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モンスターのご主人様  作者: ショコラ・ミント/日暮 眠都
1章.ご主人様と眷族の彼女たち
18/321

18. 眷属の幸せ

前話のあらすじ:

第一章の最終決戦です。

   18



「リリィ! ローズ!」

「「ご主人様!」」


 飛び込んでくる二体の眷族を、おれは正面から受け止めた。


 正確には『押し倒された』というべきかもしれない。


 おれの手はいまだに床に接着されていて、まともに身動き出来ず、抱きつかれるままにしりもちをつくしかなかったからだ。


「無事で良かったぁ……」

「心配いたしました、ご主人様」


 二人はおれの胸元あたりにすがりついて、再会を喜んだ。

 おれも勿論、喜んだ。ただ、それだけではすまなかったが。


「いっ……痛い! ふ、二人とも、もうちょっと落ち着いてくれっ」

「あ、そだった。ご主人様、無事じゃなかったんだっけ」


 おれが悲鳴をあげると、リリィがすぐに回復魔法をかけてくれた。

 その間に、ローズは腰に吊り下げた小さなナイフで蜘蛛の糸による束縛からおれの身を解放してくれる。


「ごめんね。わたしたち、嬉しくて。つい」

「いや。気にしなくていい」


 それだけおれのことを心配してくれていたということだ。

 それを知るだけでおれは心が温かくなって、痛みなんてどうでも良くなってしまう。


 体もぽかぽかと暖かい。

 回復魔法によって、傷ついた体が治っていっているのだ。

 とはいえ、動けるようになるまでには数分程度の時間がかかるだろうが。


 リリィの回復魔法だとそれくらいが限界なのだ。文句は言えない。

 それに、おれが自分の怪我について何か泣き言を言えるような状況でもなかった。


 リリィもローズも、いかにも凄惨な有り様だった。


 リリィは大きなダメージのせいで半ば擬態がとけてしまっていて、顔面の半分と体の大半がスライムに戻ってしまっていた。お陰で全裸でいてもいやらしさはないが、凄惨な有様といえた。

 おれの折れた右腕にそっと触れる手も完全に透明になってしまっていて、指さえわかれていない。時折零れ落ちる彼女の体液が、おれの腕の上をとろとろと流れてさえいた。いまは辛うじて人間らしい輪郭を保ってはいるが、既に限界が近いことは明らかだった。


 ローズはといえば、片腕を失っている。何度か床や柱に叩きつけられた際に片脚のジョイント部分を傷めたらしく、こちらに駆け寄ってくる時には片足を引きずるようにしていた。

 一番大きな負傷は、胴体部分に走った亀裂だろう。最後に喰らっていた蜘蛛脚による突きを、直撃だけは辛うじて避けて脇腹に受けたらしいが、放射状に肩まで深い亀裂が走っていた。


 まさに満身創痍。

 何かが間違っていたら、彼女たちの命はなかったに違いない。


 そうまでしても二人は、おれのことを助けにきてくれたのだ。


「ありがとう。二人とも。本当にありがとう……」


 これ以外に掛ける言葉を、おれは持たなかった。


 ……これで終わっていたのなら、それはもう理想的なハッピーエンドだったに違いない。

 そうではないからこそ、現実は残酷だった。


「何を……喜んでいる?」


 喜び合うおれたちに、怨嗟の声が届いた。

 顔を上げると、怒りに燃える赤い双眸と目と目が合った。


 白いアラクネはまったくの健在で、おれたちのことを睨み付けていた。


「この程度のかすり傷で、妾に勝ったつもりでいるのか?」


 そう言って低い声で恫喝する白いアラクネには、さっきのリリィの魔法によるダメージは見て取れなかった。

 更に驚くべきことには、顔の火傷にいたっては既に跡形もなくなっていた。ハイ・モンスターは回復力まで化け物だということらしい。


 対するこちらの戦力はといえば、明らかにリリィもローズも戦えるような状態ではなかった。

 おれのもとに生きてたどり着くだけのことで、彼女たちは持ちうる全てを使い果たしてしまっていた。戦うための力などひとかけらだって残ってやしなかった。


 つまりは、おれたちは此処でおしまいだということだった。


 おれは不思議と心穏やかに、絶望的な現状を受け止めていた。


 理由については、あえて探すまでもあるまい。

 おれは此処でリリィやローズと一緒に死ねるのなら、それも悪くないと思えてしまったのだった。


 それくらいに、二人と再び抱き合えたことは、おれに安らぎを与えてくれていた。


 孤独のまま、蜘蛛の糸に囚われて生きていくよりは、此処でリリィたちと一緒に死んだ方がよっぽどいい。

 自然とそう思えていた。


 白いアラクネの目的がおれである以上、おれだけは殺されることはないだろうが……そのときは、自分で舌でも噛めばいいだけのことだ。


「待って、ご主人様」


 そう思い定めていたおれの手を、その時、リリィの液状化した手が包み込んだ。


「リリィ?」

「諦めるのは、まだ早いよ」


 リリィは囁いた。


 どういう意味だろうか。

 この状況は明らかに『詰み』だった。此処からの逆転の手段なんて、物理的に有り得ない。


 そのはずなのに、近づいてくる白いアラクネを見据えるリリィの半分だけの表情は、確信に満ちていた。


「すぐにその身を微塵に引き裂いて、妾のモノを返してもらおう」


 きちきちと蜘蛛脚を鳴らして、白いアラクネは歩を進めてきている。

 跳躍力を全開にした突進攻撃をしてこないのは、単純におれを巻き込まないためだろう。確実に彼女はリリィとローズの息の根をとめるつもりでいた。


「貴様らの奮戦に意味などない。勝つのは妾だ」

「意味がないのはあなたの行為の方じゃないですか」


 これに言い返したのは、アラクネを挟んでおれたちの向かい側にいる加藤さんだった。

 彼女もリリィと同じで、まだ諦めていなかった。


 おれが目を向けると、加藤さんはおれと視線を合わせて、ほんのわずかに口元をほころばせた。


 自然な笑みだった。

 まるでおれの無事を心の底から喜んでいるかのような。


「……」


 それもほんの一瞬のこと。

 加藤さんはすぐに笑みを引っ込めると、今度は鋭い視線を白いアラクネへと向けた。


「大暴れして、癇癪を起こして……それで、ほしいものは手に入りましたか、白いアラクネさん?」

「いまから奪い返すところだ。黙ってみていろ、小娘」

「奪い返す? 面白いことを言いますね。そんなこと、あなたに出来るわけないじゃないですか」

「なんだと?」


 この暴言は聞き逃せなかったのか、白いアラクネは加藤さんへと振り返った。


「現実が見えておらぬのか。どう見ても、こやつらには戦う余力などない。あとは蹂躙されるのみであろうが」


 肝の小さい人間なら気絶してしまいそうな殺気を向けられても、加藤さんは平然としていた。


「それはそうかもしれませんね」


 あっさりと加藤さんは白いアラクネの言い分を認めてから、首を横に振った。


「だけど、それとこれとは話が別です。リリィさんたちを殺したところで、あなたはもう二度とほしいものを手に入れられませんよ。……というより、あなたは一度だって、本当にほしいものを手に入れてなんていないんです」

「まだ気付かないの?」


 加藤さんに代わって、今度はリリィが口をひらいた。


「あなた、勘違いをしてたのよ」


 おれには彼女の言いたいことがわからなかった。

 それは、白いアラクネも同じだったのだろう。


 少なくとも、この瞬間までは。


「勘違い、だと? 何を……」


 白いアラクネの言いかけた言葉が、そこで不自然に途切れた。

 リリィが何をしたわけではない。白いアラクネは自分で言葉を切って、大きく目を見開いたのだった。


 彼女の赤い瞳は、主人であるおれに寄り添う二体の眷属モンスターを映し出していた。


 リリィは座り込んだおれの腕にそっと手を置いて、肩の辺りに亜麻色の頭を押し付けるように寄り添っていた。

 そして、もう一方のおれの手は、ローズの人形の手に握られていた。


 彼女たち二人の眷属のことを、白いアラクネは凍りついた表情でじっと見つめていた。


 そんな停まってしまったアラクネへと、リリィは語りかけた。


「……気付いたみたいね。だったら、わかったでしょう。わたしが勘違いだって言った、その意味が」


 半分がスライム化した彼女の顔は、気の毒そうな色さえ浮かべていた。


「意思を持った? 自我を得た? 確かにそれは素晴らしいことね。ええ。わたしだって、覚えてる。世界に色がついた、あの瞬間のことは」


 それは白いアラクネも言っていたことだった。

 モンスターには生来、自我がない。だとしたら、それを得た瞬間のことは、何にも換え難い、おれの眷属に共通した鮮烈な体験だろう。


「ご主人様はわたしたちに自我をくれた。ご主人様は人間でいうところの、お母さんみたいなもの。――いいえ。それ以上の、特別な存在。あなたが彼を独占したいと思って攫っていった気持ちも、わたしはわからないでもないわ」


 おれの眷属は三体ともが、主人であるおれに対するスタンスが違っているが、共通している部分もある。

 リリィが母の喩えを出したように、おれに対する特別な感情は全員が持っているものだし、それはおれのことを拉致したアラクネにしたところで変わらない。むしろ、そうした感情を持っていたからこそ、彼女は拉致監禁という過激な行動に出たはずだった。


「だけど、ただご主人様を手に入れただけじゃ意味なんてない。そこを、あなたは勘違いしていた」


 きゅっとリリィはおれの手を握った。


「ご主人様のことを、わたしたちは何よりも大事に思っている。ご主人様も、わたしたちのことを大事にしてくれている。それが、何にも代えられない掛け替えのない幸せなんだって、わたしは思う」


 見る影もなく透明に崩れた胸に手を当てて、しかし、リリィは満ち足りた様子だった。

 そうして負った傷こそが誇りなのだと、彼女は無言のうちに語っていた。


 いまリリィは幸せの中にいる。

 それはおれに寄り添っているローズも同じことで。

 二人と共にいるおれだって、勿論、そうだった。


 そして、この状況こそがリリィたちが命を賭けて作り出したものだった。


「ねえ、わたしたちの幸せが、あなたにも伝わっているでしょう?」


 おれと、おれの眷族との間には、心と心をつなぐパスがある。

 それは白いアラクネだって例外ではない。


 パスを介する情報伝達では、あまり複雑な情報をやり取りすることは出来ない。だが、その一方で、言葉を介するのでは伝えられないものも伝えることが出来る。


 万言を費やしても表しきれるものではない感情というものを、おれたちは直接伝え合うことが出来るのだ。


 すなわち、今のリリィが、ローズが、そしておれが感じていることが、白いアラクネにもあまさず全て伝わっているということだ。


 それはたとえば、親しい人のために頑張る充実感であり。

 それはたとえば、愛する喜びであり、愛される歓びであり。

 たった一人では得られない、本当の意味での無上の幸福だった。


 そうした全てが、白いアラクネを打ちのめす槌となり、貫き通す鉾となる。

 何故なら、彼女もおれの眷属であるからだ。


 本来なら彼女も眷属として、愛すべき仲間として、家族のような存在として、おれたちと共にいるはずだった。

 そうして、おれがいま感じているような『独りではない幸福』を手に入れるはずだったのだ。


 けれど、もはや彼女にそれは得られない。

 たとえ幸せが得られなかったとしても、これまでの彼女ならそれを問題とはしなかった。

 これまでの彼女は幸せを知らなかったからだ。


 知らなかったから無茶苦茶が出来た。


 だが、おれたちの間にあるパスは、彼女の経験したことのない幸福というもの感触を、ダイレクトに彼女に伝えることを可能にしていた。


 こうして白いアラクネは幸せを知った。

 自分とはまるで関係のないモノとして。


 それが無上の幸福であることをこれ以上ないくらいに明白なかたちで教えられた上で、もはや二度と手が届かないという現実を知らしめられる。


 これで心が折れなかったら、真実、白いアラクネは怪物だっただろう。


「う、あ……」


 だが、そんなはずがないのだ。

 誰よりも真っ白な彼女は、心を得たばかりの子供のようなもので、その心を与えたのは、所詮は凡人でしかないこのおれなのだから。


 ある意味では、これは皮肉なことだった。

 ずっとほしいと願い続けていた心さえ持たなければ、彼女はいまでも完全無敵の存在で在り続けていたのだろうから。


「わ、妾は……妾は……」


 どれだけ外側が強固でも、内側のやわらかいところを突き刺されてはひとたまりもない。


 こうして、比類ない暴虐を振るった白い蜘蛛は、脆くも崩れ落ちたのだった。


   ***


「無事でよかったです、先輩」

「ありがとう」


 リリィの回復魔法でとりあえず歩けるようになったおれが近づくと、加藤さんは控えめな笑顔で迎えてくれた。

 みんなふらふらだったが、実際に剣を手に持って戦ったわけではない加藤さんもやや顔色が悪かった。それだけ、緊張を強いられていたということなのだろう。


「あの作戦は加藤さんが?」


 気になっていたことをおれは尋ねた。


 確証があったわけではないが、あのやり方はリリィやローズの発案ではないとおれは感じていた。

 助けてもらっておいて、この表現は少しどうかと思うのだが……やり口があまりにもえげつなかったからだ。


 あの手の発想は、純朴なところのある眷属モンスターからは出てこない。

 あれは人間の発想だ。


 案の定、加藤さんは頷いた。


「あの蜘蛛が真島先輩をどんな理由で浚っていったのかは、わかりませんでした。ただ、彼女が先輩のことをさらっていったという事実からだけでもわかることはありました」

「彼女がおれに執着しているってことか?」

「ええ。少なくとも、先輩が彼女にとって特別な存在だということはわかりました。それで、あんな滅茶苦茶をしでかしたとしても、彼女はあくまで先輩の眷属なんだろうと判断しました。先輩の眷属である以上、その成り立ちはリリィさんやローズさんと同じはずです。だったら、攻略法はあると思いました」

「何を望んでおれを浚ったにせよ、そんなことは関係ないと」

「ええ。主人である先輩に、信頼されて、信頼して、尽くして、愛されて……それはとても幸福なことでしょう?」

「……そうかな?」

「そうですよ」


 加藤さんは何処か寂しげに笑った。


「リリィさんとローズさんとが、真島先輩のもとに生きて辿り着くこと。それが勝利条件でした」


 おれが何か言う前に、加藤さんは笑みを引っ込めて話を続けた。


「随分と厳しい条件でしたけど、お二人はそれを見事に成し遂げてくれました」


 作戦の都合上、リリィとローズは命を賭けてアラクネに挑み、それでいながら、何があっても生き残っておれのもとまで辿り着かなければならなかった。


 どんな手を使っても倒せない相手に勝利するための、それが唯一の方法だった。


「あとは、あの白いアラクネに状況を教えてやるだけでよかった。……ただ、そのために会話に引き込む必要がありました。これはわたしが担当しました。彼女はとても強くて、わたしはとても弱い。そんな相手が目の前にのこのこ出てくれば、興味をひかれるものでしょう。それに、いつでも殺せるなら、いま殺してもあとで殺しても変わらない。そういう意味で、わたしが一番可能性があったんです」

「それでも命の危険がなかったわけではないだろうに」


 というより、白いアラクネのほんの気まぐれで殺されてしまっていたわけだから、彼女は本当に危険な命の綱渡りをしている。


「それに、その前にも一回出てきたよね。戦っている最中に」


 リリィが口を挟むと、加藤さんは肩をすくめた。


「隙を作るために動いたのは、まあ、アドリブです。あのままだと無理っぽかったので」

「無茶しすぎ。わたし、心臓止まるかと思ったんだから」

「いまのリリィさん、心臓ないじゃないですか」

「二人とも、おれがいない間に随分と仲良くなってないか」


 軽口を交し合っている二人におれが言うと、加藤さんはほんの小さな苦笑を見せて、リリィは渋顔になった。やはり二人の間には、何かあったらしい。少し気になるが、詳しい話はあとで聞けばいいだろう。


「しかし、聞いていて冷や汗が出るような作戦だな」


 おれがつぶやくと、加藤さんが首を傾げた。


「そうですか」

「ああ。うまくハマったからいいものの、最悪のケースとして、白いアラクネがこれまでの眷属とはまったく違った論理で動いていた可能性だってあったわけだろ」

「ああ。それは確かに」


 加藤さんもそうした可能性は考慮していたのか、おれの意見に同意を示した。


「博打めいたところはありましたね。まあ、それしかないからやるしかなかったんですけど……でも、そう分の悪い賭けでもないと、わたしは思ってたんですよ」

「そうなのか?」

「はい。だってわたしはリリィさんとローズさんを知ってましたから」


 加藤さんはちらりと、おれの体に文字通りにべったりと張り付いているリリィを見た。


「たとえば、リリィさんって疑り深いところがありますよね」

「あ、ちょっと、加藤さん!?」

「そして、ローズさんは真面目です」


 さらりとリリィの抗議を無視する加藤さん。

 力関係がうかがえるやりとりに、おれのいなかった間の出来事がうかがえた。本当に何があったんだろうか。

 やはり気になったが、これはあとでローズにでも詳しい話を聞くことにして、おれは加藤さんに話の続きを促した。


「確かに加藤さんの言う通りかもしれないな。それで、その二人の性格がどうかしたのか?」

「わたし思うんですけど、先輩の眷属って、何処かに一部分、先輩の性格に影響を受けているように思うんですよ」


 加藤さんの返答に、おれは虚を突かれた気持ちになった。


「おれの?」

「はい。聞いた話ですけど、眷属モンスターは先輩に出会う前には心を持たなかったんですよね。だったら、そういう一面があってもおかしくないんじゃないですか」


 加藤さんの話を聞きながら、おれは白いアラクネから聞いたおれの持つ力についての話を思い出していた。


 おれの眷属はおれの心に触れたことで、自我を芽生えさせた。

 当然、その影響を大きく受けているはずだ。それが性格の一部として表れているとしても、なんらおかしなことはない。


「だから、あの白い蜘蛛の心だって、そうそう破綻しているはずはないと思いました。だって、彼女も先輩の眷族なんですから」


 おれは思わず、これから出て行こうとしていたアラクネの巣を振り返ってしまった。


 広い空間の中央では、蜘蛛が脚を畳んで座り込んでいた。


 蜘蛛から生えた少女は俯いている。

 白く長い髪が顔を覆い、その表情はうかがえない。


 もう彼女がおれたちに立ち向かう気力をなくしていることは、パスを伝わってわかっていた。


 そこにいるのは、手に入れるはずだった全てを取り落として、たった一人で朽ちる時を待つだけの哀れな命でしかなかった。


 彼女は独りぼっちだった。

 これまでもずっと。

 そして、恐らくはこれから先もずっと。


「……」


 此処は壁のない開放的な空間なのに、おれは何故か洞窟の中にいるような閉塞感を覚えた。


「ご主人様?」


 おれの様子がおかしいことに気がついたのか、リリィがおれを呼んだ。


「リリィ」


 おれも彼女の名前を呼んだ。


 おれがしたのは、それだけだ。だが、それだけでもリリィは何かに気がついてしまったのか、半分が崩れた顔の中で、いまは一つだけの目を見開いた。


 小さな溜め息が空気を震えさせた。


「ご主人様は、本当にもう……」

「悪い。お前たちが傷ついたのは……」

「いいよ。わたしはそういうご主人様が好きだもの」


 仕方なさそうにリリィは微笑んでいた。

 それは半分だけが崩れた、怪物の笑顔だった。


 おれにとっては、どんな女神の微笑みよりも綺麗に思える笑顔だった。


「完璧じゃないわたしをご主人様が好いてくれているように、わたしはご主人様のそうした甘さを愛してる。だから、いいよ。ご主人様はご主人様の好きなようにすればいい」


 そう言って、リリィはおれからそっと離れた。

 彼女の許しと後押しを得て、おれは崩れ落ちる蜘蛛へと近づいていった。


「ご主人様? 一体何を……」

「先輩?」


 ローズと加藤さんはまだわかっていないらしい。

 まあ、わからないだろう。自分でもこれが馬鹿な行いだとは思っているのだ。


「なあ」


 蜘蛛の上に生えた少女が、ぴくりと動いた。

 さらさらと髪が流れて、その下から赤い瞳がおれのことを見上げた。


 見た目だけなら、やや彼女の方がおれよりも年上だろう。だが、その姿はまるで小さな子供のように見えた。


「お前も一緒に来るか?」


 アラクネの赤い目が見開かれた。

 そして、おれの後ろで何やら慌てた気配があった。


「ご主人様!? 何をおっしゃっているんですか!」

「そ、そうですよ。先輩!」


 ローズと加藤さんは随分と面喰っている様子だったが、一番驚いているのは目の前のアラクネだろう。


「本、気……かの、主殿」

「パスで繋がっているんだから、わかるだろう」

「……本気、のようだの」


 白い少女は信じられないものを見る目をしていた。


「妾は主殿に敵対したのだぞ」

「まあ、それはその通りだ」

「そして、たくさん傷つけた」

「それも、その通りだ」


 おれの怪我はともかくとして、リリィやローズに重傷を負わせたことについては、率直に言って腹が立っている。


「だけど、考えてもみれば、お前もおれの心に触れることで自我を得たはずなんだよな」


 本来ならほとんどないに等しい意識がおれの心に触れることで、ようやく自我の芽生えを迎える。それがおれのモンスター・テイムの仕組みなのだと、白いアラクネは語っていた。


 心に触れた時に、眷族である彼女たちはおれの望みを受け取っている。

 絶望に沈んだおれの心を救ってくれようとしたリリィ。

 この異世界で生き抜いていこうと決心したおれの身を守ってくれようとしたローズ。


 目の前の蜘蛛だけが、その例外であることは有り得ない。

 こいつだっておれの心に触れ、望みを受け取っているはずなのだ。


 そして、思い返してみると、思い当たる節がないでもないのだ。


 ――妾には力がある。他の何者にも負けぬ力が。この力で妾は妾の思うがままを為すのだ! 手に入れた自我が望むままに!


 白いアラクネの言葉だ。

 あまりにも傲慢過ぎる言い分を思い出して、おれは苦い思いを味わった。


 おれはこの異世界にやってきてから、自分の意思を捻じ曲げられるような出来事を経験している。

 コロニー崩壊の日、おれは痛めつけられて、これまでの価値観を砕かれるような思いをした。

 三日間も独りで危険な森を彷徨い、孤独のままに死にそうにもなった。

 他にも最近では加賀に対して、決して積極的に行いたくはない殺人行為に手を染めることになった。


 いずれも、おれにこの過酷な状況を軽々と打開出来るだけの圧倒的な力があれば、避けられた事態だった。


 ――力さえあれば。

 おれだって人間だ。そう考えたことがないと言えば、嘘になる。


 こうした考え方は非常に危ういものだ。

 何故なら、こうした考えは『力さえあれば何をしてもいい』という傲慢を生んでしまいかねないからだ。

 たとえば、目の前のアラクネがそうであるように。


 きっとおれの中で、力を望む心はずっと埋もれ続けていたのだろう。そして、今夜白い暴虐のかたちを取って牙を剥いた。


「お前に心を与えたのは、このおれだ。だったら、お前の暴走の責任の一端は、おれにもある。おれがお前を責めるのは筋違いだ」

「妾が暴走したのは、妾自身の意思だ。そうさせたのは妾の欲求であり、蜘蛛としての性質だ」

「だとしても、それを後押ししたのはおれの願いだ。おれの責任がなくなるわけじゃない」

「……とんでもないお人好しだの、主殿は」


 白いアラクネは唖然としていた。


「わかっておるのか、主殿。それはとても危険な考え方だぞ。こんな妾にでも容易に想像がつくことだ。そんな風に何もかもを背負い込んでいては……いずれ主殿は破綻する」

「破綻なんてさせない」


 これに答えたのは、リリィだった。


「わたしたちがご主人様を支える。そのために、わたしたちはいるんだから」


 彼女は液状化した下半身でずるずると這ってくると、おれの横に並んで立った。


「ねえ、あなたはどうなの? わたしたちと一緒に、ご主人様を支えてはくれないの?」

「それは……だが、妾にはその資格がなかろう」


 白いアラクネは首を横に振った。


「妾はお主らを傷つけてしまった。妾の勝手な振る舞いによって」


 うな垂れる彼女の姿を見れば、彼女がおれたちとともに来たくないわけではないことは、誰にでもわかることだった。

 罪悪感が彼女の心を蜘蛛の糸のようにからみとっているのが、おれには見えた。


 そんな彼女だからこそ、まだ手を差し伸べる余地があると、おれは思う。


 確かに彼女は過ちを犯した。しかし、取り返しのつかない被害が出たわけではない。誰も死んでいないし、誰も失われていない。むしろ此処で彼女を見捨てたら、それこそこの騒動は単なる悲劇で終わってしまう。


 そんなことにはさせない。


「お前はまだ心を手に入れたばかりなんだ。言ってしまえば、今回の件については、子供の癇癪みたいなものだ」


 いくらなんでも、子供の振舞いに目くじら立てて、二度と許さないというのはやり過ぎだ。


「許してやるのは、年長者として当然のことだろう」


 おれがいうと、白い少女はくしゃりと端正な顔立ちを歪めた。


「……主殿は妾がどれだけの長い時間を生きておると思っておるのだ。恐らく、主殿の十倍では済まんぞ」

「だったら、ごめんなさいの仕方くらいは知ってるよな?」

「そんなものは知らぬ。知るはずがない。妾の生がどれだけ空虚なものだったか、主殿にはわかるまいよ」


 ふうと細い吐息が、少女の口から吐き出された。


「だが、これからはそうしたことも知る必要があるのであろうな」


 そういった白いアラクネの目から、透明な涙が一粒零れた。



 こうしてこの夜、おれの三体目の眷族が、旅の仲間に加わったのだった。


◆これにて『モンスターのご主人様』の第一章は完結となります。

引き続き、第二章の方に進んでいきます。


◆此処まで読んでくださってありがとうございました。

『なろう』ではいろんな意味で少し重過ぎるかなぁ、と思っていた本作ですが、当初予想していた以上の方に読んでいただけているようで、ありがたい限りです。

お気に入り登録・評価をしてくださった方には、重ねて感謝申し上げます。


◆また、これまでに多くの感想をいただけて、本当に嬉しいです。

感想には基本的に全て返信させていただいています。少し遅れ気味なこともありますが、感想を下さった回の次の回の更新の頃には返信します。


◆次回更新は一週間後、2/1(土曜日)になります。

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