第一書 『月姫ノ星書』 Episode02
それは、真夜中の古びた屋敷の中庭だった。
耳を劈く様な悲鳴が屋敷中に響き渡った直後、辺りは緑と赤の閃光の光に覆われた。
そして辺りに、漆黒の静寂が戻った。
明朝、一人の老婆が自分の寝台からゆっくりと起き上がると、手を頭上に上げ、大きく背伸びをした。
それから、椅子に無造作に掛けてあった、濃紺の上着を寝間着の上から羽織り、戸口に立て掛けてあった『死霊の杖』を手に取ると、何かを小さく呟きながら、一階の厨房へと下りていった。
老婆は厨房に入る直前で、ある異変に気付いた。
屋敷の至る所に、あるはずの無い魔法痕跡があるのだ。
老婆は出来る限りの防御魔法やら補助魔法を自らに施し、慎重に厨房へと歩みを進めた。
厨房を覗くと、愛弟子のソフィが、ピカピカになるまで磨き上げた、先までの美しい面持ちの調理場はそこにはなく、あったのは、深紅に染まった悍ましい光景だった。
そして、真紅の厨房の片隅には、傷付いた女が伏せていた。
「あぁ、ソフィ。腹に深い魔傷が。大丈夫かい」
老婆は震えた声でソフィに語りかけた。
「えぇ、おば様。私は大丈夫ですわ」
「大丈夫じゃないだろう。直ぐに治癒をしてやるからね。一体、何があったんだい?」
老婆は、中級の治癒魔法[heelcarol]を唱え始める。
「おば様を良くお思いになってらっしゃらない魔女達が、真夜中に奇襲してきましたの。それで、お坊ちゃまが対抗して…。私はてっきり、お坊ちゃまが魔女達を返り討ちにしたと思っておりましたの。けれども、お坊ちゃまではなく、魔女が屋敷に侵入してきましたわ。私も水魔法で必死に抵抗しました。しかし、このような有り様ですわ。魔女達は、それぞれ何か不思議な書物を手にしていましたわ。それからおば様の部屋に向かって。私はおば様も、魔女に殺されてしまったのではないかと危惧していましたわ。でも、おば様だけでもご無事で本当に良かったですわ」
ソフィは安心したのか、啜り泣き始めた。
老婆は完成した治癒魔法をソフィに掛けながら、こう問い掛ける。
「そうかい。それは怖い想いをしたね。それで、私の可愛いレイアは?」
「お坊ちゃまは…。魔女達に殺されてしまいましたわ」
ソフィは、涙をこらえながら、賢明にそう告げた。
「わ、私のレイアは?今日は魔法を教える約束を」
老婆が引きつった声でそう言う。
「お、おば様?」
「わ、私のレイア。レイアはどこだい?」
老婆は狂ったように、また同じ質問を繰り返す。
「ですから、お坊ちゃまは、魔女達に殺されてしまいましたわ」
次の瞬間、老婆は凄まじい力でソフィの肩を鷲掴み、強い口調で問うた。
「お、お前が、私のレイアを殺したのかい?ええい、どうなんだい。小娘!」
悲痛に歪んだ顔でソフィが訴えた。
「わ、私が。お坊ちゃまを殺すわけありませんわ。おば様、目を覚まして下さい。お坊ちゃまを殺したのは、あの魔女達ですわ!」
「あ、あぁ。あいつ等が…あいつ等が私のレイアを…」
その場に老婆は泣き崩れた。
ソフィは老婆の近くに膝を着くと、慰めるように背中を優しく摩った。
「おば様、大丈夫。私がついていますわ」
そう言うと、突然老婆は泣き止み、身体が小刻みに震えた始めた。
「…してやる」
「え?なんて仰いました」
「…してやる。えぇ…してやる」
「?」
ソフィは、老婆の声を聞き取ろうと耳を澄ました。
「…してやる。ころしてやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる!」
「お、おば様!落ち着いて下さい。相手を憎むよりさきに、お坊ちゃまを弔わないと報われませんわ」
それを聞いて老婆は、ふと思い出したように言った。
「そう言えば、確か書蔵庫に《魔導書》があったじゃろう。ソフィ、月の紋様の装丁が施された書物を持ってきておくれ。私は中庭におるからそこに」
「解りましたわ」
ソフィは、急ぎ足で書蔵庫へと向かった。
老婆は、その場で大きく深呼吸をすると中庭に向かって歩みを進めた。
煤けた樫の扉を進み、中庭に至ると、大きな花壇の近くに柔らかな顔立ちの青年が、安らかに眠っていた。
老婆が青年の亡骸に駆け寄ると、その亡骸に縋り、嗚咽を漏らしながら泣き始めた。
丁度その頃、一冊の書物を持って、ソフィが中庭に至った。
「おば様、お持ちしましたわ。古代語で書かれていましたから、なんて読みますの。この本の題名。つき、月女王の?」
老婆は涙を拭いながら、応えた。
「有難うソフィ。レイアは安らかに眠っている様で本当に良かったよ」
「えぇ。本当に安らかに」
ソフィも込み上げる涙を堪えながら、穏やかな声でそう言った。
「では、その書物を貸しておくれ。その書物の名は『月姫ノ星書』」
「『月姫ノ星書』?」
「嗚呼、そうだよ。【死霊魔術家】の代々家系に伝わる家宝だよ。なんでも、相応の対価を払うことで、死者を生き返らす事ができる書物らしいんだよ」
「ま、まさか。そんなこと有り得ませんわ」
ソフィが驚いたような声を上げた。
「でも可能性が零でないから試すだけ試そうと思ってな。オリハルコンの首飾りを持ってきておくれ。あれなら、対価として十分だろうから」
「オ、オリハルコンの首飾りを!?あれだけで、小国を三国は買い取れますわ」
声高くソフィは呻いた。
「それでもいいんだよ」
老婆が落ち着き払った声で言った。
「え、えぇ。おば様。わかりましたわ。今、お持ちいたします」
少し後ろめたさを混じえた声で、そう言うと、ソフィは、屋敷の中へ消えて行った。
数分後。
「では、復活の儀式を行う。ソフィ、首飾りを」
その言葉に応えるように、ソフィが紅く輝く宝石が埋め込まれた銀の首飾りを老婆に差し出した。それを受け取り、自分の前に描いた小さな魔法円の中心に置くと、その手前の位置に立ち、杖を振り上げながら『月姫の星書』の契約魔導節を読み上げ始めた。
契約魔導節というのは、何らかの魔法契約を行う場合の契約書のようなものだ。一般的に契約節の中に必要な固有名詞を必要とするものが多いが、それ以外も多々ある。
「月姫、オリシアよ。汝の創造せし奇跡の結晶を宿した英知の書物に、汝、月の名を司る姫神子が持つ、生命を宿し、それを与える通力を、貸し与え給え。我が名は、クロカッサ=ネクロマンシー。対価には、軌跡の煌玉、オリハルコンで創られし首飾りを。生命の賢者、エルメリア=ライラの魔力とその名に於いてーー此処、我の屋敷で失われた青年の命を。その儚き灯火を。再び、黄泉の国から呼び戻し給え。魂無き青年の名は、レイア=ネクロマ…」
「今直ぐその契約魔導節を唱えるのを辞めるのレす。このボンクラめ!」
何処からか、暴力的な言葉遣いに似合わぬ、美しい鳥の囀りのような声が響き渡り、老婆
の契約節の詠唱が中断された。
「ギリギリ間に合ったね、アリア」
続けて、穏やかな印象の声も響く。
老婆とソフィが驚きに固まっていると、頭上高くの空中がキラキラと輝き始めた。そして、銀色に輝く美しい魔法陣がその姿を露わにした。
魔法陣から真下に向かって光が放射されると、そこには奇妙な二人組が現れた。その間にも、少女は美しい顔を歪めて、青年に至極酷い暴言を吐き続ける。
「元はと云えば、お前がさっさとその地図をよこしていれば、この様な事態にはならなかったのレす。本当にお前は人間なのレすか。まだ、其処らのチンパンヂーの方がよっぽど人間らしいのレす」
青年は困ったような顔をしてこう応えた。
「何時にも増して酷いな、アリア。そんな事なら、君が初めから一人で行けば良かったじゃないか」
「そ、それは駄目なのレす。兎も角、駄目なのレす!」
少女は少し狼狽えたが、直ぐに怒りの矛先を老婆へと向けた。
「大体、お前の一族が《英知ノ書庫》に『月姫の星書』を返却しなかったのがいけないのレす。しわくちゃの老婆の癖して、そんな常識も解らなかったのレすか?今までの一世紀間、どんな風に過ごせばそうなるのレす。お前の脳みそはスカスカの瓜以下なのレす!」
当の老婆は自分が契約魔導節を詠唱していたことすら忘れ、美しい少女の口から次々と紡がれる数々の暴言を、唯、茫然と聞き流していた。
一部始終を見ていた青年は、呆れたように、だが少女の傍で彼女を見守っていた。
気に入って頂ければ嬉しいです。