表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

2




 約束の日、約束の時、約束の場所で待っていた僕の前に、校門前の道路を照らす街灯のほのかな光を浴びながら、彼女が来た。時間ぴったりだった。本当に午前二時ちょうどに、彼女は僕の視界に映った。

 十六年ぶりに会った彼女は、何も変わっていなかった。その声と同じく、怖いほどに変わっていなかった。背は少し高くなったように思えるし、体つきも歳相応に成熟した魅力を持ったようには思える。だがそこには、時間の流れというものを感じられなかった。十六年前の肉体に、細胞だけを継ぎ足しただけみたいだった。そうしてその内、そもそも十六年前の彼女がどのような姿だったのかが、思い出せなくなってきた。

 彼女は、僕の側にまで来るなり、ただ短く、こうとだけ言った。

「それじゃあ、いきましょうか」


 そうして彼女は、堅く閉ざされた格子状の校門を、軽々とよじ登って、その奥へと飛び降りていった。学校の校門なんてものは、余程都会でなければいともたやすく乗り越えられるものだ。ただ、実際に乗り越えようとするものが少ないだけだった。

 そして僕達は、そういう少数派のひとつだった。死んだ友達と会うという理由で、母校の門を乗り越える者なんて、他にいるか?


 僕も彼女の後に続き、門をよじ登り、その向こう側へと飛び降りた。そうして視界を上げてみると、月明かりにほんのりと照らされ、薄いシルエットだけになった校舎が見えた。この歳になって、学校の新しい姿を垣間見てしまった。中学時代には、真夜中の校舎なんて見たこともなかった。

 いかにも怪談の舞台になりそうなその姿だったが、僕は別に恐怖を感じたりはしなかった。むしろ、たとえ影だけでも昔とあまり変わっていないらしいと感じることができて、懐かしくなるほどだった。

 ただ、なんだか嫌な予感がしてきた。無性に嫌な予感が。

 その予感に駆り立てられ、僕は彼女に話しかけていた。


「なぁ……彼は今この先で、僕達が来るのを待ってるのか? 本当に」

「……」


 彼女はただ黙って、ある一点に眼を凝らしていた。その視線の先がどこなのかは分からなかった。

 僕は少しだけ声を荒げて、もう一度彼女に呼びかけた。

「どうなんだ」

 それからようやく、彼女はこちらに振り返り、言った。その眼は透き通っていて、その奥に揺らめく一筋の光を、屈折させて僕の瞳孔に突き刺すかのようだった。


「今だけじゃない。彼はずっと、待っていた。貴方のことをね。 長かったわ。そして、まだ続くかもしれない……全ては、貴方次第なのだから」


 彼女が何を言っているのか、相変わらずよく分からなかった。ただ、僕の中で芽生えた予感がより強くなって、胸の内に悪性腫瘍のように盛り上がっているような気分がした。

 そのまま彼女は視線を先程の位置に戻して、ゆっくりと歩き始めた。そうして、続けて言う。その声は、中学時代の彼女の印象とは、どこか違うものになっていた。それでも、根本的なところは変わっていない。不気味だけど。どこか惹かれるところもある声。

「眼を閉じて、前へ進んで。何も気にしないで、ちゃんと前に進めているか、そんなことはどうでもいい。歩幅も歩く調子も、何も関係ない。ただ眼を閉じて、彼のことだけを考えて……今自分が地面に立っていることも、忘れるぐらい」


 僕は、素直にその言葉に従い、静かに眼を閉じ、ゆっくりと、一歩一歩を確かめるように歩き始めた。僕の先を歩いているらしい彼女に置いて行かれていないか、逆に追い抜いていないかとか、そういう細かい意識は捨て、彼の事だけを考える。

 その瞬間、僕は不意に、こう口走っていた。


「喋るのは構わないか?」

「いいわよ」


「僕は、彼が死んで、本当に辛かった。彼にとって僕がどういう存在だったのか知らないけど、僕にとって彼は、友達だった。しかも、とても貴重な、かけがえのない。そんな彼が死んだんだ。僕は、そのことを知った時以外に、泣いた記憶がない。それぐらい悲しかったんだ」

 僕のこの科白は、宙をしばらく漂い、そして溶けるように霧散していった。


「なぁ……彼は、生きているのかな。今まで生きてきて、僕達と同じように歳をとってきたのかな?」

 馬鹿なことを聞いているというのは分かっていた。彼は確かに死んだのだ。彼に会うことだって、本来は出来ないのが当たり前なのだ。

 それでも、僕はすでに、彼と会ったその後のことを考えてばかりいた。彼が生きているという、そのおかしな考えを、肯定している自分がいた。

 僕は、それほどまでに彼と会いたかったのだ。別れも告げず、その命の残滓すら残さず死んでいった彼に対する未練を、二十年にも満たない歳月で忘れることなど出来なかった。


「もしできることなら、もう一度僕達三人でやりなおしたい。もう一度、友達になるんだ。そうして今日は、お互いの今まで人生について話するのもいいだろう。君だって、いろいろ話してもらうぜ? 昨日――いや、一昨日かな。その時は聞きそびれてしまったけど。それから、今後も仲良くしていこう。昔みたいに……たまに酒を酌み交わしたりもしたいな。彼と酒を飲める時がくれば、どれだけよかったかと思っていたんだ。それが……それが叶うかもしれない」


 彼女が、聞こえないほど微かに含み笑いを漏らした。素直な子供が遊んでいるのを傍から見て、心和ませているような笑いだった。その笑声に続いて、彼女は僕の言葉に応えた。

「あの頃に、戻れるわよ。そのままに……貴方さえ望めば」

「……彼には、本当にいろんなことを教えてもらった。文学、音楽、いろんな知識を。サブカルチャー的なことまでいろいろ知ってたのには驚いた。おかげで危うくマニアの仲間入りしそうになったよ」


 あの頃の記憶が、いくつも頭の中で浮かび上がっては、新しい記憶と入れ替わり、心の奥へと再び沈んでいった。全ての記憶は、まったく色褪せることなく鮮やかに僕の精神を波立て、遙か彼方の地平にまで押しやるようだった。その瞬間に、今まさに僕自身がいるようだった。記憶の中へ――僕の人生で一番安定していた時期へと、戻ってきたようだった。


 意識が朦朧としてきた。一体何を考えているのだろう。

 もはや自分が言っているのかも判然としないまま、僕はうわごとのように彼女に聞いた。しかしそれは、僕にとっては一番重要な質問だった。


「僕は、あいつに会いたい。本当に会えるのか?」


 彼女は何も応えなかった。

 ただ、その口元がにわかに歪み、引きつった笑みに変わるのが分かった。眼を閉じているのに、それをはっきりと感じられた。瞼を突き破って、彼女の薄気味悪い笑顔が網膜に焼き付いたのかもしれない。

 僕は、校門を乗り越えて、月明かりに照らされた校舎のシルエットを見た時からずっと、嫌な予感がしていたのを思い出した。


 周りの空気が、不意に変質したような気がした。それだけじゃない。深夜の闇の中にいるはずなのに、閉ざされた視界が少しだけ明るくなった。自分の身に起こったことなのだから確かだった。真っ暗闇のはずなのに、今僕は、微かな明かりに照らされていた。気温さえ変わったような気がする。

 彼女が、どこかで照明を灯したのか?

 いや、違う、そういうこととは決定的に違う。


 僕は、反射的に眼を開き、突然の環境変化の原因を確かめようとした。




    ※




 何なんだこれは。


 僕は、海の底にいた。だいぶ浅い海だ。水面の上、どこまでも高い空の彼方では太陽が輝き、その光が差し込んで水を鮮やかな青色に染めていた。それだけではなく、水面で屈折した太陽光が白い半透明のカーテンのように揺れていた。黄色い砂利の海底からは海藻やら珊瑚やらが生え、その周りを熱帯魚らしいものが泳いでいた。

 絵の具で塗ったような彩色の、美しい海だった。沖縄でシュノーケルを楽しんでいるダイバーの頭を割り裂いて、脳みそから記憶を吸い出してコピーすれば、こういう光景が見られるかもしれない。

 しかし、今この瞬間の僕にとって、この光景はいっそ狂気に近いものでしかなかった。僕は今さっきまで、深夜の中学校にいたんだ。それがどうして今、こんな海の底にいる。

 しかも、頭がおかしくなりそうなのは、水の中にいるはずなのに、何故かまったく息苦しくないことだった。それ以外にも、重苦しい水の抵抗をまったく感じなかったり、水中ゴーグルでもつけているみたいに視界が鮮明だったりと、ありとあらゆる物理法則が無視されていた。

 頭の中が真っ白になった。一瞬で脳内のメモリーがフォーマットされ、三十秒前の思考すら思い出せなくなった。


 何なんだこれは。


 ただその疑問ばかりが頭の中を無数に錯綜し、何重ものエコーとなって、僕の脳内ホールで一大コンサートを繰り広げていた。

 何故ここにいるのか。何をしようとしていたのか。誰の声に唆されて、誰とともに行動していたのか。先ほどまで僕の記憶の中で生きていた者は誰だったのか。そんなものもみんな一瞬で吹き飛んだ。

 ただ、ここでじっとしていたってどうにもならないという思考だけが、唯一の現実的な判断だった。

 僕は、起きながらにして夢を見ているような足取りで、ふらふらと、この美麗と奇怪の限りを尽くした海の中を歩いた。それからすぐだった。僕は、驚愕と共に全てを思い出した。


 視界の先、揺らめく光のベールの向こうに、見えた。岩のようなものに腰掛ける、彼の姿が。


 僕は息を呑んだ。そうして、これまでの疑心暗鬼に決着が付き、待ち望んでいた彼との再会に感激するよりも先に、あの嫌な予感というものが、おおむね的中したことを察した。

 あらゆる可能性を想定しておくべきだったのだ。

 彼とは会える。だがそれが、世間一般に語られるような友達との再会とは、まったく異なる次元での出来事であるということを。

 それでも僕が、一秒後には感極まって彼の方へと駆け寄っていったのは、ひとえに彼の変わらない姿を見ることが出来たからだろう。本当に、何も変わっていなかった。彼女の方は背丈などが少し変わっていたが、彼の方は、何もかもが中学時代のあの頃のままだった。それが、僕の細胞の一片一片にまんべんなく宿る記憶の糸を揺らして、肉体を操っていた。


 彼の座っている岩から2mあるかないかというところで僕は立ち止まり、しばらく呆然として黙っていた。これから先、どうすればいいのか分からなかった。

 そんな僕を見て、少し前かがみになり両膝にそれぞれ肘を乗せた姿勢で座っていた彼が、微かに笑みを浮かべた。僕は彼が時折見せるこの顔に、どこか厭世的な印象を受けていた。勿論、ただそういう感じがするというだけで、実際そうなのかは分からない。ただ、もしその厭世的な雰囲気が真実であるとすれば、それが彼が自殺した理由のひとつであると、仮定できるとは思っていた。

 僕は彼のそんな顔を見て、今まで何も出来ずに立ち尽くしていたのが嘘みたいに、淀みない声でこう聞いていた。

 そうだ、まずは聞かなければ。確かめなければ。

 僕自身の声が脳裏でそう呟くのが、聞こえた。


「ここは、どこなんだ」


 彼が応える。その声音もあの頃のままだ。時間の経過は一切感じられなかった。これもまた、過去の記憶のほんの一部なんじゃないかと思えるほどだ。もしかしたら、今僕が僕だと感じている存在は記憶の中の自分でしかなく、どこか近くに、記憶を想起する第三者としての僕――本当の自分がいるのかもしれなかった。


「ここは、人が自分のあるべき姿のまま、安定して生き続けることができる空間だ。老いること、変わることがなく、最良のままでいられる場所」

「あんたは……」


 僕は彼を、“あんた”と呼んでいた。その砕けた態度こそが、僕と彼の関係の証明になると思いたい。


「あんたは十六年前のあの時から、ここにいたのか? 学校の屋上から飛び降りたあの日から、ずっと」

「そうだね」

「自分の意思でここにきたのか?」

「……そうだろうね」

 この解答の前には、ほんの一瞬の沈黙があった。


「どうしてだ」

 今度は、五秒ほどの沈黙が待っていた。それでも結局、彼はすらすらと応えた。

「正直に言えば、僕自身よく分からない。別に生きることが嫌になったとか、そういうことじゃあないよ。ただ、僕はここにいた方がいいと、そう思っただけさ。それが一番いいことなのだと」

「あんたにとって」

「そう。僕にとっては」


「……」

 僕はしばらくの間、何も言わずに黙り込んでいた。そうしてふと、彼の隣に座りたいと思った。そうするといつの間にか、彼が座っている岩の隣に、同じ様な大きさの岩が存在していた。さっきまでは何もなかったはずだ。が、特に疑問に思うことなく、その岩に腰かけた。

 僕はひとまず、彼がいましがた語ったことを、全て素直に受け入れることにした。ここは、人がもっともあるべき状態でいられる場所。だそうだ。


 僕はそのまま、彼と似たような姿勢になって、ぼんやりと前の方を眺めていた。屈折して揺れる光のカーテンや、磔にされたようにその場に留まってヒレだけを波立たせ、時折思い出したように移動する熱帯魚とかが見えた。

 いろいろなことが、胸の奥の方から沸き立っては、染み込むように消えていった。そういうことが十秒ほど続いて、ようやく僕は、どんな形であれ、ここがどんな世界であれ、彼と会えたことを嬉しく思うことができた。ここは決して、記憶の中などではない。記憶を想起する第三者としての僕など存在しない。今この瞬間は、間違いなく現実だった。異質な世界であろうと、だ。


 僕は、今確かにいる僕の親友に対して、語りかけていた。

「そういや、あんたといつから友達だったのかだけ、思い出せないんだよな。気がついたときには友達になってたんだ。友達って、そういうものなのかな」

「そうなんだろうね」

「でも、いろんなことを教えてもらったよ。それはよく覚えてる。本もたくさん読もうと思ってるけど、結局、ロクに読めてない。音楽は結構いろんなものを聞いてると思う。コルトレーンは今でも好きだ。漫画だって読むよ。今でも、面白い作品はよく出てくるね」

「……」

 彼は静かに、ただ僕の言葉に耳を傾けていた。


「あんたと一緒に勉強すれば、テストも心配いらなかった。毎度毎度、どんな方程式でもスラスラ解くもんだからびっくりさせられたよ。君は僕よりも十年ぐらい先に生まれてきて、成長を一時的に止めているだけなんじゃないかと思ったこともある……あの娘も入れて三人だけで京都に行った時は楽しかった。電車の料金も、宿泊代まで自分達で出してな。まぁ、親からの小遣いをこつこつ貯金しただけだったけどさ……あの頃は、あんたがいれば何でもできると思ったよ。あんたみたいになりたいと思った。そういう気持ちをずっと持ち続けて、今の僕があるんだ。十六年生きてきてはっきりしたことは、それは無理だってことだった。君に追いつくことなんて、到底無理だ」

 僕も、いつの間にか笑っていた。だが、その笑みもやがては、消えていった。


 懐かしさを噛みしめるようだった僕の声は、少しだけ沈んだ。

「正直に言うけど、残念だ」

「残念」

「君ともう一度会えたことは、本当に嬉しい。けど、それがこんな形だなんてさ」

「……」

「本当は、過去のことを思い出して懐かしむんじゃなく、これからのことをもっと話したかった。今までどうやって生きてきて、そうしてこれからどう生きていくのか。ふたりでそういうことを話して、未来への希望を持ちたかった。けど、それは無理な話だ」


 僕の、ほとんど独白みたいな話を、彼はじっと聞いてくれていた。そのことに関しては、僕は多分リラックスできているのだろう。後ろめたいことであろうと遠慮なく言えるのだから、それだけ気が楽ということなのかもしれなかった。


「あんたは確かに、ここで生きてる。でも、僕達が本来生きていくべき世界に、あんたの命はない。あんたはここで、時の流れを止めたまま永遠に立ち尽くしているんだ。地底深くの洞窟に転がる小石みたいだ。水に打たれることも、風に吹かれることもなく、いつまでも同じ姿のままであり続ける。どこへも行けない。何ものにも影響を及ぼさない。僕だって、今こうやって姿を見ることがなければ……」

 僕は、この空間と、そこに生きる彼を、そう評価するしかなかった。ほんの数分かそこら、海の底の光景を眺めながら彼の抽象的な説明を聞いただけだったが、どうしてもそうとしか思えなかった。僕の発言はいささか辛辣なものであったのは間違いないだろう。だとしても、言わずにはいられなかった。

 その一方で、彼とこの世界を認めなくもあったのだ。僕は、わずかに顔を俯け、絶えず変化する不規則な形のアメーバみたいな影を投影する黄色い砂利の海底を眺めながら、乾いた声で彼に聞いた。


「あんたは、これでよかったのか? 元いた世界の命を捨ててでも、この世界にやってきたことが」

 彼は、また数秒ほど沈黙してから、応えた。しかし、その声は迷いのないはっきりとしたものだった。

「少なくとも今は、よかったと思う。なにせ、ここは自分が最良の形でいられる場所なんだ。それを嫌だと思う理由はないよ」


 僕は、気がついたら、腰かけていた岩から立ち上がっていた。それはなぜだか分からない。ただ、前を向いて言葉を続けるだけだった。彼の顔は、あえて見なかった。

「僕は、どうすればいい。僕もこの世界の住人になって、あんたと生きればいいのか?」


 それが正しいことであるとは、僕には思えなかった。仕方のないことだ。まだ、この世界のことを具体的に理解してもいないし、今の世界での生活だってある。僕はまだ、あちらの世界でなにもやっていない。結婚だって、今したくないというだけで、いつかはしてみたいのだ。子供だって欲しい。本ももっと読みたければ、音楽だってもっといろいろ聞きたい。

 今もなお、新しい文化は生まれている。受精卵が細胞分裂を繰り返し人の姿を形作るような凄まじい勢いで。そして僕は、その勢いに、できるだけ遅れないようにして老いていきたい。命が生まれてから登り始める人生の山の頂点から、そのまま一気に麓まで、転がり落ちるように降りていきたい。そうして、転がるのをやめて、それから死んでいきたい。


 この美しい海に、本はあるのか? 音楽は?

 自分が最良の形で生きられるというのなら、多分あるのだろう。珊瑚の裏側とかに、彼が読むための本が置かれているかもしれない。僕もここで暮らし始めれば、僕のための新しい珊瑚の本棚や、ジュークボックスやらが現れるかもしれない。

 でもそこに、新しいものは何もない。最良といっても、今僕の頭の中にあるものを引っ張りだして、そこから構築された最良だ。そこには何も継ぎ足されることもないし、減らされることもない。そこでは、何も進まない。

 人生の中で、段々と成長し、歳をとり、生活が少しずつ変わっていくことに不安を覚えながら、いつの間にかその不安を受け入れていく、そうしていつかは、死ぬことすら受け入れるようになっていく。そういう当たり前のことがない。

 僕は、人間としてはまだ若い。自分が老いて死んでいくことなど想像できないし、想像すると、真っ黒な液体を満たした底も見えないプールの中へ潜っていくような気分がして、恐ろしくなる。

 それでもまだ、生きていくことが嫌にはならなかった。


 それでも僕は、もう一度彼と友達として、やっていきたかった。互いに老いていくことを喜ぶことはできなくても、過去の姿のままで居続けることだって、悪くないと思えた。彼といると、いつも僕は何もかもが“しっくりくる”ような気分がしていた。それこそ、最良の形という奴だ。彼を意識すれば、今ある生活を捨てる決意だって、できるような気がしていた。


 どうすればいいのか、僕には分からなかった。そんな僕の問いに、彼はただこう応える。


「それは、君が決めるといい。僕だって自分の意思で決めたんだ。君に無理強いをするわけにはいかない」

「……ここには、僕のもっとも安定した、あるべき姿がある。それは間違いなく、十六年前のあの頃なんだろう。これから生き続けて人生を全うしたって、あの頃よりも生きてることが楽しいと思えることは、ないかもしれない。それなら、もういっそ楽しかった頃に戻って、そのまま時を止めてしまった方がいいのかもしれない。だけど……」

 どう苦悩しているのかさえ、分からなくなってきた。先程まで確かに存在していた意識が揺らいで、新しい意識が上塗りされているような気がした。自分が不確かになってくる。

 身体がにわかに熱くなってきた。筋肉が余計に強ばり、いつの間にか両手が固く握りしめられていた。頬もわずかに引きつっているのが分かる。

 今頃になって僕は、自分は、とても重要な選択を迫られているのだと感じた。ただ、友達と会いに来ただけなのに。こんなことになるとは思わなかった。

 いや、死んだはずの彼と会えると聞かされたその時から、こうなることを、無意識の内に予感していたかもしれない。


彼が言う。


「僕は望んでここへやってきた。義務や責任でそうしたわけでも、そうしなければならないと強要されたわけでもない。僕がここにいるのは、僕自身の願望でさえあるんだ……君はどうなんだい?」

「僕は……」


 彼の言葉を聞いて、僕はもう一度だけ、ぼやけていた頭に活を入れ、考えを巡らせた。眠る寸前のような状態だった脳の血管を、血液が流れるのが分かる。赤血球が、酸素を細胞に渡しているのを感じる。混乱し続けていた僕は、冷静さを取り戻し、本来の思考へと回帰していく。


 確かにこの海には、僕のあるべき姿がある。

 だが、それが今あるべき姿であるとは限らない。それに、ここでなければ、あるべき姿にたどり着くことが出来ないとも決まりきっていない。

 彼の命があるこの海に来るということがどういうことなのかもはっきりとしていた。本当は、最初から分かりきったことだった。

 僕は、“それ”を乗り越えて今まで生きてきたのだ。それは他ならぬ、彼の名誉のためであり、彼と友達であった僕自身の意地のためだった。勿論、何らかの理由で“それ”を選択してこの世界に来た彼を非難するつもりはない。

 何故僕はこんな場所へとやってきて、彼と再び友達としてやっていくか否かを選択することになったのか。僕をこういう状況に誘ったのは何者なのか。それも今、段々と分かってきた。

 僕は、彼を裏切りたくなかった。それ以上に、彼が何を望んでいたとしても、僕は僕自身を裏切りたくはなかった。

 自らの意思で決めるのだ。


 顔を俯け、ただじっと足下を見つめひたすら黙り込んでいた僕は、一瞬とも数分ともつかない時間の後、ゆっくりと重い首を上げ、彼の顔を見た。


「もう少し、向こうの世界で生きてみることにする。僕がいるべき世界は、あちらだ。まだ向こうで、やりたいことはたくさんある」

 僕がそういうと、彼は微かに笑った。その表情は。心なしか先ほどとは印象が違っていた。失望しているようでも、納得しているようでもあるし、僕を称賛しているようにも見えた。彼が心の奥底で何を考えているのか、いつも分からなかった。十六年程生きてみてもそれが変わらないということに関しては、懐かしいと言うより、いっそ物悲しく思えた。

 なんだか急に、今僕がここに立って、記憶の中と変わらない姿の彼と共にいることが、寒々しく思えてきた。彼は根本的に、僕とは生きている世界が違っていた。僕達はただ、異なる時間の狭間から、お互いに顔を付き合わせているだけだった。その道が交わることはない。こんなものは、再会とすら呼べない。


 それでも、目の前にいる彼の姿が段々と薄くなっていることに気づいた僕は、耐えがたい未練に襲われた。僕をこの奇怪な世界に引き込み、正しい時間の流れから虚脱させようとする誘惑を振り切るのと同時に、彼ともう一度やっていく機会を捨てたのだ。それが再びやってくるのかどうかも、明確には分かっていない。僕は今はっきりと、彼に対する別れの言葉を告げたようだった。

 僕は慌てて、彼に呼びかけた。


「こ、これって……」

しかし彼は、穏やかな表情をしていた。こうなることを望んでいたにせよ、いなかったにせよ、僕のこの選択を肯定していた。

「そう。それでいい。君自身が選んだ。これは君の意思だ」


 肯定されることなど大前提にある話だ。もしこれで僕の選択が否定されれば、それこそ僕はどんな顔をしてこの状況を受け入れればいい。そんな事実などはどうでもよかった。僕がただ聞きたかったのは……


「あ、あんたは自ら望んでここに来た。なら、僕の元から消えることも、あんたの望みだったのか? 今この瞬間にしても、十六年前のあの日にしても」

「君の中の僕はどうなんだい?」

「……なんだって?」

「君の友達としての僕は、どう思ってる? いいかい。友達になるということは、その人を受け入れて、心の中でコピーを形成することなんだ。自分の友達としてのコピーをね。そのコピーが話す言葉や行動が、その人の真実であると信じて疑わない。それが、友達になるということなんだと、僕は思う。もし本当の友達であるなら、そのコピーと実体(オリジナル)の間には、何の違いもないはずだ。それだけ、その友達を理解しているということだからね……自分自身抽象的なことを言ってるとは思うけど、僕の言っていること、分かるかい?」


 僕は、小さくゆっくりと、しかし確かに頷いた。彼は時々、よく分からない発言をする。しかし、その言わんとしていることが少しだけでも分かったとき、僕はとても安心することができた。そうして、彼を心から尊敬し、彼の友達であることを嬉しく思った。その気持ちを、僕はもう一度感じることができた。それだけでも、この海にやってきた意味は、あったかもしれない。

 僕が頷くのを見た彼もまた、小さく頷いた。


「それならいい。もう、僕の方から言うことはないな。もうしばらくの間、向こうの世界で元気にやっていくといい」


 彼の身体が、みるみる内に薄くなっていく。やがては、全身が透明になったように、見えなくなるのだろう。中学校の頃、全ての人間が彼をそう見ていたのと――見えてはいなかったか――同じように。

 僕もまた、彼の存在を認識することができなくなるのかと思うと、何だかいたたまれなくなってきた。やはり、未練というものを打ち消すことはできなかった。だが、その未練すらも彼は、取り払ってくれた。


「僕も、また君と会えて嬉しかった。心配ないよ。これが今生の別れじゃない。僕はいつもここにいる。いつだって会える。全ては君次第だ」


 そこまで言われて、まだくよくよと後悔することは、なにより彼に対する誠実さの欠如だろう。

 そうだ、彼は本当に消滅するわけではない。十六年前のあの日から今まで続いてきた日々と変わらず、この世界で生きていくのだ。だったら、機会さえあれば、また彼と会うことはできるだろう。

 僕は僕自身の意思で選択した。今はそれが正しいことのはずだ。そうしてこれから、彼と再び会ってもいいという心の準備ができるように、精一杯生きるのだ。そうして、人間が人間らしく慎ましく生きる世界で、やることがなくなってから、この世界に移ればいい。

 僕は、次に瞬きすればもう消えてしまいそうな彼の姿を見据えながら、言った。


「また会いにくる。その時はもっとゆっくり、落ち着いて話をしよう」

「それがいいね、楽しみにしている」


 その一言を最後に、彼の姿が、揺らめく海共々消えた。後に残ったのは、海を染めていた青色の残滓のようなものだけだ。それが視界を隅々まで埋め尽くしているだけ。まるで、コンピューターゲームのオブジェクトやテクスチャを何もかも取り払ったような世界だった。

 先の彼の言葉が別れの言葉だとすると、随分あっさりしているのかもしれなかったが、今はこれぐらいで充分だった。

 僕はふと考える。

 僕がもう一度ここに来る頃には、この世界の住人は、もしかしたら彼以外にも増えているかもしれない。僕にここに住む権利があるなら、他の誰かにだってあるのだ。そんなどこかの誰かが望めば、増えることになる。彼は、きっと新しい住人となら友達になれるだろう。僕となれたように。

 僕もまた、そんな人達と仲良くやっていけるだろうか……多分やっていけるだろう。僕が望みさえすれば。

 そこは、そういう場所なのだ。全ての人が、まるで型にはめたみたいに安定した生を送れる。それ自体は、悪くないことだと思った。やるべきことを全てやって最後にいきつく場所としては、最高の場所なのかもしれない。ただ、そのやるべきことをまだ全部やってない気がするから、まだそこで生きることができない。ただそれだけのことだ。


 不意に、目の前がまばゆい光に埋め尽くされ、僕は眼を閉じた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ