第1話|初対面の震え
初春の柔らかな陽射しが、公爵家の庭を淡く照らしていた。
侯爵令嬢ルミエール・リュシアンは、父の名代としてこの屋敷を訪れている。
兄が不在のため、急きょ任された役目だ。
正式な書簡を携え、庭を通って執務棟へ向かう――それだけのはずだった。
そのはず、だったのに。
視線を上げた瞬間、足が止まる。
庭の中央、石畳の向こうに立つ一人の青年。
黒髪を短く整え、鍛えられた体躯を包む簡潔な騎士装。
肩には皇室騎士団の徽章が光っている。
そして――氷青の瞳。
冷たい。澄みきっている。
けれど、その奥に、何か強い意志を宿している。
胸が、跳ねた。
(……え)
呼吸が、うまく吸えない。
その瞳を見た瞬間、ページをめくる音が、脳裏で響いた。
――“氷のような瞳を持つ騎士は、やがて闇を纏う。”
前世で読んだ、あの小説。
何度も読み返した物語。
救われなかった騎士。
その名は。
(ヴァルディア……)
無意識に、心の中でそう呼んでいた。
目の前の青年が、ゆっくりとこちらを向く。
「……リュシアン侯爵家のご令嬢ですね」
低く、落ち着いた声。
無駄のない声音に、ルミエールの心臓はさらに早鐘を打つ。
違う。
本の中の文字ではない。
紙の匂いもしない。
これは現実。
それなのにーー
「……ヴァルディア・ラヴェル様、でいらっしゃいますか?」
自分の声が、少しだけ震えているのが分かった。
彼は一瞬だけ視線を細め、わずかに頷く。
「ええ。書簡をお持ちだと伺っています」
事務的。簡潔。冷静。
けれど、その視線が一瞬、ルミエールの手元――握りしめた書簡に落ちたとき、なぜか鼓動が強くなる。
(どうして……こんなに)
ただの公爵子息。
ただの皇室騎士団長。
それだけのはずなのに。
“闇に堕ち、すべてを失う騎士。”
その未来の断片が、ちらりと脳裏をかすめる。
燃え上がる城壁。
血に染まる白銀。
孤独な背中。
息が詰まる。
(これは……現実……なの?)
目の前にいる彼と、記憶の中の彼が、重なる。
違う。
まだ、何も起きていない。
今は、ただ――春の庭に立つ一人の青年。
「……失礼いたします」
書簡を差し出す手が、わずかに震えた。
彼の指が触れる。
ほんの一瞬、紙越しに。
それだけで、体温が伝わった気がして。
ルミエールは思わず目を伏せる。
(ヴァルディア)
心の中では、もう名前を呼んでしまっている。
けれど口に出せるはずがない。
ラヴェル様。
それが正しい距離。
その距離が、もどかしい。
彼は書簡を受け取り、淡々と告げる。
「確かにお預かりします。後ほど父に伝えましょう」
完璧な所作。
無駄のない動き。
それなのに。
なぜか、彼の視線が一瞬だけ、ほんのわずかに柔らいだ気がした。
気のせいかもしれない。
ただの思い込みかもしれない。
でも。
胸の奥に、小さな震えが残る。
これは恋ではない。
憧れでもない。
運命の、予兆。
そして同時に――守らなければならない未来。
庭を後にしながら、ルミエールは静かに息を吐いた。
初春の風が頬を撫でる。
物語の中で救われなかった騎士が、今、ここにいる。
まだ、闇に染まっていない。
(……あなたの未来を、変えられるの?)
その問いは、誰にも聞こえない。
けれど確かに、侯爵令嬢ルミエールの胸の奥に、ひとつの決意と、ひとつの震えを残していた。
それが、すべての始まりだった。




