第2話|屋敷でのギャップ
演習の翌日。
屋敷の書斎には、紙をめくる乾いた音だけが響いていた。
大きな窓から差し込む午後の光。
机に向かうヴァルディアの横顔は、昨日と変わらず端正で、冷ややかだ。
報告書の束に目を通す指先は正確で、迷いがない。
(昨日のまま……)
ルミエールは少し離れた位置に立ちながら、そっと視線を向ける。
あの鋭い号令も、血のにじんだ袖も、まだ鮮明に焼きついている。
「何か用か?」
視線を上げぬまま、低い声。
「いえ……その、昨日のお怪我は」
「問題ない」
短く無駄がない。
やはり“団長”の声音だ。
それでもーー
次の瞬間、ヴァルディアはふと筆を置いた。
「立ったままだな」
「え?」
「椅子を使え。そこにある」
視線は書類に戻ったまま。
だが、彼の手が無意識に椅子をわずかに引き寄せている。
ほんの小さな動き。
けれど、ルミエールの胸は静かに跳ねた。
(……見ている)
鬼の瞳で戦場を見渡すあの人が。
今は、こんな些細なことに気づく。
「ありがとうございます」
座ると、かすかに彼の腕が机に触れた。
昨日の傷のある側だ。
思わず視線が向く。
それに気づいたのか、ヴァルディアは淡々と告げる。
「医師に診せた。問題はない」
昨日より、ほんのわずかに柔らかい。
“心配は不要だ”と、同じ意味の言葉。
けれど今日は命令ではなく、説明だった。
(……違う)
原作では、冷酷な団長。
部下を駒のように扱い、勝利だけを求める男。
けれど目の前のヴァルディアは――違う。
書類の隅に目を走らせながら、使用人が落とした羽ペンを拾い上げる。
何も言わず、机の端に整えて置く。
誰も気づかないような所作。
(この人は、ちゃんと見ている)
戦場も、屋敷も、人も。
確認を終え、ルミエールは書斎を辞した。
廊下に出ると、向こうからヴァルディアが歩いてくる。
すれ違うだけ。
それだけのはずだった。
だがーー
床の絨毯の端が、わずかにめくれている。
彼女はそれに気付かない。
次の瞬間、彼の手が伸びた。
さりげなく布を踏み、押さえる。
「足元に気をつけろ」
低い声。
「怪我人を増やす気はない」
けれど視線が一瞬だけ、やわらいだ。
ほんのわずか、口元が緩んだ気がした。
誰も見ていない角度で。
胸が、熱を帯びる。
(やっぱり……)
鬼ではない。
この人は、信じていい人だ。
そしてふと思う。
昨日の演習場で、あの氷青の瞳が高台を向いた理由。
——見えていたのだろうか、私の姿が。
振り返ると、もう彼は廊下の先へと進んでいる。
背はまっすぐで、隙がない。
それでもーー
(ただ見ているだけの私では、いたくない)
その想いは、昨日よりも少しだけ、確かなものになっていた。




