第1話|名の境界
朝の侯爵邸は、夜の余韻を隠すように凛としていた。
庭の霜はすでに溶けかけ、淡い光が回廊を満たしている。
ルミエールは書類を手に、客室へと続く廊下を進んだ。
この屋敷の主は父であり、
彼――ヴァルディアは客人。
それを、忘れてはならない。
扉を叩く。
「どうぞ」
低く落ち着いた声。
室内に入れば、机に向かう彼の姿。
無駄のない背筋、静かな横顔。
昨夜、月明かりの下で交わした言葉など、なかったかのように。
「今朝の訓練計画書ですわ。
ご確認くださいませ」
差し出すと、彼は立ち上がらずに受け取る。
視線が一瞬だけ絡む。
「よく整えられている」
簡潔な評価。
上官の口調ではない。
対等な協力者への言葉。
「お役に立てるなら何よりです」
微笑みは淡く、揺るがない。
沈黙が落ちる。
やがて彼は書類を閉じ、視線を上げた。
「昨夜の呼称の件だが……」
空気が、わずかに張る。
「公の場ではこれまで通りで構わない」
線を引く声音。
だが続く言葉は、静かに温度を変えた。
「この屋敷で、二人きりのときまで遠慮する必要はない」
命令ではない。
許可でもない。
ただ、事実のように。
ルミエールは一拍置いてから、穏やかに返す。
「では、状況に応じて使い分けさせていただきますわ」
その言い方に、彼の瞳がわずかに細まる。
「……合理的だ」
「ええ。無用な誤解は避けたいですもの」
さらりと受け止める。
ほんの一瞬の静寂。
そして彼は、わずかに視線を逸らした。
「ヴァルディア様」
試すように、静かに呼ぶ。
空気が揺れる。
彼は否定しない。
ただ、その名を受け止める。
「問題ない」
短い返答。
だが、その声は昨夜よりも低く響いた。
距離は変わらない。
触れもしない。
けれど、互いに線を引き、
その線を越える場所を選んだ。
それは従属ではなく、選別。
名を呼ぶという、ささやかな選択。
その重みを知っているのは、今はまだ、二人だけだった。




