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月面戦記シミュラクラ-クライシス  作者: 月山
1部 星狩り
1/1

オン・ステージ

 このHPでは初投稿です。

 よろしくお願いします。


 何かしながらで構わないので、どうか読んであげてください。

 1章 星狩り


 1-1 オン・ステージ



 月の丘をひとりの機械が登っていた。

 今から数万年前に形成された巨大クレーターの内壁だった。高さ1000メートル。ほぼ直角の絶壁を、機械がよじ登っていた。

 長い腕が延びて、指先が岩棚を掴む。踏ん張った足元で灰色の土くれが砕けた。

 音もなく、気配もなく、砂が落ちていく。ゆっくりと、地球の6分の1の重力に引かれて、クレーターの底へと落ちていく。

 機械が手足を動かすと、岩が転がり、砂がこぼれ落ちる。少なくともここ1万年は静かに眠っていた月の住民たちが、ただ落っこちていく。

 機械は慎重にルートを探り、岸壁をよじ登っていった。

 人と獣のあいのこみたいな機械だった。

 全体的なフォルムは丸っこく、鎧を背負った甲虫に似ている。

 甲羅のように重く見える鎧だが、可能部分が細かく別れて、四肢の動きに追従している。運動そのものは驚くほどしなやかだった。色は月の砂色をしている。

 長い腕と長い脚。白い、ゴムのような質感をしていた。

 腕も脚も長さは同じくらいで、太さにもあまり違いがない。腿の部分が丸く膨らんでいるのは球形タンクを抱えているからだった。

 人工筋肉に似た指先が岩を突き刺し、しっかりと掴む。

 身体の上に乗っかった頭が、周囲を探る。

 丸みを帯びた頭部はセンサーの塊で、ウサギの耳のように後方に向かって長く伸びたレドームが特徴的だった。

 顔の真ん中を埋まる緑色の単眼が、複雑な光彩を見せている。

 両手と左足の3点で身体を支えて、右足をもちあげる。

 岸壁が擦れ、灰色の砂が舞い上がる。砂煙がゆっくりと膨れ上がり、やがて底へ落ちていく。

 右足が岩棚を探る。足先のスパイクが岩の隙間に食い込む。

 ロボットは1,2度身体を揺すって、体重が乗るか確認すると、右足を支点に身体を持ち上げた。

 この巨大クレーターは、シャクルトン・クレーターと呼ばれている。月の南極付近に穿たれた古いクレーターだ。

 すぐ隣の大地には、2030年あたりまで運用されていた月面基地が残っている。

 半ば地面に埋まり、出来損ないのバラックのように見えるが、これでも21世紀初頭から始まった地球人類による本格的な宇宙進出の第一歩目、その名残りだ。

 が、第二歩目は、望まれぬ大進歩を遂げた。

 シャクルトン・クレーターの底には軍事施設が建設され、今なお拡張が行われている。

 月。

 人類はもう、その美しさを愛でることはない。

 その光は恐怖と畏怖をともなって、地球の上に輝いている。どんなに早く走っても、月の輝きから、逃れることはできない。

 月こそ、地球を守る為の最終防衛ラインだった。



「こーの、銀河の、星くずの全部♪」

 標準高度計が山頂付近を示していた。マップが大体のルートを教えてくれる。

 シャクルトン・クレーター外輪部。

 一見、滑らかな円形に見えるクレーターの縁だが、当然高さや地形に違いはある。

 今では、それぞれにナントカ峰という名前がついていて、ロボットがよじ登っているのは、中でももっとも難易度が低い峰だった。

 月面登山家は何人かいるが、機械に乗って行ったのは、二人しかいない。

 白い指の先が、何もない空間を探る。

 平たい地面に、まず右の手のひらがたどり着き、左の手が続く。

 背筋がぎしり、と緊張する。

 腕と背中の力を使って、機械は残りの身体をクレーターの頂上に持ち上げた。

「ひーとりじめに、したい、むっすめ」

 巨大な人工物に場所を譲った岩が、ひとつふたつ、ごろごろと転がり落ちていく。サラサラした砂が手のひらを滑らせ、巨体がずり落ちそうになる。

 腹這いになり、指の力で身体を引きずり上げ、なんとかロボットは頂上に身を落ちつけた。

 その顔のすぐ前に、最高到達点を示すおきまりの石碑と、いくつかの国旗が並んでいた。

 ロボットは指の先で、石碑についた埃を払った。

 座って、緑の単眼があたりを見回す。

 右と、左に向かって2本の線が延びていく。その線が丸くカーブを描いて、何百キロにもなる恐ろしく巨大なクレーターの稜線を形作っていた。

 まるでステンレスのボウルのようだった。滑らかな岩壁が一番底に向かって落ち込んでいる。黒い影と灰色の岸壁が、完璧に近いコントラストを表現していた。

 立ち上がった。

 身体は丸みを帯びていて、手足が長い。不格好なシルエットが月の連峰に立っていた。

 月の全景が広がっていた。

 恐ろしく荒涼とした、灰色の砂漠の世界。色を塗り忘れてしまったかのような、永遠と死を思わせる、静止した世界だった。

 広く、寂しく、そして美しい。

 風も、熱の対流も、大気の歪みすらない。

『HQより、ギア02。希美。聞こえるか?』

「こちら希美。 聞こえてるよ」

 希美は切りそろえた前髪をいじった。

『登頂おめでとう。

 ギアでの単独登頂はこれが初だぜ』

 ロボットは振り返って、クレーターの底部を見下ろした。

「姉さんのは?」

『あれは正式なミッションで、サポートチームやら付き添いやらが、何人もいたからな』

「でも、私だって指示を受けてたんだから、単独とは違うんじゃない?」

『安心しろ。急な思いつきではじめたから、サポートメンバーなんて揃えちゃいない』

「…………」

『んで。

 お疲れのところ悪いが、仕事はこれからだからな』

「あー……」

『どした?』

「ううん。

 わかってるって」

 希美は指先でセンサースイッチを探った。

 ギア02の単眼で、細かい光が散る。

 四肢の感覚を、ギア02のなかに沈めていく。

 丘のうえにしゃがみこんで、首に引っ掛けていたバスケットをとった。

「かーごのふたは、あふれそう、なのに」

 緑色の瞳が地面を探っていく。希美は軽く瞬きを繰り返した。

 白い指で、砂の地面を擦る。

 落としたコンタクトを捜すかのように、指先に意識を集める。

「背ー伸び、しては、まだ足りない」

『HQより、ギア02。希美。聞こえるか?』

 ギア02の頭が背後を振り返った。

「はい?」

『月は良いよな。権利関係がないから』

「権利関係て、なに?」

 通信機の向こうから、『そんなこと、どうでもいいでしょ』とか言い争いが聞こえる。

『なんでもない、仕事を続けろ』

「はぁい」

(仲いいなー)

 希美は一息ついた。

 自分の手を顔の前に持って行って。

 周りをぐるり囲んでいる半ドーム型のメインモニターを上に押し上げる。

 月の光景が消え去って、希美は目をこすった。

 希美は装飾ひとつない、ひたすら殺風景な球形コックピットにいた。今は光源すらない。

 お腹の上にマジックテープで固定したノートPCに目をやる。

「姉さん早いなー」

 表示されている登攀タイムを眺めつつ、希美はパイロットスーツから伸びているストローに口をつけた。

 希美の年齢は12歳。薄茶色のおかっぱ頭で、顎はほっそりしているが顔の輪郭は子供っぽい。

 チェックポイントごとのタイムラインをめくりながら、ぷにぷにした頬に拳を当てる。

 瞳は鳶色で、光の加減でもっと赤く見える。希美は軽く目をこすった。

 子供に違いないが、不意に大人びて見える瞬間があった。ちょっと疲れを感じたときなどがそうだった。

「うーん」

 希美はぐー、と伸びをした。

 ほぼ一生を月で過ごしているから、肌は驚くほど柔らかい。日に当たったことのない肌は白い砂浜のようになめらかだった。

 すらりと背が高くて、手足が長い。パイロットスーツに身を包んでいると、腰回りに比べて脚の細さが際立った。

 試作戦闘機ギア02・メインパイロット・希美は密閉型ヘッドフォンをずらして、耳を掻いた。

「さて、お仕事っと」

 希美はドーム型のメインモニターを顔の前に戻した。

 月の世界が広がる。

 四肢をギアのなかに溶かしていく。

 白いゴムのような自分の手を、目で見つめる。

 希美は立ち上がって、クレーターの淵を稜線に沿って歩き始めた。

 足場が狭いので手を広げて、バランスを取りつつ。

 月面の地形は複雑だ。元々の地形に無数のクレーターが混ざり合っている。

 数十万年前、あるいはもっと。はるか昔に出来たクレーターは、宇宙からの太陽風で少しずつ削られ、均されて地形の一部に埋もれている。

 その表面に、つい数千年前に隕石が打ち込まれ新しいクレーターが出来ている。その内側にもやはり、散弾銃で撃ったみたいな穴が開いている。

 地球に落ちなかった分、たくさんの隕石が月に衝突している。遙か昔から、月はこうして地球を守っていた。

 稜線は入り組んだ迷路のようで、希美はギザギザのシルエットのなかを歩いていく。

「空の高さ分の、心は遠い淵……」

 無意識に歌いながら。

 ふと緑の単眼の周りで、赤いサブセンサーがくるくると回った。

 ギアは長い脚を折り畳んで、その場にしゃがみ込んだ。

 手を伸ばして、岩場の隙間に落ちている白い物を摘み上げる。小さな粘土のような塊だった。

 河原で珍しい石を拾ったかのように、希美はそれを目の高さに持ち上げた。

 摘んでいるギアの指と、同じような質感の白さを持った石だった。大きさは握り拳ほどもある。

 微かに。単眼の前で掲げていると、それはぶるぶると小刻みに震え出す。緑の単眼の周りで、四つサブセンサーが赤く瞬いた。

 やがて、それは綺麗な球体に姿を変えた。

 とぷん、と。無重力で浮かぶ一粒の水のように。

 見つめていると、油を垂らしたかのように表面が虹色に色づいた。様々な色が球体の球体で混ざりあい、融け合う。

 次の瞬間には青い色に包まれている。強い青の光が、ギア02の指を染めていた。

 希美は青く輝く球体を横にずらした。真っ青に輝く、大きな星がその奥から姿を現した。

 息づくような白い光をまとい、真っ暗な宇宙の果てから、青い光の塊が登っていた。

 灰色しかない月面に、地球光が青い夜明けを与えている。     

 地球と月、位置を変えることなく飛び回る、二つの星。永遠に続く夜明けの光景だった。

 希美は無意識に地球に顔を向けていた。

 球体はさらに細かく地球の姿を写しとっていく。白い雲や陸地の形までもが、浮かび上がり、ゆっくりと動いている。

 希美はバスケットの蓋をあけて、その中にミニ地球を放り込んだ。球体はゆっくりと落ちていって、底にたどり着く。バネ仕掛けの蓋が閉まる瞬間、球体は突然トゲトゲに姿を変えた。

 希美は気付かずに、地平線の辺りに佇む地球を眺めた。

 握り拳ほどの生きた星のなかに全ての文明が収まっている。真っ暗な空と灰色の大地のなかで、そこだけが生命の鼓動を感じさせた。

「ん?」

 白いヴェールのような光のなかで、小さな黒い点が動いていた。

 カメラがフォーカスを調整した。視野に速度や方向の情報を与える。

(多分、地球からの往還機だな)

 人か荷物か、あるいはその両方を乗せたトラック便だろう。

 希美は目を離して、再び石探しに戻ろうとした。

 次の瞬間、平原で爆発が起こった。



『お兄ちゃん』

 相原タクトは、がばっと起きた。

 お兄ちゃん。

 聞き馴染んだ声。が、耳元で鳴った気がして、タクトは周りを見渡した。

 すでに三日ほどを過ごしている宇宙船のなかだった。

 狭くて、金属臭のする船室だ。空き缶の内側にいるみたいな殺風景な部屋。

 タクトは思わず自分の耳に手を当てた。耳を澄ましても、ゴウゴウ言う換気装置の音しかない。なのに、耳のどこかに声の手応え、というか、気配が残っているような気がした。

「ど、どうかしたんですか?」

 タクトが座っている円卓の反対側で、眼鏡を掛けた女の子が驚きの声をあげた。

「ああ、ごめん……」

 金に近い茶色の髪を三つ編みにしている女の子で、いつも大きな眼鏡を掛けている。

 なで肩で、いつも何かに驚いているみたいに肩の中に首を竦ませていた。

 少女みたいに見えるが、立派に大学も出ている。リ・ユイリンというのが名前で、シンガポール人だ。

「なんだろう。

 夢を見てて、急にがくっと来るアレかな」

 タクトは髪を掻いた。

「あ、ああ……。

 たまにありますね」

 ユイリンはほっとして、自分のPCに視線を戻した。

 タクトは彼女に気付かれないように、ため息を付いた。

(仕事しながら居眠りすると、ロクな夢を見ないな)

 タクトは机のうえの資料をまとめた。ピルケースからカフェインの錠剤を出して、口に放り込む。舌に、痛いほどの苦味が走った。

 目を通さなきゃいけない資料が山ほどある。

 それもちゃんと読んで、理解しなきゃならないので神経を使う。2度も3度も繰り返し読んでいる暇がない。

 暇がないというが、暇ではある。宇宙船の乗客にはやることがないし、やれることがそもそもない。本もろくなネット環境もないのでは、仕事する他ない。

 ユイリンも似たようなもので、朝起きて夜寝るまで、ほとんどずっとPCに向かっている。

 ユイリンはSEで、少女みたいに見えるがシンガポール国立大学の準教授だ。

 PCに向かっていると、何だか仲のいい女友達と延々とお喋りをしているかのように、ずっとニコニコしている。

 『月往還機・しらせ』 ヒトも荷物も運べる機だが、要するにエンジンと貨物スペースだけのシンプルな宇宙船だ。クルーも4人しか乗っていない。

 今の乗客は3人。タクトとユイリンの他にもう一人、藤原功治という男が乗っている。

 タクトとユイリンは基本こうやって共同テーブルで顔を合わせているが、藤原功治はずっと個人スペースにこもったままだった。

(まったく、あのヒトは……)

 タクトは冷めた目で、彼の巣を見やった。

 藤原功治はまる三日間、ずっと自分の部屋に閉じ込もっている。トイレや電話をかける時以外、文字通り一歩も表に出てこない。

 部屋といっても、ただカーテンで囲まれた寝台にすぎない。

 何に使うかわからない小さなテーブルが一台あるだけなのに、どう生活しているのか謎だ。

 藤原は現役の自衛官だ。タクトがスーツに自衛官の階級章を着けていた頃、上司だったこともある。

 厳めしくて、秘密主義で、およそ付き合いたいタイプではない。宇宙にまで来て、彼と一緒になるとは、夢にも思ってなかった。

 彼は、今でも監察や査察に携わっているはずだ。

(とは言いつつ、僕もそんなにつき合いの良い方ではなかったな)

 タクトは二七歳、元自衛官。つい一年前まで統合軍作戦本部に勤務していた。

 短く切った黒髪に、冷めた一重の瞳。顎の細い童顔で、長らく地下施設に詰めていたおかげで肌も白い。

 背もどちらかと言えば低くて、体格もごく普通だった。

 個人的な集まりで自衛官と自己紹介すると、まず驚かれる。若いサラリーマンか、大学生に間違われたこともある。

 それはどうかと思うが、実際的に、特徴のない男だと自分でも思う。

 会話が得意な訳でもないし、部活やスポーツに熱中したこともない。大人になるまでこれ、と言った趣味もない。

 軍事史を勉強することだけが、その例外だった。あまり裕福とは言えない家計を助けるために、国防大学に進んだのは、良い選択だった。学費がいらない。給料が貰える。実家を出られる。

 訓練と勉強の両立は大変だったが、将来の就職先を心配をする必要もあまりなかった。

 訓練と勉強だけをひたすら繰り返してたら、自然とエリートコースに乗っていた。

『普通にやってりゃ、お前は大丈夫だよ』

 周囲から嫉妬ややっかみを受けるほどのエリートではなかったが、よく言われた。

 自分でもそう思っていた。ただ、普通にやっていれば、本部出向が待っている、と。

 タクトはユイリンと机を並べて、資料を読み耽っていた。

(自分では、普通にやっていたつもりなんだが……)

 状況の方が狂ってしまった。世界が狂ってしまい。そして、恐らく自分も少しずつ狂っているのだろう。

(少しずつ……)

 ここ6ヶ月の間に、少し頬が痩けていた。青黒い影が差していた。

 タクトは大量の資料や文書が表示されている画面から目を離して、小さな窓に目をやった。

 本当に小さな丸窓には、暗い宇宙空間が切り取られていた。

 宇宙に出たのは、生まれて初めてだ。

 いくら、ある程度宇宙が身近になったとはいえ、庶民が遊びや観光でいける場所ではない。大体、行きたいとも思ってなかった。

 自分にとっての宇宙ば、そこから送られてくる地球の地図や観測データだ。分析官でもあったタクトが、地球の外に出ていって何が出来るというのか。

 その時、顔の前に銀色のチェーンが舞っているのに気付いた。

「…………」

 服のなかに入れていたはずのチェーンが、いつの間に首から外れて、空中に浮かび上がっていた。

 タクトは手を伸ばして、それを掴んだ。

 手にひやり、と金属の感触が広がった。

 無重力のなかで踊るチェーンは、タクトの手から逃げようとするように身をくねらせる。

 ちゃちな鎖を両手のなかに握りしめる。

(なんで、こんなところまで来ちゃったんだ)



 2030年。

 人類はネメシスと呼称される異星兵器の攻撃を受けていた。



 1-2 始まりの季節


 始まりは2027年。

 その時はまだ、それは『流星群』、と呼称されていた。



 タクトは『木更津・金田IC』の看板に目を走らせた。

 白地に青のラインが入った地味なハイブリッドカーは、静かに高速道路を進んでいく。公用車だが、ロゴはない。スパイ対策としてナンバーも毎日替えると聞くが、確認したことはない。

 東京湾アクアラインから料金所を通って、館山道へ。橋の上を吹きすさぶ強い横風から解放されて、タクトはハンドルから片手を離した。

 南国風の木が、薄青い空に向かって伸びている。観光案内の看板が、潮風でサビかけていた。

「あんまり避難してる感じじゃないな」

 料金所のかたわらでは、数台のトラックが路肩に停車していた。運転手は地図を眺めたり、電話をしたりしている。見慣れた、いつもの光景だ。

 タクトの隣を、大きなマグロの絵を背負った多輪トラックが追い抜かしていく。

 タクトはハンドルを切って、公用車を上り方面に乗せた。平日なせいか、車の通りは少ない。トラックや業務車両が唸りをあげて通り過ぎていく。

「そりゃあねえ……」

 ダッシュボードを机代わりにしてキーボードを打っていた木下郁子が顔を上げた。

「不発弾が発見された、とかなら別だけどさ。

 『隕石が降るかも知れないから、会社休みます』、て訳にはいかないでしょ」

 日よけをずらして、彼女は強い日差しに目を細めた。

「不発弾と隕石の違いってあるのかな」

 タクトが真面目に言うと、郁子はクス、と笑った。

 郁子はボーイッシュを通り越して、男装しているかのような女性だった。スポーツ刈りの髪はタクトより短いくらいで、背もちょっとだけ高い。

 肩幅が広くて、腰回りもがっしりしている。もともとのスポーツ好きが、軍で本格的に格闘技を覚えてしまい、誰の手にも負えない。一応、元OLらしいが。

 背広姿のタクトはどう見ても、ただの若いサラリーマンだった。郁子は『統合自衛隊』のロゴの入った作業着を着ている。

「不発弾は人の作り出した物だけど、隕石は自然の産物」

 郁子はタッチペンを振ってみせた。

「その違いは、避難するかの判断基準にはならないと思うな」

 タクトは郁子の邪魔にならないように絞っていたラジオのボリュームを上げた。CMが車内に流れ出す。

「それ、何の仕事?」

「なんとかって雑誌に頼まれた、なんとかって記事」

 郁子はさらさら、とタッチペンを動かす。「その程度の認識で、よく文章を書こうと思うね」

「まぁ、慣れと経験ね」

 タクトの皮肉を、郁子はウィンクで返した。

 彼女の本職はヘリの操縦士だ。ヘリを飛ばす元OLと言う彼女の経歴と、こざっぱりした容姿が受けるのか、女性誌から起稿を頼まれる。

「暇じゃないんだから、断れば良いのに」

「暇じゃないけど、将来役に立つかも知れないからね」

 軍の広域ネットで記事を送信して、郁子は笑った。

「将来、コラムニストになるってこと?」

「選択肢は多い方が良いでしょ。ってこと」

 車のスピーカーからは当たり障りのないニュースバラエティが流れていた。

(そういうものかな)

 タクトは右肘をウィンドウの淵においた。

 軍隊という職場は、そう長い間いられるわけではない。それが戦う集団である以上、当たり前の限界はある。

 彼女が一介のヘリパイロットを続ける限り、いずれは降りる日のことも考えなければならない。

 現役中に次の仕事のことを考えておくのは大切なことだ。そして、誰にでも出来る事じゃない。

「しっかりしてるね」

 タクトは苦笑を漏らした。

(郁子の女っぽい所と言ったら、こういう実際的なところだけだろうな)

 タクトはウィンカーを付けて、木更津北出口に向かって公用車を流す。高速を降りて、一般道に入る。

「そういう笑い方、嫌いなんだけど」

 郁子はいつの間にか、こっちを見つめていた。

「え?」

 一般道に入ってから、郁子は窓を開けて、車内に風を入れた。

「上から目線で、人を軽蔑しているような笑い方」

「そんなつもりは……」

(10%くらいはあるけど)と、タクトは心の中で認めた。

「自分には関係ない話、とか思ってるんでしょ。

 エリート様は次の仕事なんて考えなくても、定年まで勤められるもんね」

「それだって、簡単なことじゃない」

 タクトは声を尖らせる。

「でしょうね」

 上から目線で言ったつもりはない。ただ、なんというか『洒落臭い』と感じただけ。

 今の仕事が全て。ほかに何も考えられないタクトにとっては、軍以外の仕事なんて全て、一律でどうでもいい。だけど、それを彼女に押し付ける気も、理解してもらおうというつもりもない。

「ちょっと、やっかみが混じったのは認める。

 謝るよ」

 タクトは前を向いて運転しながら、慎重に言葉を選んだ。

「…………」

 郁子は、生ぬるい目つきでタクトを見つめる。

「キミの悪いところはさ」

『……えー、番組の途中ですが、流星に付いての最新情報が入りました。ニュースデスク、お願いします』

 ラジオのトーンが変わって、二人は会話を止めた。

『ニュースデスクの伊藤です。

 番組冒頭からお伝えしている通り、本日9時50分過ぎ、もう間もなくより、大規模な流星雨が観測される見込みです。

 これは火星付近で砕けた小惑星の破片が、地球軌道に接近したことから起こる現象で、ラジオをお聞きの皆様は、念のため、念のため屋内で過ごすようお願いします』

『伊藤さん、隕石が街や人の居るところに落ちる可能性は、どのくらいなんでしょうか』

『えー、アメリカ航空宇宙局NASAの発表に依れば、隕石による被害はほとんどありえない、とのことです。

 大部分は大気圏で燃え尽きるため、大きな被害にはならないとの見通しです。

 ただ、具体的に何%くらいか、ということについては、予測の出来ない事で答えられない、との事です』

『ニュースデスクの伊藤さん、ありがとうございました。

 えー、お聞きの皆さん9時50分まで、あと、もう30分ほどです。

 9時50分。これはピークになる瞬間の時間ですので、それより早く到達する可能性もあります。

 皆さん、できるだけ屋内で過ごすよう、そして万が一、隕石が近くに落ちても近づかないよう、お願いいたします。

 いや、それにしてもドキドキしてきましたね……』

 タクトは一瞬、車内の時計に目を走らせた。

「どうする?」

 急に現実に戻って、郁子が尋ねてきた。

「え?」

 郁子は窓の外に指を出して、どこかを指した。

「基地に向かうか。それとも、このままドライブを続けるか」

 タクト達、統合自衛隊というのは、有事が起こった際に陸海空三隊が円滑に連携を取れるよう、情報面や輸送の面でサポートするのが役割である。

 例えば大地震が起こった時、陸上自衛隊が現地で救援活動をする一方、海と空が補給物資などを運ぶことになる。

 軍事の基本として、一軍は組織内で完全に独立出来るシステムと命令系統を持っていて、味方と言えど敷居をまたいでの活動要請は、決して速やかに行われるわけではない。

 しかし、現代では三軍が有機的に連動して、長所を伸ばし短所を補うことが求められている。というか、航空戦力が欲しいから、という理由で陸が空軍並みの航空隊を保持していては、いくら予算があっても足りない。

 必要な時に、必要な空の力が空軍から引き出せる方が予算的に優しい。

 統合自衛隊は、伝統と法律で複雑に絡み合う命令系統のなかで、人形遣いのように組織を動かしていく存在である。

 特に情報収集能力に特化していて、諜報部や宇宙部隊、画像解析部隊を擁している。

「取りあえず、街を見回っていよう」

 タクトは国道一六号線を流しながら答えた。

 タクト達は流星が街に落ちて被害が出た場合、それがどの程度の被害で、どの程度の支援が必要なのかを見極めるために、ここにいる。

 木更津には首都圏で最大のヘリ基地がある。どこかで被害が出た場合、すぐに部隊を派遣しなければならない。

 当然、統合隊がいなくても、基地では万が一の事態に備えて、出動準備を進めているはずだ。

「了解。

 ね、隕石が落ちてくるか賭ける?」

「人の命を賭け事にする趣味はない」

 タクトはあからさまに憮然として見せた。

「自分と友人の命は賭け事にするのに?」

 タクトは運転に集中しながら、眉の間に皺を浮かべた。

「それって、どういうこと?」

「素直に基地に向かっていたら、無事だったのに。

 狭い車の中で、隕石に押しつぶされることもなかったのに」

 郁子は大げさに嘆いて、我が身を抱きしめた。

「タクト君に従ったばかりに、郁子はぺしゃんこになってしまいました。この車、防隕石仕様?」

「宇宙ではご使用になれないタイプだと思うよ。降りる?」

「ちょっとでも怪我したら、責任取って貰うからいい」

「危険手当が欲しいなら、そう言えばいいのに。

 ……電話だ」

 ラジオが切り替わって、カーナビ画面に着信メッセージが表示される。

「映像付きだね。プライベート?」

 タクトは着信ボタンに伸ばした指を、一瞬止めた。

「妹だ……」

「わお」

 郁子の指が獲物を捕らえる蛇のように走って、ボタンを押した。

『はろー、はろー、もしもーし』

 タクトは無言で郁子を睨み付けた。赤信号で良かった。

『ハ~イ、お兄ちゃん。お久しぶり』

 小さな液晶に、白いサマードレスを着た女の子が映った。

 幼さの残る顔立ちに、嬉しそうな笑みを浮かべている。

 片手に帽子を持って、亜麻色の髪を首のところで綺麗に切りそろえている。サマードレスから覗く首筋は赤く日焼けしていた。

「やあ、ルナ。

 悪いが、まだ仕事中……」

「はい、ルナちゃん?

 初めましてー」

 郁子がカメラに割り込んだ。

 ルナの瞳が大きく開かれた。

『わわわ……。

 お兄ちゃん、恋人?』

「仕事って聞こえなかったのか?」

「運命共同体って意味では、ある意味恋人以上よね」

「あと、三〇分間だけな」

 ルナは唇に指を当ててくすくすと笑うと、改まって頭を下げた。

『初めまして、杉原ルナです』

「初めまして、統合自衛隊第601航空部隊 木下郁子二曹です」

 自己紹介を交わしただけで、二人は昔からの友人みたいに微笑み合った。

 ルナは悪戯っぽくタクトの横顔を指さした。

『お兄ちゃんって言い訳の達人で、頭の回転は、一流弁護士並みだから気を付けてくださいね』

「褒めてないだろ」

 郁子はバックレストに身体を預けた。

「あー、分かる気がするわぁ。

 で、困ると『仕事だから』って言うんでしょ」

『そうそう。

 で、次は『事実だから仕方ないだろ』っていうの』

「事実だから、仕方ないだろ……」

 タクトは生態観察されている動物になったような気分でうめいた。

 他にどう言え、と。

 女二人は画面越しに笑いあっている。

「……そっちは随分、暑そうだな」

『うん。えっとね』

 ルナは帽子を被って、首からじゃらじゃらと提げているチェーンや紐を探った。

 一つに何故かでかい温度計がくくりつけてあり、片手で携帯電話を持ったまま読む。

『今日は涼しいよー。

 いま、30度』

「どこにいるんだ?」

『東南アジアのスマトラ島』

「この間はシンガポールじゃなかったか?」

『そうだよ?

 大学がそこにあるんだもの』

「じゃあ、なんでスマトラなんだ」

『そりゃ、研究課題がそこにあるんだもの』

 もう少し大人しくして欲しいのだが。

(何を言っても無駄だな)

 4つ下の妹は、兄と正反対な性格傾向を持っていて、趣味や好奇心であふれかえっている。

(天真爛漫……、ってこの事を言うんだろうな)

「蚊に気を付けろよ」

『慣れたから大丈夫』

「いや、病気とかあるだろ。マラリアとか」

 タクトは、ルナの肌を露出した服装を暗に指摘した。

「やだな、お兄ちゃん。

 病気ってなに想像してんのよ、そんなことしてるわけないじゃない」

 ルナは恥ずかしそうに眉をひそめた。

「お前、バカだろ。

 で、何の用?」

『うん、大学のみんなとね。

 例の流れ星を観察しに来てるんだけど、昼間でも見られるのか聞こうと思って』

「俺は天文学者じゃない」

 ルナは携帯電話を動かして、空を眺めている『大学のみんな』を映した。

 ルナが向けると『大学のみんな』が、大きく手を振ってきた。

「っていうか、屋内にいろ、とだな」

 タクトはげんなりした。ただ、浜辺で飲み会をしているようにしか見えない。

「やっぱり、アジアの人は陽気だね。日本人はみんな仕事してるよ」

 郁子はパーティに混ざりたそうに、液晶を見つめた。

『お兄ちゃんなら最新情報が分かるじゃない』

 ルナの顔が戻ってきた。

「分かるが教えちゃ行けないんだ」

『えー、いじわる。

 せっかく妹が聞いてあげてるのに』

「僕だって、報道されている以上の事は知らない。

 いいから、屋内で見上げていろ。

 ヒョウくらいの大きさの欠片は落ちてくるかも知れないんだぞ」

『こっちの建物の天井なんて、どうせ破けちゃう、ってみんな笑ってるよ』

「笑う所じゃないだろう……」

 その時、後ろの方で歓声のような音が聞こえた。

 ルナは素早く振り返って、額に手をかざす。

『あ、なにかあったみたい。それじゃね、お兄ちゃん』

「あ。ああ……。

 好奇心もほどほどにな……」

 タクトが目を離した一瞬、

『きゃあ……!』

 短い悲鳴が聞こえて、カメラが空を映した。

 タクトは思わずブレーキを踏んだ。

 画素の荒い砂煙が、小さな液晶を覆った。真っ青な空に、遠雷のような音が幾たびか混じる。

 聞き慣れない国の言葉が、さかんに行き交った。緊迫したざわめきが、砂埃のむこうで広がっている。

 映像の角度が変わらない。

「ルナ? ルナ!」

 携帯を地面に落としただけなのか、それとも。

 タクトは液晶画面に向かって叫んだ。郁子がボリュームに手を伸ばす。

 ややあって、急にカメラの角度が変わった。

『あっぶな……』

 帽子の縁がちらつく。

「ルナ。

 無事か?」

『アマル。サヴァ? オーケー? ノー・サマラ。

 なにがあったの?」

 聞き慣れた妹の声が聞こえ出す。

『……うん。

 すぐ近くだったね』

 雑音の中から『コメット』だの『ミサイル』だの単語が聞こえる。

「タクト君」

 郁子がタクトの袖を引っ張る。

 後ろの車がクラクションを鳴らしていた。

「あ、ああ……」

 タクトはゆっくりと車をスタートさせた。郁子がボタンを押して、短くハザードランプを焚く。

「ルナ、平気か?」

『うん、お兄ちゃん?』

 やっと液晶にルナの顔が大写しになった。

 驚きに、軽く息を切らせていた。顔に汗が浮いて、白い砂埃が混じっている。

「大丈夫か?」

『うん、大丈夫だよ。

 急に雷みたいな音がして……。

 やっぱり、どこかに落ちたみたい』

「落ちる、って隕石か?」

『決まってるじゃん。

 行ってみる!』

 だっ、とルナが走り出した。

 周りでも携帯片手に駆けだしている男達がたくさんいる。

「バカ、やめろ!」

 タクトは運転に意識を戻した。

「録画は?」

「してある」

 郁子が声を潜めた。

「予測より大分、早い」

「一応、うえに連絡入れた方がよくない?」

 タクトは無言で頷いた。

 普段から、最悪の状況を考える癖がついている。状況によっては国際問題になるかも。

(ルナが外務省なんかに呼び出されるのは気にいらないな)

「面倒くさい事態に……」

 パァアン!

 銃声に似た音に、タクトは我に返った。

 思わず、辺りを見回す。

 ゴロゴロ、と唸り声が後に続く。薄曇りの空に雷音が伝わっていった。

 耳鳴りではない。街行く人々も辺りを見回している。

「雷……?」

 郁子が呟いた。

『急に雷のような音がして』

「おいおい」

 タクトは車を走らせ続けた。

 ずしん!

 下から突き上げてくる衝撃。

 車が一瞬、持ち上がった。フロントが視界に入り、その先に空が見える。

(ひっくり返る!)

 前輪が元の地面に戻って、サスペンションがガシャン、と音を立てた。

 航空機のジェット音に似た轟音が、鼓膜を貫いた。

 車内でトランポリンのように揺さぶられながら、タクトはハンドルにしがみついた。  前が、真っ白な煙に覆われる。

(ブレーキか。 アクセルか)

 前後左右何も見えない。

 衝突警報が鳴り響く、タクトは反射的に左にハンドルを切った。

 ごりっ、と路肩を乗り越える感触が響く。手に汗がにじむ。

 視界が晴れると同時に、正面から車が突っ込んでくる。

「……!」

 左へ更にハンドルを切って、内側に切れ込む。交差点を左折する。タイヤが甲高い悲鳴を上げる。

 対向車とぎりぎりですれ違い。男の血走った瞳だけが目に焼き付いた。

 後方でばんっ、と不吉な音がした。

「何なの!」

 郁子が身体ごと後ろを振り向く。

 追突される恐れがあるので、タクトは思い切ってアクセルを踏んだ。

 白い砂煙が街の1区画をすっぽり覆っていた。クラクションが鳴り響き、無数のブレーキ音が交差する。

「救助を」

 ほぼ同時に、横手のビルの壁面が吹っ飛んだ。

 コンクリートを貫通して、白い煙の塊が真っ正面に突き刺さる。

「なんだと!」

 衝撃波がフェンダーをねじ曲げる。フロントガラスが一瞬にして蜘蛛の巣に変わり、車がまっすぐ『それ』に突っ込む。

 思わず、歯を食いしばった。

 下から突き上げられるような衝撃を受けて、身体が無重力に浮かんだ。

 車は右へ捻り込みながら飛んだ。

 叩き付けられるショックは、一瞬だけだった。

 頭をぶん殴られたような衝撃で、目の前が真っ暗になった。

 暗闇だった。

 電源を切ったPCの画面のよう。

 肩が締め付けられている。

 ベルトが食い込んでいる右の肩だけが痛む。

(意識がないのに痛いのは不条理だ)

 闇のなか、星が瞬くように、なにかがきらめていた。遠くで花火がやっているみたいだった。

 『お兄ちゃん』

「!」

 タクトは無理やり目をこじ開けた。

 今度は真っ白だった。視界が白に埋め尽くされている。

 顔全体にごわごわする何かが押しつけられている。鼻先が痛い。

(ああ、エアバックだ)

 するするとエアバックが萎んでいく。白い布の奥から、怒ったように見つめる郁子の顔があった。

「大丈夫?」

 彼女の口が言った。

(大丈夫)

 タクトは手を振って、バックレストに身体を預けた。

 瞳を閉じて、深呼吸して。周囲の情報を制限する。

 自分の身体に意識を集中させる。五体の感覚が徐々に目を覚まし始める。

(吐き気やめまいはない。首や背中も無事。出血もしていない)

 ベルトが食い込んだ右肩の痛みが一番目立つ。あとは右の肘から刺すような痛みが吹き出ている。

(肘か……)

 タクトは目を開いた。

「怪我は大丈夫?」

「肘が痛い。出血はしてないと思う」

 タクトはシートベルトを外した。

「なにがあった?」

「こっちが聞きたいわよ」

 さすがの郁子も笑い飛ばす余裕はなかった。

 道路が、雪が降ったかのように真っ白く汚れていた。まるで大量の石灰を空から撒いたようだった。

 タクト達の乗っていた車は道を外れ、商店のショーウィンドウに突っ込んでいた。斜めになっているがひっくり返ってはいない。

 タクトは後ろを振り返った。

 道路に深い亀裂が入って、5メートルほど後方に大きな穴が開いていた。地面が突然噴火したかのようだ。今も、白い石灰のようなものが吹きあがっている。

 周囲では何台かの車がひっくり返って、クラクションが鳴りっぱなしになっていた。

「被害はここだけか?

 2次被害は?」

 タクトは足を使って、ドアを開けた。

「分からない」

 外に出ようとするタクトを郁子が制した。

「タクト。基地へ行って、情報を集めなきゃ」

「怪我人の救助が先だ」

 郁子は首を横に振った。

「じゃあ、まずはあんたね」

 断る間もなく素早く助手席から出ると、運転席に回ってきた。

「僕は一人で大丈夫だ」

「私はレスキューじゃない。

 助けたい人に優先順位を付けるのは間違い?」

 郁子はぐいぐい、とお尻を押しつけて、タクトを助手席に追いやった。

「民間人が優先に決まってるだろう!」

「ルナちゃんのことを忘れたの?」

 郁子は冷静な顔でエンジンをかけ直した。

 1,2度不平の声をあげつつ、電気モーターが動き出す。

「あなたの仕事は情報収集でしょ。

 スマトラ島と木更津だけに隕石が落ちるはずがない。

 全国的に被害が起きてるなら、統合自衛隊の力が、っていうか、あなたの力が要るの。

 分からない?

 その腕で、レスキュー隊員の邪魔をするより、ずっとマシな救助活動じゃない?」

 クラクションの音に混じって、救急車のサイレンが聞こえる。

 タクトは周囲に目をやった。住民や通行人が、車から怪我人を引っ張り出している。救急車も間もなく到着する。

「分かった」

 答える前に、郁子は車をスタートさせた。

 

 

 『流星』は、日本から東南アジア、インドといった範囲に落下した。

 日本では木更津、静岡、愛媛で同規模の衝突があり、四〇名が怪我、三名が死亡した。

 比較的大きな都市で衝突が起こったものの、全体的な被害としては最小限といえた。

 道路や建物といった物損被害は無数に出ている。連日、ニュースが被害の調査と政府の対応について報道しているが、なにせ原因が隕石なのでどうにも突っ込みどころに困っている。

 その怪我人の一人、杉原タクトは統合自衛隊・合同部会の席上にいた。

 あれから三日経っていた。

 幸い木更津では死者は出なかった。通行量の少ない時間帯だったのが不幸中の幸いだった。

 緊急出動に備えていた消防、陸自の連携はスムーズに進み、市民の協力も大きかった。

 対応に問題はない。

 タクトはむす、とした顔で自分の席についていた。

 広い講堂だった。

 大学の講堂に似ている。長い机がすり鉢状に並び、講壇を囲んでいる。薄暗く、スーツを着た男女が密やかに会話を続けている。

 正面の大型スクリーンに、複雑な細胞のような物が映し出されていた。

 問題なのは、落ちてきたモノだった。

 焼けこげた塩の塊のような隕石は、アスファルトごと削り取られ、軍の研究所に移送された。

 これほど速やかにきちんとした形で保存出来たのは日本だけだ。インドの奥地に落ちた隕石は、まだ回収も行われていない。

 タクトは正面を睨んだまま、ギプスで固められた腕で腕組みしていた。

 何人かの同僚や知り合いが声を掛けてくるが、まともに取り合わない。

 あれから、情報管制の名目でタクトは自宅にも帰れていない。ルナにも連絡が取れていない。一応、外務省を通じて無事だと言うことは聞かされたが、インドネシアと日本、両国とも二人の会話を許可しなかった。

 いつ書いたのか、ギプスには郁子の電話番号が書いてあった。

(まったく……)

 もちろん電話なんてしていない。恐らく彼女だって、隔離されているのだろう。

 ルナに伝えた以上に、タクトは流星のことについて調べていた。

 『流星』は火星の付近からやってきた。

 火星近傍の小惑星帯で、小惑星同士の衝突が起こったことが引き金になり、軌道を変えた『流星』が地球と衝突コースに入ったのだ。

 NASAなどは、地球に接近するおそれのある小惑星を全てリストアップして監視しているが、火星までは及んでいない。

 火星の周辺で具体的に何が起こったのかは、まだ分かっていない。

 何の原因もなく、小惑星同士が衝突する事は考えにくい。彗星の巣で生じた彗星群が、火星近傍に降り注いだのではないか、と言われていた。もちろん、それでも前兆はあるはずなのだが。

 『彗星の巣』と言うのは、太陽系外周を取り巻くカイパーベルトを指している。

 そこには太陽系の誕生以来無数の岩石がひしめいている。いわば太陽系という重力圏によって形成された巨大な環とも言える。

 そこでは岩石同士の衝突が、常に起こっている。ひとつひとつは小さいが、衝突し、合体を繰り返すと、だんだんと大きく成長していき、ある程度まで成長すると、惑星の重力に引かれて落ちていく。それがハレー彗星などの彗星の正体だ。

 今回は火星の重力に引かれ、途中の小惑星にぶつかったのだろう。その破片が地球軌道に撒かれたのだ。

 しかし、ただの天文現象とは思えない。

(数週間前からレーダーに捕捉されていたのに、状況が違いすぎる)

 落下の時間、地表に到達した隕石の質量。どれも、そう間違えるはずのない予測だ。

 地球に接近する流星などいくつもある。その中で、地表まで到達するものなどごく僅かだ。

(隕石自体が何らかの大気圏突破手段を講じていなければ)

 タクトには、最悪の状況を想定する癖が付いている。

『えー、お集まりの皆様よろしいでしょうか』

 ぼんやり考えていたタクトは、ふと我に返った。

 いつの間にか部会が始まっていて、定例の挨拶等が終わっていた。

 薄暗い長卓に、ぎっしりと人が詰めている。いわゆる自衛官とは違う、官僚風の背広組が、暗がりの中で演台を見下ろしていた。

 立体プロジェクターが立ち上がって、ガラスのスクリーンに白っぽい軟球のような物体が映し出された。

 タクトはメモ帳型のペーパーディスプレイを机に出した。会議室のサーバーに接続して、画像データを落とす。

『ご覧頂いているのは、国際月面研究基地のカメラが最後に捕らえた軌道物体を画像処理したものです』

 タクトは無感情に白い小惑星を眺めた。ディスプレイに、その軌道要素や光学特性が追加されていく。

『日本時間九時一五分。

 月面に、これが落下しました』

 会議室にざわめきが走った。

『アポロの地震計と、月面基地の地震計がその衝撃を捕らえました。衝突地点は月の裏側なので、直接観測は出来ていません。

 月を周回する人工衛星が衝突地点の写真を撮っています』

 画像が切り替わる。

 薄暗い渓谷に、ノイズのような物が走っていた。色のない灰色の地表で、微かな混乱があったように思える。だが、全体のスケールが大きすぎて良く分からない。月面写真の専門家でなければ、何も分からないだろう。

 衛星写真の画像解析をしたことのあるタクトですら眉をひそめた。

 『何故、情報が出てこなかった?』部内の誰かの発言が、ペーパーディスプレイの小窓に流れた。

『NASAが二日間も黙ってるなら、良く分かっていないんだろう』、『地球に落ちた隕石と相関関係はあるのか?』、『無いわけないだろうが……』、『NASAは情報交換を求めるつもりかな』、『月を観測するなら衛星を上げるより、月面基地からの方が容易い』、『……国際社会に、秘匿できないがな』

 タクトはペンで唇を叩いた。

(人工物体ではない)

 タクトの目は、その映像の中に人工物体の痕跡がないと見ていた。

 画像解析の基本は、写真の中から人造建造物を見つけだすことだ。専門の解析ソフトもあるが、人間の勘に依る部分も多い。

 ただ、人の目と言う奴は、どんな写真からでも何か怪しい物を見つけてしまうもので、あまり当てにはならない。心霊写真が良い例だ。

 情報交換か。

(日本が収容した隕石を、アメリカも欲しがってるんだな)

 NASAには公にしている以上の情報があるはず。外務省では恐らく接触を受けているのだろう。

『次に、収容した隕石についてです』

 映像が切り替わる。まるで手術台のような台座に据えられた白い隕石の周りを、無数の工業機械が取り巻いていた。

『つい先ほど、ようやく付着したアスファルトなどを全て取り除くことが出来ました。

 これからサンプルを取っての本格調査を行う予定です』

 その隕石の白さは、さきほどの『流星』の白さと明らかに類似していた。『流星』の映像が処理を受けていたとしても。

 さきほどにも増して、チャットに多くの会話が流れる。

「提案がある」

 大きく響き渡る声があがった。

 黒い人影のなかから、ひとりの男が立ち上がった。数百の丸い頭が一斉に、彼の方を向いた。

 タクトもそちらを向いた。

 若い男だ。聞いた覚えのない声。

 彼は芝居がかった動作で、メインスクリーンに映る隕石を指さした。

 妙に長い指が影絵のようだった。

「サンプルなど取っている場合ではない。

 とっとと焼き払うべきだ」

 ざわめきが広がった。

 彼は腰に手をやった。

「当然、その準備はしてあるんだろう?」

 彼の仕草には、どこかこの会議全体を小馬鹿にしている雰囲気があった。

 そもそも、立って発言をする必要など無い。

「何故だ。

 理由が聞きたい」

 彼のすぐ近くで、甲高い声が挙がった。男の人影が、ひとつ立ち上がる。周囲で同意するざわめきが続いた。

(おいおい、なんのショウだ)

 タクトは唇を叩いた。

「危険だからだ。

 お宅、いまだにこれをタダの天体現象だと思っているのか?」

 言われた方は、言葉に窮した。

(大の大人が『地球外生命体』なんて、言えないだろうな)

 タクトは冷めた目でふたつの影を眺めた。

(ましてやエリート様が、そんな台詞を自分から言えるはずがない。最初に言った奴が負け、みたいなものだ。

 だが、)

 タクトは月面地図と写真を見比べた。

「あらゆる可能性を考慮する必要があると認識している」

 男は胸を張った。

「だからこそ、公正で、厳密な調査が必要なのだ。

 破壊することなどいつでも出来る」

 再び、同意のざわめき。

(甘いな)

 最初に発言した『彼』は、向けられる視線の渦を「はっ」と笑い飛ばした。

 そして、彼はタクトが思っていることと全く同じ言葉で、この現象を定義した。

「これは侵略だ。

 そして、あれは兵器だ。

 危険な兵器を、首都のど真ん中で後生大事に抱え込むバカはいない」

 『彼』はよく通る声で宣言した。

「バカなことをいうな」

 3人に増えた男達が『彼』を囲んだ。

「兵器ならば、なおさら、きちんと調べる必要がある」

「地球が侵略を受けるいわれなどない」

「大体、異星人の兵器だという根拠があるのか?」

 異星人、と言う言葉が出て、講堂中で議論がわき起こった。電子会議を放り出して、近くにいる者同士でお喋りが始まる。

 今日日、会議でこんなに騒がしいのは初めてだ。

 タクトはペーパーディスプレイを机に放った。

(少なくとも、あいつは最低最悪の事態を想定している)

 その一点に置いて、自分と似ている。

「お宅ら、馬鹿か?」

 彼の声は、心底容赦がなかった。

「調査とか、そう言うのは全部、あれが『俺たちが手に負える物体』である前提がなきゃ成り立たない。

 あんた、その証明は出来るかい?」

「無茶を言うな。

 なら、『手に負えない物体』である証明は?」

 男は声を荒げた。

 彼は親指でスクリーンを示した。

「あれが、恒星間航行能力を持った侵略兵器である事実が、それが答えだ。

 この時点で、我々の手に負える範囲を大きく逸脱している。違うか?」

 男達は顔を見合わした。

「議論がループしているぞ。

 そもそも兵器である証明が出来ていない。

 異星人である証明もない」

(地球外から攻撃を受けている時点で、異星人だろう)

「すでに死人が出ている」

 『彼』の声は小動もしなかった。おそらく、顔色一つ変えずにいる。

「無断で高速物体を進入させて、その国の人命を奪うことを、我々は侵略や攻撃と呼ぶんじゃないか?」

「それは観念論だ!

 我々がそう感じるだけに過ぎない」

「はっ!

 お宅、どこかの国と友好条約を結ぼうとする際、お手紙を巡航ミサイルに乗せて、都市部に打ち込むかい?

 いま明かな事実は、連中が最低でも恒星間航行能力を有していること」

 『彼』はふたつ、と数えた。

「奴らはマッハ20で住宅密集地に突入体を打ち込み、死傷者を出したこと。このふたつだ。

 恒星間航行能力を持つほどの文明が、住民の命を脅かすような手段を使うか?」

「向こうが、我々の生体や住居に詳しくないなら……」

 男は歯切れ悪く答えた。

「ビル群を植物と間違えたか?

 そこに住んでいる有機生命体をプランクトンだと思ったのか?

 それを調査するそぶりすら見せなかったじゃないか」

 反論の為に集まった男達は顔を見合わせて、ごにょごにょと呟きあっていた。

(何者だ、あいつは?)

 タクトは周囲の議論を無視して、『彼』だけを見つめた。

 あの男は議論の内容を『隕石の取り扱い』から『異星文明』へとすり替えている。

 彼に反論していた声も、最初は『異星文明があるとして』と言っていたのが、徐々に後ろの『として』が抜けていっている。

 会議全体が、いつの間にか『好戦的な異星文明とどう向き合うべきか』という議題にすり替わっている。

 『彼』は明らかに意図して、それを行っている。

 そして、それは確実に国防の粋を超えている。

 さっきから進行役がほとんど口を挟んでいないのも気がかりだった。まるで、行き着くところまで行くのを見守っているかのようだった。

(一体、どれだけの思惑が渦巻いているんだ)

 その時、別の種類のざわめきが起こった。

 ペーパーディスプレイをすくい上げた。『サンプル採集を中止』とある。

 メインディスプレイに、赤いランプの光が混じった。

『マレー大学より隕石に関する重大な報告が入りました。一時、すべての作業を中断します』

 司会の声が無機質に響いた。

『なんらかの事故が起こった可能性もあります』

 タクトは席を立った。

「おい、待て。座れ」

 同僚が袖を掴む。タクトは無言で振り払った。

 階段に向かい、二段抜かしで駆け上がった。

『公式文書を、各自確認』

 皆が一斉に自分の端末で情報を確認する。その中を走って、タクトは講堂を出た。

 廊下の電灯がまぶしかった。

 目をしばたたかせて、頭を振る。

 目の前に、一人の男が立っていた。

「やあ」

 『彼』だった。

 ひょろ長い雰囲気の男だった。痩せていて、手足が妙に長い。瓜みたいな顔に皮肉げな笑みが張り付いていた。

 歳の頃は、恐らくタクトと同じくらいだろう。自衛官らしくない姿勢、片足に体重を乗せてだらしなく立っている。

「僕を待っていたのか?」

 タクトは身構えつつ尋ねた。

「いや?

 最初に出てくる奴を待っていた」

(変な奴だ)

 意図を問いただしたい所だが、そんな場合じゃない。

「すまないが、電話を貸してくれないか?」

「構わないが、なんでだ?」

 規約には反しているが。

「妹に連絡が取りたい。僕のパーソナルフォンはロックされているんだ」

「ふむ」

 彼はポケットに手を入れて、飾り気のない電話を取り出した。

「なるほど、君がファーストコンタクトの男か」

「番号を言うから掛けてくれ」

 タクトはメモ帳を出しながら頼んだ。

 彼は電話を耳に当てて、

「駄目だな。全館電子封鎖されている」

「チッ」

 鋭く舌打ちして、タクトは歩き出した。

 『彼』も、何故かついてきた。

「俺の名前は、境サブロー。よろしく」

「杉原タクトだ」

 表示のない廊下を、男二人は早足で歩いていく。

「聞きたいことがある」

「良いけど、気の利いたのにしてくれ?」

 タクトは思わずサブローの長細い顔を見つめた。

「あなただったら、どんな兵器を使う?」

 サブローは、タクトのギプスで固めた腕に目を落とした。

「まぁ、気になるだろうな」

 彼はなにか粘土をこねるような手つきで話し始めた。

「敵の技術レベルにも依るが、少なくとも確かなのは、何かを落とす必要があった、ってことだ。

 超巨大な宇宙船の艦隊で、地球を吹き飛ばしに来たわけじゃない」

「後続があるんじゃないのか?」

「それならとっくに到着しているはずだ。

 わざわざ石ころを投げて、奇襲を予告する奴はいない」

「示威行動なら?」

「もっと分かりやすい事をするだろ」

 サブローはくっく、と笑った。

(確かに……)

 タクトは彼の笑いの意味を想像して、恥ずかしくなった。

 地球人を皆殺しにするぞ。と言う意思表明があの程度では、足りないにもほどがある。

(大体、攻撃を受けた我々が、まだ自覚していないのだから)

 だけど、それは尚悪い事態を示唆している。

「こちらを攻撃する明確な意志を持っていて、さらに攻撃目的を果たす確信を持っている敵……か」

 タクトは指を噛みしめた。

 言うまでもなく、奇襲攻撃はそれに付帯する戦略上の勝利条件を確定させるために行う。

 彼らはすでに戦略的勝利を確定させる為の行動を行っている最中だ。

「しかも、今のところ交渉を行うつもりがない」

 人類の外交史も似たようなものだ。取りあえず一発殴りつけて、どっちが強いか分からせてから、初めてテーブルに付く。

「あなたが、すぐに焼き払えと言った意味が分かった」

「光栄だ」

 攻撃はこれから行われるのではない。すでに行われている。

「敵は、どんな攻撃をしているんだ?」

 タクトが尋ねると、サブローは意外そうな顔をした。

「どうした?」

「お宅は、人の懐に無防備で入ってくるんだな」

「?」

「いや。

 俺としてはナノマシンかな。と思っている」

 タクトは思考を巡らせた。

「自己増殖型の兵器?

 地球のあらゆる物質を材料に、どんどん増殖してしまうような」

「少し違うな。グレーボールって知ってるか?」

「いや?」

「分子サイズの自己増殖型ナノマシンを造ったとして。

 それが何らかの拍子で漏れだしたり、テロ」

で使われたらどうなるか、って話だ。

 地球上の物質を次々に組み替えて、やがては地球全てがナノマシンに汚染される」

「それをやろうとしてるんじゃないのか?」

 隕石大の大きさのナノマシンで十分に可能な話だ。

「だが、それは起こらないんだ。

 考えて見ろ、俺たちの体内にある大腸菌だって一日で地球と同じ質量になるくらいの繁殖力は持っているが、そんなことは起こらない。

 要するに理想的な繁殖状態なんて、自然界では起こるはずがないんだ」

「では、どうするんだ?」

「ナノマシンで造ったウィルスならどうだ?

 知っての通り、ウィルスは自分自身で増殖することは出来ず、生物のDNAを宿主にして、DNAデータを改変しつつ増殖して貰う。

 もし、そのサイズで出来た機械があれば、通常の生物兵器とは比べものにならない破壊力を持つ。

 これなら生物と無生物を判別をする必要もない、少なくとも地球上に存在する全ての生物は遺伝子を持ってるからな。

 生殖能力を司るDNAを破壊するナノマシンウィルスを作り出せれば、それだけで人類は滅亡する」

「そう、上手く行くかな」

「わからん。完璧な生物兵器なんか、あり得ないからな」

「もし、そうだとしたら」

 あまりに現実離れした妄想に、あえてタクトは飛び込んでみた。もし、そうだとしたら、

「あの隕石は、人のDNA組成を解析して、ウィルスを製造し始める」

 ルナは、

(近くにいたのだろうか。

 大学でまさか、手伝いなどしていないだろうか。

 政府が接触させないのは、ルナが隕石の解析に携わっているからか)

 廊下の影から、男がふたり、タクト達の前に立ちふさがった。

 国防軍のスーツに身を固めていた。

 異様に広い胸板を強調するように胸を張って、ふたりは廊下に並ぶ。サブローが小さく鼻を鳴らした。

「一緒に付いてきてくださいタクト様」

 彼は斜め情報を見つめたまま宣言した。

 背筋が冷たくなる。

 頭一つ高いところにある、男の業務的な冷徹な瞳を見て、恐怖が下腹から背中に登ってくるのを感じた。

 理性では拒否しているのに、思考が勝手にパズルを組み上げていった。

「あ、」

 情けないうめきが口から漏れた。

 タクトの頭の中に『諦め』の二文字が浮かんだ。

 恐怖や葛藤や興奮が一斉に流れ落ちていく。シャワーで泥を落とすみたいに。

 ロジックが高く積み上がり、音もなく崩れ去った。

「タクト様?」

 男が重ねて言おうとするのを、タクトは微妙さえ浮かべつつ制した。

「マレー大学が全滅したな」

 男の頬に、ぴくりと針で突いたような変化があった。

「我々は何も知らされておりません」

 タクトは顔を手で覆った。

「いや、最初は高熱症状かな。まぁ、いい。そのまま放っておくはずがないか。

 サンプルは焼却されたのかな。それとも現場スタッフも一緒くたにかな」

「タクト様……!」

「黙れ」

 タクトは鋭く男を睨み付けた。男はタクトに伸ばし掛けた手を止めた。

「俺に触るな。

 行くよ。誰が呼んでるんだ? 彼も一緒か?」

 タクトは壁際で腕を組んでいるサブローを目で指した。

「いや……、その指示は受けておりません」

「そうか。

 じゃ、また」

 タクトは毎日会う同僚にするような口調で、サブローに言った。

 サブローは値踏みするような視線をタクトに向けて、壁から身体を起こした。

「ああ、またな」

 サブローは手を振りつつ背を向けて、ぶらぶらと歩き去っていった。

 その後ろ姿を男らはぼんやり眺めていた。

「行こうか」

 タクトは先に立って歩き始めた。

「あ、あのタクト様……」

 歩き出そうとするタクトに、男は気遣わしげに声を掛けた。

「なんだ?」

「その、お察しいたします」

 タクトの細い眉がぴくりと上がった。

「なにがだ?」

 2メートル近い大男は、肩をすぼめて頭を垂れた。

「妹さんのことです。その、公式発表はまだですが……。

 心中お察しします」

 タクトは立ち止まって、斜め上空の空間をぼんやりと眺めた。

「…………」

「タ、タクト様?」

「くっ」

 笑いがこみ上げてきた。

 廊下がぐにゃり、と曲がって見えた。

 大男の顔も歪んで見える。

 肩を震わせて耐えていたが、口から声が吹き出した。

「くっ、あははは……! はっはっは……。

 ははは……、くくくくく……」

 お腹が痙攣する。

 笑いすぎて、背中が痛い。

「ふっ、ふふふふふ!

 くふふふ……」

 ふたりは言葉を失った。

 タクトは壁に手を付いて、お腹を押さえた。

「はははは……はあ、はあ…」

「あの、タクト様?」

 大男が気味悪そうに、タクトの肩に手を置こうとした。置こうとして、手が浮かんでいる。

「いや、大丈夫」

「気を落とさずに……」

 タクトはコンクリートの壁に爪を食い込ませながら、身を起こした。

「気を落とす?

 君は何を言ってるんだ?

 月はすでに侵略された。これで攻撃が終了するはずがないだろう。

 死者が出るのは、これからだ。

 我々は圧倒的な技術力を持った敵と正対しているのだぞ。

 これから先、落下した隕石を悠長に輸送したり、焼却処分する余裕があると思うか?

 街ごと焼き払うことになるぞ。

 こんなところで、馬鹿面していないで、家族を疎開させたらどうだ?」

 男二人の間に、明らかに動揺が走った。

 お互いを牽制するように、視線を交わしあう。

「いつまでも平和ボケしているなよ。

 俺たちは侵略を受けている真っ最中だぞ」




 1-3 Battle of Moon



 悪い方面の予測は良く当たる。

 ナノマシンウィルス説は、侵略方法に関する、いくつかの予測のひとつに過ぎない。数多ある最悪のシナリオのうちの一つだ。

 ただ、隕石の目的はほぼ確定した。

 あれから数度の隕石が地表に落下した。すべて月から打ち出された物だった。

 そのたびに、被害は増えた。落下した場所が問題なのではない、隕石の周辺で不可解な死亡事例が増えていた。

 隕石がナノマシン集合体と認定された。

 隕石は人間の情報を集めている。

 集めた人間の情報は、なんらかの方法で蓄積され、次の攻撃に利用されていた。

 結局、それは焼き払うしかなかった。

 ロボットや無人作業機を使って回収し、隔離地域に運べたのは最初の内だった。

 敵は徐々に身を隠すことを覚えたり、近づくモノを攻撃し始めたりした。そして、最終的にはタクトの予測通り、全てを焼き尽くすしかなくなった。

 人類を守るために、街に落ちた隕石を破壊するために、自国に向かって核ミサイルを落とすしかない事態に陥った。

 2年半あまりで、死者は3億人を超える。

 敵は、天罰を意味する『ネメシス』と呼称された。

 あまりに多すぎる被害だった。すぐにヒトは地球を護るためには、地球で戦うわけにはいかないことに気づいた。

 地球を守るため、月に前進防衛基地を建設した。1969年以来、半世紀以上も足を踏み入れたことのなかった月に、わずか二年というスピードで軍事基地を完成させたのだった。

 死んだのは、妹だけではない。

 自分も、あの日死んだのだ。

 タクトはそう思うことにした。

 夢も希望もない。ネメシスを滅ぼすことだけが、自分の全て。



 二〇三〇年 低軌道・月面往還機『しらせ』


 誰かに体当たりを食らったかのような衝撃に、タクトは現実へ引き戻された。

 足先が、フックから外れた。

「!」

 掴まる場所がない。

 無重力に放たれた身体が、コマのように回転する。世界が凄い勢いでぐるぐると回る。

 床、天井、ライト。床、天井、ライト。

 目が回る。

 吐き気がこみ上げて来た時、銀のチェーンが、また取れそうになって、目の前に浮き上がった。

 慌てて、掴み掛かる。

 ゆっくりと漂うチェーンを見つめると、なぜか吐き気が収まった。

 服の下にしまうと、足を畳んで身体を丸めた。

 どすん、と壁に背中がぶつかった。跳ね返る前に、タクトは急いで固定用のゴムバンドを握りしめた。

「ふう……」

 腕の力とゴムの張力で、回転が止まる。

「ユイリン?」

 目を向けると、それが見えた。ぐるぐると回転する手足が、こっちに飛んでくる。

「あいややややや!」

「げ」

 捕まえるにも、やたらめったら手足を振り回しているので近づけない。

「ど、どうすれば」

 躊躇っているうちに、踵がタクトの顎をぶん殴った。

「で!」

 見た目はゆっくりでも、滅茶苦茶痛い。

「くそ」

 とにかく手を伸ばして、何とかそのブーツを捕まえる。

「やあ!」

「どこかに掴まって!」

 ユイリンの身体は、タクトの掴む足首を支点にしてゆっくりと回転する。

「ど、どこって」

 壁に近づいて、やがてべちゃ、とぶつかった。

「ぶべ」

 鼻を潰されて、ユイリンはカエルみたいな声をあげた。

「は、はなはな……」

「早く掴まってってば」

 少しずつ、身体に重力が戻ってくる。

 ゴムバンドが引っ張られ始め、バントを握っている右手が重くなっていく。

 肉体に重さが戻ってくるのと同時に、無重力で漂っていた上と下の感覚が目覚め始める。

 今、バンドを握っているのは『天井』で、足の下は『床』に感じる。

 天井からぶら下がっている。とはいえ、ほんの僅かなので、右手には体重の数%しか掛かっていない。

「軌道を変えてるのか?」

「タ、タクトさん、離さないでください!」

 ユイリンが悲鳴をあげた。

 ユイリンはタクトに足首を掴まれて、そのまま逆さ吊りになっている。額へずり上がる眼鏡を抑えた。

「や、下に降りた方が良いと思うけど」

「いやです!」

 いくら狭いとは言え、床は央子の頭のした1メートルくらいのところにある。もちろん、低重力なんだから、落ちても怪我するとは思えないけど。

『お客さん方、大丈夫かい?』

 スピーカーから船長の声が流れてきた。

「おおむね!」

 タクトはスピーカーに向かって、叫んだ。

『ESAから連絡があった。ネメシスが出たらしい。

 一端、周回軌道に乗るから待ってくんな』

「ネメシスだって?

 ユイリン、離すよ」

「いやですってば」

 ぱ、とタクトは手を離した。

 悲鳴を上げながら、ユイリンの身体はゆっくりと床に落ちていく。

「船長。

 月は、どっちの窓から見える?」

『ああ?

 えーと、スターボードだ』

(右舷って、どっちが右舷だ)

 聞こうかと思ったけど、それはそれで説明が難しいだろう。

(えーと。あっち側にGが掛かってるんだから、推進軸が……)

 タクトは、必死に頭の中で宇宙船の動きをイメージした。

(宇宙での位置関係を、本能的に把握しているスペースマン達は凄いな)

「こっちか」

 タクトはバンドから手を離して、床の方に飛んだ。

 ちーん、と鼻をかんでいるユイリンの隣に着地する。

「タクトさん、離さないで。って言ったのに」

「眼鏡は大丈夫?」

「実はコレ、柔らかい素材で出来てるんです」

 ユイリンは眼鏡を外して、くね、と曲げてみせた。

「そう、よかった」

 上の空で答えて、タクトは窓に頬を寄せた。

 月面が驚くほど近くに見えた。窓を破って、自分が落ちてしまう錯覚を覚えるほどだった。

 灰色の平原がどこまでも広がっていて、人工物さえ見つからない。

 丸く切り取られた丘のうえに、なにか物体が見えた。

 タクトは更に目を凝らす。

 素人では双眼鏡を扱えないのがもどかしい。

(ネメシスか?)

 奇妙な形の、ロボットに見えた。

 それは空を見上げていた。

 自分たちのほうを見上げていた。

 ふと、その単眼と目があった気がした。


 

「ほら、紅色ちょうちょ追いかける……」

 ちくり、と腕に痛みが走った。

 ギアの腕に小さなトゲが浮かんだ。

 希美は、空の一点を目で追った。

(なんだろう)

 空が揺らいだ。

(ネメシスが来る)

 月面のほんの少しの大気が波打ち、ソニックウェーブが丸く広がる。一瞬後、一流の隕石が平原に突き刺さった。

 月震が起こり、灰色の土が宙に浮く。クレーターの底へ向かって、小さな雪崩が起きた。

 灰色の爆煙が、恐ろしい高さまで吹き上がった。

 丘の上で立ち上がったギア/希美の背丈を遙かに上回る。

 吹き飛ばされた土砂は、楽に月の脱出速度に達する速度で昇り、希美の頭の上で傘のように広がった。

『ネメシス襲来!

 馬鹿野郎! コンタクトは、まだ先だろう』

 密閉型ヘッドフォンのなかに、サブローの怒鳴り声が響いた。

(あの人、大丈夫かな)

 もくもく、と雲が広がる空のどこかへ、往還機は消えてしまった。

 視線が合った気がしただけかもしれない。人の乗っていないただの貨物便かも。

(無事だといいけど)

 希美は平原に目を戻した。

 あばただらけの平原に小さなクレーターが出来上がっている。湧き上がる灰色の煙は執ねく渦を巻き、中空に陣取っている。

 レーダーシステムを全て起動させて、そこへ焦点を合わせる。

『米軍基地に支援要請!』

「ギア02よりHQ。交戦許可を求む」

 希美は服の襟に、口元を埋めた。

『HQよりギア02。交戦は認められない。その場で待機してろ』

「ぶー」

『結城がやる気満々だからな。

 俺たちはサポートに付く』

 ギア02はその場に片膝を付く。

 希美は頬をふくらませた。

「姉さんはいつも、やる気満々だよ」

『必要ないくらいにな。

 ギア02は、そのまま偵察を続けろ。

 モニターはするが、異常があったら知らせるように。

 ギア01。発進準備。

 なに、見せ場は造ってやるさ』

「わーい」



「くそっ」

 境 サブローは、ヘッドセットのマイクをオフにすると、コンソールを拳で殴りつけた。

 『上級作戦武官』と書かれたプレートと、サブロー自身の身体が宙に浮く。

「なんで、上方監視が上手く行かないんだ。

 万全の状態で迎撃しなきゃ勝てないだろ」

「落ち着きなさいよ。見苦しい」

 サブローの隣のデスクで、同じく作戦武官の月野ミサが、ペットボトルの水を一口含んだ。

 ジムから直行してきた為、スポーツウェアを着たままだった。軽く息を弾ませながら、顔をタオルで拭う。

 尖り気味の顎に、汗の滴が浮いている。ほっそりした痩せ気味の顔で、亜麻色の瞳がコンソールを睨みつけていた。

 金に近い茶色の髪をポニーテールにして、広い額にピンク時のタオルバンダナを巻いている。

 腕を一振りさせて、コンソールに月の地形図を呼び出す。

「見苦しい?」

サブローは絡みつくような口調で、ミサに食ってかかった。

 尖り気味の灰色の髪を、さっと掻き上げる。

 青黒い隈が浮いている目つきは意地が悪そうで、面長の顔とあいまってネズミのような風貌を作っていた。

「チッ」

 サブローは派手に舌打ちをした。

「レーダー班は、毎回『今回は完璧です』っつてるんだぞ」

「デブリが多いし、ネメシスは特定の組成を保持していないから同定が難しいんでしょ」

 監視態勢にコマンドを与えながら、ミサが答える。

「『完璧』っつんだぞ、完璧ってのは完璧って事だろ」

「…………」

 ほっそりした頬をぶー、と膨らませて、ミサは押し黙った。別にレーダー班を弁護する義理があるわけではない。

「ったくよ、ネメシスの監視衛星と交差するまで襲来はない。って言ったのはどこのどいつだ」

 サブローはコンソールのうえに無駄に長い脚を乗っけた。

「私じゃないわよ!」

 ミサは癇癪を爆発させた。

「だとしたら、なんなの!

 いい加減に……!」

「ごめん、僕ー」

 ふたりの一段下の席から、手が挙がった。

 顔全体を巨大なバイザーで覆って、頭部から幾本もの太いケーブルを生やしている少年が申し訳なさそうに口を挟んだ。

 解析官・日比野 響は、顔を斜め上空に向けたまま、トラックボールとキーボードを同時に操作していた。  

「楽観的過ぎたねー。

 一応、根拠はあったんだけど」

 幼さの残る声で、実際若い男だった。

 くたびれたTシャツにダメージジーンズ。

 ヘッドフォンこそしていないが、お金のないDJみたいな姿だった。

「あ。別に響を責めてる訳じゃないのよ」

 ミサはコンソールから身を乗り出して、手を伸ばすと下段にいる響の頭をぽんぽん、と叩いた。

「ムーンパレスとシエルからも、同じような予想が来たわけだしね」

「近接体は、一個一個確認したつもりだったけど、見逃したのは僕だから、やっぱり責任あるよ」

 カチカチ、と忙しくトラックボールを操りながら、響は俯いた。

「はっ」

 サブローはコンソールに脚を乗っけたまま、ふんぞり返った。

「誰かを責めてる訳じゃねえ。

 ムーンパレスもシエルも他人事みたいに考えてるから、むかついてるんじゃねえか。

 何の文句があるんだよ」

 サブローは腕を組んで、デスクの上につきだしているミサの尻を眺めた。

「あんたの舌打ちとか口調が、勘に触るのよ。マジで」

 よっ、と軽々しく身体を起こすと、ミサはサブローに鋭い視線を送りつけた。

「そりゃ俺じゃなくて、おめーの問題なんじゃねえか? 生理中か?」

「あんですって!」

「マァマァ……」

 拳を固めたミサに、二人より一段高いところから声が掛かった。

「敵が来ているというのに、喧嘩は良くない」

 多少片言の日本語で、白人のアメリカ人は分厚い両手をこすり合わせた。

 作戦本部長・エドワード ナイはピンク色の頬に笑顔を作った。

 恰幅がよくて、温厚そうな男だった。年齢は50代後半。深い皺の中で、緑色の瞳が光っている。

「サブロー、機体は?」

 エドワードは白い顎髭を撫でつつ尋ねた。

「ギア01・エンデュアランスは、一番デッキで待機中。

 パイロットの結城は、リン教授が診察中。三分以内に準備が整います」

 サブローは本部長に向き直ると、きびきびと答えた。

「我がアメリカ軍は?」

 目をミサに向けると、ミサは立ったまま、指の先で数種類のウィンドウを切り替えた。

「ムーンパレス(アメリカ軍宇宙基地)が、巡航ミサイルの準備中、ただいまホワイトハウスと連絡中。許可が下り次第発射されます」

「解析官」

「敵は現在、活動体への変態中。

 数種類の放射線を確認、ナノ・フィールド形成時に特有の現象です」

 響の綺麗な声が、ざわついた司令室に響いた。

「活動体へ変わるまでの時間は?」

「僕の勘では、あと130秒前後」

 響は音楽に没頭するかのように、意識を集中させる。

「ナノ・フィールドの形成までは、メインコンピューターの試算によると65秒」

「今すぐ攻撃する必要がある。

 月と地球の通信ラグを考慮すると間に合いそうにないな」

「そうっすねえ。

 ラグを考慮しなくても、間に合わないと思いますけど」

 サブローはコツコツと、つま先で床を叩いた。身体がちょっとだけ浮く。

 エドワードは無線ヘッドセットを付けた。

「プランBで行く。

 核攻撃後、間髪入れず、ギアで直接攻撃。最短時間で、ネメシスを撃破する」

「了解」

 サブローは席に戻って、ヘッドセットをオンにする。

 ギア02の通信回線を確認する。

 サブローはコンソールに肘をついて、声を潜めた。

「希美。

 お前さんの運用は、こっちで適当にやるからな」

『サブローが指示を出すってこと?』

「おう。

 結城は本部長が指示を出す」

『姉さん、まだ?

 なんかクレーターの底で、卵みたいなのが光ってるんだけど』

 サブローは手でミサに合図を送る、ミサは響に指示を送る。

「先に核攻撃で吹っ飛ばせるだけ、吹っ飛ばしておく。

 これ以上接近された状況で核を使ったら、こっちの施設に影響が出ちまうからな。

 まぁ、あんまり効果ないかもしれないけど」

『えー……』

「ま、気休めだよ。

 なるたけナノマシンの質量を減らした方が、活動体になった後も弱くなるはずだからな」

『案外、てきとうな予測なんだね』

 サブローの隣でミサが、「この期に及んで不安にさせるような事言うなんて、馬鹿じゃないの、馬鹿じゃないの?」と囁いている。

「ミサイルは、もうすぐ発射される。

 影で身を潜めてろ」

『ほい』

 サブローはマイクをオフにした。

「うるさいよ、お前」

「ムーンパレスがミサイルを発射!」

 ミサが声を張り上げた。

「着弾まで、30秒!」

「早いな」

 エドワードは、のんびりと髭を撫でた。

「フィールド形成まで、あと35秒。

 ちなみに、データはムーンパレスともリンクされてるよ」

 響は楽しげに報告する。エドワードはヘッドセットをオンにした。

「ユーキ、聞こえたな。

 戦闘開始だ」

 


「あいよぅ」

 ずぼ、とスーツから頭を出して、結城は返事をした。

 すらりとした長身。身体を締め付ける耐Gスーツを身にまとう少女は、襟足から長い黒髪を引き抜いて、ぱっと背中に流した。

 黒い瞳に強い光をみなぎらせて、彼女は肩越しにカメラを振り返った。

「やる気満々っすよ!」

 びし、とVサインを決めてみせる。

 大きな黒い瞳が宿った、勝ち気な顔立ちだった。日焼けした顔には、そばかすが浮いている。

 均整のとれた鍛えられた肉体。まだ、10代なかばの、少年のような体つきだった。

「いいから、大人しくしていて。

 あと、向こう映像届いてないから」

 眼鏡を掛けた金髪の女医が、結城のスーツからチェックシールを剥がしていく。

「そうだっけ?」

 リン女史は手元のPDAでデータを確認した。

「着替えを覗かれたい訳じゃないでしょ……」

「はっはっは、そうかあ。

 なんか恥ずかしいなぁ」

 笑いながら頭を掻く結城を見て、リン女史はため息を付いた。

 電子カルテにサインをして、痩せぎすの女医は、結城の胸元の気密をしっかり確認した。

「いい、本部長の指示にはきちんと従うのよ」

「うん」

「勝手な行動は慎むのよ。

 ダメージを受けたら、口頭で報告」

「うん、うん」

 結城は急いでこくこくと頷く。

「大丈夫かしら、胃が痛いわ……」

 リン女史は下腹部を抑えた。

「なんで!」

「とにかく気を付けてね」

 結城はタオル地のバンドで素早く髪をまとめて、アタッシュケースに似た酸素タンクを手に持つ。

 スーツは身体に大Gが掛かった際起こる意識消失を避けるために、四肢に圧力を掛けて、末端の血流を抑制し、脳の血流量を保持する。そのため、体中に酸素のチューブが張り巡らされている。

「じゃ、ちょっくら世界を救ってくるわ」

 結城は指を2本立てて、担当医に挨拶した。

「いってらっしゃい……」

 リン女史は力無い声で見送る。

 結城はエアロックのドアを開けた。

「すぅう」

 重いドアを閉めると、部屋のランプが赤に変わり空気が吸い出されていく。

 結城は酸素マスクを顔に付けた、露出している頬や額がちりちり、と傷む。

 青い色に変わると、結城は奥のドアを押し開けた。太い油圧ジャッキが、重いドアを動かす。

 そこは巨大な格納庫だった。

 天然の洞窟を丸ごと一つ格納庫にしている。

天井まで20メートル以上。船の干ドックくらいの大きさがある。

 軽宇宙服姿の整備員がひゅんひゅん、と飛び回っていた。

「さて、と」

 結城は酸素タンクを肩に背負う。

 そこに彼女の機体があった。

 整備中だったために、膝を折った駐機体勢が取られている。

 鎧を着た巨人のような姿だった。

 希美の乗るギアが、重そうな丸っこい形をしているのに対して、ギア01・エンデュアランスはより人の形に近いスマートなロボットだった。

(美人だ。私に似て)

 結城はにやついた。窓越しにリン女史が胃薬を飲んでいた。

 装甲の色が、テストカラーであるオレンジをしているのがちょっと気にくわないけど。 結城は勢いよく床を蹴って、胸甲の中央に空いている操縦席に足を掛けた。

 操縦席に、簡易宇宙服を着た整備士が潜り込んでいた。

『緊急発進だってな。

 頑張れよ、機体は大体OKだ』

 主任整備士は素早く操縦席のデータを読み取る。

 結城は親指だけ立てて、答える。

『ミサイル着弾まで5秒』

 耳の中に突っ込んだイヤフォンに様々な声が錯綜する。

 主席整備士のロイは、紙型ディスプレイをフリスビーのように飛ばしてきた。

 結城は簡単にキャッチして、整備要項に一瞬目を通しただけで、サインをする。

『着弾』

 音はしない。

 1,2秒経って地鳴りのような振動が洞窟に響いた。天井から吊っているライトが、左右に揺れる。

 ぱらぱら、と砂が振ってくる。ロイは不安そうに天井を見上げた。

『くわばら、くわばら』

 フェイスに付いた砂を払って、操縦席から抜け出した。結城の肩をぽんぽん、と叩く。

 結城は代わりに座席に滑り込むと、酸素タンクをシートの下にしまった。

『コックピット密閉!

 発進準備!』

 ロイが部下に向かって叫びながら、機体から飛び降りた。

 隔壁が閉じられ、カプセル状のコックピットの口が閉じていく。

 結城は椅子にふわりと着地すると、手早くベルトを装着する。スーツ越しに振動がお尻に伝わる。コックピットが密閉される。イヤフォンに響いていた細かいノイズが、ぷつっとかき消える事でそれが分かる。

 コックピット内に酸素と窒素の混合気が流れ込む。露出していた肌のぴりぴりが止まる。それでも室内は0.2気圧くらいしかないので、酸素マスクは外さない。

 周囲を埋める統合ディスプレイには、機体の状況が細かく表示され続けている。

 結城はその全てを手際よく消していった。

「ふう……」

 完全な暗闇。

 ようやく落ち着いた。

 ノイズも、機械音もなくなって、静かな暗闇の中に身を預ける。

 背中から伝わる微かな振動が、なんだか暖かく感じる。

 リラックスして、暖かさを身体に広げていく。

 シートの両手の部分、ゼラチン状に震える流体金属に、手を重ねた。

「コンタクト」

 どろり、と両手が物質の中に入り込む。のは、錯覚。だけど、その瞬間両手の感覚が消える。

 消失感が両腕を這い登って、胸から首、顔全体に満ちていく。

 視界が開けた。

 ギア01・エンデュアランスが自分の身体だった。

「エド。

 発進準備完了」

『HQよりギア01。

 発進』


 

『希美。

 聞こえるか?』

 ギア02の希美はクレーターの端に伏せて、核ミサイルの衝撃をやり過ごした。

「聞こえるよ」

 希美は身を起こして、背中越しに後ろの平原を見やった。

 月には大気がないので地球のような爆風はないし、熱の伝達さえない。

 希美はずりずりと匍匐前進で丘を登った。

 とはいえ、小さな太陽を発生させたのと等しい水素核融合ミサイル、いわゆる水爆の直流を受ければ、ギア02など簡単に蒸発してしまう。

『どうだ?

 やっこさんは』

 ギア02の、後ろに長い顔が稜線から顔を覗かせた。

 平原が、核攻撃を受けてただれていた。

 まるで波で浸食された海岸のようだった。爆心地から同心円状に波紋が広がり、固い大地に刻みつけられている。

 広範囲の月の砂が溶けて、ガラス状に固まりつつある。ところどころに出来た奇妙なオブジェは、ブロンズの彫刻のようですらあった。

 爆心地の真上には気化した金属製のガスが、霧となって立ちこめている。急速に冷え、細い金属の糸になって音もなく地面に落ちていく。

 爆心地の中心に出来た小クレーターの底で何かがうごめいていた。

 大きな卵だった。半ば地面に埋まり、頭の部分が吹き飛んでいる。

 黄色に輝く殻が徐々に溶け出し、その奥から伸びた脚が大地を踏みしめた。

 地面に埋まった頭部を引っ張り出すように、それはトゲトゲの脚を踏ん張る。融けた卵の殻が身体にまとわりつき、鎧を着せていくように見えた。

「依然活動中。

 あんまり効いてないんじゃないかな」

 希美はサブレーダーの焦点を合わせた。

 ダメージを受けているのか、受けていないのかは良く分からない。

『ちっ』

 サブローが鋭く舌打ちをした。

 一瞬、ちょっとびっくりする。

『まだ、こっちの観測機器は生き返らないのか!』

(よかった。私じゃない)

 サブローの舌打ちは、なんだか妙に怖い。

 希美は微かに首をすくめた。

(それにしても、見れば見るほど変な形だ)

 全身が骨みたいに細い。ワイヤーで作ったオモチャみたいだ。

 二本の強そうな脚が身体を支えた。

 滑らかな堅い殻で覆われていて、お腹の部分だけ柔らかそうに膨らんでいる。

 足は希美たちとは違う方向に曲がってるし、両手もなんだか拝んでいるような形をしている。

「変な形の生き物になりつつある」

『あれはカマキリというんだ』

「おお」

 百科事典で見たことはある。

 動物とは違う、虫。という種類の生物だ。

「あれがカマキリというのか。

 格好良いね、羽も生えてる」

『普通、あんなにでっかくはないけどな』

 全高10メートルはある巨大なカマキリは、核ミサイルの高温で焼結されたガラス結晶が降る中、空を見上げた。

 淡い光のフィールドが月の砂を巻き上げて、白い繭を形成している。

『ミサイルはどうなったんだ?』

 サブローが誰かに尋ねていた。

『1発はフィールド内で分解された。

 2発目は爆発したけど、ちょっと遠かった』

『直撃弾なんか要らないのに、分かってねえな。

 ナノフィールドさえ消せれば、ダメージも通りやすいのに』

 ネメシスが纏うフィールドは金属を分解する。

 直撃弾を狙ったミサイルは、高密度のナノマシンフィールドに突っ込み、数瞬で弾殻が破壊された。

 不思議なことにネメシスの駆使するナノマシンには自己増殖能力がない。ミサイルを分解したフィールドは、みるみるうちに薄くなり、やがてカマキリの体の中に吸収される。

 ナノマシンが増殖しない、という事は、物量作戦が可能という事で、後先考えずに兵器を投入すれば、いつかは行動不能に追いやることが出来る。

 それが辛うじて人類を生き残らせている訳だが、同時に、人類の兵器で命を落とす人々の数を膨大にさせている一因でもあった。

 巨大なカマキリは4枚の羽を威嚇的に広げた。

 小刻みに震わせながら、一歩ずつ歩き出しす。

「目標移動開始。

 空港のほうに向かってる」

 希美はひそひそ声で報告する。カマキリは希美に背を向けて、歩いていく。

 月面基地は、ほとんどの施設が地下に建設されている。ただレーダー施設、通信施設、太陽パネルなど、どうしても地上に建設する必要のある建物もある。

 地上構造物のなかでも、最大の建造物は地球からの往還機が離発着する空港だ。

(今なら、奇襲がかけられるのに)

 空港と言っても、地面を重機で平らにならしただけの、だだっ広い平原だが大きな施設には違いない。

 片隅には何基かのロケットや往還機が露天駐機されている。カマキリはそちらへ向かって、ゆっくりと歩いていた。

「ネメシスの目的って、人間を捕まえて調べることだよね」

 希美は自分からは徐々に離れていくカマキリを、匍匐姿勢のまま見つめる。

『まぁ、今分かっている範囲で、端的に言うとそうだな』

「でも、全然人間の姿に似ないんだね。カマキリだよ」

『そうだなぁ』

「人間のこと調べてるなら、段々人間に近づくと思ったのに」

『まぁ、こっちの作戦が功を奏してるってことなんじゃないかな』

 サブローは他人事のように答えた。

「ふーん」

 ネメシスに人間を知られるわけにはいかない。

 ネメシスは人のDNAを解析し、ウィルス兵器を造ろうとしている。それはナノマシンで自己調整する完璧に近いウィルス兵器だ。

 ネメシスと戦う時、一番大事なのは敵に捕らえられないことだ。しかし、それは不可能に近い。

 その為に、人類は人間とは異なるDNAを持った疑似人間を作り出した。

 それが希美や結城。シミュレーション・ヒューマンである。

「姉さん、まだかなぁ」



 三角形の頭に付いた複眼が、空港の管制塔を見つめていた。

 頭がくるくると回って、その傍にあるロケットや往還機を順々に眺める。

 どちらに人間がいるだろうか。

 たっぷり5秒ほど考えて、カマキリはまた歩き始めた。

 単に、往還機のほうが近かったから。

 20メートルほどある細長い金属の筒が、地面に転がっている。

 カマキリはギザギザのついた鎌を往還機の縁に引っかけた。

 ごろん、と転がす。

 駐機用の台座が引きちぎられ、火花を散らした。

 丸い往還機は発射台から転がり落ちて、ゆっくりと地面に落下する。

 固い地面で跳ねる。

 薄いアルミで出来た船殻にぐしゃ、と皺が寄った。

 そして、勝手に転がっていく。

 カマキリは慌てて追い出した。

 緑色の肢でぴょんぴょん、と跳ねながら、転がり行く往還機を追っていく。

 がくん、とその歩行が止まった。バランスを崩して、羽がばたつく。

 肢に、何かが引っかかっていた。

 三角の頭が下を向いた。

 足首を、指が掴んでいた。

 生々しい質感の白い指だった。

 地面に出来たクレバスの中から伸びた腕が、カマキリの足首をがっちり、と掴んでいた。

 暗闇のなかで4つの瞳が光った。

「ふふふ……」

 結城は指に力を込めた。

 カマキリが鎌を振り上げる。

「おまっとぅ、さんでーす!!」

 クレバスのなかから、巨人が跳躍した。

 足首を掴まれたカマキリは、まともにすっころんだ。

「そぉおおおいやあぁ!」

 結城は脚を高々と振りかぶって、地面にぶん投げた。

 地球の6分の1の重力下でカマキリはゆっくりと投げられ、小さな頭部がゆっくりと地面に落ちていく。

 遠心力だけではさほどの勢いがない。

「おおおおおお!」

 結城は拳を振り上げた。

 複眼に向けて、鋼鉄の手甲を叩き付ける。

 白い筋肉が伸縮を繰り返し、カマキリの顔面に拳を叩き込んだ。火花がばっと飛ぶ。

 鎌が宙を掻いた。

「シャア」

 結城は両腕でカマキリの腕を抱え込む。

「オラァ!」

 結城は足の踵で、複眼を踏みつけた。

 カマキリの後頭部で岩盤にヒビが入る。

 2度。3度。

『結城姉さん、ナイスタイミング』

 視界内に、希美のぷよぷよした顔が浮かんだ。

「ははは、当然!」

 踏みつけた勢いで力が緩み、左脇に抱えていた鎌が引き抜かれた。

「ちっ」

 カマキリは自由になった鎌で、結城の顔面を突いた。

 指が、眼前でそれを掴んだ。

「んぬ……!」

 鎌の刃を手のひらで握りしめる。

 間一髪で抑えたものの、凄い力で押してくる。鎌の切っ先が、エンデュアランスの4つの瞳に触れそうになる。

 結城の手のひらに痛みが走り、ぬるぬるしてくる。

 もう一方の鎌を捕らえている右の腕からも力を抜けない。

「んぎぎ」

 結城は歯を食いしばった。

 エンデュアランスの鎧の下でナノクラフトが、波打ちながら筋肉繊維を象っていく。

『手伝おーか?』

 握り締めている刃から細かいトゲが伸びてきて、指にめり込んでくる。

「い、ら、ぬ」

 カマキリはトゲのついた鎌を、ギコギコ小刻みに動かして、指を切断に掛かった。

「!」

 火を押しつけられたかのような激痛が走る。

 握りしめた拳から血がしたたっていく。

「ジャァ!」

 満身の力を込めて、結城は右脇でカマキリの腕をへし折った。

 左手を離す。飛んでくる鎌の切っ先を、首を捻ってかわす。

 伸びきった腕を結城は両手で掴んだ。

「オッシャア!」

 脚の踏ん張りと、腰の回転。

 結城は巨大カマキリを背負い投げにした。

 緑の塊が半回転して、地面に叩き付けられる。

 カマキリは一瞬、我を失った。

 結城は掴んだ腕を両手でホールドし、カマキリの頭を足蹴にした。

「はぁ、はぁ、はぁ!」

 カマキリは太い肢をばたつかせて、結城をふりほどこうとする。

『凄いなー、姉さん』

「はは! ありがと!」

 月面でのエンデュアランスの体重は1.5トンを切る。全長10メートルを越えるカマキリにしてみれば、さほどの重量が乗っかっている訳ではない。

『でも、あんまり技が格好良くない』

「うるさい!」

 ただカマキリの身体は転んで立ち上がるのに、あまり適していない。

 質量で、エンデュアランスとカマキリが同等だとしても、実際に掛かっている重さは6分の1。体重60キロの男性のうえに、10キロの子供がのし掛かっているのと状況は同じだ。

 結城は慎重にカマキリの関節を抑える。月面では、重さで捕らえるのはむずかしい。

『ユーキ、ランスを刺せ』

「イエッサー」

 結城は手甲内に格納された槍を準備する。

 射出用の爆破リングをセット。カマキリの関節部に狙いを定める。

 エンデュアランスも、このランスも、カマキリも、そして結城本人もすべてナノマシンの集合体だ。

 ナノマシンで作られた構造物は、ナノクラフトと呼ばれている。

『ランス・オンライン。プロトコル確立待機中。

 解析プログラム準備中』

 ネメシスの体内へ強制的に通信デバイスを打ち込み。

 対ナノクラフト用のバイオコンピューターウィルスでもって、構造体を破壊する。

 それがネメシスへの対抗戦術。

「ランス・発……!」

 腕にあるイメージの引き金を動かそうとした時、結城は妙な音に気付いた。

 カタカタカタ……。

(エンデュアランスの内部の音じゃない)

 ほぼ真空の月面で、音が聞こえるはずがない。

 地面にめり込んでいるカマキリの羽が震えていた。

 カタカタカタ……。

 砂が浮き上がり、カマキリの背を中心にして山水画のような波紋が出来上がっていた。

 振動が地面を通り、エンデュアランスの足を伝い、装甲を震わせ、操縦席に達している。

 カタカタカタ……。

「やばい」

 ずん、と衝撃が結城の背中を貫いた。

 強力な衝撃波がエンデュアランスの身体を、軽く数百メートル吹っ飛ばした。

 まるで、ゴム人形のように軽々飛んでいく。

 中空で、スラスターが自動噴射。

 態勢を立て直し掛ける。その直後。

「!」

 全身のスラスターが異常な噴射を始めた。

 胸や膝から、白い高圧蒸気が噴き荒れ、エンデュアランスはネズミ花火のように崖にぶち当たった。

「んがががが!」

 崖に手をついて、結城は身体を引き剥がそうとする。

 主に身体の前面側のスラスターがもの凄い勢いで、結城を岩壁に押しつける。

(い……息が……)

 肋骨がミシミシ音を立てる。怪獣に踏んづけられているかのよう。

 スラスターの主成分は水。それが即座に蒸発するためにエンデュアランスの表面が、みるみるうちに霜で覆われていく。

『ロイ!』

『酸化剤のメインバルブが破損。

 加圧ガスの管を自動調整するサーキットが機能していない』

『原因はどうでもいい。

 どうすればいいか、教えろ』

 サブローの乾いた声を聞きながら、結城は歯を食いしばった。

『全スラスター系をカットオフするしかない』

『カットオフ』

 サブローが宣言すると、ようやく暴走していたスラスターが止まった。

「えほえほ、げほっ」

 結城は身を折って激しく咳き込んだ。マスクを半分外して、流れてくる空気を大きく吸う。

 Gをまともに食らった背骨や、あちこちの骨がきしんでいる。

「はぁ、はぁ!」

 エンデュアランスに飛ばしていた意識が戻る。

 結城は左手を見た。乾きかけの血がべっとりと張り付いている。3本の指が半ば切断されているのが見える。

『ユーキ、スラスターの異常だ。機能を殺した。

 大丈夫か?』

 視界の隅にエドの顔が滑り込んでくる。

「大丈夫ッス!」

 結城は血だらけの手を、ゼリー状のナノクラフトに沈めた。

 白い顔をピンク色にした指揮官は無言で頷いた。



「ロイ。再起動できるか、そっちでシミュレートしろ」

 サブローは通信を切り替え、エンデュアランス整備担当のロイに向かって叫んだ。

『スラスター系の再起動か?

 そりゃ無理だ』

 ロイは操縦席のなかから叫び返してきた。

 ロイの乗っているのは、状況を同期させたエンデュアランスのシミュレーター機。周囲には無数のノートPCが浮かんでいた。

『一度カットオフしたバルブを戻すには、こっちに戻ってこないと出来ない』

「ちっ」

 無数のパイプが張り巡らされるスラスター系は、一度閉じてしまうとそう簡単には戻せない。各部の圧力は、非常に危ういバランスで成立している。

 サブローは勝手に通信を切り替えた。

『セノオ』

 声を潜め、ギア02の主任整備士を呼んだ。

 周囲に一瞬目をやる。

『あいよ』

 希美の搭乗するギア02の主任整備士であるセノオは、ロイと同じようにギア02のシミュレーターを動かしながら、カメラを見上げた。

『お察しの通り』

 ベトナム人の整備主任は、黒い髭の下から答えた。

『ギア02も、メインバルブの規格はエンデュアランスと同じだ』

「同様の問題が起こる可能性は?」

『起こりうる、としか答えられない』

 色黒で、バイク屋の親父といった感じの男は分厚い頬を指でなぞった。

『スラスター系はアメリカさんの供出技術で、細部はブラックボックス化されてるんだ。

 仕様も公開されてないし、無断でばらすことも出来ない』

 セノオはバンドケーブルでぶら下がっているノートPCを見比べる。

「ギア02のスラスター系を、いますぐカットオフしろ。

 ……と、言いたいところだが」

『エンデュアランスもそうだが、ギア02の運動性はがた落ちになる。まとも歩くことも出来ないねぇ』

 月面は人型の機械が自由に動けるような環境ではない。あらゆる運動はパターン化され、スラスターの援助を受けるような仕組みになっている。

『ぶっちゃけ、運動支援プログラムを書き直す必要まであるで』

「分かった。

 何が起こっても対処できる姿勢だけ取って置いてくれ」

『あいよ』

(こういうのが国際協力、と言う奴の弱点だ)

 サブローは舌打ちを繰り返した。ミサが不快そうな視線を送ってくる。

 月面基地とそこで運用されているギア・フリード。それは地球を守るための、全人類が力と知恵と資金を結集させた特命機関だ。

 だが、機密技術や最新技術を山ほど扱う宇宙関係では、各国が技術を持ち合うという前提が間違っている。

 自国の最新技術を包み隠さず手渡してくれるお人好しは、国際社会に存在しない。

 その為に担当整備士ですら、自分の扱っているサーキットが何語で書いてあるのかも知らない、という自体が起こる。

(クソ共が)

 サブローはエンデュアランスの状態をチェックした。

(ギア01が程良く壊れてくれるとラッキーなんだが)



 結城は酸素量を増やしたマスクから息を吸った。

「うっしゃあ」

 岩に埋もれた身体を立ち上がらせる。

 霜のついた砂が、ぱらぱらと落ちていく。

 カマキリも、羽の反動を使ってようやく立ち上がったところだった。

 片方の複眼が潰れかけている。鎌も片方が垂れ下がっていた。

 きょろきょろと辺りを見回して、また空港の方へ肢を進める。

「ははっ、なめんなよ」

 背を向けて遠ざかるカマキリに向かって、結城は犬歯を剥き出した。

 ランスをセットした右腕を向ける。

「ただで済むと思ってんのかっての」

 爆破リングが追加され、照準システムが視野と連動する。

 ロックオン。結城は腕の中の引き金を引く。

 どん、と音が走った。

 装甲の内部でTNTが爆発して、白い槍が一直線に月面を飛ぶ。

 何かに気付いたカマキリがふ、とこっちを向いた。

 その胸部へ、吸い込まれるように短い槍が突き刺さる。

 金属のような鎧を突き破り、槍がナノクラフトに潜り込んだ。

 カマキリの巨体がぐらり、と揺れた。

 ランスの後部から伸びるネットワークケーブルが大きく波打つ。

 ONLINE

 と表示される。

「よっしゃ!」

 結城はガッツポーズを決めた。

『カルロス!』

 専用のクラッカー要員が、身を起こした。

 結城の視界内にカマキリの内部構造が立ち上がる。

 ネメシス内部の構造が解析され、人類が使いやすいようネットワーク化されていく。

 カマキリが身をよじった。

 毒が、身体のなかに入ろうとしている。

 クラッカーが免疫系を次々に突破して、あらゆる細胞を死滅させるコマンドを打ち込んでいく。

「あとどんくらい?」

『1分少々』

 結城はゆっくりとファイティングポーズを取った。

 この状況になっては、もはやエンデュアランスを破壊したところで、ウィルスの注入は止まらない。

 それでも、ネメシスはこっちを攻撃しに来るだろう。

(あと、一分)

 カマキリの身体に不気味な斑文が浮かびだす。

 紫や赤の模様が、ぼんやりと明滅を繰り返した。まるで、警告文が体表を流れているかのようだった。

 カマキリは鎌をふるって、槍のケーブルを切り払った。

「ははは、もうおせえ!」

『無線接続に切り替え』

 表示が、OFFLINEに変わる。

「あら?」

 結城は首をひねった。

『データテレメントリが受信されないぞ!

 ナノフィールドの影響は克服されたんじゃないのか?』

 HQがざわつく声が聞こえる。

 カマキリはどす黒く汚れた肢を、結城に向けて進めた。

 いまや、はっきりと結城を『敵』と見定めていた。

 カビに浸食されているかのように、黒や紫の斑文が明滅する。

 4枚の羽を広げる。全身から黒い怒りの気配が立ち上っていた。

『いくら俺がスーパーハッカーでも回線がないじゃ無理ッスよ』

 カルロスの声。

『結城』

「どうすんの?」

 結城は細く息を吐いた。

『槍はもう一本残ってるな』

 左手にも、もう1セット装備されている。

「ケーブル斬られたら終わりッスけど」

 右肩が痛い。

 結城は小さく咳き込んだ。発射の衝撃で、

脱臼したのかもしれない。

(リン先生が心配するかな)

『……奴の身体に、直接打ち込め』

「了解」

 無線が使えない以上、それしかない。

 乾いた空気を吸う。

 スーツがさらに数種類の薬品を投与し、痛みは徐々に和らいでいく。ただ、あまり気分は良くない。

「やったりますよ」

 カマキリが大きく羽を震わせた。臨戦態勢だ。さっきより、さらに凶暴性を増したかのようだ。

 衝撃波を纏い、カマキリは上空に飛んだ。

「げ」

 軽々と数十メートル飛び上がり、鎌を振りあげる。

 スラスター。動かない。

(回避!)

 サイドステップ。

 強く地面を蹴ると、結城は身体が不自然に浮くのを感じた。

「へ……?」

 補正用のスラスターが噴かないため、身体が上手く動かせない。

 6分の1の重力では、物は基本的にゆったりした動きになる。

「あわあわ」

 結城は、低重力運動の初心者のように手をばたつかせた。

 そこに、上空からカマキリの鎌が襲いかかる。

 刃が、胸に突き刺さった。

 鎌の切っ先が、胸元にあるサブレーダーを貫いた。

 肢が顔にまとわりつく。カマキリは結城を足蹴にしたまま、地面に叩き付けた。

 鎌は半ばまでめり込む。

「……がっ」

 スーツの内側から吹いた血が、結城の頬に飛んだ。

 恐ろしく分厚い肢が、結城を踏みつぶす。

 複眼が怒りに燃えるのが見えた気がした。

 鎌を引き抜くと、もう一度胸元に突き刺す。

 ぶしゅ、とスーツから血が吹いた。

 更に、2度、3度。滅茶苦茶な勢いで、鎌を叩き付ける。

「あ……、あ……」

 どくん、どくん、と心臓が波打つ。鎌を打ち込まれる度に、スーツから止血剤や強心剤が流れ込む。

 それでも出血が止まらない。

 血が噴水みたいに吹き上がる。

 アンダーシャツになま暖かいものが溜まっていく。

(綺麗だな)

 首に、鎌が突き刺さる。

 次の瞬間、エンデュアランスの腕が、逆にカマキリの首を掴んだ。

 カマキリの顔を押し上げる。

 ぎりぎり、と締め付ける。

 結城の首に掛かった鎌がトゲを生やした。

 かちり、と槍がセットされる。

 その穂先は、カマキリの小さな頭に向けられていた。

「死ね!」

 複眼に、槍が打ち込まれた。

 ONLINE

 顔面でTNTが爆発し、首が折れるほど仰け反った。

 再び、カマキリの全身で色が変わっていく。黒から青、紫へ。

 悲鳴が上がった。

 複眼が砕かれ、カマキリは手で顔を覆う。

 小さな衝撃波がほとばしり、結城は月面にめり込んだ。ケーブルが切れて、舞う。

 OFFLINE

「やべえ」

 それでも手は離さない。

 カマキリの首を掴んでいる手に、全神経を集中させる。

 指から力が抜けていく。

(か、感覚が……)

 血が抜けていく。身体に痺れが走り。すぅ、と頭の芯が冷たくなっていく。

(嘘だろ)

 カタカタ、と音が聞こえる。

 馬なりになったカマキリが、4枚の羽を震わせていた。

 ドス黒く変色した巨大なカマキリは、なにかロールシャッハテストの絵みたいに見えた、

 砂が持ち上がって、砕ける。装甲が震え出す。

 高い、きぃーん、という音が結城の鼓膜を震わせた。

「やばいな」



『希美!

 いけ!』

 希美は崖のうえから飛び降りた。

 丸っこい鎧をまとったギア02は、スラスターを解放した。

『ALL!』

 衝撃波で歪んだ風景が、見る間に迫ってくる。狙いはカマキリの頭部。

『RIGHT!』

 ギア02の太い足が、無防備な後頭部を殴りつけた。

 全身から白いスラスターを噴いて地面に着地する。

 カマキリは地面に叩き付けられた。

「ふっ」

 正確な噴射で、浮き上がる反動を相殺。

 襲いかかってくる羽をしゃがんで避ける。

 ギア02は、軽やかなステップでカマキリの攻撃をかわした。

 長い左手でカマキリの首を掴み、引き起こす。

「かのじょーの星狩りを、♪」

 右腕、巨大なランスが突き出る。

「もう、誰にも、止められない!」

 希美は結城の刺したランスに、自分のランスを突き刺した。

『カルロス、ポートを開放しろ!』

 二つの槍が触れ合い、白い組織が融合していく。

『ムーンパレスの許可を得ないと……』

『んなこと言ってる場合か!』

 希美の周囲で、砂煙が舞い上がった。

 羽がいまだ振動を続けていた。

 金属を摺り慣らす音が、希美の身体にも伝わる。

「こんにゃろ……」

『責任とらねえからな!』

 再び、ONLINE

 希美は足を踏ん張って、ランスを奥に奥にめり込ませていく。

 キィィィイ、という音が高く、高くなり、最高潮に達する。

 希美は目を閉じた。

 次の瞬間、エンデュアランスが立ち上がって、ギア02の身体を抱きしめた。

「ねえ……」

 最高威力の衝撃波がエンデュアランスの装甲を砕いた。

 背中の装甲板がめくれ上がり、酸化剤が爆発を繰り返す。白いナノクラフトの組織がねじくれ、すりつぶされ、蒸発していく。

 同時に、カマキリの身体が崩れ出す。

 折れた腕が、逞しい肢が雪のように砕けていく。黒い破片が地面に降る。

 金属が震える悲鳴とカマキリの悲鳴が、まき散らされた。

「早く……」

 黒い雪の残骸を受けながら、希美は更に一歩足を踏み出した。

「早く!」

 白い爆発が起こって、ランスがカマキリの身体を貫通した。

 四肢が、羽が一瞬で砕け散り、一斉に空に吹き上がった。

 真っ黒な宇宙へ吸い込まれるように。

「世界が、一番、綺麗に、見える日……」

 音もなく、エンデュアランスが地面に倒れた。


 この章の第1稿を書いた時、まだ震災前だったことを思い出します。

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