24. 魔王の蠢動
24 ~工藤陸視点~
その崖の上からは、山裾の光景を遥かにどこまでも見渡すことができた。
広がる森を隔てるように、小さな川が流れている。
その向こう側には、深い森が広がっていた。
森の木々は、その懐に深い暗がりを抱えていて、その奥底を容易に窺わせない。
そこには、人間を根源から恐怖させる妖しい力があるようだった。
強い風が吹き渡ると、ざあと木々が一斉に揺れる。
その様は、なにか得体の知れない生き物の表面が波打つようにさえ見えた。
ただ、それは同時に美しい光景でもあった。
人間の世界から遠ざかって、特にそう感じるようになった。
かつてはひとり恐れていた自然の広大さにも、いまはただ安心感しか抱かない。
「……」
目を細めて、視線を少し移動させる。
森を横切る細い川のこちら側は、ある程度、土地が切り拓かれていた。
この高台から見えるだけでも、ふたつの小さな集落があった。
炊事の白い煙がわずかにたなびいているのが見える。
それを見ていて感じるのは、ただ嫌悪感だけだった。
かつてはあれほど戻りたいと思った人間の世界なのに、いまは近付きたいとも思わない。
いまのこの自分は、そういうふうになっていた。
≪潰さないのかな、工藤くん?≫
唐突に、頭のなかで声がした。
≪あなたには、その力があるだろうに≫
それは、奇妙な感覚だった。
耳朶を通して声が聞こえるのではなくて、まるで自分で思考するように、頭に言葉が思い浮かぶのだ。
呼びかけのかたちを取っていなければ、自分の心の声だと勘違いしてしまいそうだった。
実際、そうして唆された人間もいたのかもしれない。
たとえばの話だ。
ある人物を≪殺してしまえ≫と囁かれたとする。
まったくそんなことを思っていなければ、なにか変だと思えるだろう。
だが、たとえば少しでも他人を疎ましく思っているところに、そんな声が聞こえたら、どうだろうか?
何度も何度も折に触れて繰り返されたら、それが自分の本心だと思い込んでしまうこともあるかもしれない。
その在り方は『唆す蛇』と呼ぶべきものだが、本人が自称したのは、似合いもしない別の呼び名だった。
「あなたですか、『天の声』」
ぼくは、穏やかに言葉を返した。
ただただ穏やかなだけで、なんの感情もこもらぬ声を。
頭に『天の声』の言葉が伝わる感覚は気色悪いものだったが、そんな感情は表に出さない。
さっきの言葉に、こちらを馬鹿にするような雰囲気があったことも気にしない。
どうせ、いずれ殺すと決めている相手だ。
これは『天の声』に限った話ではない。
唯一絶対のひとりを除いては、どんな相手もいずれ殺すべき敵に過ぎなかった。
友好関係にせよ、敵対関係にせよ、構築するつもりはない。
である以上、それがどんなものであれ、感情を届けることに意味はない。
ぼくと『天の声』の関係は、そうした無味乾燥なものだった。
≪そろそろ『動く』よ。準備はしたほうがいいんじゃないの?≫
どうやら『天の声』は、情報を寄越しにきたらしかった。
こういうことは、珍しくはない。
「そうですか。では、そうしましょうか」
そんな言葉を返しながらも、ぼくは動くことはなかった。
あくまで『天の声』の能力は、情報伝達の手段でしかない。
たとえば、こちらから向こうのことはわからない。
口調は少年のような雰囲気があるが、それも偽装されたものだろう。確かなことはなにひとつない。
ただ、それは向こうも同じこと。
向こうからも、こちらの状況は窺えない。
動くと言って動かなくても、向こうにはなにもわからないのだ。
いままでも、これと同じような受け答えをして、その通りに動くときと、動かないときがあった。
というより、ほとんどは適当に返していた。
こちらの動きを『天の声』に予想されないためだ。
情報の裏は全部、アントンの分体に取らせればいいし、必要であればそのときは動けばいい。
そういうスタンスだ。
結果として、『天の声』のこちらへのアクションは大部分が無駄になっているのだが、そんなことを気にするつもりはさらさらなかった。
ぼくにとって『天の声』は、街頭で垂れ流しにされるニュースみたいなものだ。
放っておいても話しかけてくるから、利用できる部分は利用しているに過ぎない。
共犯関係ですらない。
ニュースで流れるテロップに、いちいち人格なんて認めない。
徹頭徹尾、ぼくにとっての『天の声』とは、その程度の存在でしかなかった。
それからいくつかやりとりをして、短くて空々しい会話が終わった。
鬱陶しい気配が頭蓋のなかから去った。
振り返ると、そこに長身の少年の姿があった。
「我らが王よ、準備は整ったぞ」
ドッペル・クイーンたるアントンの分体が、かつて探索隊のひとりだった十文字達也の姿で状況を報告した。
その傍らには黒い娘、ナイトメア・ストーカーのドーラがいた。
そして、いまは名もなき狂獣……いいや。新たにエミルの名を与えた獣の姿があり、そのうしろには数多くのモンスターがまるで機械のように無機質に自分の出番を待っていた。
ぼくはもう一度、崖の下の光景に目をやると、そこにある世界に告げた。
「それでは、始めましょうか。魔王の蹂躙を」
◆お待たせしました。
今日中に更新します。






