。何がまずいのかわからないが、この会話はおれにとって、何と言うか……都合が悪い。
そんな気がした。
ガーベラはおれの狼狽に気付くことなく、続けて尋ねてきた。
「てっきり、あやつも主殿の仲間だと思っていたのだがのう。しかし、だとすると、加藤殿は主殿にとって何なのだ?」
ガーベラの疑問を聞いたおれは、ふと加藤さんの控え目な笑顔を思い出していた。
――無事でよかったです、先輩。
――主人である先輩に、信頼されて、信頼して、尽くして、愛されて……それはとても幸福なことでしょう?
――やった。決まりですね。
「……」
実はおれには一つ、加藤さんについて気になっていることがあった。
どうもあの晩からこの方、彼女の印象が違っている気がするのだ。
話をしていて、以前には感じていた不安感があまりない――とでもいえば伝わるだろうか。
精神的に復調したせいだろうかと考えもしたのだが、それも何処かしっくりとこなかった。
確かに彼女は以前よりも多く話をするようになり、その結果として笑顔を見せる回数も増えた。
これは変化に他ならない。
だが、それは劇的というほどのことでもないのだ。
加藤さんはいまでもベースの表情が明るいわけではないし、どちらかといえば無表情な、暗い印象は変わらない。どんよりとした目をしているし、たまに見せる笑顔はわずかに口元をほころばせるくらいで、何処となく影がある。
彼女は以前とそう変わっているわけではない。
だが、おれの目には何かが違って見えているのだった。
……いや、待てよ。
これは、そうではないのか?
そこまで考えたおれは、ふと自分の勘違いに気がついた。
加藤さん自身は『何も変わらない』。なのに、『違って見えて』いる。
ということは、むしろこれは『おれの見え方が変わっている』と考える方が自然なのではないだろうか。
あの夜、白いアラクネに捕らえられたおれのことを助けるため、加藤さんはその身を危険にさらした。
おれは彼女に助けられた。
だから彼女を見る目が少し変化した。これはそういうことなのではないだろうか。
思い返してみれば、おれは加藤さんに出会ったその時から、ずっと彼女のことを疑っていた。
裏切るに違いないという目線で彼女のことを見ていた。
歪んだレンズ越しに見れば、どんな景色だって歪んで見えて当然だ。
それが、いまになってようやく、おれは彼女のことを何のバイアスもかかっていない目で見ることが出来るようになった。
多分、これはそういうことなのだ。
そうと気付いたいま、果たしておれはどうするべきだろうか。
さっきガーベラは、おれにとって加藤さんは何なのかと尋ねた。
彼女はおれにとって被保護者だ。
それ以上でもそれ以下でもなかった。
そう考えて、これまでずっとおれは彼女との人間関係を構築せずにいたのだった。
だが、しかし。
ひょっとするといま初めておれは、彼女との人間関係を構築するスタート地点に立ったのかもしれない。
だとしたら……
おれのことを助けるために命さえかけてくれた彼女のために、せめておれは信頼を返すべきなのではないだろうか。
「……」
かつてのコロニーで、おれは顔見知りであるクラスメイトに殺されかけた。
人間は汚い。
いつ裏切るかわかったものではない。それは、いまに至っても変わらないおれの中の価値観だ。
だけど加藤さんに限って言えば、おれのことを裏切る可能性は低いだろう。
そんな人間が自分の命を賭けてまで、おれのことを助けようとするはずがない。
論理的に考えて、それはあまり考えられそうにないことだ。
理屈で言っても、おれが彼女を疑うのはおかしな話だ。
何よりおれの感性が、彼女のことは信用してもいいと告げている。
だから、もう一度、彼女のことだけは信じてみてもいいのかもしれない。
もう遅いかもしれないが。
今度こそ彼女のことを信じて……
そうだ。信じて……
「う……っ」
突然こみあげてきた吐き気に、おれは咄嗟にその場から離れた。
「あ、主殿っ!?」
後ろからガーベラの慌てた声が聞こえたが、構ってはいられない。
おれは近くにあった木にもたれかかると、その根元に胃の中のものを全部吐き出した。
頭の中には――おれのことを見下ろす、目、目、目!
蘇る痛み。苦しみ。悲しみ。ぐちゃぐちゃの心。どうしておれが。お前たちが。靴裏が額に、蹴飛ばされて、あばらから異音。痛い。痛い。怖い。そして目が合う。光を失った目。死体の目。おれと同じようになって、既に殺された顔見知り。殺したのも、顔見知り。死にたくない。信じたくない。
そう思って振り仰げば、引き攣ったような笑みがある。
笑み。笑み。笑み。
「ぁ、が……うげぇ」
「だ、大丈夫か、主殿!?」
すぐ後ろについてきていたガーベラが、おれの肩に手を置き、熱いものに触れたかのように、すぐに離した。
その瞬間、パスを通じて流れ込んでくる、おれのことを心配する感情。おれのことを気遣ってくれる、ガーベラの心。どうすればいいのかわからないという混乱。そして、嘆き。
『眷属である彼女』の『主であるおれ』に対する感情の全て。
「……ぁあ?」
それで、ようやくおれは此処が崩壊するコロニーではないことを思い出すことが出来た。
おれがいまや何者であるのかということを自覚して、それがおれの精神世界から現実世界へと続く、頼るべき縁となる。
視界がにじんでいた。
気付けば、頬を涙がぼろぼろとこぼれていた。
「がーべ、ら?」
「主殿! 気付いたか!?」
背中でもさすってくれると楽になるのだが、モンスターであるガーベラはどうすればいいのかわからなかったらしい。泣きそうな声が聞こえた。
「あ、主殿。妾は何か悪いことを言ってしまったのか……?」
「そんなことは……うっ、げえっ」
おろおろとしているガーベラに声をかけようとして、おれはもう一度嘔吐いた。
「あ、ああ……主殿っ!」
「だ……大丈夫だから、少し落ち着け」
うろたえるガーベラの存在が、おれが彼女の主であるという意識を呼び起こしてくれたらしい。精神安定剤のような働きをしてくれていた。
吐瀉物混じりの唾を吐き捨てる。
よし。唇は震えているが、これで少しだけ話しやすくなった。
おれは口元を拭って、ガーベラに向き直った。
「ちょっと疲れが出ただけだ。大したことじゃない」
「本当かの? 顔色が真っ青だが」
「問題ない。少し休めば、すぐ治まる。お前にはわからないだろうが、人間っていうのは繊細な生き物なんだよ」
誤魔化しのために口にした言葉だが、後半は割と冗談になっていなかった。
ああ、くそっ。なんて無様な。
「……悪いが、水筒を持ってきてもらえるか。口のなかが気持ち悪い」
さっきまで休憩をしていた場所に、おれの水筒が転がっていた。
いまはそこまで歩くことさえ億劫だった。
「お、おう。あいわかった。待っていておくれ」
ガーベラが弾かれたビー玉のように、水筒に駆け寄っていく。
その背中をぼんやり眺めながら、おれは自分の心の中にある深い洞を覗き込んで、愕然としていた。
まさか自分でも、此処まで病的だとは考えていなかったのだ。
おれの人間に対する不信感は、どうやら生理的なレベルで根付いてしまっているようだった。
それにこれまで気がつかなかったのは、それこそ、症状が重いことの表れだろう。
おれはPTSDという言葉を思い出した。
パラノイアという言葉も同時に思い出したが、あまり詳しくは知らなかった。
PTSDというのは、死にかけるような悲惨な体験が刻んだ心の傷が原因で起こる、一種の精神疾患のことだ。
人間の心というのはとても脆いものだから、死という最大の恐怖を前にして、時に簡単に砕けてしまう。あるいは、人の尊厳を失うような事態に関しても、発症することがあるという。
トラウマの原因となった出来事、および、その関連した事柄に対して『回避行動』を取ったり、その出来事について『フラッシュバック』を起こしパニックに陥ったり、『体調不良になったり』する。
おれの場合は、いっそわかりやすい。『クラスメイトに裏切られて殺されかけたこと』だ。
今回、初めてパニック症状を味わったわけだが……成る程、最悪な気分だった。
眷族であるガーベラが近くにいてくれたから持ち直せたものの、そうでなければ失神でもしてしまっていたかもしれない。
おれはおれ自身の心の問題を自覚して、それと同時に、もうひとつの事実を認めざるを得なかった。
それは『おれは加藤さんのことを心から信頼することは出来ない』ということだった。
……たとえば、の話だが。
おれは加藤さんに武器を持たせられるだろうか。
彼女に背中を預けることが出来るだろうか。
実際にそうする必要があるかどうかは、この際、問題ではなかった。
他人を信頼しているとはつまりはそういうことで、おれにはそのどちらもが出来そうにないということこそが、大きな問題だった。
「あ、主殿! 水を持ってきたぞ!」
「……ありがとう」
おれは礼を言って、ガーベラから水筒を受け取った。
口をゆすいで、少し水を飲んだら、気持ちは落ち着いてくれた。
ただ、立ち上がる気力はなかった。
おれは吐瀉物を撒き散らした木の根元からよろよろと離れると、その場にどすんと座り込んだ。
そうしながら、おれが思い出していたのは、加藤さんの『目』だった。
出会った時に見て、これまでにもたまに見せた、あの視線のことだ。
底の見えない執着をはらんだ……いいや。それも、『違う』。違うのだ。
いまのおれの目からは、あれは別なものに見える。
あれは、おれという人間のことをひたむきに見つめている、ただそれだけの瞳だった。
蓋を開けてみれば、複雑なことなど何もない。彼女の意図は明白だった。
加藤さんにはこの異世界で、おれ以外に頼る人間がいなかった。
そんな彼女がおれのことを頼ろうとするのは当然のことだ。打算的な部分でもそうだが、酷い目に遭った彼女にしてみれば、心情的な意味でこそ、他人を頼りたかったに違いなかった。
こんな簡単なことなのに、あの時のおれは、彼女の気持ちを理解してやることが出来なかった。
理解できなかったから、それを不気味なものだと思ってしまった。……いいや。決め付けていたのだ。『何か企んでいるに違いない』と。
結果として、おれは彼女から向けられているだけのものを返すことが出来なかった。
そして、これからも返すことは出来ないのだ。
そこまでわかっていて尚、おれの体と心は彼女という『人間』を拒絶していた。
それは、彼女に命を救ってもらった身として、あまりにも不実なことだった。
何より、加藤真奈という名の少女があまりにも哀れだった。
おれには彼女の孤独が想像できる。おれ自身がかつてそうだったからこそ、彼女の気持ちは手に取るようにわかった。
わかるのに、おれにはそれをどうすることも出来ないのだ。
「……何が『誰かに信じてほしいと思うのなら、それだけのものを積み上げないといけない』だよ」
「主殿……?」
それは、心配そうに呼びかけてくるガーベラに、つい数日前に告げた言葉だ。
時間を越えて、その言葉はいまのおれの心に突き刺さっていた。
なんて欺瞞だろう。
あの台詞はおれが口にしてはいけないものだった。
だって、加藤さんはあれだけおれのために尽くしてくれたのに、おれの信頼を得ることが出来ないのだ。
「主殿……」
ガーベラはしばらくおろおろとしていた。
こういう時にどうすればいいのかわからなかったらしい。仕方のないことだった。おれだって、おれをどうすればいいのかわからない。
やがて彼女はおれの傍にそっと座った。
彼女と隣り合って座ると、自然と折りたたまれた蜘蛛脚を向けられることになる。
本当に軽く引き寄せられて、おれは蜘蛛脚にもたれかかった。
白い毛が気持ちいい。触れているのは虫の節足だが、気持ち悪いとは思わなかった。むしろ心地よさを感じていた。
おずおずとガーベラが話しかけてきたのは、その時だった。
「悪かったの、主殿」
「うん?」
「妾の不用意な言葉で、こんな風になってしまったのだろ」
流石に体調不良では誤魔化しきれなかったようだ。
罪悪感を覚えているのか、ガーベラの声色は暗かった。
「妾は主殿の気持ちがわからぬ。主殿と加藤殿の間のことも理解出来ぬ。妾は恐らく、主殿に会うのが遅すぎた……」
ガーベラはおれの人間に対する悪感情を共有していない。
彼女はおれの心の傷がある程度癒えたあとで得た眷族だからだ。
おれが相手をしているのは、それでも癒えきらなかった深い傷だ。
ガーベラには、どうすることも出来ないものだ。それを彼女は不用意に素手で触ってしまったのだ。
「……いや」
けれど、おれはかぶりを振った。
「おれはお前に感謝しなくちゃいけない」
「え……?」
「ガーベラがいてくれなければ、おれは自分の間違いに気付かないままだ」
リリィやローズとでは、こうはいかなかっただろう。
彼女たちはおれが人間に対して抱いている感情を理解していて、それだけに気を遣いすぎてしまう。
勿論、ガーベラがおれを落ち込ませてしまったのは決して意図したことではない。彼女にしてみれば失敗だろう。
だが、これは価値ある失敗だ。
「悪いが、しばらくこのままでいさせてもらえるか?」
おれが頼むと、ガーベラは不心得顔ながらも、こくこくと頷いてくれた。
「ありがとう」
おれは目を閉じた。
そうしておいて、考える。
おれは加藤さんのことを見誤っていた。
そのせいで彼女のことを孤独にさせていた。それなのに、彼女はおれのために命さえ賭けて戦ってくれたのだ。
だったら、おれは彼女に応えなければならない。
果たしておれは自分のこの傷を乗り越えて、加藤さんがおれにしてくれただけのものを、彼女に返すことが出来るだろうか。
時間はかかるだろう。ひょっとしたら無理かもしれない。それでも、そうするべく努力はするべきだろう。それが、彼女に恩を受けたおれの果たすべき責任だろうから。
今頃、孤独なはずの加藤さんは、どうしているだろうか。それを思うと、心の痛みはなかなかひいてはくれなかった。
◆引き続きのガーベラ回。
かと思いきや、加藤さん回です。重めです。
◆主人公の現状についての話でもあります。
うまく描けていればいいのですが……難しい。
◆次回更新は2/12(水曜日)となります。