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 僕には中学時代、あるふたりの友達がいた。ひとりは少し雰囲気が暗いが、とても誠実で真っ当な――本当に真っ当な男で、もうひとりは、とにかく不思議な雰囲気を持つ女の子だった。何を考えているのか分からなくて、時々不気味に思うことがあるが、とても綺麗な女の子だった。可愛いという表現はできない。もしかしたら、綺麗と形容することも正しくないかもしれない。まるで、自分と同じ時間を生きていないような子だった。男の方をこれから“彼”と呼び、女の子の方は“彼女”と呼ぶことにする。


 彼は、あらゆる人間からまったく意識されることがなかった。普段から彼は、周囲からことごとく無視されていた。もしかしたら、それはいじめと呼ばれるものの一種だったのかもしれないが、当時の僕にはそれはいじめよりも程度は軽く、それでいて、いじめよりもずっとストイックなものに感じられた。

 誰も、彼をいじめるつもりはない。ただ単に、彼がこの世にいるということに気づいていないんじゃないかと僕には思えた。僕達の生きている空間において、彼だけが透明になっているようだった。僕と彼女だけが、その透明な男に気づいている――そんな感じだ。

 勿論、“中学校の生徒”としての彼はちゃんと存在していた。授業の始めに出欠を取る時には彼の名前はちゃんと呼ばれていたし、体育の時間には彼は他の生徒とチームを組んだりしていた。

 でも、それだけだ。彼に人間として興味を抱いている人は、僕と彼女以外には誰もいなかった。皆が彼と口を聞く時は、きっと義務としてそうしていたのだろう。息をしないと死ぬから、息をする。それぐらいのことだったのだ、きっと。

 彼はずっとそうだった。彼はあらゆるものから見向きもされず、そうして彼もまた、誰とも関わろうとしなかった。僕達以外には。

 彼の友達はずっと、僕と彼女だけだった。僕は小学校の頃から――それ以前からも、彼がずっとこんな調子だったのか知りたかったが、結局その機会は訪れなかった。

 ただ、彼は自分の環境に不満を持ったり苦悩したりしなかった。僕達といる時には、笑顔を見せてくれたりもした。

 とにかく彼は、いつも奇妙な雰囲気をその身に帯びて、とても落ち着いた性格をしていた。そして何より、当時の僕が知らなかったいろいろなことを知っていた。それが多少は、今の僕にも影響を与えているのかもしれない。


 彼のことはこうやって今でもいろいろと思い返すことができる。彼との思い出は、今も心の中に残っているようだ。

 だが、これは全て過去だ。これから、新しい思い出が作られることは、ないはずだ。


 彼は死んだ。中学を卒業するのと一緒に、ずっとそうなることを予定していたように、あっさりと死んだ。自殺だった。僕には、何故彼が死んだのか分からなかった。

 今でも分からない。

 彼の記憶ばかりが、蜃気楼となって心の中を漂うだけだ。





    ※





 それからもう、十六年かそこら経っていた。彼が死んだ当時は、僕も耐え難いほどの衝撃を受けたが、結局そのまま、何事も無く大人になり、今ではしがない会社勤めだ。安易な言い方をすれば、彼の死を乗り越えることができた、ということだろう。

 僕も、昔は彼の死に打ちのめされ、いろんなことを駄目にしてしまいそうだった。だけどそれでは、彼の死を呪いにして暗い淵に引きずり込まれるような気がして、彼に対して申し訳がないように思えた。だから、くよくよすることは早々にやめた。それは薄情なことかもしれないという気持ちが、ないわけではない。しかしこれは、僕の人生なのだ。仕方がないことだ。

 多分これから僕は、彼の死の影響を受けないまま歳を重ねて、いつかは彼のことも、曖昧にしか思い出すことができなくなるのだろう。それは少し寂しいと思った。が、だからどうなるというのか。


 今日の仕事も終わり、僕は自分の住むアパートに帰ってきた。実に平均的なアパートだった。僕と同じ年収の成人男性が、十人に十人は『まぁ、これでいいか』と思えるような、当たり前というものを計算しつくされたアパートだ。

 ドアの鍵を開けて中に入ると、暗い。誰もいない。僕は一人暮らしだった。

 そんな環境にもすっかり慣れていたし、心を苛まれて寂しくなるのも当分先のことだ。幸いというかなんというか、一人暮らしに必要な技能はそれなりに持っていたので、当分は妻子を持たず気楽に暮らしていこうと考えていた。

 しかし、そんなことを言っていると、いよいよ生涯独身のままで終わりそうという危機感も、そろそろ首をもたげていた。なんだかんだ言って、僕もすでに三十過ぎている。


 何はともあれ、僕は二日ほど休暇を貰えたので、今はそれをどう過ごすか考えているところだった。スーツの上着をハンガーに立てかけて、風呂を入れながら台所でスパゲッティと簡単なサラダを作った。その間に風呂はたまった。

 出来上がったスパゲッティとサラダをリビングのテーブルに持って行って、テレビをつけ、ソファに座って食べた。毎日毎日繰り返す一連の動作。せいぜい作る料理の内容が違うだけの、会社での仕事とよく似たルーチンワークだ。が、これで中々嫌いじゃない。

 僕が結婚したくなる時っていうのは、この単純作業が苦痛になった時なんだろう。僕はまだ結婚はしなくていい。自分で作るスパゲッティが美味い。とはいえ、テレビのニュースは、案の定さして面白味もない。

 スパゲッティとサラダも食べ終わったので、早々に食器を洗った。

 後は風呂に入って、テレビを観ててもつまらないからジョン・コルトレーンを聞いて読みかけの本を読んで寝ようか。明日は部屋の掃除でもしよう。

 そんなことをぼんやりと考えていた時だった。テーブルの上に置いてあった携帯電話が鳴ったので、出た。


 これまでの、ただその場その場の無意味な事象を、ただ繋ぎあわせただけみたいな日常が、今終わった。





    ※





 電話の相手は、“彼女”だった。彼女もまた、中学を卒業するとふといなくなっていた。ただ死んでいないというだけで、“彼”と同じように僕の元から消えたのだ。

 そんな彼女の声が今、電話のスピーカー越しに聞こえている。十数年前の頃と何も変わっていないような声音で。

 本当に変わっていないのだ。まるで、記憶の中にいる彼女が、電気信号となって携帯電話の中の集積回路に潜り込み、スピーカーから声を出しているみたいだった。怖くなるほど変わっていない。僕は、彼女のことを時折不気味に思っていた自分を思い出した。


「ねぇ……久しぶりね」


 テーブルの前で携帯を耳元のあてたまましばらく固まっていた僕は、ようやくソファの上に腰を降ろした。それから、彼女の声に応えようとしたが、上手く舌が回らず、「あぁ……いや、うん」と、変な声しか出て来なかった。しばらくしてからようやく、まともな返事ができた。

「本当に、久しぶりだ」


 繰り返すが、彼女もまた、彼と同じように突然僕の前から消えていった。中学を卒業し、彼が死んだその日から、僕は彼女がどこにいき、どのように生きたのか、まったく分からなかった。時折行われるクラスの同好会とかにも、彼女は一切参加しなかった。どこの高校にいったかぐらいは調べれば分かることだったのかもしれないが、当時の僕はそこまでするほど、彼女のことを強く意識できなかった。それ以上に、彼の死の影響が強かったからだ。

 そういうこともあって、結局彼女の消息は、一切断たれてしまっていた。彼も彼女も、僕の元から去っていったという点では、同じだったのだ。ただ、その命ごと消えるのか、人生の足跡だけを、修正ペンでも引いたように消し去ったかの違いだ。


 こんなことを思い出したからなのかは分からないが、僕の口から自然と、次の言葉が出てきた。

「今まで、どこで何をしていたんだ? 聞きたいっていうなら、僕の方から話すけど……」

 その問いの返事は、しばらくの間こなかった。電波のノイズみたいな音が数秒聞こえてから、彼女の声が返ってきた。だがその返事は、僕の想像していたものとはかけ離れたものだった。

 というか、余程精神のひねくれたものでなければ、到底考えられないような応えだった。


「あの人に――私達の友達だってあの人に、会いに行きませんか?」


 彼のことを言っているということはすぐに分かった。

 その言葉を聞いた瞬間、僕は足下がふわりと浮き上がって、身体が血流ごと持ち上げられたような気分になった。地に足がつかないというやつだ。彼女が何を言ったのか、一瞬分からなかった。

 それでも、僕はもうそろそろ30年も生きてきたことになるのだ。なんとか、すぐに落ち着くだけの冷静さは形成されているあたり、その歳月は無駄ではなかったと言える。

 僕は、溜息でも吐き捨てるように小さく吹き出してから、冷やかすような口調で言った。


「……君だって、昔テレビのニュースで観てただろう? 彼が死んだってこと。僕達の学校から、飛び降りて死んだ。自殺だった。いじめか何かが原因じゃないかって、ワイドショーが騒がしくなってた。でも、彼が自殺する理由になるようなものは、ひとつもなかった。彼は、寝てる間に止んでる夜中の雨みたいに、気がついたら死んでた。すぐに、彼の死についての話は聞こえなくなった。彼は、死んだって誰にも意識されることがなかったんだ。ほんの一瞬だけ人々の視線が彼に向いたけど、すぐにまたそっぽ向かれた。彼が死んだことそのものにしてもそうだけど、僕にはそのことも辛かった……その彼に会いに行くって? 心中の頼みしては些か悪趣味だろ。生憎僕はまだ生きていることを楽しいとは思える。コルトレーンを聞いて自分の作った食事を食ってると落ち着くんだ」

「彼に会いたい? 会いたくない? どっちなの」

「……」


 彼女は、僕の言葉などほとんど聞いていないようだった。あるいは、僕がこう返事するのを分かっていて、その上でこう言おうと決めていたのだろうか。もうすでに、“彼と会える”ということは大前提になっているらしかった。

 冗談じゃない。どうやら心中の頼みではないみたいだけど、そうでなければ怪しい宗教にでも勧誘しているのだろうか。

 しかし、もしかしたら、彼女の言っていることは……――そういう考えが、芽生えているのも事実だった。


 彼女はいつもそうだった。彼も不思議な人間だったが、彼女はそれ以上に不思議だった。時折、そもそも人間じゃないんじゃないかと思えたほどだ。彼女は時折、あまり理解できないような発言をしたが、僕にはそれが世の中に張り巡らされ、人々の生活を支える無数の糸のような、“真理”に思えることがあった。

 この発言も、その延長であるように感じられた。彼と会える。それもまた真理なんじゃないかと。とはいえ当然、そんなわけはないはずだ。

 それでも、ただひとつ、疑いようのない、彼女の言葉など及びもつかないある真理が僕の中にはあった。僕は、彼女の言葉が真実であるかどうかは関係なく、こう応えた。


「そりゃあ、会いたいよ。会えるものなら」

「それなら――」


 それから彼女は、何やら色々なことを口走っていた。それはどうやら、彼と会う日と、時刻、そして、彼女と待ち合わせる場所を説明していたようだ。当日のことは、会ってからまた説明するとか言っていた。

 僕はその間、彼女が上記のようなことを説明していると分からなかった。いつ、どこで集まるのか、電話が切れてからしばらくソファの上でぼんやりとしてから、ようやく思い出すことができた。下手すれば、思い出すことすら出来なかったかもしれない。

 彼女の声を聞いている瞬間は、ずっと自分とは無関係のところで世の中が動いて、その流れから取り残されているような気分がして、訳が分からなかった。彼に会いたいという気持ちは確かでも、本当に会えるかどうか、まだまったく確信できていなかったから。

 だから、彼女がひとしきり説明を終えて、そのまま「それじゃあ」とだけ言い残してそそくさと電話を切ろうとした時、僕はとっさにそれを呼び止めた。


「本当に、彼に会えるのか? 君は僕をからかっているわけでも、騙しているわけでもないんだな。僕を騙すことに彼を使っているのなら、それは彼の――僕の友達に対する侮辱だ。君と心中することは受け入れられても、それは受け入れられない……どうなんだ」

「必ず会える。私は、貴方も彼も、侮辱したりなんかしない……楽しいひとときにしましょう」


 それを最後の言葉にして、彼女は改めて電話を切った。僕もそれ以上、彼女に何かを聞いたりはしなかった。とりあえずは、心を決めるしかない。時間的な余裕はある。彼女の奇妙な誘いに乗ってみるのも、悪くない。彼には会えなくても、久しぶりに彼女に会えるのは間違いないようだし、それもそれでいい機会だったのだから。

 だが、もし本当に彼に会えるというのなら、僕は、どうするのだろう。

 そんなことを考えているあたり、彼女の言葉を結局は信じている僕は、確かにいた。つくづく、彼女は不思議だ。まるで心の奥の方を操られているようだった。表向きは何も変わっていないようでも、何か重要な部分が、気付かぬところで支配されているような……


 しかし、電話が切れて、しばらくの間彼女が指定した日時と場所を頭の中で咀嚼していると、やっぱり、彼女は冗談を言っているのではと疑いたくなった。そしてもしそうだとすれば、それは悪趣味を通り越して、反人間的な冗談でさえあった。

 日時は明後日の午前二時、これについては特に気にすることではない。

 僕は、子供の時からずっと故郷の町で過ごしてきた。就職先だって同じ県の中だった。愛着があるかと聞かれれば、否定はしない。要は慣れと相性の問題だ。慣れればそれだけ、そこで生きていくのが楽になる。僕は僕の故郷に慣れている。そして多分、相性もいい。

 何が言いたいかというと、問題は待ち合わせの場所にあるということだ。彼女が待ち合わせの場所に指定したのは、僕達の中学時代の母校――即ち、彼が死んだ場所。その校門前だった。彼が死んだ場所で、彼と会う。これを冗談だと感じないで、全面的に信用するなど、無理な話だ。


 結局僕は、日が変わってもしばらく眠ることができず、事の真偽について考え続けていた。

 が、もう一度は心を決めてしまったのだ。今更断るわけにもいかないし、彼女に付き合っている間の時間を、代わりに何に使うのかまだ決めていない。部屋の掃除は明日の昼頃には済ませられる。

 それに、もしかしたら彼に会って話ができるかもしれないと思うと、全身の細胞がざわざわと落ち着かなくなるのがよく分かった。高温のマグマが噴出する時をくすぶりながらじっと待っているような感覚を抑えつけることはできなかった。たとえ失望することが分かりきっていても、この気持ちは何とかしなければいけない。

 そう心の中で結論づけて、ようやく僕は眠った。散々眠れなかったはずなのだが、きっかけさえあればすぐにでも熟睡できた。夢さえ見なかった。来たるべき時に備えて充電するかのような睡眠だった。




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