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身分違いのわたしを見初めてくれた、優しい伯爵様との甘い夏。ただ一つ——夏の夜、虫の音に混じって聞こえるのは、どうして"昔のわたしの声"なのですか?

作者: 蜜月 憂
掲載日:2026/07/11


「ひと目で、恋に落ちたんだ」


そう言って、その方は、わたしの前に、跪いた。


国でも評判の、優しい若き伯爵、ジュリアン・エヴァレット様。


一方のわたしは、下級貴族とは名ばかりの、平民同然の暮らしをしていた娘だ。


「わ、わたしなんかで、いいのですか。こんな、身分違いの……」


「君がいいんだ。君じゃないと、駄目なんだよ」


彼は、わたしの手を取って、うっとりと目を細めた。


「その笑い声も、その話し方も。……君のすべてが、僕には、宝物みたいに思えるんだ」


「でも、わたし、伯爵夫人だなんて、務まるでしょうか」


「務めなんて、どうでもいいよ」


ジュリアン様は、きっぱりと言った。


「君は、ただ、僕のそばで、いつものように笑っていてくれればいい。……それだけで、僕は、この世のすべてを手に入れた気持ちになるんだ」


そんなふうに言われて、心が動かない娘が、いるだろうか。


わたしは、差し出されたその手に、自分の手を、重ねた。


その手のあたたかさを、わたしは今でも、はっきりと覚えている。


その言葉に、嘘はないのだと、すぐに分かった。


嫁いでからの日々が、それを証明してくれたから。


伯爵家の離れは、緑深い森の際に、ひっそりと建っていた。


夏でも、ひんやりと涼しく、静かで。


けれど、少しも、寂しくはなかった。


どこにいても、庭の鈴虫の音が、優しく響いていたから。


「気に入ったかい」


「はい。……なんだか、とても、落ち着きます」


「よかった。ここは、君のためだけに、選んだ場所なんだ」


ジュリアン様は、心から嬉しそうに、笑った。


* * *


ジュリアン様は、わたしを、蕩けるように甘やかした。


夏の離れの、いちばん風の通る部屋を、わたしのために整えて。


わたしが好きだと言ったものは、次の日にはもう、目の前にある。


「ジュリアン様。わたし、こんなに良くしていただいて……なんだか、こわいくらいです」


「こわがらなくていいよ。僕は、ただ、君を幸せにしたいだけなんだから」


彼は、わたしの頬に落ちた髪を、指で耳にかけた。


「それに。……君を大切にするのは、僕の、いちばんの楽しみなんだ」


そう言って微笑む彼は、本当に、優しかった。


ただ、ひとつだけ。


不思議な夜が、あった。


嫁いで初めての、夏の夜。


寝つけなくて、わたしは、窓を少しだけ開けた。


庭のほうから、涼やかな鈴虫の音が、りん、りん、と聞こえてくる。


その音に、じっと、耳を澄ませていたとき。


——ふふっ。


鈴虫の音に混じって、小さな笑い声が、聞こえた気がした。


女の子の、無邪気な笑い声。


「……あら?」


それは、なんだか。


ずっと昔の、まだ幼かった頃の、わたし自身の笑い声に、よく似ていた。


「……気のせいよね」


夏の夜は、不思議なものだと言うし。


そう思うことにして、わたしは、窓を閉めた。


* * *


離れでの日々は、砂糖菓子みたいに甘かった。


そして、日を追うごとに、わたしは、あることに気づいていった。


ジュリアン様は、わたしのことを、あまりにも、よく知っているのだ。


「ミアは、熟れすぎた桃より、少し硬いくらいが好きだろう?」


「……どうして、それを」


「それに、考えごとをするとき、右の頬を、指でとんとん叩く癖がある」


「まあ。自分でも、気づいていなかったのに」


わたしは、目を丸くした。


だって、その癖は、伯爵家に来る前の——彼と出会うより、ずっと前のものだ。


「ジュリアン様は、どうして、そんな昔のわたしのことまで、ご存じなの?」


彼は、少しだけ、目を細めた。


そして、この上なく優しい声で、囁いた。


「君のことなら、なんでも知っているよ。……ひとつ残らず、ね」


その言葉を、わたしは、深く愛されている証だと思った。


だから、それ以上は、訊かなかった。


彼は、わたしが幼い頃に亡くした、母のことさえ、知っていた。


わたしが大好きだった、母がよく作ってくれた、木苺のジャムのことも。


ある朝、食卓に、あのジャムと寸分違わぬ味のものが、並んでいたとき。


わたしは、思わず、泣いてしまった。


「どうして、この味を、ご存じなの。……母は、もう、いないのに」


「いつか、君が話してくれる気がして。……母上の作り方を、古い伝手を辿って、探し出したんだよ」


ジュリアン様は、わたしの涙を、指先で拭ってくれた。


「君のことは、何ひとつ、取りこぼしたくないんだ」


その優しさが、あんまり深くて。


わたしは、この人のそばで生きていけることが、ただ、幸せだった。


夏の離れには、いつも、二人分の笑い声が、絶えなかった。


わたしが何を話しても、ジュリアン様は、身を乗り出して、聞いてくれる。


まるで、わたしの声の、ひとつも、聞き逃したくないみたいに。


「ミアの声を聞いていると、僕は、いくらでも、幸せになれるよ」


「ふふ。わたし、そんなにお喋りでしたか」


「いいや。もっと、聞かせてほしいくらいだ」


彼は、そう言って、うっとりと、目を細めるのだった。


——けれど。


夏の夜ごとに、庭の鈴虫に混じって聞こえる声は、少しずつ、増えていった。


幼い頃の笑い声だけではない。


わたしが、ひとりで口ずさんでいた、あの鼻歌。


寝入りばなに、寝言で呼んだ、母の名。


そのどれもが、たしかに、"わたしの声"だった。


まだ、ジュリアン様と、出会う前の。


「不思議ね……」


わたしは、窓辺で、小さく呟いた。


どうして、庭から、昔のわたしの声が、聞こえるのだろう。


「ジュリアン様。夜、庭のほうから、昔のわたしの声が、聞こえる気がするんです」


あるとき、わたしは、思いきって、尋ねてみた。


彼は、ほんの一瞬、手を止めて。


それから、いつもの優しい笑みで、わたしの髪を撫でた。


「夏の夜は、遠い日の音を、運んでくると言うだろう? ……きっと、そのせいだよ」


「そう、でしょうか」


「ああ。だから、こわがらなくていい。……あれは、ぜんぶ、僕の宝物なんだから」


その最後の一言を、わたしは、うまく聞き取れなかった。


ちょうど、鈴虫の音が、大きくなったから。


* * *


その日、わたしは、庭のいちばん奥まで、足を延ばしてみた。


普段は、あまり近寄らない、木立の陰。


その一角の土に、何かが、きらきらと光っているのに気づいた。


しゃがんで、指で土を払う。


——小さな、硝子の瓶が、いくつも、半ば埋まっていた。


いいえ、いくつも、なんてものではない。


掘り返せば、その下にも、そのまた下にも。


数えきれないほどの硝子瓶が、宝物のように、丁寧に、埋められていたのだ。


どれも、大人の指ほどの、小さな瓶。


中には、何も入っていないように見える。


けれど、光にかざすと、その奥で、何かが、ちらちらと、揺れている気がした。


まるで、蛍の光を、閉じ込めたみたいに。


「奥様! そちらには、どうか、お近づきになりませんよう」


血相を変えて、庭師が駆け寄ってきた。


「これは、いったい、何なの?」


「……わたくしどもには、分かりかねます。旦那様の、大切なものだとしか」


庭師は、それきり、口をつぐんでしまった。


わたしは、手のひらの中の、小さな硝子瓶を、そっと耳に近づけてみた。


すると。


りん、と、微かな音とともに。


——おかあさん。


幼い、わたしの声が、瓶の中から、聞こえた気がした。


指先が、ひやりと冷たくなる。


「……気のせい、よね」


わたしは、慌てて、その瓶を、元の土に戻した。


その夜、離れを訪ねてきた老婦人が、お茶の席で、ふと漏らした。


「ジュリアン様も、昔から、変わったご趣味をお持ちでねえ」


「趣味、ですか?」


「ええ。それはもう、熱心に、いろんなものを、お集めになる。……気に入ったものは、ぜんぶ、手元に置かないと気が済まない、お方でしたよ」


「その、ご趣味というのは。たとえば、どんな……」


「さあ。宝石だの、絵画だの。とにかく、"二度と手に入らないもの"を、お好みでねえ」


老婦人は、そう言って、それから、わたしを見て、ころころと笑った。


「……ふふ。あなたのことも、きっと、そうなのでしょうよ」


冗談めかした、その一言が。


なぜだか、わたしの耳の奥に、いつまでも、残った。


その朗らかな声とは裏腹に、その言葉は、わたしの胸の奥に、静かに、沈んでいった。


その夜、わたしは、寝台の中で、なかなか寝つけなかった。


土の中に、宝物みたいに、大切に埋められていた、無数の硝子。


その一つ一つに、もし、わたしの声が、封じ込められているのだとしたら。


——ぞくり、と、背筋が、冷たくなる。


でも、わたしは、すぐに、その考えを打ち消した。


いけない。こんなに優しいあの方を、疑うだなんて。


きっと、何か、素敵な理由が、あるに決まっている。


そう思って、わたしは、固く、目を閉じた。


* * *


眠れない、夏の夜だった。


窓の外、庭のほうで、りん、りん、と、鈴虫が鳴いている。


その音に混じって、また、聞こえる。


わたしの、声が。


わたしは、静かに寝台を抜け出して、庭へ降りた。


木立の陰、あの硝子瓶の埋まった一角に。


——ジュリアン様が、いた。


月明かりの下、彼は、片膝をついて、土を掘っていた。


その手には、胸元に下げていた、小さな硝子の鈴。


彼は、それを、そっと唇に近づけて、何かを囁くと。


鈴の中に、淡い光が、すうっと、吸い込まれていった。


それは、まるで、蛍を一匹、捕まえるみたいに、優しい手つきだった。


彼が、何を"しまって"いるのか。


そのときのわたしには、まだ、分からなかった。


ただ、その横顔が、あんまり真剣で、あんまり幸せそうで。


わたしは、声をかけるのを、一瞬、ためらってしまったほどだった。


そして彼は、その鈴を、宝物のように、土に埋めたのだ。


「……ジュリアン様?」


わたしが声をかけると、彼は、ゆっくりと振り返った。


驚くでもなく、隠すでもなく。


ただ、いつもの、優しい笑みで。


「起こしてしまったかい。……こんな時間に、ごめんね」


「あなた、そこで、何を……」


「君の声を、しまっていたんだよ」


彼は、立ち上がって、わたしの前に来た。


「今日、君が笑った声。僕の名を呼んだ声。……ぜんぶ、ここに、集めているんだ」


その告白が、あまりに穏やかだったから。


わたしは、すぐには、言葉の意味を、飲み込めなかった。


「僕はね、ミア。君のことを、出会うずっと前から、知っていた」


彼の翠の瞳が、月の光に、濡れて光る。


「街角で、君の笑い声を聞いた、あの日から。……僕は、その音に、取り憑かれてしまったんだ」


「わたしの、声に……?」


「そう。だから、集め始めた。君の、笑い声も、鼻歌も、寝息も」


「わたしの、知らないうちに……ずっと、ですか」


「ああ。君が生まれてから、今日まで。……そして、これから先も、ずっとだ」


彼の声には、悪びれる色が、少しもなかった。


まるで、それが、世界でいちばん、当たり前のことみたいに。


彼は、わたしの頬を、両手で包んだ。


「君という人の、どんな欠片も。ひとつだって、失いたくなかったんだ」


その手が、微かに、震えていた。


「……気味が悪い、と思うかい」


わたしは、彼の目を、じっと見つめた。


そこにあったのは、狂おしいほどの——けれど、まっすぐな、愛だった。


この人は、わたしを、失うのが、こわいのだ。


わたしの声のひとつさえ、この世から消えてしまうのが、耐えられないほどに。


そのことが、ただ、痛いくらいに、伝わってきて。


普通なら、逃げ出すべきなのかもしれない。


こんなにも重くて、常軌を逸した愛から。


でも、わたしには、できなかった。


だって、この人の抱えている淋しさが、わたしには、痛いほど分かってしまったから。


きっと、この人は、ずっと、こわかったのだ。


大切なものを、失うことが。


「……いいえ」


わたしは、首を横に振った。


「わたしを、そんなにも、大切に想ってくださっているのですね」


わたしがそう言うと、ジュリアン様は、泣きそうな顔をした。


そして、崩れるように、わたしを抱きしめた。


「……ありがとう。ありがとう、ミア」


その腕の中で、庭の鈴虫が、りん、りん、と、鳴いていた。


その音に、今日のわたしの声も、そっと、混じっていくのだろう。


* * *


夏の終わりに、わたしとジュリアン様は、静かに式を挙げた。


離れの庭は、相変わらず、涼やかな鈴虫の音に満ちている。


そして、わたしはもう、その音に混じる自分の声を、こわいとは思わない。


だって、その声のひとつひとつは。


この人が、わたしを愛してくれた、その証なのだから。


式のあと、ジュリアン様は、わたしを、庭のあの一角へ連れていった。


「怖くは、ないかい。……ここに、君のぜんぶが、眠っているんだよ」


「いいえ」


わたしは、首を振って、微笑んだ。


「だって、ここは。あなたが、わたしを想ってくださった、時間そのもの、でしょう?」


その言葉に、ジュリアン様は、息を呑んで。


それから、この世でいちばん、幸せそうに、目を細めたのだった。


「ミア」


その夜、寝室で、ジュリアン様は、わたしを腕の中に抱きながら、名を呼んだ。


「なんですか?」


「幸せかい。……こんな、僕のところに来て」


「はい」


わたしは、彼の胸に、頬を寄せた。


「あなたに愛されて、わたしの、ぜんぶが、幸せです」


ジュリアン様の腕に、ぎゅっと、力がこもった。


「……ああ」


彼は、わたしの髪に、そっと口づけた。


「君のぜんぶを、これから先も、僕がずっと、持っているよ。……笑い声も、寝息も、この幸せも。ひとつ残らず、ね」


その言葉が、どれほど深く、どれほど途方もないものなのか。


——わたしは、生涯、知らないままだった。


けれど、それでよかったのだと思う。


だってわたしは、声のひとつまで、この人に愛されて。


こわいくらいに、幸せなのだから。


その夜も、庭で、りん、と。


夏の鈴虫に混じって、今日のわたしの笑い声が、そっと、鳴った。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。

"夏の音"シリーズ、今作は鈴虫。ジュリアンが庭に埋めていたものの正体を知っても、ミアはそれを"愛"として受け取り、今日も幸せに笑っています。

彼女の声のひとつひとつが、これからも永遠に集められ続けることを知っているのは、読んでくださったあなただけ。

「ゾクッとして、キュンとする」を楽しんでいただけたなら、★やブックマーク、ご感想が、次を書く力になります。


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