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――夜。

街道は、墨を流したような闇に沈んでいた。

雲に隠れた月が、ときおり白い輪郭を覗かせるだけだ。

その静寂を、肉を裂く鈍い音が破った。

ぶちり。

骨の軋みと、粘液の弾ける音。

巨大な影が、道の中央で二つに割れる。

それは人の形をしていた。だが、人ではない。

四肢は異様に長く、関節は逆に折れ、背からは未熟な腕のような突起が幾本も揺れている。

顔のあるべき場所には、縦に裂けた口だけがあり、そこから歯でも舌でもない、細かな触手が覗いていた。

その怪物を、真正面から断ち切った男がいる。

精悍な大男だった。

肩幅は広く、鎧の上からでもわかるほどの厚い胸板。

無骨な旅装の上に纏った外套は擦り切れているが、無駄はない。

刈り込まれた黒髪。顎には浅い傷跡が走り、鋭い眼光が闇を射抜いている。

アーロン。

彼の握る剣は長大で、両手用でありながら、今は片手で振るわれていた。

刃には、まだ黒ずんだ血と体液が絡みついている。

怪物の上半身が地に落ち、遅れて下半身が崩れた。

断面から溢れた粘つく液が、石畳をじわりと濡らしていく。

しばしの静寂。

アーロンはゆっくりと息を吐いた。

構えを解き、刃を水平に払う。

びしゃり、と血が弧を描いて飛び散った。

もう一度、小さく振る。

刃は夜気を裂き、付着していた穢れを振り落とす。

それから、何事もなかったかのように、剣を鞘へと収めた。

かちり、と乾いた音。

街道には再び、虫の声だけが戻る。

そのとき

ひらり、と。

闇の中に、不釣り合いな色が落ちてきた。

桃色、小さな、花弁。風など、吹いていない。

それでも、それは迷うことなく、まっすぐに降りてくる。

アーロンは眉をわずかに動かし、右手を差し出す。

厚く、傷だらけの掌の上に、ひら、とそれは舞い降りた。

やわらかな感触。かすかな、甘い香り。

夜の街道に、似つかわしくない、春の欠片。

「っ……これは……」

目が、わずかに見開かれる。

指先で、そっと触れる。淡い桃色は、確かに――見覚えがあった。

「……これはマリーの……」

掌の上の花弁が、淡く夜気に揺れる。指先に伝わる、懐かしい魔力。

アーロンの胸奥で、何かが軋んだ。



――あの日。

陽光の差し込む小さな部屋。

旅支度を整えるマリーの背中。

机の上には地図。窓辺には乾いた花束。

荷は少ない。だが、その横顔は決意に満ちていた。

『何故だっ!』

思わず怒声が出た。

自分でも制御できないほどの、焦りと恐怖。

マリーは振り向かないまま、静かに言った。

『私はカサンドラの痕跡を追うことにするわ。何故彼女がああなってしまったのか、何が彼女を変えてしまったのかを知りたい――いえ、知らなければならないの』

予言の魔女、カサンドラ。

その名を口にするだけで、空気が冷える。

『それなら俺も――』

踏み出しかけた言葉を、彼女は遮った。

「いいえ。それはダメ」

即答だった。

『だから何故っ!』

拳が震える。

マリーはようやく振り向く。

『予言の魔女、カサンドラは乱心し、自らを悦虐者の下僕、災厄の魔女と名乗り、恋人すら、その手にかけた』

その瞳に、痛みが宿る。

『彼女を追う中で、私が災厄の魔女となってしまう可能性もある。自分が死ぬのはいいわ、覚悟はできてる。でも――』

一歩、近づく。

『もし貴方を殺してしまったら、耐えられない』

『ッ!』

言葉が、喉で砕けた。

どこまでが、自分を案じての拒絶なのか。

どこまでが、彼女自身の恐怖なのか。

分からない。

ただ、拒まれたという事実だけが、胸を締め付ける。

マリーはふっと笑った。

『私ね、アーロン……この世界が大好き。緑が広がっていて、花が咲いていて、何より――貴方がいる』

光の差す窓の外へ、視線を向ける。

風に揺れる木々。遠くで笑う子どもの声。

それから、ゆっくりとアーロンへ顔を向けた。

『でも、永遠に貴方と会えないのは寂しいわ』

その言葉に、心臓が強く打つ。

『だから――』

ふわり。

マリーの手のひらに、淡い桃色が浮かび上がった。

一片の花弁。

光を孕み、ゆらりと宙に揺れる。

『この花びらが貴方の元へと届いたら、その時、私に会いに来て』

微笑む。

それは、泣きそうなほど優しい笑みだった。

『それは……』

アーロンは、言葉を失う。

その花を、その魔法の存在を、彼は知っている。

かつて、マリーが語ってくれた。命と遺志を結ぶ、最後の約束。

桜の、花弁。それは――ただの花ではない。



アーロンは走っていた。

薄暗い雑木林。絡み合う枝葉が月明かりを遮り、地面は湿った落葉で滑る。鎧が擦れる音と、荒い呼吸だけが森に響く。

その前を――

ひらり。

淡い桃色が、ひとひら。

掌にあったはずの花弁は、いつの間にか宙へと浮かび、彼の数歩先を漂っている。風はない。だが確かに、それは進むべき方向を示すように、迷いなく森の奥へと流れていく。

「待て……!」

声は低く、しかし焦燥を孕む。

枝が頬を裂き、外套が引き裂かれても、足は止まらない。花弁は振り返らない。ただ、導く。

やがて、木々の密度が変わった。湿った闇が、わずかに薄れる。

ざわ、と葉擦れが鳴り――

視界が、開けた。

次の瞬間。

眩い光が、アーロンの眼を射抜く。

「……っ!」

反射的に腕で庇い、目を閉じる。夜に慣れた視界に、あまりにも強い陽光。

数秒後、ゆっくりと、目を開く。

そこには――

広大な森が、広がっていた。

先ほどまでの雑木林とはまるで違う。空は高く澄み、陽光は惜しみなく降り注ぎ、緑は深く、生命の匂いが満ちている。

そして。

森の中心。

他の木々を圧倒する高さで、一本の大樹が立っていた。

幹は太く、天を貫くようにそびえ。その枝という枝に桜が咲き誇っている。

淡い桃色が、空を覆うほどに。

風が吹き、花弁が、無数に舞い上がる。

その中に混じっていた、導きのひとひらが――ふわり、と空へ昇り。

光に溶けるように、消えた。

静寂。

だが、迷いはなかった。

胸の奥に残る、あの魔力の震え。命と遺志を結ぶ、最後の約束。

アーロンは、大樹を見据える。

「あそこに……」

喉が、ひどく乾く。

「……あそこにマリーがいる」

握り締めた拳が、わずかに震えた。



森を裂くように、アーロンは走る。

桜に覆われた大樹は、確かに近づいているはずなのに、まるで拒むかのように遠い。

枝が肩を打ち、低木が脛を裂く。血が滲もうと、呼吸が焼けつこうと、構わない。

(……マリー)

胸の奥で、その名が灼けた鉄のように熱を帯びる。

『来て、アーロン!この辺りでは見かけない植物だわ。虫や動物を食べているのかしら?目もないのに何に反応して……ねぇ、貴方、聞いている…?』

弾む声。木漏れ日の下、光を孕んだ紫の瞳、揺れる髪に透ける陽光。

『…あっ、ああ!勿論』

見惚れていた。

その横顔があまりにも美しくて、世界の理屈などどうでもよくなるほどに。

(マリー)

『次はこのお店に行ってみましょう。選定者が考案した新しい香辛料があるそうよ。貴方、辛いのが好きだったでしょう?』

地図を広げ、無邪気に袖を引く。その小さな力が、胸を締めつけるほど愛おしかった。

『あ、ああ。だがマリー、俺にはもう味が――』

味覚は、魔法の代償に差し出した。

甘いも、辛いも、苦いも、酸いも。

今の彼にとっては、遠い記憶の残響に過ぎない。

それでも。

『料理には愛が一番大事なの。味が解らないなら尚更ね』

振り返った彼女は、少し誇らしげに笑った。

湯気の向こうで揺れる睫毛。鍋から立ちのぼる香り。

食卓を満たしていたのは、味ではなく、温もりだった。

マリーの料理が好きだった。

舌ではなく、心で感じる。

胃袋ではなく、魂が満たされる。

(マリー!)

足がさらに速まり、肺が裂けるようでも、止まれない。

『囲まれたわね。私が前をやる、貴方は後ろをお願い』

血煙の中。化け物の咆哮。

それでも彼女の声は、不思議なほど澄んでいた。

『ああ、勿論。だが危なくなったら――』

『引かないわ。だって私の後ろには貴方がいるもの』

肩で息をしながら、笑う。

戦場の只中で、あまりにも穏やかに。

その表情は――命を賭ける理由そのものだった。

「マリー……」

零れた名は、祈りに近い。桜の花弁が舞い、森がざわめく。


「マリー!」

内なる叫びは、いつの間にか声になっていた。

森に反響し、桜の花弁がざわりと揺れる。

アーロンは止まらない。

枝を踏み砕き、根を飛び越え、ただ前へ。胸を締めつける焦燥と、焼けるような懐かしさを抱えたまま。

大樹が、近づき、淡い桃色が、視界を満たす。

――待っていろ。

歯を食いしばる。

今度こそ。拒まれても、突き放されても、それでも、お前のもとへ行く。

花弁が舞い、風が強まる。

桜の海へと、アーロンは飛び込んだ。

桜に覆われた大樹の根元から、少し離れた場所。

花弁の舞う森の中に、ぽつりと――

家があった。

見覚えのある、木造の小さな家。緩やかな屋根。窓辺には白い蔓草が絡み、乾いた花束が壁に吊るされている。煙突からは、細く穏やかな煙。

胸が、強く脈打つ。

あの日。陽光の差し込む部屋。旅支度を整えていた、あの背中。


アーロンは躊躇なく扉に手をかけ――

勢いよく、押し開けた。

ばあんっ――!

「マリー!」

蝶番が悲鳴を上げ、扉が壁に叩きつけられる。

「うわぁっ!?」

間の抜けた、情けない悲鳴が室内に響いた。

鼻腔をくすぐる濃厚な香り。焦げ目のついた脂の匂いと、どこか甘い花の香。

そこは、記憶のままの台所だった。

木の梁。磨き込まれた卓。床から絡み合って生えた根が、自然に机と椅子の形を成している。窓から差し込む光の中で、大輪の赤い花が宙に浮かび、花芯から小さな炎を噴き出している。重なった花弁が燃えることなくフライパンの役目を果たし、白い花弁が皿へと料理を並べていく。

その光景の傍らで――

顔の右半分と、ほぼ全身を包帯にくるまれた男が、椅子に腰かけていた。

アーロンの突入に、左目だけを大きく見開く。

「ちょ、ちょっと待――」

身を引こうとして、足をもつれさせた。

ぐらり。

どたぁん!

椅子ごと盛大にひっくり返る。包帯の塊が床を転がり、椅子の脚ががたがたと揺れる。巻かれた布の端がほどけ、白い帯がぴろりと伸びた。

「いっ……たぁ……!」

床に大の字になったまま、左目だけがぐるぐると回る。起き上がろうとして腕をばたつかせるが、包帯が椅子の脚に絡まり、さらにもつれる。

「ち、違う! 俺は怪しい者じゃ――あ、待っ、布が! 布が引っかかって……!」

必死にほどこうとするたび、椅子がずるずる引きずられる。

あまりにも間の抜けた光景。

だが――

アーロンの視線は、その男を素通りしていた。

竈の前。

木の匙を手に、少しだけ目を丸くしている女。

揺れる栗色の髪。陽光を受ける柔らかな横顔。あの日と変わらぬ、エプロン姿。

マリー。

時間が、止まる。

言葉が出ない。

彼女は一瞬きょとんと瞬き、

それから、ふわりと微笑んだ。

「お帰りなさい、アーロン」

その声は、記憶のまま。

いや――それ以上に、優しく、美しかった。

胸の奥で、何かが崩れる。

焦燥も、怒りも、恐怖も。走り続けてきたすべてが、その一言で溶けていく。

包帯の男は床でもがきながら、ブツブツと呟く。

「……あの、いい雰囲気のとこ悪いんだけど、起こしてもらってもいい?……ほら俺、この通り立てなくて…はは…あれ?聞こえてない?おーい…」

だがその声すら、遠い。

アーロンの世界には、ただ一人。

記憶よりも鮮明な、

今、ここに在るマリーだけがいた。

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