22
包帯の男――ニコは、ようやく椅子に座り直していた。
ほどけかけた包帯を器用に巻き直しながら、ちらりとアーロンを見る。
食卓には、白い花弁の皿が並び、赤い花が静かに火を落とす。
湯気が、やわらかく立ちのぼっていた。
三人が、卓を囲み、しばし、沈黙。
木の匙が器に触れる、かすかな音だけが響く。
アーロンは、視線を落としたまま、低く言った。
「……驚かせてすまない。なるほど、そういうことだったのか……」
その声は落ち着いている。
だが、握られた拳はまだ白くなっていた。
マリーは、ほっとしたように微笑む。
「ええ。ちゃんと説明しておかないとね」
ニコが、わざとらしく咳払いをひとつ。
「まあ、誤解が解けたなら何よりだよ。いきなり扉を吹き飛ばされるとは思わなかったけどね……はは」
左目だけで笑う。
アーロンは、ゆっくりと視線を向けた。
「……話せ」
短い一言に、ニコは肩をすくめる。
「そうだね。順を追って説明しようか」
包帯越しの声は、どこか疲れを含みながらも、滑らかだった。
「まず前提として――選定者は、俺だ」
空気が、わずかに揺れる。マリーは黙って聞いている。アーロンの瞳は動かない。
「そして、悦虐者はショウだった。あいつは力に呑まれた。いや、最初からそういう素質があったのかもしれない。選ばれなかったことへの劣等感、世界への歪んだ愛情……まあ、よくある話さ」
淡々と、語る。
「ショウは俺を殺そうとした。選定者を消せば、自分が世界の中心に立てると思ったんだろうね。で、ついでに……」
アーロンの指先が、わずかに動く。
ニコは続ける。
「マリーは止めようとした。命を代償にする魔法で」
その言葉に、マリーの睫毛がわずかに伏せられる。
「自分の命と引き換えに、ショウの存在そのものを花へと還す魔法。完成すれば、マリーは死ぬ」
静かに、しかしはっきりと。
「だから俺が先に動いた」
包帯に包まれた手が、膝の上で組まれる。
「ショウを殺したのは俺だ。……やむを得なかった。あいつは止まらなかった」
視線が、テーブルの木目をなぞる。
「結果として、魔法は完成しなかった。発動の途中で対象が消えたからね。不完全なまま霧散した」
一瞬の沈黙。
花弁がひとひら、窓の外で揺れる。
「俺は重症。それでも、運良くこうして二人共生きている」
その言葉だけが、静かに置かれ、マリーは顔を上げる。
「ニコがいなかったら、私は……きっと」
言葉を濁す。
アーロンは、ゆっくりと息を吐いた。
長い、長い沈黙。やがて――
「……そうか」
低い声。それ以上、何も言わない。
だがその胸の奥で、何かが重く沈んでいく。
ショウが悦虐者。ニコが選定者。そして、ニコがやむなく殺した。
論理は通っている。矛盾はない。あまりにも、整いすぎているほどに。
アーロンは顔を上げる。
「……話は、理解した」
静かな声音。
「マリーが無事であるなら、それでいい」
そう言いながら、視線はニコから逸らさない。
包帯の下の潰れた右目が、わずかに細められる。
食卓には、再び湯気が立ちのぼる。
外では桜が揺れ、森は穏やかに息づいている。
ぎこちなさはあった。
だが、確かに笑い声もあった。
包帯を巻き直しながら「次は静かに入ってきてくれ」とぼやくニコに、マリーがくすくすと笑い、アーロンが不器用に咳払いをする。
料理の話になり、森の動物の話になり、かつて旅の途中で迷い込んだ町の思い出話になる。
穏やかな夜だった。
どこか、張り詰めた糸の上に置かれた穏やかさではあったが――それでも、確かに温もりはあった。
そして、翌日。
アーロンは森の中を歩いていた。
温かな陽光が葉の隙間から降り注ぎ、柔らかな風が、桜の花弁を運ぶ。
緑は深く、草は瑞々しく、遠くで小動物が駆ける音がする。平和で、穏やかだ。
(……温かい)
空気が澄んでいる。
湿り気も、腐臭も、血の匂いもない。
森は息づき、生命は伸びやかに満ちている。
鳥はさえずり、鹿は警戒もせずに草を食み、虫は葉の上で陽を浴びている。
だが。
(平和すぎる)
足を止めず、思考だけが沈んでいく。
マリーは命を代償にした魔法に手をかけた。
ニコは全身を包帯で覆うほどの重傷を負った。
それだけ激しい戦いが、ここであったということだ。
にもかかわらず――
木々に焼け跡はなく、地面に抉れた痕もない。
草花は踏み荒らされた様子もなく、若木に折れた枝も見当たらない。
より正確に言うなら、争いの痕跡がない、のではない。
育まれてきた痕跡が、ない。
この森は広大だ。動物は多く、植物は豊か。
だが――そこに「時間」が見えない。
苔の重なり、踏み固められた獣道、古木の幹に刻まれた過去の嵐の傷。
そういった、積み重ねの気配が、不自然なほどに希薄だった。
まるで――
昨日、誰かが理想の森を描き、そのまま形にしたかのような。
アーロンは、大樹の下へと歩み寄る。天を突くようにそびえる桜。
その根元に立つと、陽光が柔らかく揺らぎ、空気がわずかに震える。
ゆっくりと、屈み込み指先で、土に触れる。
唯一の違和感が、そこにあった。
大樹の足元、根の合間に、乾ききらない色。血の跡。濃く、深い赤。
だが、その量は多くなく、飛び散った形跡も、引きずった痕もない。
点在しているのではなく、ただ――そこに、落ちた。
争いというよりは。
むしろ、何かを捧げるように、膝をつき、静かに流された血のように――
「アーロン?」
柔らかな声が、背後からそっと降りた。
張りつめていた思考が、ふいにほどける。
振り返ると、マリーが立っていた。
白い布に包まれた籠を胸に抱え、栗色の髪が陽光を受けて透けるように輝いていた。額に浮かぶ細かな汗が、きらりと光る。急いで来たのだろう。息がほんの少し弾んでいる。
「朝からいなくなるんだもの。探したわ」
責めるというより、甘えるような声音。
唇をほんの少し尖らせ、それでもすぐに笑ってしまう。
籠の布をめくる。
「サンドイッチを作ったの。外で食べたら気持ちいいと思って」
切り分けられたパンの間には、瑞々しい野菜と新鮮な鹿肉。それに、ぱらりと散らされた小さな種。噛めばぷちりと弾ける香り高い実だ。
「この種ね、少し炒ってあるの。香ばしくて好きなのよ」
得意げに、少しだけ胸を張る。その仕草は年相応に愛らしい。
香草の匂いが、陽だまりに溶けていく。
あまりにも穏やかで、あまりにも日常的な光景。
アーロンは、ゆっくりと立ち上がった。
「……すまない。少し、歩きたくなった」
低く落ち着いた声。
だが視線は、無意識に大樹の根元へと落ちる。
血痕は、まだそこにある、乾ききらない赤。
根の隙間に、静かに染み込んだ色。
マリーの足元は、そのすぐ近く。
彼女は――気づかない。
否。気づいていないはずがない距離だ。
それでも。
「ここ、陽当たりがいいでしょう?」
まるでそこに何もないかのように、草の上へ布を広げる。
膝をつく仕草は軽やかで、指先が血痕すれすれの地面を押さえても、視線は一度もそこへ落ちない。
花弁が舞い、風がやわらかく揺れる。
「ね、ほら。桜もこんなにきれい」
嬉しそうに見上げる横顔。瞳は澄んでいて、曇りがない。
血の匂いも、土に混じる鉄の気配も、まるで最初から存在しないかのように。
「冷めちゃう前に食べましょう?」
にこりと笑う。
その笑みは、いつものマリーだ。
温かく、優しく、愛らしい。
――ただ。
血の色だけが、彼女の世界から切り取られている。
アーロンは疑念を胸奥へ沈め、何も言わず腰を下ろす。
今は――まだ。
その様子を。
家の窓辺から、ニコは静かに見ていた。
包帯に覆われた顔、左目だけが、細く、鋭く光る。
(気づき始めたか……)
指先で、杖をなぞる。世界樹の杖。
かつては、意識を伸ばすだけで森を掌握できた。
草木も、花も、動物も、風の流れさえも、世界は、自分の延長だった。
だが今は違う。
マリーの意識に干渉することには成功した。
それは確かだ。
あらかじめ杖へ施した細工、仕込んでおいた“保険”。
脳が完全な形を成す前、魂が肉体へと縫い留められる、その一瞬。
人格が固まる直前の、柔らかな空白。
そこへ、深く、確実に、刻み込んだ。
【一、ニコの命を守ることを何においても最優先にする】
【二、ニコが意識を込めた言葉には疑問を持たず、受け入れる】
それは暗示ではなく、説得でもない。
彼女の思考の根に埋め込まれた、絶対条件。
どれほど感情が揺れても、どれほど理性が抗っても。
最終的な選択の重みは、必ずそこへ傾く。
彼女は、自覚できない。
自分の内側に、他人の意志が錨のように沈められていることを。
だが。
逆に言えば、それだけだ。
かつてのように、念じるだけで森を動かすことはできない。
草木を従え、獣を操り、空気を歪めることも。
干渉した対象との意識、記憶、五感の共有。
すべて、失われた。
(力の大半は……持っていかれた)
包帯の下で、唇がわずかに歪む。
指先に、あの奔流はない。
世界と直結していた感覚は、遠い残響に過ぎない。
今の自分は、ほとんど無力で守られる側に近い。
だからこそ。
アーロンの来訪は、想定外だった。
意識を取り戻した直後。
天井の木目が、やけに遠く感じられた。
焦点の合わない視界のまま、ニコはまず――状況を数えた。
呼吸。浅い。脈。遅い。
魔力の循環……ほとんど、沈黙。
包帯の内側で、喉がひりつく。身体は重いというより、空洞だ。芯を抜かれた器のように、内側が軽い。軽いのに、動かない。
視界の端に、マリーの顔があった。
「……目が覚めたのね」
安堵と疲労が滲んだ声。
彼女の指先は、わずかに震えている。
ニコは、それを確認してから、かすかに笑った。
「いくつか、聞いてもいいかな」
問いは、体調のためではない。“確認”だ。
自分がまだ、盤面の上に立っているかどうかの。
――結果は、想定どおりだった。
傷は塞がっている。骨も、皮膚も、再生している。
だが、そこに“重さ”がない。
「肉は治せる。でも……あなたの“流れ”が、薄いの」
マリーは、言葉を選ぶように言った。
血でも、骨でもなく、生命の芯。存在の密度。
その“比重”が、削られている。
生命を吹き込む魔法を得意とする彼女でさえ、そこには触れられない。
器は修復できても、内側に満ちていた奔流までは戻せない。
「無理に外へ出れば、簡単に崩れるわ」
崩れる。
その表現は、誇張ではない。
今の自分は、外圧に耐える“厚み”がない。
「ここで回復を待つのが、最善よ」
森には結界があり外界からの干渉は遮断されている。
更にここは辺境。争いの流れから外れた空白。
脅威が迫ることはない。
――そう、彼女は言った。
ニコは、その理を肯定した。計算は合う。確率も整合している。
だが。
アーロンは来た。
結界を越え、空白を踏み抜き、辿り着くはずのない場所へ。
窓辺に立ち、陽光の下に並ぶ二人を見ながら、ニコはゆっくりと目を細める。
(脅威が迫ることはない……か)
包帯の下で、唇がかすかに歪む。
マリーの内部に刻んだ命題は、二つだけだ。
【ニコの命を守ることを最優先にする】
【ニコが意識を込めた言葉を疑わず受け入れる】
それ以外は、彼女自身の判断。
だからこそ――穴がある。
アーロンは、彼女にとって脅威ではない。
愛しい人であり、守るべき存在であり、敵ではない。
ゆえに、警戒の対象に入らない。
(意識の共有ができていれば……)
かつてなら。
彼女の視界を覗き、鼓動の揺らぎを測り、思考の微細な歪みを読み取れた。
違和を感じた瞬間に、補正できた。
“判断”が生まれる前に、軌道を修正できた。
今は、できない。
彼女が何を見て、何を感じ、何を無視しているのか。
直接は掴めない。
そこに生まれる、認識の齟齬。わずかなズレ。それが、致命傷になり得る。
(力が、足りない)
指先に、あの奔流はない。
世界と直結していた感覚は、遠い残響に過ぎない。
今の自分は、森の動物と同等。いや――下手をすれば、草花より脆弱だ。
守られる側。その現実が、喉を締め上げる。
(この状態で……盤面を保てるか?いや、保てないのなら…)
陽光の下で、マリーが微笑み、アーロンもつられて小さく笑う。
穏やかな絵画のような構図。
だがその内側で、見えない亀裂が、確かに走り始めていた。




