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マリーの伸ばした右手、その先に――
“生きている”気配が、確かに芽吹いた。
「……ユグドラシル・ロッド」
囁きは祈りのようで、同時に、告別の言葉でもあった。
虚空を縫うように、淡い光の糸が集まり始める。
それはショウの亡骸から、ゆっくりと、慎重に掬い上げられた魔法の残滓。
彼の指先から最後に零れ落ちた、弱々しくも温かな光。
未だ世界に溶けきれずに残っていた、意志の欠片。
――それらを、一針一針、縫い合わせていく。
本来、彼女はもう“花の魔法使い”ではない。
花を呼ぶことも、杖を喚ぶこともできない存在だ。
それでも。
時間を稼いだ。
ニコの饒舌に付き合いながら、怒りも悲しみも、すべて胸の奥に沈めて。
ただ、この瞬間のために。
「……あれ?」
ニコが違和感に眉をひそめた、その刹那――
顕現。
根を思わせる幾何学的な光が絡み合い、一本の杖を形作る。
樹皮のような質感。脈打つような緑の輝き。
先端には、小さな世界樹の芽。
ユグドラシル・ロッド。
「それ……」
ニコは目を見開く。
「昔、カサンドラから譲り受けたの」
マリーは微笑んだ。
かつて、笑って拒んだ日のことを思い出しながら。
「杖は趣味じゃない、ってね」
次の瞬間――
世界が、息を吐いた。
淡く光を放つ桃色の花弁が、爆発するように吹き荒れる。
風は嵐となり、花弁は刃のように舞い、空間そのものを押し広げていく。
「ッ……!?」
ニコは咄嗟に腕を顔の前に掲げた。
風圧に足を取られ、花弁が肌を叩く。
「なんだよ……これ……!」
あまりの力に、思わず目を閉じる。
――どれほどの時間が過ぎたのか。
やがて、風は少しずつ和らいでいった。
恐る恐る目を開けたニコの視界に映ったのは――
暴風と花弁に守られるように立つ、マリーの姿。
そして。
「……あ?」
気付く。
先ほどまで魔力に焼かれ、黒く染まっていた木々が――
その枝先に、桜の蕾を宿している。
生命が、逆流していた。
「……はは」
ニコの喉から、乾いた笑いが漏れる。
「まさか……」
魔法は、本来――
自らの命を代償にして発動できない。
命を燃やしても、術者の死後、魔法に意思は宿らない。
力は志向性を失い、霧散する。
それが、この世界の理だ。
「……そうよ」
マリーは、静かに肯いた。
「だから私は――杖を“魔法使い”にした」
ユグドラシル・ロッドに、そっと手を添える。
「生きた杖を、ね」
樹が、応えた。
世界樹は、魔法使いを必要としない。
差し出された代償は――
かつて花の魔女であった、ひとりの女の命。
マリーの足元から、桜が咲き始める。
一本、また一本と。
森全体が、春に染まっていく。
「……ニコ」
彼女は、初めて振り返った。
「覚えてる?」
かつて、何気なく口にした言葉。
「私、生命を吹き込む魔法は得意なの」
それは、いたずらが成功した時のような、
どこか無邪気な笑顔だった。
魔法が、完成する。
――《花葬》。
桜は、次々と花開き、やがて満開となった。
その瞬間、マリーの身体から力が抜け落ちる。
命が、確かに、尽きていく。
そして、代償が尽きた時。
桜は、静かに、散り始めた。
「ちょっとヤバいか……?」
ニコの声が、震える。
「何が……!?」
だが、魔法は――彼に向けられてはいなかった。
光が、ショウの亡骸へと集束する。
桜の花弁が、優しく降り積もり、その胸に、光が灯る。
「……ッ!?」
次の瞬間――息を吸う音。
微かで、確かで、紛れもない。ショウの指が、震え、
閉じていた瞼が、ゆっくりと、開く。
「…………」
掠れた声。生者の声。
「……よう、ニコ」
ニコは、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
背後で、最後の花弁が空に舞い、
風に攫われ、彼方へと消えていった。




