6
マリーは、走った。
声のした方角へ。
森の奥、結界のさらに内側――世界の縫い目のような場所へ。
一歩踏み出すたび、足元で光が弾ける。
踏みしめた土から、意図せず花が咲いた。
白。金。淡い翠。
花弁は彼女の軌跡をなぞるように舞い上がり、消えずに宙へ留まる。
夜の森に、一本の“輝く道”が刻まれていく。
「……っ」
マリーは歯を噛みしめた。
(命じていないのに……)
魔法とは、本来そういうものではない。
意識し、命じ、あるいは長年の癖として身体に刻まれた“合図”によって初めて発動する。
だが今は違う。
走るという行為そのものが、魔法を引きずり出している。
速度が上がり、呼吸は乱れない。
心拍は、まるで静止しているかのように平常だ。
それどころか――
(……軽い)
身体が羽のように軽い。疲労がない。
魔力を使っている感覚すら、ほとんどない、あり得ない。
マリーは走りながら、思考を深く沈めた。
自分が、何者であるのかを再確認するために。
魔法とは、何か。
第一に、得手不得手。
すべての人間に可能性は等しく存在する。
だが、向き不向きがある。
花に惹かれる者。光を扱う者。己や他者を強化する者。
才能とは、好みであり、癖であり、世界との相性だ。
第二に、制約。
何でもできる奇跡など、意味がない。
薄く広がった可能性は、現実に触れることができない。
だから、縛り、用途を限定し、条件を定め、形を削る。
花しか咲かせない。光しか扱わない。他者を強化することしかできない。
そうして初めて、奇跡は圧縮され、濃縮され、現実に“重さ”を持つ。
制約は、弱点ではない。刃だ。
第三に、代償。
魔法は等価交換だ。
体力、気力、魔力。
あるいは――記憶。感情。安らぎ。未来への期待。
魔法使いは、自分の中にある“価値のある何か”を削って、世界を歪める。
だから、無尽蔵には使えない。
だから、慎重になる。
だからこそ――美しい。
だが。
(今の私は……)
走る、咲く。輝く。
制約は、緩んでいる。
花でなくとも、光が混じる。
光でなくとも、世界が応える。
代償は、感じられない。
削られている感覚が、ない。
まるで――
何かが、私の肩代わりをしているかのようだ。
「……冗談じゃない」
マリーの声は、低く掠れた。
それは祝福ではない。それは、貸与だ。
そして、貸し物には必ず――返済期限がある。
前方で、空間が歪んだ。森の奥。
あり得ないほど静かな場所。
風も、虫も、植物のざわめきすら存在しない。
そこに――“誰か”が立っている。
姿は、まだ見えない。
だが、確信だけはあった。
悦虐者。
ショウとニコを奪った存在。
森を踏み荒らし、世界を玩具にする観測者。
マリーは、減速しない。
怖れはある。違和感もある。
この力が、いつまで自分のものであるか分からない。
それでも。
(立ち止まる訳には、いかない)
今、止まれば、考えれば、疑えば。
――あの子たちが、消える。
花弁が、さらに強く輝いた。
走る軌跡が、夜空に刻印される。
それは、花の魔女の道。
借り物で、歪で、危うい。
それでもマリーは、前を見据えた。
「待っていなさい」
怒りでも、威圧でもない。ただの、宣言。
「――返しに来たわ」
世界が、再び軋み、その中心へ向かって、花の魔女は、走り続けた。
————————
「お疲れさま」
視界が開ける。
僅かにせり上がった丘の上に、いつもと変わらぬ調子のニコが立っていた。
「ニコ……貴方なのね。予想はしていたけど……できれば外れていて欲しかった」
マリーのアメジストの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。
だが次の瞬きで、その動揺は消えていた。
「予想してたってことはさ。俺の魔法についても、だいたい察しはついてるんだろ?」
「ええ。貴方の魔法は“強化”じゃない」
マリーは、静かに告げる。
「自分と、他の生命への干渉……そんなところかしら」
「正解」
淡々と、感情の起伏もなく。
「なら、今のあんたの状態についても分かってるはずだ。俺が干渉した木や草、花に、あんたが魔法で触れた。今やその干渉は、術者であるマリー自身にまで及んでる」
一歩も近づかず、ただ事実だけを並べる。
「もう少ししたら、その魔法は全部俺のものになる。あんたは花の魔女じゃなくなる。――つまり、詰みだ」
嘲りも、喜びもない。
そこにあるのは、冷え切った結論だけ。
「……何故?」
マリーは、問いかける。
「理由を、聞いてもいいかしら」
「答えてもいいよ。でも多分、期待してるような大それた理由じゃない」
ニコは、肩をすくめた。
「俺はショウも、マリーも好きだ。できれば殺したくない」
一拍。
「でもさ。俺がこの世界で人を殺したり、傷つけたりすれば……ショウもマリーも、放っておかないだろ?」
「そうね」
即答だった。
「貴方を殺してでも、止めるわ」
「だからさ」
ニコは、淡々と続ける。
「殺される前に、殺す。ただそれだけだよ」
—ーそれで。
ニコの足元の地面が隆起し、爆ぜた。
太く、黒い木の根が土埃を上げ、一斉に姿を現す。
森の木々は黒く染まり、草も、花も、影のような色に塗り潰されていく。
マリーの周囲だけが、異様なほど鮮やかだった。
花も、木も、光を放ち続けている。
だが、黒に囲まれたその光は――
物量差だけを見れば、あまりにも心許ない。
「どうする?」
「――なめないで」
マリーは、顔を上げた。
「私は、花の魔女マリーよ」
アメジストの瞳に、諦念は一切ない。
花の魔女は、折れない、萎れない。
そして――決して、枯れない。
黒が、森を覆い、根が脈打つ。
土の下で、巨大な心臓が鼓動しているかのように。
ニコは動かない、動く必要がない。
彼の背後で、黒く染まった樹々がざわめき、草花が“従順に”伏した。干渉。支配。
命令ですらない――在り方そのものの上書き。
「来なよ、マリー」
静かな声だった。挑発でも、油断でもない。
「枯れない花なら、ここでも咲けるだろ?」
次の瞬間。
地面が砕けた。
無数の黒い根が、槍のように跳ね上がる。
速度は常人の反射を置き去りにするほど速い。
だが――
マリーは、一歩も退かなかった。
踏み出す。足元で、花が爆ぜる。
白い花弁が弾幕となり、根の先端を弾き、逸らし、切り裂く。
光を帯びた花弁が、夜気を裂く刃となって舞う。
「……っと」
根が、数本、断たれた。だが、それだけだ。
すぐさま黒い大地がうねり、新たな根が再生する。
切られるたび、増えていく。
物量、支配領域、力の総量。
すべてが、ニコに傾いている。
(――今は、私が劣勢)
否定しようのない事実だった。
制約が緩み、代償が曖昧になった今でさえ、この“干渉”の規模は異常だ。
一歩踏み誤れば、彼女自身が“黒に塗り替えられる”。
それでもマリーの表情に、恐怖はなかった。
「……随分と、乱暴な魔法ね」
自らの魔法に、囁くように言って、手を伸ばす。
指先に花が咲く。それは、見慣れた花ではなかった。
名もない。色も定まらない。
ただ――美しい。
「でも、嫌いじゃないわ」
花が、ほどける。
次の瞬間、マリーの足元から広がったのは、花畑ーーではない、庭だ。
彼女を中心に、円を描くように花が配置される。
一本一本が、距離を保ち、角度を保ち、それぞれが役割を持って咲いている。
防御、視界遮断、魔力の循環。
「……陣?」
ニコが、初めて眉を動かした。
「ええ」
マリーは微笑んだ。
「花は、ただ咲くだけじゃないの」
黒い根が、庭へと侵入する。
だが、触れた瞬間――腐った。
黒が、褪せる。干渉が、剥がれる。
花弁に触れた部分から、根が“元の木”に戻ろうとする。
「……っ、干渉を、ほどいてる?」
「いいえ」
マリーは一歩、前に出た。
「“思い出させている”だけよ」
彼女が歩くたび、庭が前進する。
花は踏まれず、折れず、魔女に道を譲る。
ニコの黒が、確実に押し返されていく。
「……マリー」
ニコの声に、微かな焦りが混じった。
「それ以上、踏み込むと……」
「分かってる」
マリーは、迷わない。
「貴方を、殺すことになる」
それでも、止まらない。花が、空へ舞い上がる。
今度は、防御ではない。光を帯びた花弁が、一直線に収束する。
槍。
否――剣。
ショウを彷彿とさせる、花でできた、光の剣。
マリーは、それを握った。
「……花の魔女はね」
一歩、踏み出す。
「奪う魔法は、使わない」
二歩。
「支配もしない」
三歩。
「ただ――咲かせるだけ」
踏み込み、剣が振るわれると、黒の根が、まとめて断たれ、地面が裂け、干渉の波が後退する。
ニコが、初めて後ろへ下がった。
「……っ!」
あと一歩で剣先が、ニコの胸元へ届く距離。
その瞬間。
マリーの胸に、鈍い痛みが走った。
視界が、一瞬、歪む。
(――来たわね)
代償。
借りていた力が、静かに、だが確実に、返済を求め始めている。
それでも。
マリーは、剣を下ろさない。
震える手で、柄を握りしめる。
「……終わらせるわ、ニコ」
花の魔女は、美しかった。折れず、萎れず、それでも――確かに、傷つきながら。
――あと、一歩。
その距離が、永遠のように引き伸ばされた瞬間だった。
黒が、舞った。それは霧ではない。 煙でもない。
黒い木の葉。 黒い花弁。
命を失った森が、最後の呼気を吐き出すように、無数の“欠片”を宙へ放ったのだ。 夜空から降るそれらは、雪のように静かで、しかし確実に――視界を塞ぐ。
「……っ」
一瞬。 ほんの刹那。
だが、マリーは怯まない。
(今さら――)
こんな目眩ましで止まるほど、浅い覚悟ではない。 花の魔女は、剣を振るう。
一閃。
光を帯びた花の剣が、空を薙ぎ、 黒い葉と花弁は、風圧でまとめて吹き飛ばされた。
視界が、開ける。
――その先にあったものを、 彼女の脳は、一瞬、理解を拒んだ。
投げ出されるように。 放り投げられるように。 “それ”は、空を切って迫ってくる。
人の形をしている。 見慣れた体格。 見慣れた輪郭。
「……ショ、ウ…?」
声にはならなかった。
それは、ショウだった。
否。 ショウだったもの。
力なく垂れた腕。 開いたままの瞳。 生気を完全に失った顔。
死体。
思考が、凍る。
斬れない。 避けられない。 判断が、一拍、遅れた。
次の瞬間。
衝突。
重い。 あまりにも、重い。
マリーの身体に、ショウの死体が叩きつけられ、 二人は絡まり合うように、地面へ転げ落ちた。
衝撃。 痛み。 土の感触。
花の剣が、手から零れ落ちる。 光が、霧散する。
「……ぁ……」
喉から漏れたのは、声ですらない音だった。
腕の中にある重み。 冷たい体温。 微動だにしない胸。
否定したい。 拒絶したい。
だが、現実は容赦がない。
(……そんな……)
その瞬間だった。
ふ、と。
まるで、潮が引くように。
身体を満たしていた“軽さ”が消える。 世界が、急に重くなる。
呼吸が、乱れる。 心拍が、戻る。 痛みが、明確になる。
足元を見れば―― もう、花は咲いていなかった。
光もない。 花弁もない。 香りすら、残っていない。
魔法の残滓が、霧のように消えていく。 最後に残った光が、夜に溶けて、完全に失われる。
(……ああ)
分かってしまった。
借り物は、返された。 期限は、終わった。
マリーは、ゆっくりと起き上がろうとして―― 膝をつき、崩れ落ちた。
力が、入らない。
「……っ、は……」
息が、苦しい。 魔力を巡らせる感覚が、どこにもない。
花の魔女ではない。
ただの―― 魔法を失った、ひとりの女だ。
「……マリー」
声がした。
前方。 黒に染まった森の中心で、ニコが立っている。
その表情は、淡々としている。 だが、どこか――疲弊していた。
「終わりだよ」
静かな宣告。
「もう、あんたは咲けない」
マリーは、答えない。
腕の中の重みを、抱きしめるように引き寄せる。 ショウの死体を、離せない。
視界が、滲む。
怒りでもない。 憎しみでもない。
ただ―― 決定的な喪失。
森には、黒だけが残り、 かつて輝いた“道”の痕跡すら、跡形もなく消えていた。
世界は、軋むのをやめない。




