13. 白い蜘蛛の暴虐
前話のあらすじ:
「そういえば……リリィは、その、生殖活動の経験はあるのか?」
「ん? 子供産んだことあるかってこと? なに、ご主人様、気になるの?」
「(おれと会う前はただのスライムだったわけで、でも、気になるといえば気になるし……なんだこのもやもやする感じ)」
「ふふ。ないよ。わたし、まだ若い個体だし」
「そ、そうか」
* 作中でボツにしたネタより改変抜粋。まあ気になるよね。
13
空気が凍りついていた。
動いているのは焚き火の炎の揺らめきと、それによって生み出される陰影だけだ。
おれたちの意識は硬直し、唐突に現れた闖入者へと吸いつけられていた。
「アラクネ……?」
おれの口から、無意識のうちにその単語は零れ落ちた。
アラクネ。
そう名付けられたモンスターがいることは、コロニーにいた頃に聞き知っていた。
いわく、それは巨大な蜘蛛に女の化け物の上半身が生えたモンスターなのだという。
ゲームなどではよく、半分だけ人間の姿をしたモンスターが出てくるが、この異世界のコロニー周辺で出てくるモンスターの中では、唯一アラクネだけが人間に近い姿をしていることが知られていた。
ただ、だからといってアラクネを人間と見違えることは有り得ないことだ。
それはなにも、醜い蜘蛛の下半身ばかりが原因ではない。『巨大な蜘蛛に『女の化け物』の上半身が生えたモンスター』と表現されていることからもわかるように、むしろ蜘蛛の体の上についている女が完全に化け物めいていることの方が問題だった。
口は耳まで裂け、端からは大きな二つの牙が覗いている。
目は丸く、落ち窪んでいて、白目は赤く充血している。
肌は硬質でけばだっており、ひどくやせた体には骨がごつごつと不自然に浮き上がっている。
たとえ下半身と切り離された状態でも、アラクネの死体を人間のそれと間違えることはないだろう。
人間に似た姿をしていたのなら、探索隊の中にはアラクネを狩ることを躊躇する者もいたかもしれない。そのせいで被害が出ることもあったかもしれない。
実際、過去にはそうした事例があった。
探索隊はチート能力者となった学生たちで構成されていた。強大な力を持つものの、本格的な戦闘など経験したことがない彼らは、森を探索する際にモンスターとの戦いで少なからぬ人的被害を出していた。
その過程で亡くなった学生たちの死体がアンデッド・モンスターとなったことが一度あり、その際にはひとの、それも仲間の姿をしたアンデッド・モンスターを殺せなかった生徒たちから更に数人の被害が出るという惨事にもなったのだ。
だが、アラクネについて、そういったことはなかったと聞いている。
むしろ人を思わせる分だけ化け物らしさが際立って嫌悪感が募った――とさえ、探索隊のメンバーである学生は語っていたくらいだった。
それが、おれの知っているアラクネというモンスターだった。
だが、目の前にいるコレは、聞いていたのとはまったくモノが違っていた。
真っ白な蜘蛛の下半身に生えた女の容貌は整っており、化け物どころか優しげでさえある。顔立ちにはまだ少女の面影が残っており、見た目だけなら二十歳にも達していないくらいだろう。カラー・コンタクトでもいれているかのように瞳が赤いのだけが特異だが、それだって化け物めいた印象はない。
蜘蛛糸で造られているのか、うっすらとシフォン生地のように透ける布が、優美な体の線を曖昧にしている。華奢でいながらスタイルはよく、それはまるで男を誘うために造形された芸術品のようだった。
異論の余地なく、彼女は美しい少女だった。
蜘蛛に生えていてさえ、その事実が霞むものではないくらいに。
「ふふ……」
真っ赤な唇が笑みをこぼし、彼女の赤い瞳がおれたちの一人一人を確認するように、ゆっくりと左右に動いた。
直感的におれは悟った。
何かを探して、彼女は此処にやってきたのだのだと。
……しかし、何を?
それを考えた瞬間、さっきからずっと鳴りっぱなしの脳内の警告音が更に一段、ボリュームを上げた。
赤い瞳がおれの姿を捉えた。少女の目がきゅっと弓なりになるのを、おれは見た。
「……見つけた」
それは少女の澄んだ声であったのに、聞いたおれの肌をぞっと粟立たせた。
理屈ではなく、おれは確信させられていた。
あれこそが、おれたちが決して出会ってはいけなかった、災厄そのものなのだと。
すなわち、ハイ・モンスター。
目の前にいる白い蜘蛛は、規格外の、枠を外れてしまった化け物だ。
「逃げ……っ」
おれの言葉は、最後まで言い切られることなく虚空に消えた。
「お、ぐっ……ぉおおお!?」
体の右側に何かがぶつかったと思った瞬間、すさまじい力で体が引き寄せられる。
反射的にその場に踏みとどまろうとするが、引き寄せる力にはまったく敵わない。
歳相応の体重があるはずのおれの体が宙に浮く。
それと同時に、大きな負荷が掛かった体の右半分から、身の毛がよだつような異音がした。
「あ、が……っ!?」
視界が明滅するほどの激痛。
「……っ、……!?」
声もない。
何本か、折れた。
痛すぎて何処がそうなのかはわからない。
とびかけた意識が辛うじて繋がったのは、恐怖と危機感の為せる業か。それもいつまでもつかわからない。
おれは視線を自分の体に落とす。
おれの腕から胸のあたりにかけて、白い粘着質な物体がこびりついていた。
それは長く伸びて――いま、おれのことを抱えているアラクネの手に繋がっている。
――蜘蛛の糸。
これでおれはアラクネの元へと引き寄せられてしまったのだ。最初に殺されたファイア・ファングも同じだろう。アラクネにその気があれば、おれもああして森を汚す真っ赤な染みになっていたということだ。
そして、まだ危機は去っていない。
おれの命は凶悪なモンスターの手の中にあった。
勿論、おれの眷族たちも黙って見ていたわけではなかった。
白いアラクネに捕まったおれのことを助けようとまず動き出したのはローズだった。彼女が一番おれの近くにいたからだ。
アラクネに引き寄せられてしまったおれとの距離は、ゆうに五メートルほどはあったが、その程度の距離はモンスターであるローズにとってはあってないようなものだ。
おれが見た時には、彼女は斧を振りかぶりながら走りだそうとしていた。
「ご主人様をはな――」
そんなローズが、次の瞬間には、コマ送りのように目の前にいた。
「――ッ!?」
ローズが数メートルも吹き飛ばされて、ばきばきと音を立てながら灌木の中へと叩き込まれていくのを、おれは呆然と見送った。
何が起こったのかはわかっていたが、それが現実だと認めたくはなかった。
おれのことを抱えている白いアラクネは、ただ、ひょいっと前進して蜘蛛脚の一本を突き出したのだ。
それだけで、あのローズが撃墜されてしまった。
そして、やられてしまった彼女のことを心配している余裕さえ、おれには与えられなかった。
おれのことを抱えた白いアラクネが、猛然と駆け出し始めたのだ。
右半身が怪我で動かないため、おれにはほとんど抵抗らしい抵抗も出来ない。いいや。たとえ体が動いたところで、ローズを一撃で下した相手に有効な抵抗など出来るはずがなかった。
焚き火の灯りで辛うじて目に映っていた森の景色が、一瞬で黒く沈みこんでいく。
それと同時に、ついにおれの意識が痛みの限界を越えて、闇の中へと呑みこまれていく。
「ご主人様ぁ――っ!」
おれが最後に見たのは、こちらに手を伸ばすリリィの、泣き出しそうな顔だった。
***
おれが気を失っていたのは、せいぜい一時間といったところだっただろう。
意識の泡が、夢と現実をへだてる水面に弾ける。
覚醒は寒気とともにやってきた。
おれは目を覚ました。
意識を失う直前のことを思い出したのは、その一瞬後のことだ。
「此処は……っ!?」
弾かれたように上半身を起こした。
途端、体の右側から襲い掛かってくる激痛に呻き声をあげる羽目になった。
「うぐ……がぁ、はあ……ぐ、う、うぅう……」
どうにか呼吸を整えてから、おれは自分の体の状態をチェックする。
気が遠くなった。
シャツの残骸がこびりついた上半身……その右側は悲惨なことになっていた。
手首の輪郭がおかしい。
指も一本向きが変だ。
折れやすいと聞く肋骨は、当たり前のように痛んでいる。
ついでに足首も捻ったらしい。じくじくとした鈍痛があった。
気を失っているうちに峠を過ぎたのか、いまは半分痛みが麻痺してしまっているのが幸いか。
これではろくに体が動かせない。
動かせたとして、おれに何が出来るわけでもないが。
それを認識した途端に、おれの体がぶるりと震えた。
……寒い。
とても、寒かった。
――リリィ。
――ローズ。
彼女たちが近くにいない。
パスを通じていつでも感じていた、二人の心が近くにない。
それがこんなにも心細い感覚を与えるなんて、おれは思ってもみなかったのだ。
「……くそ。怖気づくな」
おれは怯える自分の心を叱咤した。
おれにはリリィやローズの主人としての責任がある。
きっと彼女たちは心配していることだろう。
すぐに帰ってやらなければならない。
少なくとも、こうして生きていたことだけでも僥倖だ。これで生きて彼女たちのもとに帰る目が出来た。最悪、気を失っている間に命まで失っている可能性もあったことを考えれば、現状は最悪からはほど遠い。
気休めのような思考だが、それでも、恐慌状態に陥ることだけは避けられた。
ともすると縮こまりそうになる心を励まして、おれは周囲を観察しようと身をもたげた。
「此処は……」
「妾の巣の中だよ」
艶やかな女の声が、おれの独り言に答えた。
ばっとおれは振り返った。
糸のように真っ白く細い髪を垂らした少女が、すぐ近くでおれのことを見下していた。
「お、前は……」
ふさふさの純白の毛に包まれた蜘蛛の下半身に頬杖をついた彼女は、弄うような視線でおれのことを眺めていた。
間違いない。
彼女はおれが意識を失う前に襲い掛かってきた、あのアラクネだった。
「巣、だと……?」
おれは視線を周囲に巡らせた。
言われてみれば、おれは地面に直接寝転がっていたわけではなかった。
体の下には、でこぼこだがどうにか歩ける程度の床があった。手ごろな太さの木々を集めてきて、広げた蜘蛛の糸の上に落とした――という感じの乱雑なものだったが、これは確かに床だった。
大体、小さな体育館くらいはあるだろうか。かなり広い。
おれが寝かされていたのは、辛うじて平面を保っている一角だった。一応、怪我人に対する配慮をしたのかもしれない。だとしたら、その心遣いは前提からして致命的に間違っているが。
柱は自然の木を利用しており、壁はないが天井はあって、どうやらこれらの構造物は全て蜘蛛糸を張り巡らせて支えられているらしかった。
天井からは糸が吊り下がっていて、その先には繭状の物体があった。繭の内部では赤い光が揺らめいていて、アラクネの巣の全容をぼんやりと暗闇の中から浮かび上がらせているのだった。
どうやらおれはアラクネの巣まで連れてこられてしまったらしい。
それも、たった一人で。
絶望的な状況だった。
「お前はおれを……」
アラクネと向かい合って、おれは喉を鳴らした。
恐怖から固まりそうになる顎を無理矢理に動かして尋ねる。
「いや、それより。リリィとローズはどうした?」
「ほう。己の心配よりも前に、己の眷族のことをまず考えるか」
愉しげに蜘蛛の上の少女は笑った。
「安心していい。あのような小物の命などに興味などないわ。妾のほしいのは、ただ一人よ」
「……おれのことか?」
「如何にも」
どうやらすぐに殺されるということはないらしい。
よく考えてみれば、あの場で殺さずに此処まで連れてきたということは、それなりの理由があるということだ。
……『おれという餌を巣で落ちついて食べたかった』という残酷な理由ではないことを祈らずにはいられない。そうだとすれば、おれには抵抗の術がない。
「どうして、おれのことを?」
「わからぬか?」
なけなしの勇気を振り絞っておれが尋ねると、アラクネは逆に問い返してきた。
「わからぬはずがあるまいよ。『妾が何であるのか』を、お主は知っておるはずだ」
「……何を言ってる?」
そんなことを言われても、おれはアラクネに遭ったのはこれが初めてだ。
それが目の前の個体のような突き抜けた存在なら忘れようはずもない。
見た目もそうだが、存在感からして他を圧倒しているのだ。
こいつと出遭ったことはこれまでにない。
なのに、こいつが何者かなど、わかるはずがない。
そう。わかるはずが……
「……待てよ」
ある可能性に思い当たったおれは、しかし、有り得ないと一瞬でそれを否定した。
だが、自分自身の感覚は誤魔化せない。
それはおれの本能に根ざした、おれだけの持つ特別な力であるからだ。
「まさか、お前、おれのチート能力の……」
「うむ? チート能力とやらについては、良く知らんが……」
蜘蛛から生えた白い少女は、赤い目を片方だけ閉じて見せた。
「妾に関しては、恐らく、お主の予想する通りだと思うぞ」
やはり愉しげに、この世の全てが愉しくてたまらないとでも言わんばかりの口調で、おれの驚愕に少女は応えた。
「なあ、『主殿』」
真っ赤な唇が、いっそ愛おしげに一つの単語を紡ぎ出した。
「そんな馬鹿な……」
いくら否定しても、現実は変わらない。
目の前のモンスターは、おれのチート能力であるモンスター・テイムの対象。
すなわち、眷族モンスターだった。
◆前話のあらすじは平常運転ですが、物語は第一章の佳境です。
◆白い蜘蛛にしたのは作者の趣味ですが、実際にもいます。
アズチグモとか、綺麗です。
……っていっても、あくまで蜘蛛なんで、嫌いな人はググっちゃだめですが。
作中のは白い毛が生えていて、やや丸い印象です。
◆次回更新は1/11(土曜日)の予定です。