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7. 世界の変容

前話のあらすじ


『妖精の輪』の訪問と誘い

   7



 おれは深いところに沈んでいる。


 深い深いところに沈んで――けれど、息苦しさはない。


 暗くもない。


 温かな光を感じる。


 目を開いた。


「……ああ」


 思わず声が漏れた。

 目の前に、ひどく懐かしい風景が広がっていたからだ。


 立ち並ぶマンションの群れ。

 路肩に停められた車。

 下り坂の先には広い国道が走り、その向こうには住宅地が広がっている。


 鼻先をくすぐる良い匂いは、道路の向こうにある小さな定食屋のものだろうか。


 あまりにも懐かしくて――それだけに、すぐ気付いてしまったことを惜しく思った。


「……なんだ、夢か」


 目の前に広がっていたのは、異世界に転移する前に住んでいた町だった。


 けれど、その風景は記憶にあるそのままではなかった。

 どうしようもない違和感があった。


 遠くを見渡すと、不自然に情景が途切れていた。

 昼なのか夜なのか、空は黒く塗り潰されているのに、不思議と視界は良好だった。

 ひとつとして人影はなく、国道を走る車も見当たらなかった。


 そもそも、現在の自分は北域五国のひとつアケルに滞在しており、帝都に向かった飯野たちが帰ってくる日を待っているはずだ。

 この世界に戻りたい気持ちがないわけではないが、それは叶わないのは知っていた。


 だから、これは夢の産物だ。

 夢であるために不完全な――夢だからこそもう一度見ることが叶った、懐かしい故郷。


 そう思って、ふと眉が寄った。


「……なんだ、これ?」


 見下ろした先。

 自分の体に、大きな亀裂が走っていたからだ。


 大きな亀裂は左腕を中心にして全身に走り、細かいひびに至ってはないところを探すほうが難しい。

 それだけでなく、二重映しに青白い灯火が透けて見えていた。


 見覚えがあった。


 それは、何度か訪れたことのある灯火の世界での、自分自身の姿だった。


「……ただの夢じゃないのか?」


 しかし、これが灯火の世界だとすれば、少しおかしい。

 おれが知っているあの世界は、ただただ見通せない暗闇が広がるばかりの場所だったはずだ。


 ここは違う。


 もっとも、夢で灯火の世界の自分を見ているというだけの可能性もあるのだが……。


「なんとも言えないな」


 とにかく、まずは状況を把握してみることだろうか。

 歩き回ってみれば、なにかわかるかもしれない。


 そう考えて、おれは足を踏み出そうとした。


 途端、がくりと視界が落ちた。


「うおっ!?」


 踏み出した右足が、体重を支えなかったのだ。

 ぐにゃりと異様な感覚は、なにか柔らかいものを踏み抜いたか――あるいは、足そのものがとろけてしまったかのようだった。


 咄嗟に体勢を整えようとするが、左足もうまく動かない。

 こちらは、まるで血の通わない人形の足にでもなったかのようだった。


 反射的に体が動いた。

 地面に手を突こうとする。


 けれど、その直前、飛び出したものが体を支えた。



 アスファルトに突き立った蜘蛛の脚だった。



「……は?」


 それと同時に、アスファルトの地面に亀裂が走った。


 亀裂は広がり、あっという間に世界のすべてにひびが入った。


 マンションも、路肩の乗用車も、広がる住宅地の家々も。

 それどころか、この空間そのものでさえも例外ではない。


 なにもかもがひび割れ、砕け散る。


「……ッ!」


 懐かしく温かな世界が壊れる。

 悲鳴すらあげられない。


 最後に、おれ自身さえも砕けて散って――気付いたときには、なにもかもが元通りになっていた。


「……え?」


 唖然とした声が出た。

 何事もなく一歩踏み出したところで、おれは動きをとめていたのだった。


 一瞬、状況を呑み込めない。

 あたりをきょろきょろ見渡してしまう。


 理不尽にさえ感じるくらいに、世界は元の静穏を保っていた。


 あるいは、夢とはそういうものとも言えるかもしれないが。


 懐かしい世界は崩れてなんていないし、体に起こったはずの変異は消えていた。

 どころか、亀裂の入った体も、灯火も見えなくなっていた。


 おれは次の異変に備えて身構えたが、それ以上の変化は起こらなかった。


 しばらくして、もうなにもないと判断したおれは、ゆっくりと体から力を抜いた。


「……なんだったんだ、いまの?」


 白昼夢のような出来事だった。

 夢のなかで夢を見るというのもおかしな話だが、そうとしか説明のしようがなかった。


 本当にあったことなのかさえ、もはや曖昧になりつつあった。


 気のせいだったのだろうか。

 なんだか、そんな気もしてきた。


 もしもそうなら、それはそれでよかった。


 あるいは、これがただの夢の出来事であるならかまわなかった。


 ……だけど。


 これがもしも、夢ではないとするのなら――。


「ゴシュッ、サマ!」

「わっ!?」


 そうして考えているところに声をかけられて、おれはびくりとしてしまった。


「アサリナ!?」


 どこか愛嬌のあるハエトリグサ状の頭部が、ひょこっと視界に顔を出していた。


「お前もいたのか!」

「サーマー」


 驚くこちらの様子を気にすることなく、アサリナはマイペースに鳴くと、機嫌よさげにじゃれついてきた。


 甘えたがりの彼女に付き合うのはやぶさかではないが、時と場合というものがある。


「ちょ、ちょっと待て。アサリナ」


 顎のあたりを甘噛みしてこようとするアサリナを、おれは咄嗟に捕まえた。


 不思議そうにグネグネしている彼女に尋ねる。


「アサリナがいるってことは、これは夢じゃないのか」

「サマ」

「ここはなんだ」

「サマ?」

「わからないのか」

「サーマー」


 わからないらしい。


「そうか。なら仕方ないな」

「サァーマ」


 まあ、そう簡単にはいかないか。


 おれは自由になったアサリナに甘噛みされつつ、頭を掻いた。


「にしても、アサリナがいるのなら、ほかのみんなもいておかしくない気がするんだが」


 とはいえ、やはり見える範囲に人の姿はない。


 眷属たちとの繋がりであるパスも……。


「……いや。違う。この感じは、いるな」

「サマ」


 不思議なことに、パス越しにはリリィたちの存在を感じ取れた。


 すぐ近くにいる。

 だけど、姿はない。


 いるのは、おれと、アサリナ。そして……。


「他に誰かいないのか?」

「サマー」

「ついて来いって?」


 アサリナが長く体を伸ばして、ぴょこぴょこと、ある方向を示した。


 こうしていても仕方ない。

 おれは歩き出した。


「サマ!」


 アサリナが指し示すように、道を曲がって歩いていく。


 偶然なのか、その道は高校の通学路だった。

 慣れた道ということもあり、歩みに迷いはない。


 なんだか犬の散歩でもしている気分だった。


「そういえば、アサリナはさっきのを見たか?」

「サマ?」

「世界が一瞬で崩れ落ちるような……ああ、いや。わからないならいい」

「サマッ!」


 こんなやりとりをしつつ、ご機嫌なアサリナに連れられて、高校への道を歩いていく。


 その途中に、彼女がいた。


「あら。旦那様」


 濃い金褐色の髪を揺らして、サルビアがこちらを向いた。

 なにをしているのか、道端にかがんでいる。


 あの辺境伯との戦いからこのかた出てくることがなかったので、顔を見るのは久しぶりだった。


 おれが近付いていくと、彼女は立ち上がって到着を待った。


 柔らかな笑みがこちらに向けられて、次いでアサリナへと視線が移った。


「アサリナ。あなたが旦那様を連れてきてくれたの?」

「サマ! サマ!」

「よしよし。良い子ね」


 ぶんぶんと元気よく揺れるアサリナに、サルビアは優しく触れた。


 垂れ気味の目がこちらに向いた。


「それにしても、旦那様とこんなところで会うなんて思わなかったわ」

「おれもだ。というか、なんなんだ、ここは?」


 あたりを見回しつつ尋ねる。


 サルビアはたおやかな仕草で頬に手を当てると、首を傾げてみせた。


「なにと言われてもね。むしろ旦那様のほうがよく知っているんじゃないの?」

「知っているといえば、知っている。ここはおれの元いた世界だ」


 あたりを見回して、首を振る。


「ただ、そのものじゃない」

「そうね。もう気付いていると思うけれど、ここは旦那様が灯火の世界と呼んでいた場所よ」

「やっぱり、そうなのか」


 それは先程までの実感に沿うものだったから、すんなりと受け入れられた。


 思えば、『霊薬』と化したトラヴィスに抵抗しているとき、灯火の世界でおれに干渉することができたのは、サルビアとアサリナだけだった。

 いま、ここにいるのがこのふたりだけなのも、ここが灯火の世界だからなのだろう。


 その部分については納得したものの、おれは眉を顰めた。


「だが、これはおれの知っている灯火の世界じゃない」


 深く沈んだ先にある真っ暗な世界。

 人の認識の及ばない場所。


 灯火の世界に関して、おれが抱いている印象はそんなところだった。


 だけど、これはまったくの別物だ。


「変化したってことか」


 だとすれば、それはなにを意味しているのか。


 訝しく思っておれがつぶやくと、それを聞いたサルビアは表情を変化させた。


「というより、進化と言うべきでしょうね」


 その声色には、かすかに非難の響きがあったのだ。


「次の段階に進んだと言い換えてもいいけれど……この世界の変貌は、旦那様の能力と関係しているのでしょうし」

「……ええと」


 これはまずいやつだ。

 そう気付いたときには遅かった。


 明らかに、サルビアの視線がとんがっていたからだ。


「旦那様だって、わかっているでしょう?」


 怒っていますよと、その顔に書いてあった。


「前回の『あれ』は決定的だった。『霊薬』トラヴィスを破るために、あなたは本当にぎりぎりのところに手を伸ばしてしまった。一度進んだら、後戻りはできないのに」


 サルビアはずいと一歩近付いてくると、おれの顔を覗き込むようにした。


「過ぎた願いは身を亡ぼす。わたしはまだ眷属になる前のことだから、実際に見たわけではないけれど、以前にリリィさんを攫ったという『狂獣』高屋純の話は聞いているわ。わたしは長く生きているから、それ以外の例についても少しは知っている。あなたたち転移者の力は、ときに破滅をもたらす。旦那様も例外じゃない。それはわかっているんでしょう」


 咎める言葉が重ねられる。

 あるいは、わずらわしいお小言とも感じられたかもしれない。


「だったら、もっと自分を大事にしないといけないわ。リリィさんたちと一緒に、穏やかに暮らしたいのでしょう? あともう少し、次の会談がうまくいけば、旦那様の望む未来が手に入れられる。それなのに、その前に破滅してしまっては本末転倒だわ」

「そうだな」


 言われることすべて、素直におれは受け入れた。


 そして、続けた。


「ありがとう」

「……」

「叱ってくれるのは、ありがたいよ」


 あれはどうしようもないことだった。

 あのときは、ああするほかにローズを救い出すことはできなかった。


 何度同じ場面に行き遭ったとしても、おれは同じ選択をするだろう。

 恥じることはなにもない。


 ……けれど、それはそれだ。


 あれは、決して良いことではなかった。

 それもまた事実なのだ。


 必要があるなら躊躇ってはならないが、安易に頼っていいものではない。

 そこを勘違いしてはならなかった。


 こうして叱ってくれる人がいれば、おれが勘違いをすることはないだろう。


「……まったくもう、旦那様は」


 サルビアはなんとも言えない顔をした。


 かと思うと、こちらにさらに一歩近付いてきた。


 なんだろうかと考える――そうする間に、正面から抱き締められた。


「……」


 驚きにおれは固まってしまった。


 抱擁は恋人同士のそれではなく、ただ親愛だけが含まれていた。

 ぽんぽんと頭のうしろのほうを撫でられた。


 傍で見ていたアサリナが「サマー?」と鳴いた。


「可愛い子。いじらしい子たち。そんなふうに一途なところを見せられるから、わたしはあなたたちを応援したくなるのね」

「……あの、サルビア? 子供扱いされると、少し恥ずかしいんだが」


 おれがちょっと抗議すると、サルビアは笑ったようだった。

 笑った振動が、陽だまりみたいに温かくて柔らかい体ごしに伝わった。


「わたしにしてみれば子供よ。この世界に生きている人間なんて誰もね」

「それはそうかもしれないが」


 恐らくは、この世界では最長命に近い存在に言われては、反論の余地はない。

 大人しく子供扱いされるしかなかった。


「ええ、そうよ。旦那様も含めて、みんな可愛い子供だわ」


 サルビアは愛おしそうに言って、おれを抱き締める腕に少し力を込めた。


 抱擁はしばらく続いた。

 やがて彼女は満足したのか、体に回した腕の力を緩めた。


「さてと。お説教はこれくらいにしておきましょうか。旦那様もわかっているみたいだものね」


 そういって身を離す。


 そして、なんとも残念そうに溜め息をついた。


「ああ、そろそろ時間みたいね」


 そういう彼女の声が、少し曖昧なものになっていた。

 意識が遠くなりつつあった。


 目覚めが近いのだ。


「残念ね。せっかく、わたしたちだけでもここにいられるのだもの。ちょっと旦那様の世界を案内してほしかったものだけれど」

「サマー」

「そうね。また今度。こういう機会があったら、お願いしようかしら」


 サルビアは胸の前で両手を合わせた。

 ひどく楽しみな様子を見せる彼女に、おれは頷いてみせた。


「ああ、そうだな。いつか、きっと……」


 そうする間も、意識はますます薄れていく。


 浮上する感覚があった。


 サルビアがひらひらと手を振った。


「それじゃあ、旦那様。くれぐれも、好き合った女の子と、好きでいてくれる女の子を悲しませることのないようにね」

「わかってるよ」


 なにもかもをなげうつとしたら、最後の最後だけだ。


 おれは頷いて――ふと、サルビアの言い回しに引っ掛かった。


 好き合った女の子というのはいい。

 だけど、好きでいてくれる女の子というのはどういうことだろうか。


 しかし、おれがなにか答えるより前に、意識は世界を離れていた。



◆サルビア&アサリナ回。

どこかで挟もうと思っていたお話。


サルビアはちょっと、他の眷属とはスタンスが違います。

恋人よりも保護者寄りな感じ。


◆もう一回、更新します。

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