28. 竜の調停者
28
サディアスの登場によって、ドラゴンたちは矛を収めた。
とはいえ、それはあくまでもとりあえずの話だ。
おれたちの存在はまだ一族に知られていない。
いちから話をする必要があった。
そちらはサディアスに任せることにした。
それと同時に、とりあえずドラゴンたちにはこの場を離れてもらうように頼んだ。
はぐれ竜が落ち着かず、暴れ出しかねない素振りを見せたからだ。
パスを通じて、はぐれ竜がひどく怯えているのがわかった。
まるで怯える子供のようだった。
おれは、ところどころが焦げた体に手をやって、はぐれ竜を落ち着かせてやらなければならなかった。
もっとも、あれだけ痛めつけられたのだから、こうした反応も無理ないことではあった。
逆に、ドラゴンたちからしてみれば、はぐれ竜を捕縛しようとして、かなり手痛い反撃を喰らっている。
彼らとしても、はぐれ竜を傷付けるのは本意ではなかっただろうが、こうせずにはいられない状況だったのだ。
ここまで状況がこじれてしまっている以上、まずは一度、両者を引き離したほうがいい。
サディアスも似たようなことを考えていたのか、おれの求めに応えてくれた。
短くない説得を終えて、サディアスが深津とともに、ドラゴンたちを引き連れて姿を消すと、はぐれ竜は落ち着いた様子を見せた。
それでやっと、治療を始めることができるようになった。
「それじゃあ、リリィ。回復魔法をかけてやってもらえるか」
「オッケー」
頷いて、リリィが近付いてこようとする。
と、はぐれ竜が牙を剥き出しにして、彼女を威嚇した。
「……ご主人様」
困ったようにリリィが笑って、視線を寄越してくる。
どうやら傍にいてもよしと見做されているらしいおれは、はぐれ竜の大きな頭にぽんと手をやった。
「落ち着け。リリィはおれの仲間だ。お前も、それはパスでわかっているだろう?」
トカゲに似た目がこちらを向いた。
ふーっと鼻息を噴き出す。
どことなく不満そうな雰囲気だった。
さっきの大暴れを思い出せばそう不思議なことではないが、どうやらかなりの跳ねっ返りらしい。
おれはもう一度、宥めるように頭を撫でた。
クラァララと喉の奥で鳴いて、はぐれ竜が牙を収めた。
地面に伏せて大人しくなる。
もう一度リリィが近付くと、あからさまに警戒した様子を見せたものの、今度は暴れ出したりはしなかった。
リリィは回復魔法の白い魔法陣を展開させた。
「うーん、やっぱりこれ、相当酷いねぇ」
「治らなさそうなのか?」
「あ、ううん。そんなことはないけど。ただ、鋭利な切り傷や単純な骨折と違って、咬傷とか引っ掻き傷は治りづらいから。火傷もそうだけど、痕が少し残るかもね」
そのあたりは、自然治癒と同じということだろう。
おれの腕にも火傷跡が残っているし、ある程度は仕方なかった。
「それと、翼は治るのに時間がかかりそう。これって、部位欠損だからね。ガーベラほど回復力があればまた別なんだけど……変に癒着しちゃっても嫌だし、気長に治るのを待つしかなさそうかなぁ」
「生活に支障が出ないなら、そのあたりは妥協するしかないだろうな。ともあれ、あとは治療をしながら、サディアスたちが帰ってくるのを待つか」
と、言ったそのときだった。
「わわっ」
回復魔法をかけていたリリィが、驚きの声をあげた。
はぐれ竜が身を起こしたからだ。
「落ち着かんか、馬鹿者」
間髪入れず、近くで見ていたガーベラが首根っこを引っ掴んで、元いた地面に押さえつけた。
「まだ治っておらぬだろう。大人しくしておれ」
どうやら逃げ出そうとしたらしいはぐれ竜は、あっという間の早業に反応できずに、じたばたした。
さすがに、ガーベラの膂力には敵わないらしい。
長い尻尾が動けば、まだしも抵抗のしようもあったかもしれない。
だが、それもいまはまだ治療が済んでいないとなれば、どうしようもなかった。
「というか、お主、なにをそんなに嫌がっておるのだ?」
「おい。蜘蛛」
こくりと首を傾げたガーベラに、ベルタが声をかけた。
おれたちのにおいを追い掛けて、ここまでサディアスたちを連れてきたあとは、我関せずといった様子だった双頭の狼は、地面に横たわったまま鷹揚な様子で口を開いた。
「そいつも、あの竜の一族の一員なのだろう?」
「む?」
「いまは自我があるのだ。あの竜の男と同様に、人の姿を取らせて話を聞けばいい」
「おお。それもそうだな」
納得した顔を見せたガーベラに、ふんと鼻を鳴らしてベルタは瞼を降ろした。
ベルタのお腹のあたりでは、あやめが丸くなっていた。
おろろーんと擬音が付きそうな様子で落ち込んでいるのは、先程、ひとり出遅れたからだろう。
あのときはそこまで気にしている余裕がなかったのだが、思い返してみると、あやめもおれに合わせて飛び出そうとはしていたようで、慌てて起きてベルタの頭からころんと落ちるところまでは視界の端に映っていた。
どうも食べ過ぎが祟ったらしい。
もっとも、あの場面、先行しておれが飛び出してしまった時点で、あやめに出番はなかったのだが。
あとで慰めてやることにしよう。
「それでは、早速、人間の姿になってもらうとするかの」
ガーベラが言うと、はぐれ竜が目だけでこちらを向いた。
「む? どうしたのかの?」
「ククルゥウ……」
はぐれ竜の様子を見て、ガーベラもこちらに顔を向けた。
「なあ、主殿。こやつ、ひょっとして、人の姿を取れぬのではないか?」
「グルゥ……」
それは、はぐれ竜自身も思っていたことだったのか、短い鳴き声があがった。
これまで自我のなかったはぐれ竜は、ずっとドラゴンの姿のままでいたはずだ。
人間の姿を取ることができるのかどうか、疑問に思う気持ちはわからないでもないが……。
「いや、大丈夫だ」
おれは、かぶりを振った。
「それがモンスターとしての特質であるのなら、サディアスにできることが、同種のモンスターであるはぐれ竜にできないはずがないからな」
確信があった。
おれの予想が正しければ、むしろ『はぐれ竜が人の姿を取れないほうがおかしい』のだ。
「落ち着いてやればいい」
おれは地面に膝をついて、はぐれ竜の頭に手をやった。
目を閉じる。
パスを介して、心を通わせる。
「クルゥ……」
緊張に凝り固まっていた竜の心が、少し緩んだ。
――そして、魔力が動き出した。
この世界には、決まった魔力の流れによって、特定の現象が起こる法則がある。
その法則に従って、竜は人に変わる。
大きな竜の体が縮んでいき、それと同時に、かたちが人に変わっていく。
砕けた甲殻が肌と同化し、牙と爪が引っ込んで、シルエットが人のものに近付く。
燃えるような赤毛が伸びて、逆に背丈が縮まる。
尾まで含めて、七、八メートルほどあった体は、おれと同じくらいになり、更に縮んでいく。
リリィと同じくらいになり、加藤さんやケイよりも小さくなって――
「なに?」
――そこにいたのは、十歳くらいの見た目の女の子だった。
真っ赤な髪は地面に届きそうなくらいに長く、背丈はこじんまりとしている。
やせっぽちな体にはまだ癒えない怪我と傷跡がたくさんあって、背中には破けた皮膜の翼、お尻からは先端に骨の塊が付いた長い尾が伸びていた。
翼や尾だけではなく、手足や顔の一部には、ドラゴンの鱗が残っており、どうやらサディアスほど、うまく人間の姿を取れていないらしいことが窺えた。
とはいえ、彼女が子供であることは違いなかった。
幼い顔立ちは、かなり目つきが悪いものの、可愛い女の子のものだった。
これには、おれも目を丸くした。
予想外だ……が、そういえば、ドラゴンのなかでも体が小さいと思ってはいたのだったか。
どうやらはぐれ竜は、まだ幼い子供のドラゴンだったらしい。
「ぁあ?」
男女の区別がまだない幼い声が、ぶっきらぼうな口調でつぶやいた。
どこか呆然とした様子で、鱗がところどころ残る以外は人のものとなった両手を見下ろす。
「まさか本当に、おれ、みんなと同じになれた……?」
震える声で言った彼女は、こちらに赤褐色の瞳を向けた。
目の端には、じんわりと涙の珠が浮かんでいた。
だが、おれが見ていることに気付くと、きっと視線が尖った。
ただでさえ悪い目つきが、凶悪な色を帯びた。
「なにじろじろ見てんだよ」
やはり、ぶっきらぼうな口調だった。
「あ、ああ。悪い」
だが、いまのはおれが悪い。
幼いとはいえ、女の子が裸でいるのだ。あまりじろじろ見るのは褒められたことではなかった。
おれは視線を逸らした。
すると、少女は「あっ」と小さな声をあげた。
「どうした?」
「……なんでもない」
おれは内心首を傾げたが、視線を戻すわけにもいかない。
とりあえず、服を着せてやる必要があった。
話をするのは、それからだ。
「荷物のなかに替えの服がいくらかあったな。ちょっと待ってろ。持ってくる」
野営場所を飛び出したせいで置いてきた荷物は、サディアスと一族のドラゴンたちが交渉している間に、深津が持ってきてくれていた。
「あ。ちょっと」
おれが荷物のなかから服を見繕ってこようとすると、慌てたようにリリィが声を出した。
気配がした。振り返る。
すぐうしろに、裸のはぐれ竜と、追いかけてきて治療を続けるリリィの姿があった。
不機嫌そうな顔が、こちらを見上げた。
「なんだよ」
「いや。それはおれの台詞だ」
「別に動きながらでも回復魔法は使えんだろ」
それはもっともだが、おれについてきた理由にはなっていない。
ただ、それを指摘すると、もっと不機嫌になりそうな気がした。
子供の考えることはわからない。
おれにも弟はいたが、歳はそう離れていなかったので、こうも歳の差があるとその経験は活かせそうになかった。
もっとも、本性はドラゴンである彼女に、どれだけ人間相手の経験が活かせるかという話もあるが。
「まあいい」
気にしないことにして、おれは荷物を漁ることにした。
すると、はぐれ竜が荷物に手を伸ばしてきた。
「あ、おい」
「おれ、これがいい」
「それはおれの服だ。男用だぞ」
「いい」
ガーベラが作ったおれの服の上着を羽織って、そこでようやく、少しだけ機嫌良さそうになった。
翼が出っ放しなので、普通に着ることはできず、骨ばった肩は剥き出しのまま羽織るようなかたちだった。
リリィあたりがしたら蠱惑的な雰囲気になるだろうが、痩せっぽちの子供ならそんなこともなかった。
「……あれ? これ、そっちの白いのの感じがちょっとする」
「妾が作ったからの。あと、白いのではなくガーベラだ」
「ふぅん」
はぐれ竜はガーベラとおれを見比べたあと、今度はリリィとおれに交互に目をやった。
そして、首を傾げる。
なにか気になることでもあったのかもしれない。
だが、それを追及するより前に、いまはするべき話があった。
おれは改めて地面に腰を落ち着けると、正面に座り込んだ少女に尋ねた。
「それで、さっきはなんで逃げ出そうとしたんだ?」
はぐれ竜は同族であるドラゴンたちに追い掛けられて、捕まりそうになったから抵抗した。
自我がなかったのだから、そのあたりは仕方がない。
けれど、いまの彼女には理性がある。
ドラゴンたちが自分に敵意を持っているわけではないことくらい、理解できるはずだった。
「『サディアスが帰ってきたら』って話をしたら、逃げようとしたよな。どうしてだ?」
「それは……」
はぐれ竜は、口をへの字に曲げた。
「……だって」
先を促すと口を閉じてしまいそうだったので、しばらく待つ。
やがて、絞り出すような調子で、少女は言った。
「……里には、帰りたくない」
「帰りたくない?」
「サディが来たら、里に連れ戻されるじゃん。そんなのごめんだ」
やや要領の得ない説明だったが、ぽつぽつと喋り始める。
「おれはずっと、閉じ込められてたんだ」
「……」
「ずっと。生まれたときから、ずっとだ。自由なんてなかった。みんな外にいるのに、おれだけ洞窟のなかに押し込められてたんだ。おれはそれが嫌で……だけど、どうしようもなくて……」
そういえば、自我を備えていなかったはぐれ竜を、一族の者たちは里に閉じ込めていたという話だった。
それがどういうことなのか、具体的に想像したことはなかったが……翼のあるドラゴンを里に幽閉しようとすれば、それ相応の処置をしなければならないだろう。
一族は、はぐれ竜を洞窟という閉所に閉じ込めていたというわけだ。
「だけど、はぐれ竜は自我がなかったんだよね」
回復魔法をかけながら、リリィが首を傾げた。
「嫌だと思えたというのは、どうして?」
「リリィ殿。そこはあれだ、かつての妾と同じということだろうよ」
これに答えを返したのは、ガーベラだった。
「ガーベラと?」
「うむ。主殿と会う前にも、妾には意識らしきものがあったからの。無論、自我とも呼べぬような、薄く儚いものではあったが」
それこそが、かつての白いアラクネを暴走させたものでもあった。
はぐれ竜も同じく、薄らとでも意思があった。
だとすれば、納得のいくこともあった。
はぐれ竜が里から逃げ出してからかなりの時間が経っていたはずなのに、人里が襲われることはなかった。
それは、単なる偶然というわけではなく、薄らとでも意識があって、人を襲うことを避けていたからだったとすれば納得がいった。
「妾は永劫に等しい長い時間を、まどろみのなかで生きていた。主殿に会うまでの間、ずっとな」
赤い目を細めて、ガーベラは口を開いた。
「そして、こやつの場合は……」
その視線の先で、幼い少女は唇を噛んだ。
「……里に帰るなんてごめんだ」
低い声には、この年頃の少女にはあってはならない、暗い怨嗟の響きがあった。
「あの場所には、いい思い出なんてひとつもなかった……」
「……」
生まれてから一度も閉じ込められた洞窟の外に出してもらえなかったのだとしたら、その気持ちは想像するに余りある。
だから彼女は里から逃げ出したし、捕まりそうになったときには必死の抵抗をしたのだろう。
それは、自我を得たいまになっても変わらない。
彼女は頑なで、それを裏打ちしているのは、理不尽な境遇を強いられ続けてきたことによる恐れだ。
なんとなく、わかってきた。
目の前の赤毛の少女は、本性は巨大な竜であり、口も悪くて一見強気だが……そうした殻の下は、見た目通りに十歳そこそこの女の子なのだ。
「絶対に嫌だ。誰があんなところに戻るもんかよ……」
「それは許されないわ」
わずかな震えを含んだ声で少女がつぶやいたところに、声がかかった。
サディアスを先頭にして、ドラゴンたちが戻ってきていた。
とはいえ、その姿はすでに竜のものではない。
サディアスと同じ民族衣装に身を包んだ彼らの姿は、人間の男女と見分けの付かないものだ。
そのひとりが、一歩前に出てサディアスに並んだ。
「長の許しなく里を出ることは許されない。それが、竜淵の里の掟よ」
はぐれ竜と同じ、赤毛の女性だった。
あのドラゴンのなかには、はぐれ竜と同じく女性もいたらしい。
サディアスを除いた七人中三名が女性だった。
びくっと肩を揺らしたはぐれ竜が、口をぱくぱくと動かした。
どうやら声が出ないらしい。
表情は硬く強張っており、怯えているのは一目でわかった。
小動物のように、その目がおどおどとあたりを彷徨って、おれの姿を捉えた。
「……!」
立ち上がった少女が、おれの影に隠れた。
それで、ようやく声が出せるようになったらしい。
「だ、だけど、サディアスは里の外に出てるじゃねえかよ」
気の強い台詞ではあったものの、声自体は弱々しく震えていた。
「サディアスは『探し人』。長の許しを得ているわ」
そんな少女を強い視線で見詰めて、女性は言った。
「わたしたちは、許しもなく里を飛び出したあなたを連れ戻さなければならないのよ」
彼女も遊びでここにいるわけではない以上、これは当然の台詞ではあった。
どこか感情を抑えた声色に聞こえるのは、はぐれ竜の境遇に対して、彼女も思うことがないわけではないからかもしれない。
だが、そうした個人的な感情は、使命感の前に塗り潰される。
「手荒な真似はしたくないわ。聞き分けなさい」
ぴしゃりと言われて、はぐれ竜は俯いた。
「それでも、おれは……」
おれの服の裾を掴んだ手が、細かく震えていた。
なにを考えているのかは、手に取るようにわかった。
すでにリリィの回復魔法によって、大方の傷は癒えている。
再び竜の姿になって、滅茶苦茶に暴れて逃げ出すしかない。
そんなふうに思い詰めているに違いなかった。
それは子供らしい短絡的な思考ではあったが、だからといって、馬鹿にできるようなものでもなかった。
人目を避けて隠れ里を維持するために、はぐれ竜はずっと閉じ込められていた。
彼女に意思があることを知っていれば、もう少し別のやりようがあったのかもしれない。
だが、そうはならなかった。
いまなら、はぐれ竜は閉じ込められることなく、里で過ごすことができるはずだ。
だが、すでに竜淵の里という場所自体が――あるいは、同胞であるはずのドラゴンという存在が――彼女にとって悪夢そのものになってしまっているのだから、どうしようもなかった。
ましてや、彼女はまだ子供だ。
感情のコントロールができずとも仕方ない。
苦しかったのだ。
寂しかったのだ。
辛かったのだ。
里のドラゴンたちにだって、彼女を閉じ込める他にどうしようもなかった……なんて、理性的に判断することは難しいだろう。
ましてや事情を理解したうえで、自身の境遇を納得するなんて、この年頃の少女にできることではない。
だからといって、一族のドラゴンたちも使命を帯びてこの場にいる以上は、引き下がるわけにはいかないだろう。
互いに譲り合うことができない以上、決裂は避けられない。
彼らだけでは。
「ちょっと待ってもらえないか」
そこまでわかったから、おれは口を開いた。
「少しいいか」
「……ええ。かまいません。孝弘様。サディアスから、あなたのことは聞いております」
はぐれ竜捕縛のリーダーらしい女性は、丁寧な口調で返した。
どうやらサディアスがうまく言ってくれたらしい。
きっとサルビアとの契約について話をしたのだろう。
竜淵の里の一族にとって、『霧の仮宿』がどれだけ重要な存在であるのかは知っている。
サルビアには感謝しなければならないだろう。お陰で話を聞いてもらうことができる。
「はぐれ竜が里から外に出ることは許可なしにはありえない。そう言っていたよな」
「ああ、そうだ」
おれが尋ねると、サディアスが答えた。
「わたしたちは、隠れ里の存在が万が一にも露見しないように、一族の者がみだりに里から外に出ることを禁じているからね」
「だけど、サディアスは外に出ることを許されている」
「そうだな。だが、それは……」
「だったら、はぐれ竜にも許可が出ればいいということだな?」
サディアスが虚を突かれた表情をした。
「どうなんだ?」
「それは、確かにそうだが……」
別にドラゴンたちだって、はぐれ竜が憎くて意地悪をしているわけではない。
頻繁に行き来すれば、確かに里のことが露呈するリスクも増えるだろう。
だが、きちんとリスク管理をしたうえであれば、外に出ても問題はないはずだ。
実際、サディアスは人間社会に紛れ込んでいる。
しがみついてきているはぐれ竜に、おれは視線を落とした。
「聞いての通りだ。許可さえあれば、連れ戻されることはない」
「あ、ぅ。え?」
視野狭窄に陥っていたらしい少女は、おれが横から口を出したことに頭がついていかなかったのか、目を白黒させていた。
「そ、そんな。許可なんて言っても、どうやって……」
「話し合うしかないだろう。このままだと、無理矢理に連れ戻されるぞ。それが嫌なら、説得するしかない」
だいたい、どう転んでも、このままでは明るい未来は見えなかった。
はぐれ竜が里を飛び出したところで、これからどうするのか。
たとえば人間社会に飛び込もうにも、常識もなにもないのだから不可能だろう。
無論、ドラゴンとしての力があれば、人里離れた場所でも生きてはいける。
だが、こうしておれの服の裾を握り締めている姿を見る限り、ひとりぼっちで森の奥底で生きていくのが、幼い彼女にとってよいこととは到底思えなかった。
実際問題として、その前にドラゴンたちに捕まってしまう公算が高いだろうが、連れ戻されたところで問題は生じる。
連れ戻されてしまえば、はぐれ竜はいまよりもっと頑なになるだろう。
この分だと、はぐれ竜は死に物狂いで里から逃げ出そうと試みるに違いない。
時間をかければ翼は癒え、飛んで逃げることは可能になる。
それを防ぐために翼を破いたとしても、四肢は動く。いくらでも逃げる機会はあるのだ。
だったら、次は足を落としてみるか?
それとも、また洞窟に閉じ込めるか……。
そもそも、これだって捕まえられたらの話で、今度こそ捕縛劇が殺し合いに発展してしまう可能性だってあるのだ。
必要なのは、話し合いだった。
「せ、説得しろって、里に戻れってことか!?」
やや蒼褪めた顔で、はぐれ竜は叫んだ。
「そうだ」
「……!」
声もなく、少女の顔が引き攣った。
裏切られたとでも思ったのかもしれない。
もっとも、おれにはそんなつもりはなかった。
「嫌なことから闇雲に逃げていても、事態は悪化するだけだ。お前は、長ときちんと話をするべきだ。せっかく、こうして話ができるようになったんだからな」
「そ、そんなの! 話を聞いてもらえるかどうかわからないじゃねえか! 無理矢理連れ戻されるのと、なにが違うってんだよ!」
「違うさ」
断言する。
「お前がそのつもりなら、おれたちも一緒について行ってやる」
「……え?」
「そうすれば、少なくとも、話を聞いてもらえないということはないだろう」
いうなれば、見届け人のようなものだ。
おれ自身、一族にとって特別な存在である『霧の仮宿』サルビアの契約者だし、リリィたちの助けを借りれば、掌返しをされないように睨みを利かせることだって可能だろう。
はぐれ竜の説得は成功するかもしれないし、逆に説き伏せられてしまうかもしれない。
この場合、はぐれ竜の願いが必ずしも叶わなければならないわけではない。
どういうかたちであれ、両者が納得できる妥協点を探ることが必要なのだ。
そのために面倒を見る必要があるのなら、おれは協力するつもりだった。
「どうだ?」
膝をついて、低いところにある顔を覗き込む。
「……」
目が合うと、少女は視線を逸らした。
唇を尖らせ、俯き加減になる。
改めて、赤褐色の瞳がおれに向けられた。
こんなふうに正面から向き合うことに慣れていないからか、不器用な野良犬みたいな仕草だった。
数秒の間、上目遣いでおれの顔を見詰めていた彼女は、やがて顎を小さく引いた。
「……うん」
「よし」
おれは立ち上がって、サディアスたちに顔を向けた。
「というわけだが、どうだ?」
「孝弘が竜淵の里を訪れるということかい?」
サディアスの問いに、頷く。
「ああ。というのも、おれはもともと、そうするとサルビアと約束をしていてな」
「『霧の仮宿』様と……?」
一族の面々に、静かな驚きが広がった。
「まあ、こんなかたちになるとは思っていなかったが……もちろん、そちらがよいと言えばだけどな」
「どうだい、キャス」
サディアスが、先程の女性に振り向いた。
「……長に確認を取りましょう。それでよろしいですか?」
女性がこちらに伺いを立てる。おれは頷きを返した。
「わかった。ただし、返事が来るまで、はぐれ竜はこちらで預からせてもらう」
「かまいません。ただ、ひとつお願いなのですが、サディアスを同行させてもらえますか。『霧の仮宿』様の契約者を信頼しないわけではありませんが、こちらとしても最低限の保証はいただきたいですので」
「どうだ?」
おれが視線をやると、赤毛の少女はこくこくと首を振った。
「いい」
「だそうだ。交渉成立だな」
おれが言うと、そこで初めて一族の女性は、口元をほころばせた。
ほっとしたような笑みだった。
多分、それが彼女の本心なのだろう。
***
それから、ドラゴンたちはサディアスを残して、慌しく去っていった。
すぐに里に戻って、確認を取るのだという。
どこかぽかんとした様子でいた少女の赤毛の頭に、ぽんとおれは手を置いた。
それでようやく我に返った様子で、少女はこちらを向いた。
むっと口元が引き結ばれる。
ぱしりと手が払われた。
「……」
その手で、彼女はおれの服の裾を掴んだ。
不機嫌そうな顔でそっぽを向く。
やっぱり、子供の考えることはわからない。
ただ、嫌われてはいないのだろうなというのはわかったから、おれは苦笑を零した。
「うわっ!?」
直後、赤毛の少女が小さな悲鳴をあげた。
「それじゃ、これからよろしくね」
背後からリリィが抱き付いたからだった。
「な、なんだお前。は、放せ!」
「こらこら。治療はまだ終わってないんだからじたばたしないの」
「だ、抱き付く必要がどこにあんだよ!」
「元気のよいことだな。まあ、これからしばらくは一緒にいることになるのだから、仲良く付き合おうではないか」
「頭ぐりぐりすんな馬鹿力! それと、放せよぉ!」
「ふむ。こうして見ると、生意気なのも可愛げというものだな」
「というか、わたしは普通に可愛いと思うけど」
「くぅー!」
リリィに抱き付かれ、ガーベラに頭をぐしゃぐしゃにされて、そこにあやめが仲間外れにするなと飛び込んでいって、赤毛の少女はぎゃーぎゃーと喚いた。
「孝弘」
「ん?」
一族のなかで唯一残ったサディアスが、声をかけてきた。
「ありがとう」
おれは肩をすくめる。
楽しげなやりとりは、遮る者なくしばらく続いたのだった。