第2話|小さな事件
書類の山を前に、ルミエールは慎重に目を通していた。
ヴァルディアは数日前、演習を終えて一旦ラヴェル公爵家に戻っている。
彼がいない屋敷は、普段よりも静かで、少しだけ寂しさを覚える。
ページをめくる指先が止まり、ふと窓の外を見ると、午後の光が庭を柔らかく照らしていた。
その時、使者が訪れ、ルミエールの耳に衝撃的な情報が届く。
本来なら、第一王子を推すフォルティエ公爵家の令嬢が有力な皇太子妃候補のはずだった。
それなのに、皇太子自らがルミエールを皇太子妃候補として推したというのだ。
突然の知らせに、屋敷中の空気が微かに張り詰める。
遠くラヴェル公爵家に戻っていたヴァルディアも、その報せを耳にした瞬間、馬を駆ってリュシアン侯爵邸へと引き返した。
風を切る蹄の音が、彼の焦りを物語る。
屋敷に着くなり、彼は真っ直ぐにルミエールのもとへ向かった。
その姿を認めた瞬間、ルミエールが何か言おうとするより早く、ヴァルディアは勢いのまま彼女を抱き寄せる。
一瞬だけ強く、確かめるように抱き締められ、すぐに彼は理性を取り戻したように腕を解いた。
「……無事で良かった」
低く、押し殺した安堵の声。
腕の温もりが離れたあとも、鼓動だけがやけに騒がしい。
距離はまだある。
それでも、危機の知らせひとつで迷わず駆けつける彼の姿に、守られているという確かな実感が胸に残った。
ヴァルディアは一瞬だけ視線を伏せ、それから真っ直ぐにルミエールを見つめる。
先ほどとは違う、戦場に立つ時のような静かな覚悟を宿した眼差しだった。
「……話がある」
短く、しかし重い声音。
その真剣さに、ルミエールの胸が小さく高鳴る。
きっと、皇太子の件だ。
ただの報告ではない。
何かを決めるための――言葉。
「……はい」
そう答えた瞬間、この夜が、これまでとは違うものになる予感がした。




