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モンスターのご主人様  作者: ショコラ・ミント/日暮 眠都
6章.人形少女の恋路
199/321

37. 少年のもたらしたもの

(注意)本日2回目の投稿です。(6/26)














   37



 ローズの強襲は辺境伯領軍本隊に少なからぬ疲弊を強いた。


 しかし、それも『天使人形』オットマーの参戦により叩き潰された。


 自分たちの正義が勝利した。

 そう確信した兵士たちの熱狂は大きなものだった。


 それだけに、周囲の一切が霧に包まれたとき、兵士たちは動揺した。


 数メートル先も見通せない深い霧だ。


 突然の事態に、兵士たちはざわつく。


「落ち着け! 持ち場を離れるな!」


 その動揺が恐れに変わる前に、ルイスは浮き足立つ部下たちを抑えた。


「単なる目晦ましだ! 落ち着いて対処すればどうにでもなる!」


 確かに視界は悪くなったが、なにも見えないわけではない。


 それに、この状況は予想されていた。

 真島孝弘の持つ特殊な魔法――霧による視界の剥奪だと、ルイスはすぐに察しを付けることができたのだ。


 これは既知の情報であり、以前には追跡部隊が攻撃を邪魔されたと報告を受けていた。

 当然、事前に兵士たちにもこの情報は知らされている。


 知らないことは恐ろしい。

 だが、知っているなら乗り越えられる。


 兵士たちの動揺を最小限に抑えるために、各所で大隊長たちがルイスと同様の指示を出し始めた。


 さらに、ルイスは状況の把握を進める。


「この魔法が使われたということは、ここに真島孝弘が来ていると。エドガール様の奇襲で倒れていたはずだが、しぶといことだ。いや。しかし、だとすれば……」


 ルイスの眉が寄せられる。


「なるほど、同行していたエルフを見捨てたか」


 戦況把握についても澱みない。


 エルフたちがすでに疲労困憊の極致にあることを、ルイスは正確に把握していた。


 真島孝弘の配下のモンスターは、追跡部隊の攻撃からエルフたちを守るだけで手いっぱいだと報告も受けている。

 また、追跡部隊とは別に、二千人の別働隊も迫っているのだ。

 この状況で、三千人の本隊に攻撃を仕掛けるだけの戦力を捻出すれば、エルフたちを守ることはできない。


 真島孝弘はエルフたちを見捨てたのだ。


「ふん。所詮は薄汚い偽者だな」


 ルイスは吐き捨てると、口元を引き結んだ。


「しかし……そうなると、最悪は眷属全員で攻撃を仕掛けてくることもありえるか」


 守りを固める必要があると、ルイスは思考する。


 先程、ローズが特攻をかけたときには、兵士たちが戸惑っているうちに一撃を喰らってしまった。

 あのようなことがないようにしなければならない。


 追加の命令を検討し始めるルイスに、この期に及んでも緩みはない。


 追跡部隊から定期的に得られる情報から、真島孝弘が現状保有する戦力を正確に把握し、そのなかで極めて妥当な判断を下していた。


 彼はできる範囲で、最善を尽くしていたと言っていい。



 ……けれど、それはあくまでも彼が知る限りにおいての話である。



 ルイスは知らなかった。

 すでに状況は大きく変わっていた、ということを。


 いや。正確に言えば、変化自体を認識してはいた。


 霧の魔法が使われたことで、真島孝弘の復活を察することはできていたからだ。

 しかし、それを単に『ひとりの少年が目を覚ました』としか考えていなかった。


 それがどれだけ大きな覚悟の産物であり、状況にどれだけの変化をもたらすのかまでは、理解が及んでいなかった。


 あるいは、それも当然の帰結であったかもしれない。

 なぜならルイスは、あくまで真島孝弘を偽勇者としてしか認識せず、その在り方を理解しようとしたことは一度もなかったのだから。


 たったひとりの少年の復活により、絶望的だった状況は変動する。


 すでにこのとき、その最初の一手は放たれていたのだった。


   ***


 ルイスの率いる本隊から離れた別働隊は、順調に行軍を続けていた。


 本隊と同じく、別働隊の士気は高い。

 二手に分かれ、真島孝弘一行の進路に回り込んでを叩く作戦は空振りに終わったものの、確実に標的を追い詰めていることは間違いない。


 別働隊を率いているのはルイスの腹心であり、能力的に申し分のない人物だ。


 ルイス自身が指揮するのと、そう大差ない働きが期待されていた。


 そのはずだったし、げんにそうだったのだ。


 彼はルイスにほぼ近いレベルで部隊を指揮し――結果、防戦一方を強いられていた。


「防御を固めろ!」

「魔法兵は迎撃準備!」


 すみやかな指示がくだり、兵士たちが緊迫した面持ちで空を見上げる。

 まるでそこから、なにか恐ろしいものでも現れるかのように。


 その恐れは現実のものとなる。


 兵士のひとりが叫んだ。


「来たぞ!」


 勢いよく指差した先、空に小さな点があった。


 空高くから、辺境伯領軍目掛けて、なにか棒のようなものが落ちてくる。


 視力に優れた者であれば、それが黒塗りの槍だということに気付けたかもしれない。

 投擲に適した形状というわけでもないのに、黒槍はすさまじい速度と正確性で、辺境伯領軍を目指して空を駆けた。


「放てぇ!」


 辺境伯領軍の魔法兵が、準備していた魔法を空に向かって撃ち放った。


 その多くは風の魔法だ。

 遠距離攻撃を仕掛けてくるモンスターに対する有効な方策として、魔法兵一般に訓練されるものだった。


 ある程度の範囲を守るために迎撃力自体は高くないが、弓矢や投槍程度なら通しはしない。


 そのはずなのに、黒槍の進路はほとんど逸れることさえなかった。


 槍の周りに、自然のものではありえない風の流れがあったのだ。


 それは槍の進路を定め、勢いを加速させ、魔法の防御を貫いて、攻撃を目標まで届かせた。


 ――着弾。


 運悪く直撃を受けた兵士が掲げていた盾を、槍は紙のように貫いた。

 鎧も肉体も、なんの障害にもならなかった。


 穂先が地面を砕き、巻き上げ、近くにいた兵士を軽々と吹き飛ばした。

 それだけではなく、黒槍にかかっていた魔法は着弾の瞬間に弾けて、周囲に風の刃を撒き散らした。


 巻き込まれた兵士たちの悲鳴があがる。


 その様を、ゆうに五十メートル以上も離れた場所で、少女は人外の聴覚で聞き取っていた。


「ん。命中したみたいだね」


 亜麻色の髪を揺らして、リリィは頷いた。


 当然、先程の攻撃は、彼女の手によるものだ。


 真島孝弘復活による状況の変化。

 そのひとつが、リリィの参戦であることは言うまでもないだろう。


 リリィはこの逃避行の間、ずっと真島孝弘の治療に付きっ切りだった。

 それもまた、ある種の困難な戦いだった。


 その戦いから解放されたいま、リリィは自由を取り戻していた。


「じゃ、もう一回」


 辺境伯領軍が蒼褪めるようなことを言うと、地面に並べて用意していた黒槍を掴む。


 リリィに託された仕事は、辺境伯領軍の足留めだった。

 無理をすることなく、遠距離攻撃を叩き込み続けて、敵の足をとめる。


 言ってしまえば、これまで追跡部隊相手にやられていたことをやり返しているのだった。

 それも、何倍も効率的に。


 辺境伯領軍別働隊にとっては、まったく悪夢と言っていいだろう。


 ただし、当のリリィはといえば、自分の戦線復帰をそれほど大きなものとして捉えてはいなかった。


 継続的に魔法による治療を行っていたために魔力残量が心許ない自身の現状を正確に把握していたのもある。

 だが、そんな客観的な事実の前に、より本質的なところで、リリィは状況を理解していた。


 すなわち、自身の復帰はあくまで、愛しい少年が犠牲を払って生み出した大きな変化の、ほんの一端でしかないのだと。


 実際、より大きな恩恵を受けた者が、彼女の隣にいたのである。


「シランさん、お願い」

「わかりました」


 乞われて、シランは頷きを返した。


 その動作はきびきびとしていて、澱みがない。


 エドガールの襲撃によって真島孝弘が倒れてしまったために、引きずられてまともに動けなくなっていた少女の姿はそこにはない。


「リリィ殿。位置は先程のままでかまいません。細かいところは、こちらで調整しますので」


 言いながら、自らの精霊に指示を送る。


 精霊の感覚を介して、辺境伯領軍別働隊の位置を遠距離から把握。

 さらに、リリィが投擲を誘導している風属性の魔法を補助して、威力と命中精度を上げてやる。


「――やぁ!」


 気合い一投。

 リリィが投擲した槍は、防御を固めていた辺境伯領軍の一角を吹き飛ばした。


「また命中ですね。お見事です」

「ううん。シランさんの補助のお陰だよ」


 先程から投げつけた槍は、すでに五本。

 そのすべてが、辺境伯領軍の兵士を吹き飛ばしていた。


 とはいえ、正直なところ、被害自体はそう大したものではない。

 魔法による防御を貫く際に、こちらのかけた魔法もある程度は相殺されているというのもあり、一撃で与えられる被害は、怪我人を含めてもせいぜい十人そこそこだ。


 ただ、無視できるほどに生易しくもない。


 魔法の防御があり、兵士たちが身構えていればこそ、あの程度の被害で済んでいるとも言えるのだ。


 足留めとしては十分に成功している。


 このままでは埒が開かないと、辺境伯領軍側も理解はしているはずだ。

 それでは、どうするか。


「そろそろかな」


 リリィがつぶやくのと同時に、シランがぴくりと身じろぎをした。


 精霊を介して、敵の動きを読み取ったのだ。


「……来ました。二百名ほどの兵士がこちらに向かってきます」


 さすがに、何度も攻撃を仕掛けていれば方角を読まれる。


 予想はしていたので驚きはなく、リリィはただ伝えられた数に反応した。


「へえ。思ったより多いね」

「果断というべきでしょう。あちらも、こちらが少数であることは理解しているはずです。ならば、決死隊をぶつけて、手を塞いでいる間に前に進もうと。二百という数字は、こちらを評価してのことでしょうね」


 淡々と語るシランに対して、リリィは首を傾げてみせた。


「助けは要る?」

「いいえ。わたしひとりで十分です」


 躊躇なく、シランは即答した。


「リリィ殿は、少しお待ちを。いまのうちに休憩をしていてください」

「……うん。そうだね」


 実際、リリィは長い戦闘に堪えられるような状態ではない。

 素直に引き下がったリリィを残して、シランは森を駆け出した。


 足取りは軽く、力強い。

 このところ、ずっと空っぽだったアンデッドの体に充溢する魔力を感じる。


 無意識に唇をなぞった指先に、熱を錯覚するほどに。


 慕う少年から与えられたものに満たされる感覚は心強く、同時にとても甘美だ。


 そして、なにより胸を切なくさせた。


 今日までに彼が『霊薬』のせいでどれだけ消耗していたか、魔力供給を彼に頼っているシランにはよくわかっていた。

 目を覚ましてすぐに、これほどの魔力を自分に回せるはずがないと知っていた。


 だから、なにが起きたかにもすぐに気付いた。


 いいや、そうでなくても、シランは気付いただろう。

 なにせ最初に少年に警告を発したのは、ほかならぬ彼女だったのだから、


 失われたものを思えば、引き換えに得られた力の価値が理解できる。


 無駄にはしないと強く思う。


 与えられた力だけではない。

 その力を生み出した少年の想いこそが、シランの心に火を灯すのだ。


 そして、それは決してシランひとりだけのものではない。


 少年が灯した想いの炎は広がっていく。


 ひとつひとつは小さくとも、それこそが状況を大きく変えていくのだ。


   ***


 その頃、辺境伯領軍から繰り出された追跡部隊は、変わらず真島孝弘一行を付け狙っていた。


 今回派兵された辺境伯領軍のなかで、追跡部隊は異質な存在だ。


 厳密には、彼らは辺境伯領軍の兵士ですらない。

 彼らは辺境伯麾下の騎士団に属する騎士だからだ。


 もっとも、マクロ―リン辺境伯に忠誠を捧げる彼らは、主命をもって派兵された以上、本来は別の指揮系統の者の指示であっても従う。


 彼らはグラントリー=マクローリンの正義に剣を捧げているのだ。


 そういう点で、彼らはまったく、騎士らしい騎士と言えた。

 その剣が振り下ろされる先が、開拓村に住むなんの罪もないエルフであったとしても。


 そして、保有する能力に関しても、彼らは騎士として一流のものを備えていた。


 この世界での騎士団と軍の役割分担ははっきりしており、軍が町や村を守るのに対して、騎士団は森に踏み入ってモンスターを討伐することを主な任務としている。


 今回の追撃戦においても、彼らは存分にその特性を生かして森を踏破し、『偽勇者』真島孝弘とその配下のモンスター、開拓村エルフたちに対して効果的な奇襲を繰り返していた。


 それに加えて、聖堂騎士団第四部隊の残党も力を貸しており、陣容としては万全のものを用意していた。


 奇襲の手応えは確かなものだ。

 敵の抵抗は非常に頑強だったが、もはや限界は近い。


 あと少しで落ちる。

 確信を抱きながら、彼らは次の襲撃ポイントに回り込んだ。


 しかし、そこでイレギュラーが発生した。


「……こないな」


 ふたつに分かれた追跡部隊同士、襲撃を示し合わせた刻限になっても、エルフたちの姿が見られなかったのだ。


 もっとも、この程度は予想の範疇だった。


「休憩でも取っているのか」


 エルフたちの体力がなくなっていることは、すでに把握している。

 足をとめたのなら、むしろ好都合とも言えた。


 基本的に、追跡部隊の目的は足留めだ。

 後続の本隊や別働隊が追ってくるまで、敵を釘付けにしておけばそれでいい。


 動きがないのなら、放っておいてもよいくらいだった。


 ……無論、この時点で彼らは、その本隊も別働隊も、どちらも足留めを喰らっていることをまだ知らない。


 だからこその状況判断。

 攻撃の必要なしと考えてもおかしくなかった。


 もしも攻撃がなかったのなら、エルフたちに護衛は必要ない。

 真島孝弘はエルフたちに戦力を割かずに見捨てたのだろうとルイスは予想したが、たとえその通りだったとしても、なんら問題はなかっただろう。


 しかし、ここで追跡部隊は敵の挙動をきちんと確認することを怠らなかった。


 彼らは自分たちの職務に忠実で、手を抜くことなどありえなかったのだ。

 エルフたちに幸運の余地はない。


 ……もっとも、そんなもの、最初から真島孝弘は頼りにしてはいなかったのだが。


 彼は敵を過小評価していなかった。

 よって、幸運なんかに頼ることなく、ちゃんと手を打っていた。


 ルイスの予想では、エルフの護衛に手を割かずに見捨てたと考えられていたが、とんでもない。


 むしろ、その真逆と言っていい。


 なぜならば――


「おお。来たようだな、歓迎するぞ」


 ――樹海最強の白い蜘蛛が、この場には残っていたからだ。


「歓待の準備はできておる。ここは通さぬ。かかってくるがいい」


 ガーベラは不敵な笑みを浮かべて、姿も見せない敵に向けて言い放った。


 無論、彼女もわかっている。

 いくら自分が強くても、遠距離攻撃に徹する追跡部隊をひとりでふたつ相手取っては、エルフたちを守り切ることはできない。


 実際、これまでは他に仲間がいる状況でさえ、同行するエルフたちから怪我人を出さずにいることは不可能だったのだ。


 ならば、これは絶望的な状況か。

 ガーベラが残ったことは、ただの気休めでしかないのか。


 そんなことはない。


 ガーベラはそう確信していたし――それだけの状況を、作り上げてもいた。


「なんだ、これは」


 追跡部隊の騎士が声を漏らした。


 目の当たりにしたものの異様さは、彼らをして愕然とさせるものだったのだ。


「蜘蛛の巣だと……?」


 白い糸が、森の木々を縦横に繋いでいた。

 糸の太さは指ほどもあり、独特の模様を描く巣は幾重にも張り巡らされて、広い範囲を覆っている。


 これはまさしく『蜘蛛の結界』とでもいうべき代物だった。

 面積で言えば、標準的な家屋の二、三軒、簡単に包んでしまえるくらいはあるだろう。


 その広大な蜘蛛の巣のうえに、巨大な白い蜘蛛が八本脚を広げて鎮座していた。

 スケール感が狂った光景は、現実味に乏しい。


 そこで笑う美貌の少女は、異形であるがゆえに、この光景にあまりに似つかわしかった。


「どうした、攻めてこんのか」


 巨大な蜘蛛の巣の中央には、エルフたちが固まっている。

 見た目だけなら、化け物に囚われた哀れな村人だが、もちろん、そんなわけがない。


「虚仮脅しを……!」


 異様な光景に呑まれていた騎士たちが、自分たちのなすべきことを思い出す。

 手にした矢をつがえ、魔法陣を展開する。


 蜘蛛の巣を警戒して足を留めたため、いつもより距離があったが、それでも攻撃は届く距離だ。


「放て!」


 ふたつに分かれた部隊が、それぞれに矢と魔法とを放った。


 これを防ぐ手段は、ガーベラひとりにはない。


 そもそも、防ぐ必要がなかった。


 放った矢と魔法は、そのほとんどが蜘蛛の巣に絡め取られていたのだ。


 たとえ、目の粗い網でも、いくえにも重ねればどこかで引っ掛かる。


 張り巡らされた蜘蛛の糸は、周辺は疎だが、中央に近付くほど密度は高くなっており、引っ掛けずにエルフたちまで届けることは困難だった。


 少なくとも、魔法攻撃は確実にどこかで引っ掛かる。


 無論、そんなのは見ればわかる話で、騎士たちは矢に比べてはるかに威力がある魔法なら、蜘蛛の巣を引き千切れると予想していた。


 けれど、樹海深部の白い蜘蛛の糸は、彼らの予想を遥かに上回って強靭だった。

 ダメージが皆無というわけではないが、幾重にも重なった蜘蛛の巣を突き破るのには、非常に時間がかかるだろう。


 それでは、矢はどうか。


 魔法に比べて多く放たれた矢は、大半を巣に絡めとられながらも、いくらかはエルフたちのもとまで届いていた。


 けれど、悲鳴はあがらない。


 代わりにあがったのは、号令だった。


「来たぞ! かまえろ!」


 声の主は、開拓村の長であるメルヴィンだ。

 負傷しながらも指揮を執る彼に従い、まだ動けるエルフたちが盾をかまえた。


 騎士とは比べられないにせよ、危険な樹海に住む開拓村のエルフたちは戦いを知らないわけではない。

 距離があるために威力が落ちているうえ、十分に数の少なくなった矢なら、盾に隠れてやり過ごすことくらいはできたのだ。


 追跡部隊は勘違いをしていたが、エルフたちはただ足をとめたわけではなかった。

 足をとめざるをえなくなったわけではなく、その前に、自分たちの意志で足をとめたというのが事実だった。


 このまま逃げ続けて疲弊を続けるよりは、まだ抵抗する力があるうちに戦おうと決めてのことだった。


 こんな展開、追跡部隊は予想していなかった。


 寄る辺である故郷を追われ、敵にはこの世の正義の象徴である聖堂騎士団が付いていて、それでも諦めることなく逃げ続けた事実だけでも驚嘆に値するというのに、まさかこれほどの士気を保っているとは思ってもみなかったのだ。


 言うまでもなく、そこには、ひとりの少年の働きがあった。


「次が来るぞ、気を引き締めろ!」


 同胞を鼓舞するメルヴィンの耳には、真島孝弘との会話が残っていた。

 このままでは共倒れになるだけだから、自分たちのことは気にせずローズを迎えに行ってほしいといったメルヴィンに、真島孝弘は言ったのだ。


 自分はもう誰も失うつもりはない。

 だけど、自分ひとりでは力が足りない。


 力を貸してほしいと。


 その言葉には、力があった。

 少年がなにを失ったのか知らないエルフたちでも、感じ取れるだけの決意と覚悟があった。


 それが、彼らの心に火を点けた。


 みんなで生き残るために戦おうと、立ち上がったのだった。


 士気の高さは、抵抗の頑強さに直結する。

 矢がすぐ近くの地面に突き刺さる恐ろしい音が聞こえても、彼らは怯まずに立ち向かった。


 この距離ではどうしようもないと、追跡部隊は判断した。


 一度退いて、ふたつの部隊は合流する。

 またすぐに分かれて、移動を開始した。


 さいわい、蜘蛛の巣は広範囲に張り巡らされているだけあって、ひとつひとつの巣の合間には隙間が十分にあった。

 どちらかといえば、ある種の迷路のようなものに近い。


 接近することは可能だった。


 近付けば近付くだけ、エルフたちを覆い隠す蜘蛛の巣のベールは薄くなる。


 気を付けるべきは白い蜘蛛の存在だが、追跡部隊は戦力をふたつの部隊に分けている。

 体がひとつである以上、両方の部隊に対処することはできない。


 彼らは蜘蛛の領域に足を踏み入れた。


 蜘蛛糸をどうにかできないか、短剣で斬りつけて確認した者もいたが、そう簡単には斬れなかった。

 それどころか、粘つく糸に剣を巻き取られて、武器を失う羽目になってしまった。


 下手に触れると身動きが取れなくなるということだ。

 動きに多少の制限がかかったことを騎士たちは認識した。


 もっとも、それは相手も同じことだ。

 気を付けていれば問題にはならない。


 常にガーベラを視界に入れながら、追跡部隊は身を隠しつつ移動した。


 一方はガーベラの正面から、もう一方はその逆側から迫っていく。

 近付くのは、襲い掛かられても逃げられる距離までだ。


 そこでも、十分に攻撃は効果的だった。


 ガーベラは動かない。


 接近に気付いていないのか。

 気付いていて動けないのか。


 どちらにしても、もう十分だ。


 ガーベラの逆側から近付いていた部隊が、無言のまま攻撃の準備を開始する――その直前。


「くぅー」


 ぴょんと追跡部隊の前に飛び出したのは、まん丸に膨らんだ仔狐あやめだった。


「な……っ」


 リリィの擬態が劣化を伴う以上、嗅覚を利用した感知において、あやめ以上の存在はいない。


 身を隠して近付いていた追跡部隊だが、あやめの前では、そんな努力はなんの意味も為さない。

 というか、あやめはあんまりそのあたり理解しておらず「なんかゆっくり動いてるな、変なのー?」くらいの認識でしかなかった。


 ともあれ、変だろうがなんだろうが、それが大好きなご主人様の頼みである以上、あやめに容赦はない。


「ぎゃお!」


 間髪入れず、無数の火球を吐き出した。


 部隊の騎士たちは咄嗟に防御したが、巻き上がった爆炎に薙ぎ倒される者が続出した。


「くそ、蜘蛛以外にまだいたのか!」


 攻撃の対象を、咄嗟に騎士たちはあやめに変えた。


 あやめは大した力を持つモンスターではない。

 正面戦闘で、これだけの数の騎士で戦えばすぐに倒せる。


 そう考えた追跡部隊は、そこで状況に気付いた。


 追跡部隊とあやめとの戦いは、お互いの得意な戦術から、必然、遠間からの撃ち合いになった。


 しかし、この場は木々が邪魔をするばかりか、蜘蛛の巣が遠距離攻撃の邪魔をしている。

 この点において、追跡部隊もあやめも条件は同じだ。


 攻撃を通すためには、射線を通す立ち回りが必要になる。


 だが、蜘蛛糸はその行動を阻害した。

 追跡部隊は自由に動き回れない。


「くぅーぅ!」


 対するあやめはすばしこく、森を駆け抜ける。


 まったく行動に支障はない。

 

 単純に、体の大きさが違うのだ。

 あやめが走る高さに蜘蛛糸は張られていない。


 ここは自分たちに不利な空間だ。

 そう気付いた騎士たちは、歯噛みしつつ即座に撤退に移るしかなかった。


 その決断の速さは評価に値したが、奇襲が失敗したことには違いない。

 この追撃戦が始まってから初めての、成果のない撤退だった。


 それでも、彼らは幸運だった。


 もう一方、ガーベラの正面に向かった部隊は、それどころでは済まなかったからだ。


「……う」


 隠れ潜んでいた騎士たちは息を呑んだ。

 突然、ぐるりとガーベラがこうべを巡らせたのだ。


 隠れている騎士たちに、恐ろしいほど整った顔が向けられる。


 後背を突いたもう一方とは違い、彼らは隠れたまま、まだ攻撃もしていない。

 それなのに、明らかにガーベラの赤い瞳は、彼らを補足していた。


 どうしてなのか、考えている暇はなかった。


「撤退!」


 不測の事態だ。決断は早かった。

 速やかに彼らは来た道を戻ろうとする。


 しかし、それにも増して、ガーベラの動きは速かった。


「馬鹿な……!?」


 騎士たちの顔が引き攣った。


 距離は十分に取っていたはずだった。

 けれど、悪魔のようなスピードで、ガーベラは追跡部隊に迫ったのだ。


 その動きは、平地を行くよりも速かった。

 邪魔なはずの蜘蛛糸は、彼女にとって足場として機能したのである。


「そんな……!?」


 張り巡らされた蜘蛛の巣は、単なる障害物ではなかった。


 足を踏み入れた者は行動を阻害される。

 領域の主であるガーベラの機動力は強化される。


 この場は正しく『蜘蛛の結界』、ガーベラのための世界だったのだ。


 最も警戒していた白い蜘蛛がこのような戦い方をすることを、追跡部隊は知らなかった。

 だから、対応もできなかった。


 しかし、それも無理もない。


 あっという間に騎士たちの目と鼻の先に迫ったガーベラは、くつくつと笑ったのだ。


「驚くのも無理はない。こんなやり方、『あやつ』に指摘されるまで、妾も忘れておったくらいだからの」


 ガーベラは樹海最強の白い蜘蛛。

 圧倒的な戦闘能力で敵を蹂躙するモンスターだ。


 これまでもその機動力と怪力で、真っ向からチート持ちとさえやり合ってきた。


 今回もそうするつもりだった。


 しかし、そこで思わぬところから提案があった。


 作戦に口を挟んだのは、ベルタだった。


 どのような心境の変化があったのか、彼女は今回、自分から積極的に助言をしたのだ。


 ――蜘蛛よ。どうして貴様、巣を張らないのだ。


 それは、素朴な疑問だった。


 そもそも、アラクネというのは、正面から戦った場合、それほど強いモンスターではない。

 というより、間違っても正面戦闘をするようなタイプではない。


 得意なのは、搦め手だ。

 蜘蛛の巣を張り巡らせ、地形を味方につけることで、初めてアラクネは真価を発揮する。


 ――貴様の戦い方は、剣士が格闘家の真似事をしているようなものだ。体を鍛えているから戦えはするだろうが、本来の武器を使っていないことに違いはない。


 ベルタはガーベラの戦い方をそう評した。

 実のところ、出会ったそのときから、なんであいつは蜘蛛の巣を張らないんだろう……と、不思議に思っていた彼女なのだった。


 ――貴様はそれでも十分に、いや、十分以上に戦えているがな。……ああ、くそ。そう考えると、腹立たしい。なぜわたしがこのような助言をしなければならないのか!

 ――お、おお? なんだかよくわからんが、ごめんなさい?


 自らの王のために、ひたむきに強さを求めているベルタにしてみれば、ガーベラは理不尽そのものだ。


 モンスターとしてのリソースの大半を蜘蛛糸に費やしているのが、本来のアラクネというモンスターだ。

 なのに、ガーベラの場合は強くなり過ぎて、待ち構えているより襲いに行ったほうが早くなってしまい、それがそのまま戦闘スタイルになってしまった。


 まったくの出鱈目だが、ある意味、当たり前のことでもあったかもしれない。


「ベルタのやつ、本気で怒っておったからのー。ちと怖かったぞ」


 こんなふうに暢気なことを言っているが、忘れてはならない。


 彼女こそが樹海深部最強の白い蜘蛛。

 それすなわち、伝説にさえ謳われた理不尽と出鱈目の化身である。


「だがしかし、これで終わりだの」


 ぱきぱきと鳴らした指先に、返り血がべったりと貼り付いている。

 肌の色が白いだけに、その赤は恐ろしく鮮烈に、見る者の目に映った。


「……馬鹿な。全滅だと」


 本来の戦い方を思い出した白い蜘蛛は圧倒的だった。

 蜘蛛の巣に覆われた彼女の世界で、ふたつあった部隊のうちの一方は血の海に沈んだ。


 もはやどうしようもなく、追跡部隊の片割れは退いていった。


「や……やった! やったぞ!」


 エルフたちが歓声をあげた。

 信じられないようにお互いに顔を見合わせ、抱き合って喜ぶ。


 その様子を、うむうむと頷きながら見ていたガーベラのもとに、あやめが駆け寄っていく。


「おお。あやめ、お主も活躍だったな」


 ガーベラの頭に乗って、あやめは満足げに膨らんでみせる。


「くーぅ」

「うむ。これで当面は大丈夫だな」


 ここまでの打撃を与えれば、まずしばらくは攻撃されることはない。


 追跡部隊は任務に忠実だ。

 大きな損害を受けたのなら、それなりのやり方で任務を続行することだろう。


 たとえば、足をとめたエルフたちを遠巻きに見張るだけでも、彼らは任務を遂行できる。


 まともに戦闘が可能なのがガーベラとあやめのたったふたりという状況で、いまのように襲撃を跳ね返すことができたのは、この『蜘蛛の結界』があったからだ。

 ここから出てしまえば、場所の有利は失われる。


 出ることはできない。


 とはいえ、これは望んだ状況だった。


 被害はなく、当面の安全を手に入れた。

 目的を果たした仲間が戻ってくれば、逃げ出すことも叶う。


 喜び合うエルフたちを見回すと、ガーベラは空を見上げた。


「こちらはどうにかなったぞ。あとは――」


   ***


 ルイスの予想とは裏腹に、エルフたちは守り抜かれた。

 それどころか、これまでやられるばかりだったところを、一矢報いることさえできたのだ。


 ひとりの少年の復活によりもたらされた変化は、敵の予想をはるかに上回る成果を生んだ。


 リリィの戦線復帰。

 シランの戦力回復。

 ガーベラへの助言。

 エルフたちの奮起。


 どれもが事態を反転させるのに必要不可欠なものだった。


 だが、もっとも根本的な変化はまだ語られていない。


「……行くぞ」

「ああ」


 大事なものを取り戻すために、霧を纏う少年が駆け出した。

◆二話更新でした。

かけた時間の割に二話しか書けてないのはなぜかと思っていたのですが、

この話が長くて、一話で二話分くらいあっただけでした。なるほど……!


ここは一気に次話まで更新したかったところですが、

わたしの筆が追い付きませんでした。


次回更新をお待ちください。



◆ここまでくるとわかるんですが、今回追い詰められたのは、トラヴィスとエドガールの働きが非常に大きいですね。

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― 新着の感想 ―
[一言] 槍投げ 陸上競技の投擲種目としてあります。 世界記録は男子であれば100m近く女子であっても80m近くの距離を投げます。それからするとリリィの投擲する槍がたった50mからのものというのは少々…
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