16. ありえない抱擁
(注意)本日3回目の投稿です。
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蝶番が弾き飛びかねない勢いで、部屋の扉が開かれた。
びっくりして、おれは思わず身構えてしまう。
そんなおれの反応に気付いた様子もなく、真っ白な髪をなびかせて部屋に入ってきたのは、ガーベラだった。
様子がおかしい。
本来は透けるような白皙の顔は真っ赤になっており、一目見て興奮状態にあることは明らかだった。
正直、少し怖い。
「ど、どうした、ガーベラ? 宿の主人と一緒に、山菜を採りに行っていたんじゃ……」
「主殿よ。ローズ殿から聞いたのだが、明日には宿を出ることができるというのは、本当のことか?」
おれの質問を無視するかたちで、ガーベラは尋ねてきた。
というか、これは、答える余裕がないという感じか。
余裕がないのはいつものことだが。
なんだ。
だったら、いつも通りか。
そう考えたら、少し落ち着いた。
見た限り、特に差し迫った危険があるとかではないらしい。
状況から推察すると、どうやら山菜採りから戻ってきたところで、宿の表にいるローズから作業の進捗状況について話を聞いた、といったところだろうか。
それで、どうしてこんな焦ったふうになっているのかはわからないが。
「本当だ、明日には出発する」
「……そうか」
おれが答えると、ガーベラはむっと口元を曲げた。
出発するのが明日だと、なにか問題でもあるのだろうか?
疑問に思いながらおれが眺めていると、ガーベラはくるりとこちらに背中を向けて、開けっ放しだった扉を閉めた。
閂をかける。
「いや待て。なんで鍵を閉める?」
こちらに振り返ったガーベラは、答えない。
相変わらず余裕のない表情のまま、おれとガーベラとをきょろきょろ見比べていたアサリナに目をやった。
「アサリナよ。少しふたりきりにしてくれんか。妾は、主殿と少し話がある」
言うが早いか、彼女はこちらに歩いてきた。
なんだかよくわからないが、妙な気迫があった。
アサリナは引っ込み、おれは思わずあとずさった。
「おい、ガーベラ。お前、なにかおかしいぞ?」
「そうか? さすがに、昨日、一昨日と寝ておらんから、少し変なところがあるかもしれん。そこは許せ」
……寝ていない?
ガーベラはおれと同じ部屋で横になっていたはずだが。
「部屋割の都合上、仕方なかったとはいえ、主殿と同じ部屋で、ふたりきりだぞ? 妾が眠れるわけがなかろうが」
「……」
言いたいことはわかるが、それを自慢げに言うのはどうなのだろうか。
「押し倒さなかった自制心を褒めてほしいくらいだの」
「それ、男女の台詞が逆じゃないか?」
おれはじりじりとあとずさり、ガーベラは直進する。
しかし、狭い部屋のなかだ。
そう長い間、逃げ続けることはできない。
「……主殿」
手の届くところに来たガーベラが、おれを赤い目で見上げた。
なんというか、ぎらぎらとした目だった。
ひょっとして……という不安が、胸に湧いた。
正体不明の、幻惑の魔法による『敵』の攻撃。
いまのところは、こちらに危害を加えてくる様子はないものの、相手の目的が不明な以上、それがいつまで続くかはわからない。
なぜかおれにはいまひとつ効きが悪い幻惑が、おれの眷属たちに対して、どれだけの影響を及ぼしているかも定かではない。
……もしも。
もしもガーベラが惑わされて、万が一にも『敵』の側に回ってしまっているとしたら……。
と思った途端に、ガーベラが動いた。
「主殿!」
完全に不意を突かれてしまった。
反応がまったく追いつかない。
獣のように俊敏な動きで、ガーベラはこちらの胸元に飛び込んでくる。
二本の腕が伸びてきて、おれの胴体に蛇のように絡まった。
振り払う暇もない早業だった。
そうなれば、もうおれは抵抗の術を持たない。
ガーベラは、思い切り力を込めて、ぎゅっと。
豊満な胸を押しつけるようにして、おれを抱き締めたのだった。
「……え?」
状況に頭が追いつかない。
ただ、それが敵意のこもった攻撃などではないことはわかった。
むしろそれは、濃密な愛情のこもった抱擁だった。
おれの存在を感じようとするように、おれに自分の存在を伝えようとするように、ガーベラは抱きついたまま身じろぎをする。
恐ろしくやわらかで質量のあるモノが、互いの間で押し潰されまいと弾力を主張する。
ガーベラの鼻が、鎖骨のあたりに触れる。
すうっと、肌のにおいを嗅がれる。
「……ああ」
満足げな少女の吐息が、胸にじわりと沁み入った。
「――」
おれがガーベラの体を抱き返そうとしたのは、ほとんど本能的な衝動だった。
けれど、その前にガーベラは、ぱっとおれから離れていた。
「……は?」
伸ばそうとした手と、胸のなかに沸き上がった衝動との行き場をなくして、おれは呆然としてしまった。
ガーベラの体は、もう手の届かない距離にあった。
狐に化かされたような気分だった。
「うむ、これでよし」
大きくひとつ頷いたガーベラの顔は、それはもう満足そうなものだった。
おれはきっと、情けない顔をしていたと思う。
「……なんだったんだ?」
とりあえず、おれが恐れていたようなことは起きていないようだ。
ただ、突然、抱き締められたのは意味がわからない。
あんなふうに、ぎゅっと、全力で……全力で?
ガーベラが、このおれを?
なにか違和感があった。
また、おかしなことがあったらしい。
やはり、それがなんなのかはわからなかった。
ただ、ひとつだけ、はっきりとしていることがあった。
現状はなにかがおかしくて……だけど、その結果として、ガーベラはああして満足そうに微笑んでいるということだ。
「なぜかの。いまならいけると思ったのだ」
ガーベラは両腕で自分の体を抱くようにしていた。
ほんの一瞬の抱擁の感触を、噛み締めるような仕草だった。
「もっとも、最後まで漕ぎ着けるのは妾自身の努力の結果でなければならん。だから、今日はここまでなのだ」
「……なんだ、それは」
ガーベラの言葉は理解できないものだった。
よくわからないまま、振り回されてしまっている。
けれど、ガーベラのひどく満足げな顔を見ていると、おれは別にそれでもいいかと思えてしまった。
決して悪い気持ちではなく、溜め息が出た。
余韻に浸っているらしいガーベラの、満足げな笑みを眺める。
それだけで、おれは満足できたのだ。
なぜだろうか、そこに、ローズの上機嫌な笑顔や、シランとケイの幸せそうな姿が重なった。
「……あ」
小さく、唖然とした声が出た。
ようやくおれは、ひとつの考えに辿り着いたのだった。
***
深夜、みんなが寝静まった頃。
ガーベラの健やかな寝息を聞きながら、おれは部屋を抜け出した。
夜の静けさのなか、きしきしとかすかに音を立てる階段を降りる。
おれの仲間たちには、感覚が鋭い者も多い。
普通だったら、誰かに気付かれてしまうだろうが、そうはならなかった。
とはいえ、驚きはない。
これくらいはしてのけることは、精霊を誤魔化した時点でわかっていた。
「こんばんは」
階段を下りると、こんな夜も遅い時間だというのに、受付台に宿の女主人がいた。
やわらかな印象の顔立ちに、穏やかで優しげな笑みを浮かべている。
「待っていたのか?」
「ええ。奥で少し話さないかしら?」
おれが頷きを返すと、女主人は一階の奥にある部屋に、おれを案内した。
テーブルについて待っていてほしいと言い残すと、ひとり部屋を出て行く。
数分後、ふたり分のお茶が入った湯呑をお盆に乗せて戻ってきた。
「それにしても、いいの? ひとりで来てしまっていて。少し不用心ではないかしら」
「そこは信用してるよ。それに……万が一のことがあれば、ガーベラあたりはすぐに察知して、飛び込んできてくれるだろうしな」
「まあ、そうね」
女主人はおれの言葉を否定せず、小さく笑うと正面に座った。
さて、なにから話したものだろうか。
急かすつもりはないらしく、女主人は穏やかな表情でこちらを見ている。
おれは一口、熱いお茶を啜ってから口を開いた。
「おれはここ数日、違和感に悩まされていた。どうも、おれたちに幻惑の魔法で攻撃を仕掛けている奴がいるらしい。現状に違和感を覚えることができたのは、おれとここにいるアサリナだけだった」
「サマー」
おれとアサリナに交互に目をやった女主人は、少し困った顔になった。
まあ……気持ちは想像できる。
今回の一件に関していえば、『違和感を覚えることができた』というよりも、『違和感を覚えてしまった』というほうが、実際を表しているからだ。
苦笑いの衝動を呑み込みつつ、おれは続けた。
「不思議なことがふたつあった。おれたちの一行には、ガーベラがいる。あいつは、樹海深部で長い年月を生き抜いてきた、伝説級のモンスターだ。同格のモンスターなら幻惑にかけること自体は可能かもしれないが、敵意に敏感なガーベラが攻撃を受けていること自体に気付かないというのは、ちょっと引っ掛かっていた」
「……不思議なことは、ふたつあると言っていたわね。もうひとつはなにかしら?」
「『敵』がおれたちを幻惑に嵌めたあと、危害を加えてこなかったことだ」
熱を持った湯呑を掌のなかで回しつつ、おれは答えた。
「幻惑の攻撃は、ただ嵌めるだけでは意味がない。抵抗力の衰えた敵を、物理的に攻撃しなければなんの意味もないんだ。それなのに、三日も『敵』は手をこまねいていた。時間をかければ、それだけ幻惑が解けてしまう可能性も増すのにだ。おれには、幻惑の攻撃を仕掛けてきた『敵』の目的がわからなかった……」
堪えきれず、苦笑が漏れた。
「……まあ、わかるはずがない。前提を間違えていたんだから」
なんのために、どんな相手がそうしているのか。
それを考える最初の段階で、おれは躓いていたのだった。
「幻惑にかけること、そのものが『敵』の目的だった。あれは、そもそも、攻撃なんかじゃなかったんだな。危害を加えてこないのも当然だった。いくらガーベラが敵意に敏感でも意味がない。なにせ相手は『敵』なんかじゃないんだから」
わざわざ精霊を誤魔化してまで、幸せそうなシランとケイの姿を見せたのは、『わたしに敵意はありませんよ』というメッセージだったというわけだ。
アサリナだって言っていた。
――キケン、ミンナ、キヅク。チガウ?
本当に危険なら、みんな気付くはずだが、違うのか?
彼女が言いたかったのは、大体、こんなところだろう。
ガーベラが気付かない時点で、おれが巻き込まれていたものは、危険でもなんでもなかったというわけだった。
ひとつ溜め息をついて、おれは手元の湯呑に視線を落とした。
薄らと赤い水面に、この宿に来てからの仲間たちの姿が思い出された。
誰もが穏やかに、あるいは、楽しそうに過ごしていた。
……おれひとりだけが、警戒に身を固くしていた。
「本当なら、この滞在は『夢の時間を楽しむ』だけで終わるはずだったんだろうな。ただ、おれが幻惑にかからなかったせいで、話が変にこじれてしまった」
とはいえ、おれの視点からすれば、これは仕方のない部分もある。
たとえば、眠って見る夢の世界に、起きたまま入り込んだとしたら、どうなるだろうか?
支離滅裂な夢の世界は、不気味であっても、楽しいものにはなりえないのではないだろうか?
今回のおれは、丁度、それに近い。
言ってしまえば、不幸な偶然だったのだ。
それは、違和感に悩まされたおれにとってもそうだったし、楽しい夢を提供した側の存在にとっても、想定外の事態だったに違いなかった。
おれは顔を上げて、目の前の穏やかそうな女性に改めて視線を向けた。
「思い出したよ。以前に、仲間のひとりから奇妙な伝承を聞いたことがある。とある旅人の経験したという話でな。舞台の名前を取って、その話は『霧の仮宿』と呼ばれている」
この話を聞かせてくれたのは、シランだった。
つい先程まで、そんな話を聞いたことは、すっかり忘れてしまっていた。
シラン自身も覚えていないようだったし、やはり、この世界を成立させるうえで不都合な事実は、思い出せないようにされていたのだろう。
いまのおれがそれを思い出せているのは……幻惑が解けかけているからか。それとも、この場所が特別なのかもしれない。
頭の片隅でそんなことを考えつつ、おれは語り始めた。
「あるとき、旅人はモンスターに襲われた。旅慣れた彼は、見事にモンスターを退けたが、水も食料もなくしてしまった。近くに人里はなく、このままでは野垂れ死にしてしまう。生き延びるために、旅人は必死になって歩き続けた。数日後、飢えと疲れで朦朧としながら歩いていると、周囲に霧が出てきた。これはもう駄目かと思ったそのとき、彼はついに一件の宿屋を見付けた」
一口、茶で舌を湿らせる。
「旅人は幸運に感謝した。宿の主人の手厚いもてなしを受け、彼は命を繋げることができた。しかし、次の日、宿を出たところで彼は気付いた。こんな人里離れた辺鄙な土地に、宿などあるはずがないのだと。気付いたときには、宿は影も形もなくなっていた」
話はこれで終わりである。
実際は、もう少しいろいろあるのだが、そのあたりは割愛して概要だけ述べるかたちにさせてもらった。
おれは、軽く椅子の背もたれに身をもたれかけた。
「この『霧の仮宿』の伝承は、古今東西、世界の各地で伝わっているんだそうだ。もちろん、目撃者はそのときどきによって、農民だったり狩人だったりする。この話で共通しているのは、深い霧のなかで現れる宿。そして、宿泊した人間が、宿にいる間は、明らかにおかしな状況に気付かないことだ」
これらは今回、おれたちが体験したものにも合致していた。
「面白いことに、この『霧の仮宿』は遥か昔からいまに至るまで、何十年かに一度、目撃例があるんだそうだ。当然、人間の仕業ではありえない。かといって、モンスターの仕業ということもありえない。モンスターが人を救うはずがないんだから。……というのが、この世界の常識だな?」
言葉を切って、おれが様子を窺うと、女性は微笑みで返した。
穏やかだが、内心の見えない笑みだ。
なんとなく、採点でもされている気分だなと思いながら、おれは口を開いた。
「おれには、モンスターに心を与える力がある。ただ、これは心が生まれる素地のあるモンスターの、手助けをする程度のものに過ぎない。実際、長い年月を生きた白い蜘蛛……ガーベラには、おれに出会う前から心らしきものがあったと聞いている。それに、この世界には他にも、一国を統治していたアンデッド・モンスター『悲劇の不死王カール』の事例もある。おれの存在なくしても意思を持つモンスターがいる可能性は、予測されたものだった」
言ってしまえば、おれの能力は彼女たちの胸に芽吹いた心の育成を促進しているに過ぎない。
促成栽培されれば確かに成長は早いだろうが、そんなものはなくても、年月さえかければいずれ実は成る。単純な理屈だった。
「ただ、そうした存在は樹海の深部か、切り離された樹海である『昏き森』にいるものと思っていた。だけど、考えてもみれば、この世界のモンスターは定住性のものばかりじゃない。群れをなしたトリップ・ドリルなんかが有名だが、移動性のものもいるんだ。『霧の仮宿』の逸話で旅人を救ったのは、霧を利用した幻惑の魔法を使う移動性のモンスター……」
おれは湯呑をテーブルに置いて、目の前の女性を見た。
「つまり、あんたのことだ」
おれの言葉を聞いた女主人は、にっこりと笑みを深めた。
「……二点、訂正させてもらえるかしら」
久しぶりに、口を利いた。
「わたしは、霧を利用した幻惑の魔法を使っているわけではないわ。それは、あくまでもわたしの魔法のほんの一部に過ぎない」
「どういう意味だ?」
「この宿屋はね、ただの幻なんかじゃないってこと。最高位の幻惑の魔法はね、現実を書き換える力を持つのよ」
「……現実を、書き換える?」
「もうひとつの世界を作り上げると言い換えてもいいわ。ここであったことは、全て現実。わたしの魔法はね、霧の異界を作り上げるものなの」
「もうひとつの世界を……」
おれは、喉を鳴らした。
先程、口にしたお茶の味が思い出された。
おれが聞いた『霧の仮宿』の話では、旅人は宿を訪れることで、餓死を逃れている。
しかし、幻で腹は膨れない。
ここがもうひとつの現実であるとするならば、『旅人を救った』という伝承とも一致する。
しかし、それはあまりにも……。
「……すごいことを、言っているような気がするが」
「それほどでもないわ」
女性は首を横に振った。
「こうして作り上げられた世界は脆いわ。実際、ガーベラさんあたりが暴れたら、すぐに壊れてしまうでしょうね」
だとしても、一時的にせよ、もうひとつの世界を作ってしまうのだ。
てっきりおれは、狐か狸あたりが化かしているのだろうと、冗談半分に予想を立てたりしていたのだが……。
「お前は、いったい……」
緊張を隠せないおれに対して、両手で包んだ湯呑をテーブルに置いた女は、あくまでもおっとりと微笑んでみせた。
「旦那様。あなたは、モンスターとはなんなのか、ご存知かしら?」
「魔力を持った生き物のこと……だろう?」
「その定義は厳密ではないわ。魔力を持ちさえすれば、木彫りの人形や、一度は死した死体さえ動き出す。だとすれば、モンスターの本質とはなんなのかしら……?」
問いかけた女性の姿が、その瞬間、消えてなくなった。
はんなりとした微笑みも、濃い金褐色の髪も、小柄ながら女性らしくたおやかな肢体も……。
瞬きすらしていないのに、影も形もなく消失してしまったのだ。
「実体の有無は問題ではないわ。モンスターの本質とは、魔力なのだから」
どこからともなく声だけが聞こえてくる。
幻惑の魔法で、惑わされているわけではない。
壁に、床に、天井。
調度のひとつひとつから、吸う空気の一息にさえ、彼女の存在を感じる。
否応なく、理解させられる。
「……そうか。伝承にある『霧の仮宿』を、幻惑の魔法で創り出していたモンスターがいたわけじゃない。魔法で創り上げられた、この世界こそが……」
「ええ。その通り」
いつの間にか、おれの目の前に再び現れていた女性が、微笑みを浮かべて頷いた。
「わたしこそが『霧の仮宿』。悠久の歳月この世界を漂う、霧の異界を創り出す魔法そのもののモンスターよ」
◆連続更新は、ここまでになります。
◆割と連載の初期の頃からこの話の構想はありました。
豪勢な屋敷で歓待を受けて、一夜明けてみると実は幻だった……という昔話がありますが、それ自体をモンスターにしたらどうかなと。
モンスター名は、そのまま『霧の仮宿』です。






