第1話|牽制
婚約発表直後ーー
ラヴェル公爵邸前での簡素な挨拶が終わり、馬車へ向かう途中だった。
祝福の声はまだ残っている。
だがどこか落ち着かないざわめきが、空気の底に沈んでいる。
風が強く吹き抜けた、その瞬間。
視界の端で影が揺れた。
――遅い。
そう悟った瞬間、金属の閃きが走る。
ルミエールの肩に浅く刃が触れ、布地が裂けた。
小さく息を呑む音。
白い衣装に、じわりと赤が滲む。
胸の奥で何かが軋んだ。
だがヴァルディアの身体は、思考よりも早く動いていた。
彼女の腰を引き寄せると同時に、襲撃者の手首を掴み上げる。
骨が嫌な音を立てる。
「誰の命だ」
低い声。
感情を削ぎ落とした、凍るような声音。
取り押さえられた男が呻く。
護衛が駆け寄る。
ヴァルディアの視線は逸れない。
――守れた。
だが。
指先に、温かい感触が広がった。
ルミエールの肩から流れた、ほんのわずかな血。
それだけで、胸の奥に鈍い衝撃が走った。
一瞬でも遅れていたら。
その想像が、喉の奥を締めつけた。
「……誰が、触れた」
先ほどよりもさらに低い声。
冷たいはずなのに、その奥に押し殺した焦燥が滲む。
「大丈夫です、かすっただけです」
気丈な声。
それが余計に、胸を刺す。
「大丈夫ではない」
即答だった。
抱き寄せる腕に、無意識に力がこもる。
二度と、この距離を離すものかとでも言うように。
「リュシアン邸へ戻る!」
短い命令。
だがそれは護衛へというより、己の内に湧き上がる怒りを抑え込むための言葉のようだった。
応急の止血を終え、馬車に乗り込む。
ヴァルディアは彼女を自らの内側に完全に囲い込んだ。
外界から遮断するように。
風が再び吹き抜ける。
遠くで、低い囁きが混じった。
「……身の程を知れ」
それは挑発か、警告か。
ヴァルディアの瞳が、静かに凍る。
――触れたな。
婚姻を決めた、その日に。
ならば、容赦はしない。
馬車はゆっくりと走り出す。
嵐は、確実に動き始めていた。




