17. 死闘
前話のあらすじ:
アラクネといちゃいちゃ……きゅっ
17
……来てくれた。
槍を片手に厳しい表情でアラクネを見据えるリリィ。
そして、その後ろで斧を腰だめに構えて、既に臨戦態勢のローズ。
おれはアラクネに喉もとを掴まれたまま、現れた二つの人影から目を離せずにいた。
彼女たちが助けにきてくれると信じていなかったわけではなかった。
むしろ彼女たちなら必ず追って来るだろうと確信していた。
それでも、おれは危険をかえりみずに助けにきてくれた彼女たちの献身に胸が熱くなるものを感じずにはいられなかった。
たったそれだけで、折れかけていた心が立ち直ってしまうくらいに。
やはり、おれは彼女たちがいなければ駄目なのだ。
そう素直に思ったおれの耳朶を、艶のある少女の声が舐めた。
「ほう。追ってきたのか。命知らずとはこのことだな」
おれの首を掴んでいた手を離して、白いアラクネがやってきた彼女たちへと振り返った。
「ごほっ、がほっ……」
急に気道が確保され、首を締め上げられていたおれは噎せ返った。
生理的な涙が出てきて、ぽろりと一つ床に落ちた。
それで、おれはふと我に返った。
一気に血の気がひいた。
「妾と戦わば、死ぬぞ。お主ら」
喜んでいる場合ではなかった。
おれを捕らえているのは白い蜘蛛。
暴虐の化身なのだ。
おれを助けに来たということは、この化け物に立ち向かうということ。
それはつまり、死に飛び込むということに他ならない。
リリィとローズはいま、死と隣り合わせに立っている。
どうしてこの光景を防げなかったのだろうか。
こうなることはわかり切っていたことだったのに。
おれがさらわれてしまえばリリィは取り乱す。ローズがどれだけ彼女を落ち着かせてくれるかわからないが、高い確率で彼女たちは無謀な戦いに身を投じることになるだろう。
勝てない相手に挑もうというのだ。幸い、おれの身の安全は保障されているのだし――この蜘蛛相手だと、そのあたりはやや怪しいが――何日でも作戦を練って、対策を整えて、万全の態勢で臨めばいい。
ひょっとしたら手遅れになるかもしれないが、絶対に失敗する救出作戦を決行するよりは、何万倍もその方がいい。
と、そんな風に彼女たちが考えられないことはわかっていた。
そうだ。おれは知っていたのだ。
こうなることは予想できたはずなのに、対策が打てていなかった。
これはおれのミスだった。
見込みが甘かった。
あらかじめ対策を打っておくべきだった。
おれの不在を都合よくフォローしてくれる何者かなんて、存在するはずがないのに……
「哀れなものだな」
おれを背後に隠すようにして、アラクネが二人に向き直った。
「とはいえ、主殿に執着する貴様らの気持ち、妾もわからぬではない。わからぬではないが……渡してはやらぬよ。これは妾のモノだ。奪わせぬ。失わせぬ。妾にはそのための力があるのだから」
粘つく蜘蛛糸のような執着心が、少女の赤い唇からこぼれる。
「消え失せろよ、つまらぬ小虫ども」
「つまらないのは、あなたの方」
目の前が真っ暗になるような絶望を感じていたおれは、しかしその時、予想しないものを見た。
体中の血液が凍ってしまいそうな殺意の塊と対峙して、それでもリリィは凛としていた。
その物腰に、遥か格上の怪物に挑む恐れは見てとれない。
そんな彼女の姿をみて、おれはふと自分の勘違いに気がついた。
リリィは取り乱していない。
パスを通じて伝わってくる彼女の心は、怒りを覚えてはいるようだが、思った以上に落ち着いている。
ただ感情任せに飛び込んできたのではない。いまの彼女の姿は、ある種の覚悟を固めてこの場にいるようにさえ、おれの目には見えたのだった。
何があったのか。彼女らしくない……というのは少し言いすぎだが、それでも、おれは違和感を拭えない。
ひょっとして、彼女はきちんと考えて此処にいるのだろうか。
勝算があるとでも?
だが、どうやって?
勿論、おれは彼女たちを誰よりも信じている。
……信じているが、それとこれとは話が別だ。おれの理性は、彼女たちがずたずたに引き裂かれる光景を予測してしまっていた。
「妾がつまらぬか。よくぞ言ってのけた、小娘」
おれの確信を裏打ちするかのように、白いアラクネから膨大な殺意が膨れ上がった。
魔力というものを感じ取れないおれであっても、これが桁外れの脅威であることは肌で感じ取れてしまう。
壁のない開放的なはずのアラクネの巣にいるのに、おれは息をするのさえ難しい圧迫感を覚えた。
やっぱり駄目だ。
リリィ。ローズ。
彼女たちは目の前の存在に殺される。
「おれのことは構わず逃げろ、二人とも!」
無駄とはわかっていても、おれは声を張り上げずにはいられなかった。
「逃がさぬよ」
アラクネの声は殺意に満ちている。
今更彼女がリリィたちを見逃すことなど有り得なかった。
「妾の悲願をつまらぬと言ってのけた、その度胸を評価して……」
白い蜘蛛の巨体が、ぐっと低く沈み込んだ。
「貴様らは妾が喰らってやろう!」
バネのように縮められた力が解放される。
もうとまらない。とめられない。
虐殺が始まる。
その寸前に。
「大丈夫だよ、ご主人様」
おれは、リリィの微笑みを見た。
***
蜘蛛が、跳ぶ。
まるで嵐の日の船のように、巣が大きく上下に揺れた。
「シャアアァア!」
六本の脚による跳躍は、ほとんど砲撃に等しかった。
コンマ数秒のうちに、リリィと白いアラクネ、彼我を隔てていた十メートルの距離がゼロに変わる。
前に見たときと変わらない、すさまじいまでの跳躍力だった。
見てからどう動くのか判断していたのでは到底間に合わない。
たとえば、一撃で沈んだ先刻のローズがそうだったように。
だからリリィたちは戦う前から行動を決めていたに違いなかった。
「シィ――ッ!!」
裂帛の気合とともに、リリィの後ろにいたローズが、腰だめにしていた戦斧を振り払った。
同時にリリィが、後先考えない勢いで地面に身を投げた。
その結果として、一瞬前までリリィの胴体があった場所を、木製の斧がうなりをあげて通り過ぎた。
「!?」
跳躍した白いアラクネは、リリィをターゲットにしていた。
生意気な口を叩く小娘を、突進からの蜘蛛脚の一撃で突き殺すつもりだったのだろう。
突然、目の前の攻撃対象がいなくなれば、ほんのわずかにしろ戸惑いが生まれる。
ましてや全力での突進だったのだから、どんな化け物であろうが咄嗟の対応力は落ちている。
蜘蛛脚の一撃はリリィの亜麻色の髪を引き千切るだけに終わった。
そして、リリィ目掛けて直進していた蜘蛛は、振り回される斧の刃に、自らぶつかりにいく格好になった。
リリィの挑発的な文句は、この状況を作り出すためのものだったのだ。
そして、激突。
木製とは言え、ローズが持つ戦斧は魔力持つ武器だ。
鋼鉄を上回る硬度を持つ刃がモンスターの膂力でもって振り回されるその一撃の破壊力は、半端なものでは有り得なかった。
めしゃっと破滅的な音がして、斧が蜘蛛の頭胸部やや右寄りにめり込んだ。
ローズの振るった斧の刃は、びっしりと生えた蜘蛛の白い毛を千切り、丈夫な皮さえ破り、強靭な筋肉にめりこみ、わずかに血飛沫をあげさせた。
しかし、決定的な深さに至る前に、耐え切れずに斧そのものが炸裂した。
「ギッ!?」
速度と頑強さ、そして、何より重さでローズは負けていた。
突進してきた白い巨体が、ローズをかすめるようにして通り過ぎた。
ローズはきちんと蜘蛛の進路を外していた。
それなのに、ローズの体はぶつかりあった独楽のように弾かれた。
斧を持っていた側の腕は折れるどころか根元から吹き飛んで、錐揉み回転する人形の体は、丸太を組み合わせた床に叩きつけられて大きくバウンドした。
「シャアァア!」
八本の脚で着地した白い蜘蛛が、宙に浮いたローズへと、トドメを刺そうと飛び掛る。
「させない――ッ!」
絶叫が響いた。
地に伏せていたリリィが、待機させていた魔法を発動させたのだ。
三階梯の風魔法。与えられた性質は三十七本の刃。
威力は多少落ちるが、その分だけ広い範囲を切り刻む、彼女のとっておきの一つだ。
荒れ狂う風が暴威を振るう。
蜘蛛の糸で吊り下がっていた照明がいくつか吹き飛び、床板代わりの細い丸太がばきばきと音を立てて舞い上がっていく。
これなら、いくらハイ・モンスターといえどもダメージなしとはいくまい。少し離れたところで見ているおれでさえ、そう考えずにはいられない会心のタイミングだった。
「この程度!」
だが、白いアラクネは普通なら有り得ない挙動でリリィが放った攻性魔法の効果範囲を離脱する。
リリィの攻撃魔法が発動する一瞬前に、白いアラクネはローズへの追撃を中止して、蜘蛛糸を木々の一本に射出していたのだ。
生木を根元から引っこ抜くほどの怪力により、蜘蛛の巨体がおれの視界から掻き消える。
「――そこぉ!」
流石に見失うことはなかったのか、リリィの裂帛の気合が響き渡った。
「痴れ者が!」
ばきり、と異音。
おれが視線をめぐらしたときには、既にアラクネは蜘蛛の脚の一本を振り切っていた。
空中にいる彼女目掛けて突き出されたリリィの槍は真っ二つになり、天井近くまで弾き飛ばされている。
「うぐ……」
リリィの両腕が半分引き千切れながら有り得ない方向に曲がり、彼女は無防備な姿を晒していた。
これを見逃す白いアラクネではない。着地した彼女が指を揃えて放った貫手が、リリィの顔面へと迫る。
やはり駄目なのか。リリィたちの勝利を願うおれでさえそう思った。
「まだ……ですっ!」
次の瞬間、リリィに迫るアラクネの側面から、ローズが襲い掛かった。
「なっ!?」
リリィの風魔法はアラクネの巣の建材の多くを宙に巻きあげていた。
その影に隠れてローズはアラクネの死角へと忍び込んでいたのだ。
おれの眷属という絆で結ばれている二人の姉妹の波状攻撃は、此処に一瞬の隙を作り出していた。
「シイイィィィ――ッ!」
残った片腕で背負っていたスペアの斧を握り、いまにもリリィに襲い掛からんとしていた白いアラクネの横合いに斧の刃を叩きつけた。
「くぅ……っ」
蜘蛛の脚の一本が切り飛ばされて宙を舞った。
しかし、ローズの斧は致命傷を与えるには至らなかった。
この咄嗟の攻防でさえ、白いアラクネは防御を間に合わせて見せたのである。
会心の一撃は、八本ある蜘蛛脚の一本を犠牲にすることで防がれた。
それでも、傷は傷だ。
むしろローズの一撃は、格下の相手に手傷を負わされた白いアラクネの矜持をこそ深く傷つけたのかもしれなかった。
「ぐ……っ」
アラクネの少女のものである貌が、憎悪で歪んだ。
「この……下郎が!」
「ギッ!?」
槍の穂先のように突き出された蜘蛛脚の一撃を、斧を振りぬいた体勢のローズは避け切れなかった。
直撃を喰らったローズの体が地面とは水平にすっとんでいって、アラクネの巣の柱代わりの木を二つ折りにして停まった。
木々に支えられている天井が、ぎぃぎぃと音を立てて傾いだ。
今度こそローズは動かない。
リリィは両腕を壊され、ローズは片腕を失った上でダウン。
此処までくれば、勝負は決まったようなものだった。
少なくとも、白いアラクネはそう思ったはずだ。
そして、それこそがリリィたちが手に入れた唯一の勝機でもあったのだ。
リリィの目がぎらりと煌いた。
至近距離にいるアラクネへと、リリィが口をぱっかりとあけた。
「があぁああ!」
彼女の喉の奥から赤い炎が噴き出した。
ファイア・ファングを擬態したことによる火炎放射能力だ。
「うぬぅ!?」
これは、さしものアラクネも避け切れない。
白い少女の顔面に、真っ赤な炎が直撃した。
「やった……、……あ?」
意気込みかけたおれは、次の瞬間、背筋を冷たく凍らせた。
リリィの体に絡みつく蜘蛛の糸を、目撃したからだった。
肩から胸近くまでを含んだ左腕と、足を含んだ右半身。
べっとりとこびりついた蜘蛛の糸が、おれの網膜に白く焼きついた。
それはおれの希望さえ絡み取って捕えてしまう、絶望の具現としておれの目に映った。
「な……にを」
のけぞった体勢で、アラクネが低い声でつぶやいた。
「なにをしたつもりだ、雑魚がぁ!」
リリィに絡みついた蜘蛛の糸の一方は、蜘蛛の八本の脚の一つに。
もう一方の糸は白い少女の手に繋がっていた。
アラクネは怒りの咆哮とともに、ハイ・モンスターの圧倒的な膂力によって、持っていた蜘蛛糸を引き寄せた。
それがどのような結果をもたらすのか。小さな子供にだって理解の出来ることだった。
イメージとしては、幼い少女向けのビニール製の玩具の人形だ。
足を掴んで固定して、ぎゅっと握りしめた腕を思いっきり引っ張ればどうなるか。
べりべりと音をたてて、リリィの着ていたジャージと、左腕を含む左上半身の一部が、彼女の体から引き剥がされた。
「ぁ」
つぶやいたリリィの体から、芯が失われた。
糸の切れた人形のように、少女の体がうつ伏せに倒れた。
そして、こちらも、もう動かない。
「流石に……先程の攻撃はひやりとさせられたな」
パスを通じて伝わってくるリリィの意思は、とても弱々しいものだった。
同じものを感じ取ったのか、白いアラクネは艶やかな横顔に凄惨な笑みを浮かべた。
「しかし、これで仕舞いだ」
アラクネの少女のものである顔面には、わずかに火膨れが出来ていた。
だが、それだけだった。
「く……くくっ、くくくくっ」
艶やかな女の笑い声は、まさに悪魔の哄笑だった。
「本当に愚かな者たちだ。妾に敵わぬことは、はなから知れていただろうに」
彼女の言う通り、順当と言えば、これはとても順当な結果なのだろう。
当たり前の結果が、当たり前のように出た。そうした世界の残酷さにおれは呆けて、事態を見守ることしか出来なかった。
「恨むのならば、妾ではなく貴様ら自身の無力さを恨め。力さえあれば、貴様らとて死なずに済んだのだから」
白いアラクネは勝ち誇る。
憐れむようでいて、それは明白に嘲りを含んだ台詞だった。
「さらばだ」
倒れ伏すリリィの真上で蜘蛛が脚を持ちあげた。
止めを刺すつもりなのだ。
白いアラクネをとめられるものはもういない。
「随分と悲しい勘違いをするんですね」
そう、そのはずだったのだ。
「加藤さん……?」
おれは自分の耳を疑った。
その姿を見ても、目で見ているものが信じられなかった。
だが、アラクネの巣へと足を踏み入れてくるのは、確かに加藤さんに違いなかった。
この場に彼女がいること自体は、それほどおかしなことではなかった。察するに、リリィたちについてきたのだろう。彼女はいままでアラクネの巣の外で身を潜めていた。
しかし、その彼女がどうしてこの場に姿を現すのか。
此処は戦場だ。
何の力もない少女が足を踏み入れていいような場所ではない。それは、加藤さんだってわかっているはずだった。
「なんだ、貴様は?」
白いアラクネも同じ考えだったのだろう、怪訝そうな顔で加藤さんを眺めていた。
「勘違いだと? 貴様、何を言っている?」
多少の不快感と、大きな困惑。
そして、好奇心。
白いアラクネの血のように赤い瞳に、めまぐるしく感情が行き来するのが見て取れた。
「そもそも、どうして貴様のようなただの人間が、妾の前に立とうとする? 自殺志願の類か、貴様」
白いアラクネがそういうのは、むしろ自然なことだった。
彼女はいつだって加藤さんを殺してしまえるし、そうすることに躊躇などしないだろう。
だが、加藤さんの姿には、そうした一切に頓着した様子がなかった。
それは白いアラクネに『自殺志願』だと言われても仕方のない蛮行だったが、対峙する加藤さんは首を振って否定した。
「わざわざ屍が動いたというのに、自殺も何もないでしょう。わたしがこの場にのこのこ出てきたのは……そうですね、一つには文句を言ってやりたかったからです」
殺すのならば、殺すがいい。
そんな一種の潔ささえ思わせる悠然とした態度で、加藤さんは白い怪物に一人で対峙していた。
「……思い返せば、リリィさんもそうでしたね。何が『羨ましい』ですか。隣の芝生は青く見えるものとはいえ、いくらなんでも残酷過ぎるとは思いませんか。『羨ましい』のは、こちらの方だっていうのに」
表情は険しく、口にする台詞には明らかな憤りが込められていた。
「あなただってそうです。わたしには絶対に手に入れられないものが、手の届くところにあるのに気付いていない。文句の一つも言いたくなって、それは当たり前じゃないですか」
おれには彼女が何を言っているのかわからなかった。
それは白いアラクネも同じだったのだろう。眉の間に浅い皺を寄せて、数秒押し黙っていた。
加藤さんの言っていることの意味を考えていたのだろう。
結局、わからなかったのか、白いアラクネはあっさりと思考を放棄した。
「……戯言はそれくらいにしておけ、小娘」
そういうと、白いアラクネは手を横に払った。
人間には反応不可能なスピードで飛び出した糸が、加藤さんの首にかかった。
「べらべらとわけのわからぬことを。貴様は己の立場というものがわかっておらぬのか? いつでも貴様のことなど殺せるのだぞ?」
あとはちょっとだけアラクネが手首をひねるだけで、少女の命は摘まれてしまう。
これには、流石に加藤さんも口を噤まざるを得ない。
「ああ。それと、もう一つ。わたしには目的があってですね」
かと思われたが、そんなことはなかった。
命を握られている恐怖に怖じることなく、加藤さんは白いアラクネに語りかけ続けた。
「ローズさんが『命を賭けて戦ったとしても奇跡が必要』だっていうんですよ。だけど奇跡なんて簡単には起こらないじゃないですか。現実はいつだって残酷です。だけど、わたしはその残酷さに屈したくはない。だから、わたしはリリィさんとローズさんの他に、もう一つ多く命をベットすることにしたんです」
「貴様、だから何を……」
「わかりませんか?」
加藤さんは口の端をゆがめた。
「時間稼ぎはこれで十分だっていってるんですよ」
その時には、既に状況は決まっていた。
「ねえ、リリィさん?」
「……いくらなんでも、危険な橋を渡りすぎじゃないかな」
蜘蛛から生える白い少女の顎をがっしりと掴む、どろどろに溶けた透明な『手』があったのだ。
「だけど、助けてくれてありがとう」
やや不鮮明なリリィの声が、アラクネの巣に響いた。
「白いアラクネさん。あなたがわたしのことをスライムだって知らなかったのは、わたしたちにとっては唯一の勝機だった」
白いアラクネの蜘蛛の体には、いまやリリィのスライムの体がからみついていた。
「死んだふりしてるのに気付かなかった? わたしの得意技なんだけど」
リリィの言う通り、それは『擬態』という特殊能力を持つ彼女の切り札だった。
おれはそれを知っていた。
だから、これが『そんなものではない』こともわかった。
「……なーんて、ははは、ちょっと強がりすぎ、かも。あやうく、ホントに死んじゃうトコだった。意識とんでたし、時間稼いでもらわないと危なかったねえ」
リリィ本人が言う通り、たとえば加賀の時とは、状況が違っていた。
べったりと蜘蛛の体の前部にへばりついたスライムの体から生えるリリィの裸の上半身は、その半分以上が透明で半液体状のスライムになっていて、輪郭さえ曖昧だった。
わざとそうしているわけではなく、上手く体の構築が出来ていないのだ。
それも当然だ。彼女は体を引き千切られているのだ。スライムは単純な構造故に強靭な生命力を持つが、不死身ではない。死んだフリをしていたのではなく、本気で死にかねない大きなダメージを負っていた。
だが、彼女はそうでなければいけなかった。
一度しか切れない伏せ札は、決定的な場面でしか使えない。
だから、ただやられるのではなくて、ある程度喰らいついてから本当に死に掛けなければいけなかった。それでこそ白いアラクネにもある種の達成感が生まれるし、それが大きな隙を生むことにもなるのだから。
「これなら逃がさない」
倒れている間にかき集めた魔力を込めた魔法陣が輝き出す。
凍りついていたアラクネは、咄嗟にリリィの腕を引き千切ろうとした。
少女の二つの腕がリリィの腕を掴もうとする。
しかし次の瞬間、飛来した斧がアラクネの腕をしたたかに殴りつけた。
ローズの加勢だった。
時間稼ぎは何もリリィのためだけのものではなかった。ローズもまた、この短い時間で辛うじて姉のフォローが出来るだけの態勢を整えていた。
ハイ・モンスターの強靭な肉体は、投擲された斧による切断こそ許さなかったものの、リリィの腕に向かっていた手の照準は狂って、宙を掻いた。
ほんの一秒にも足りない間隙。
だが、それで十分だった。
弾丸の性質を与えられた風魔法が、白いアラクネの顔面で炸裂した。
「ぐ、がぁ!?」
蜘蛛の体に張り付いていたリリィが反動で吹き飛んでべしゃりと床に叩きつけられ、一方で磐石のように思われていたアラクネの体が揺らいだ。
「お、お、お……」
蜘蛛のいまは七本の脚がふらついた。
少女の上半身が振り子のように揺れた。
「おぉお……」
しかし、そこまでだった。
驚いたことに白いアラクネは、ゼロ距離で放たれた魔法攻撃にさえ耐えてみせたのだった。
「こ、この……何度も、何度も……鬱陶しい……」
魔力を練る余裕がなかったリリィの攻撃魔法が、全力ではなかったというのもあるのだろう。
それでも、至近距離で攻撃魔法を喰らわされて、首が折れてしまわない、顔が潰れてしまわないというのは、常軌を逸した頑強さだった。
リリィが与えられたのは、ほんのわずかな時間の前後不覚だけだった。
だが、そのほんのわずかな隙に、リリィとローズは目的を果たしていた。
すなわち。
「リリィ! ローズ!」
「「ご主人様!」」
彼女たちは見事、おれのもとへと生きて辿り着いていたのだった。
◆予定していたのより更新が遅れました。申し訳ない。
……家に帰ってこれなかった。
◆斧が壊れるシーンを書いていると、『ダイ大』のクロコダインを思い出します。思い返してみると、結構頻繁に壊れましたよね、真空の斧。
◆次回更新は1/25(土曜日)となります。