身分違いのわたしを見初めてくれた、優しい伯爵様との甘い夏。ただ一つ——夏の夜、虫の音に混じって聞こえるのは、どうして"昔のわたしの声"なのですか?
「ひと目で、恋に落ちたんだ」
そう言って、その方は、わたしの前に、跪いた。
国でも評判の、優しい若き伯爵、ジュリアン・エヴァレット様。
一方のわたしは、下級貴族とは名ばかりの、平民同然の暮らしをしていた娘だ。
「わ、わたしなんかで、いいのですか。こんな、身分違いの……」
「君がいいんだ。君じゃないと、駄目なんだよ」
彼は、わたしの手を取って、うっとりと目を細めた。
「その笑い声も、その話し方も。……君のすべてが、僕には、宝物みたいに思えるんだ」
「でも、わたし、伯爵夫人だなんて、務まるでしょうか」
「務めなんて、どうでもいいよ」
ジュリアン様は、きっぱりと言った。
「君は、ただ、僕のそばで、いつものように笑っていてくれればいい。……それだけで、僕は、この世のすべてを手に入れた気持ちになるんだ」
そんなふうに言われて、心が動かない娘が、いるだろうか。
わたしは、差し出されたその手に、自分の手を、重ねた。
その手のあたたかさを、わたしは今でも、はっきりと覚えている。
その言葉に、嘘はないのだと、すぐに分かった。
嫁いでからの日々が、それを証明してくれたから。
伯爵家の離れは、緑深い森の際に、ひっそりと建っていた。
夏でも、ひんやりと涼しく、静かで。
けれど、少しも、寂しくはなかった。
どこにいても、庭の鈴虫の音が、優しく響いていたから。
「気に入ったかい」
「はい。……なんだか、とても、落ち着きます」
「よかった。ここは、君のためだけに、選んだ場所なんだ」
ジュリアン様は、心から嬉しそうに、笑った。
* * *
ジュリアン様は、わたしを、蕩けるように甘やかした。
夏の離れの、いちばん風の通る部屋を、わたしのために整えて。
わたしが好きだと言ったものは、次の日にはもう、目の前にある。
「ジュリアン様。わたし、こんなに良くしていただいて……なんだか、こわいくらいです」
「こわがらなくていいよ。僕は、ただ、君を幸せにしたいだけなんだから」
彼は、わたしの頬に落ちた髪を、指で耳にかけた。
「それに。……君を大切にするのは、僕の、いちばんの楽しみなんだ」
そう言って微笑む彼は、本当に、優しかった。
ただ、ひとつだけ。
不思議な夜が、あった。
嫁いで初めての、夏の夜。
寝つけなくて、わたしは、窓を少しだけ開けた。
庭のほうから、涼やかな鈴虫の音が、りん、りん、と聞こえてくる。
その音に、じっと、耳を澄ませていたとき。
——ふふっ。
鈴虫の音に混じって、小さな笑い声が、聞こえた気がした。
女の子の、無邪気な笑い声。
「……あら?」
それは、なんだか。
ずっと昔の、まだ幼かった頃の、わたし自身の笑い声に、よく似ていた。
「……気のせいよね」
夏の夜は、不思議なものだと言うし。
そう思うことにして、わたしは、窓を閉めた。
* * *
離れでの日々は、砂糖菓子みたいに甘かった。
そして、日を追うごとに、わたしは、あることに気づいていった。
ジュリアン様は、わたしのことを、あまりにも、よく知っているのだ。
「ミアは、熟れすぎた桃より、少し硬いくらいが好きだろう?」
「……どうして、それを」
「それに、考えごとをするとき、右の頬を、指でとんとん叩く癖がある」
「まあ。自分でも、気づいていなかったのに」
わたしは、目を丸くした。
だって、その癖は、伯爵家に来る前の——彼と出会うより、ずっと前のものだ。
「ジュリアン様は、どうして、そんな昔のわたしのことまで、ご存じなの?」
彼は、少しだけ、目を細めた。
そして、この上なく優しい声で、囁いた。
「君のことなら、なんでも知っているよ。……ひとつ残らず、ね」
その言葉を、わたしは、深く愛されている証だと思った。
だから、それ以上は、訊かなかった。
彼は、わたしが幼い頃に亡くした、母のことさえ、知っていた。
わたしが大好きだった、母がよく作ってくれた、木苺のジャムのことも。
ある朝、食卓に、あのジャムと寸分違わぬ味のものが、並んでいたとき。
わたしは、思わず、泣いてしまった。
「どうして、この味を、ご存じなの。……母は、もう、いないのに」
「いつか、君が話してくれる気がして。……母上の作り方を、古い伝手を辿って、探し出したんだよ」
ジュリアン様は、わたしの涙を、指先で拭ってくれた。
「君のことは、何ひとつ、取りこぼしたくないんだ」
その優しさが、あんまり深くて。
わたしは、この人のそばで生きていけることが、ただ、幸せだった。
夏の離れには、いつも、二人分の笑い声が、絶えなかった。
わたしが何を話しても、ジュリアン様は、身を乗り出して、聞いてくれる。
まるで、わたしの声の、ひとつも、聞き逃したくないみたいに。
「ミアの声を聞いていると、僕は、いくらでも、幸せになれるよ」
「ふふ。わたし、そんなにお喋りでしたか」
「いいや。もっと、聞かせてほしいくらいだ」
彼は、そう言って、うっとりと、目を細めるのだった。
——けれど。
夏の夜ごとに、庭の鈴虫に混じって聞こえる声は、少しずつ、増えていった。
幼い頃の笑い声だけではない。
わたしが、ひとりで口ずさんでいた、あの鼻歌。
寝入りばなに、寝言で呼んだ、母の名。
そのどれもが、たしかに、"わたしの声"だった。
まだ、ジュリアン様と、出会う前の。
「不思議ね……」
わたしは、窓辺で、小さく呟いた。
どうして、庭から、昔のわたしの声が、聞こえるのだろう。
「ジュリアン様。夜、庭のほうから、昔のわたしの声が、聞こえる気がするんです」
あるとき、わたしは、思いきって、尋ねてみた。
彼は、ほんの一瞬、手を止めて。
それから、いつもの優しい笑みで、わたしの髪を撫でた。
「夏の夜は、遠い日の音を、運んでくると言うだろう? ……きっと、そのせいだよ」
「そう、でしょうか」
「ああ。だから、こわがらなくていい。……あれは、ぜんぶ、僕の宝物なんだから」
その最後の一言を、わたしは、うまく聞き取れなかった。
ちょうど、鈴虫の音が、大きくなったから。
* * *
その日、わたしは、庭のいちばん奥まで、足を延ばしてみた。
普段は、あまり近寄らない、木立の陰。
その一角の土に、何かが、きらきらと光っているのに気づいた。
しゃがんで、指で土を払う。
——小さな、硝子の瓶が、いくつも、半ば埋まっていた。
いいえ、いくつも、なんてものではない。
掘り返せば、その下にも、そのまた下にも。
数えきれないほどの硝子瓶が、宝物のように、丁寧に、埋められていたのだ。
どれも、大人の指ほどの、小さな瓶。
中には、何も入っていないように見える。
けれど、光にかざすと、その奥で、何かが、ちらちらと、揺れている気がした。
まるで、蛍の光を、閉じ込めたみたいに。
「奥様! そちらには、どうか、お近づきになりませんよう」
血相を変えて、庭師が駆け寄ってきた。
「これは、いったい、何なの?」
「……わたくしどもには、分かりかねます。旦那様の、大切なものだとしか」
庭師は、それきり、口をつぐんでしまった。
わたしは、手のひらの中の、小さな硝子瓶を、そっと耳に近づけてみた。
すると。
りん、と、微かな音とともに。
——おかあさん。
幼い、わたしの声が、瓶の中から、聞こえた気がした。
指先が、ひやりと冷たくなる。
「……気のせい、よね」
わたしは、慌てて、その瓶を、元の土に戻した。
その夜、離れを訪ねてきた老婦人が、お茶の席で、ふと漏らした。
「ジュリアン様も、昔から、変わったご趣味をお持ちでねえ」
「趣味、ですか?」
「ええ。それはもう、熱心に、いろんなものを、お集めになる。……気に入ったものは、ぜんぶ、手元に置かないと気が済まない、お方でしたよ」
「その、ご趣味というのは。たとえば、どんな……」
「さあ。宝石だの、絵画だの。とにかく、"二度と手に入らないもの"を、お好みでねえ」
老婦人は、そう言って、それから、わたしを見て、ころころと笑った。
「……ふふ。あなたのことも、きっと、そうなのでしょうよ」
冗談めかした、その一言が。
なぜだか、わたしの耳の奥に、いつまでも、残った。
その朗らかな声とは裏腹に、その言葉は、わたしの胸の奥に、静かに、沈んでいった。
その夜、わたしは、寝台の中で、なかなか寝つけなかった。
土の中に、宝物みたいに、大切に埋められていた、無数の硝子。
その一つ一つに、もし、わたしの声が、封じ込められているのだとしたら。
——ぞくり、と、背筋が、冷たくなる。
でも、わたしは、すぐに、その考えを打ち消した。
いけない。こんなに優しいあの方を、疑うだなんて。
きっと、何か、素敵な理由が、あるに決まっている。
そう思って、わたしは、固く、目を閉じた。
* * *
眠れない、夏の夜だった。
窓の外、庭のほうで、りん、りん、と、鈴虫が鳴いている。
その音に混じって、また、聞こえる。
わたしの、声が。
わたしは、静かに寝台を抜け出して、庭へ降りた。
木立の陰、あの硝子瓶の埋まった一角に。
——ジュリアン様が、いた。
月明かりの下、彼は、片膝をついて、土を掘っていた。
その手には、胸元に下げていた、小さな硝子の鈴。
彼は、それを、そっと唇に近づけて、何かを囁くと。
鈴の中に、淡い光が、すうっと、吸い込まれていった。
それは、まるで、蛍を一匹、捕まえるみたいに、優しい手つきだった。
彼が、何を"しまって"いるのか。
そのときのわたしには、まだ、分からなかった。
ただ、その横顔が、あんまり真剣で、あんまり幸せそうで。
わたしは、声をかけるのを、一瞬、ためらってしまったほどだった。
そして彼は、その鈴を、宝物のように、土に埋めたのだ。
「……ジュリアン様?」
わたしが声をかけると、彼は、ゆっくりと振り返った。
驚くでもなく、隠すでもなく。
ただ、いつもの、優しい笑みで。
「起こしてしまったかい。……こんな時間に、ごめんね」
「あなた、そこで、何を……」
「君の声を、しまっていたんだよ」
彼は、立ち上がって、わたしの前に来た。
「今日、君が笑った声。僕の名を呼んだ声。……ぜんぶ、ここに、集めているんだ」
その告白が、あまりに穏やかだったから。
わたしは、すぐには、言葉の意味を、飲み込めなかった。
「僕はね、ミア。君のことを、出会うずっと前から、知っていた」
彼の翠の瞳が、月の光に、濡れて光る。
「街角で、君の笑い声を聞いた、あの日から。……僕は、その音に、取り憑かれてしまったんだ」
「わたしの、声に……?」
「そう。だから、集め始めた。君の、笑い声も、鼻歌も、寝息も」
「わたしの、知らないうちに……ずっと、ですか」
「ああ。君が生まれてから、今日まで。……そして、これから先も、ずっとだ」
彼の声には、悪びれる色が、少しもなかった。
まるで、それが、世界でいちばん、当たり前のことみたいに。
彼は、わたしの頬を、両手で包んだ。
「君という人の、どんな欠片も。ひとつだって、失いたくなかったんだ」
その手が、微かに、震えていた。
「……気味が悪い、と思うかい」
わたしは、彼の目を、じっと見つめた。
そこにあったのは、狂おしいほどの——けれど、まっすぐな、愛だった。
この人は、わたしを、失うのが、こわいのだ。
わたしの声のひとつさえ、この世から消えてしまうのが、耐えられないほどに。
そのことが、ただ、痛いくらいに、伝わってきて。
普通なら、逃げ出すべきなのかもしれない。
こんなにも重くて、常軌を逸した愛から。
でも、わたしには、できなかった。
だって、この人の抱えている淋しさが、わたしには、痛いほど分かってしまったから。
きっと、この人は、ずっと、こわかったのだ。
大切なものを、失うことが。
「……いいえ」
わたしは、首を横に振った。
「わたしを、そんなにも、大切に想ってくださっているのですね」
わたしがそう言うと、ジュリアン様は、泣きそうな顔をした。
そして、崩れるように、わたしを抱きしめた。
「……ありがとう。ありがとう、ミア」
その腕の中で、庭の鈴虫が、りん、りん、と、鳴いていた。
その音に、今日のわたしの声も、そっと、混じっていくのだろう。
* * *
夏の終わりに、わたしとジュリアン様は、静かに式を挙げた。
離れの庭は、相変わらず、涼やかな鈴虫の音に満ちている。
そして、わたしはもう、その音に混じる自分の声を、こわいとは思わない。
だって、その声のひとつひとつは。
この人が、わたしを愛してくれた、その証なのだから。
式のあと、ジュリアン様は、わたしを、庭のあの一角へ連れていった。
「怖くは、ないかい。……ここに、君のぜんぶが、眠っているんだよ」
「いいえ」
わたしは、首を振って、微笑んだ。
「だって、ここは。あなたが、わたしを想ってくださった、時間そのもの、でしょう?」
その言葉に、ジュリアン様は、息を呑んで。
それから、この世でいちばん、幸せそうに、目を細めたのだった。
「ミア」
その夜、寝室で、ジュリアン様は、わたしを腕の中に抱きながら、名を呼んだ。
「なんですか?」
「幸せかい。……こんな、僕のところに来て」
「はい」
わたしは、彼の胸に、頬を寄せた。
「あなたに愛されて、わたしの、ぜんぶが、幸せです」
ジュリアン様の腕に、ぎゅっと、力がこもった。
「……ああ」
彼は、わたしの髪に、そっと口づけた。
「君のぜんぶを、これから先も、僕がずっと、持っているよ。……笑い声も、寝息も、この幸せも。ひとつ残らず、ね」
その言葉が、どれほど深く、どれほど途方もないものなのか。
——わたしは、生涯、知らないままだった。
けれど、それでよかったのだと思う。
だってわたしは、声のひとつまで、この人に愛されて。
こわいくらいに、幸せなのだから。
その夜も、庭で、りん、と。
夏の鈴虫に混じって、今日のわたしの笑い声が、そっと、鳴った。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。
"夏の音"シリーズ、今作は鈴虫。ジュリアンが庭に埋めていたものの正体を知っても、ミアはそれを"愛"として受け取り、今日も幸せに笑っています。
彼女の声のひとつひとつが、これからも永遠に集められ続けることを知っているのは、読んでくださったあなただけ。
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