21
――夜。
街道は、墨を流したような闇に沈んでいた。
雲に隠れた月が、ときおり白い輪郭を覗かせるだけだ。
その静寂を、肉を裂く鈍い音が破った。
ぶちり。
骨の軋みと、粘液の弾ける音。
巨大な影が、道の中央で二つに割れる。
それは人の形をしていた。だが、人ではない。
四肢は異様に長く、関節は逆に折れ、背からは未熟な腕のような突起が幾本も揺れている。
顔のあるべき場所には、縦に裂けた口だけがあり、そこから歯でも舌でもない、細かな触手が覗いていた。
その怪物を、真正面から断ち切った男がいる。
精悍な大男だった。
肩幅は広く、鎧の上からでもわかるほどの厚い胸板。
無骨な旅装の上に纏った外套は擦り切れているが、無駄はない。
刈り込まれた黒髪。顎には浅い傷跡が走り、鋭い眼光が闇を射抜いている。
アーロン。
彼の握る剣は長大で、両手用でありながら、今は片手で振るわれていた。
刃には、まだ黒ずんだ血と体液が絡みついている。
怪物の上半身が地に落ち、遅れて下半身が崩れた。
断面から溢れた粘つく液が、石畳をじわりと濡らしていく。
しばしの静寂。
アーロンはゆっくりと息を吐いた。
構えを解き、刃を水平に払う。
びしゃり、と血が弧を描いて飛び散った。
もう一度、小さく振る。
刃は夜気を裂き、付着していた穢れを振り落とす。
それから、何事もなかったかのように、剣を鞘へと収めた。
かちり、と乾いた音。
街道には再び、虫の声だけが戻る。
そのとき
ひらり、と。
闇の中に、不釣り合いな色が落ちてきた。
桃色、小さな、花弁。風など、吹いていない。
それでも、それは迷うことなく、まっすぐに降りてくる。
アーロンは眉をわずかに動かし、右手を差し出す。
厚く、傷だらけの掌の上に、ひら、とそれは舞い降りた。
やわらかな感触。かすかな、甘い香り。
夜の街道に、似つかわしくない、春の欠片。
「っ……これは……」
目が、わずかに見開かれる。
指先で、そっと触れる。淡い桃色は、確かに――見覚えがあった。
「……これはマリーの……」
掌の上の花弁が、淡く夜気に揺れる。指先に伝わる、懐かしい魔力。
アーロンの胸奥で、何かが軋んだ。
――あの日。
陽光の差し込む小さな部屋。
旅支度を整えるマリーの背中。
机の上には地図。窓辺には乾いた花束。
荷は少ない。だが、その横顔は決意に満ちていた。
『何故だっ!』
思わず怒声が出た。
自分でも制御できないほどの、焦りと恐怖。
マリーは振り向かないまま、静かに言った。
『私はカサンドラの痕跡を追うことにするわ。何故彼女がああなってしまったのか、何が彼女を変えてしまったのかを知りたい――いえ、知らなければならないの』
予言の魔女、カサンドラ。
その名を口にするだけで、空気が冷える。
『それなら俺も――』
踏み出しかけた言葉を、彼女は遮った。
「いいえ。それはダメ」
即答だった。
『だから何故っ!』
拳が震える。
マリーはようやく振り向く。
『予言の魔女、カサンドラは乱心し、自らを悦虐者の下僕、災厄の魔女と名乗り、恋人すら、その手にかけた』
その瞳に、痛みが宿る。
『彼女を追う中で、私が災厄の魔女となってしまう可能性もある。自分が死ぬのはいいわ、覚悟はできてる。でも――』
一歩、近づく。
『もし貴方を殺してしまったら、耐えられない』
『ッ!』
言葉が、喉で砕けた。
どこまでが、自分を案じての拒絶なのか。
どこまでが、彼女自身の恐怖なのか。
分からない。
ただ、拒まれたという事実だけが、胸を締め付ける。
マリーはふっと笑った。
『私ね、アーロン……この世界が大好き。緑が広がっていて、花が咲いていて、何より――貴方がいる』
光の差す窓の外へ、視線を向ける。
風に揺れる木々。遠くで笑う子どもの声。
それから、ゆっくりとアーロンへ顔を向けた。
『でも、永遠に貴方と会えないのは寂しいわ』
その言葉に、心臓が強く打つ。
『だから――』
ふわり。
マリーの手のひらに、淡い桃色が浮かび上がった。
一片の花弁。
光を孕み、ゆらりと宙に揺れる。
『この花びらが貴方の元へと届いたら、その時、私に会いに来て』
微笑む。
それは、泣きそうなほど優しい笑みだった。
『それは……』
アーロンは、言葉を失う。
その花を、その魔法の存在を、彼は知っている。
かつて、マリーが語ってくれた。命と遺志を結ぶ、最後の約束。
桜の、花弁。それは――ただの花ではない。
アーロンは走っていた。
薄暗い雑木林。絡み合う枝葉が月明かりを遮り、地面は湿った落葉で滑る。鎧が擦れる音と、荒い呼吸だけが森に響く。
その前を――
ひらり。
淡い桃色が、ひとひら。
掌にあったはずの花弁は、いつの間にか宙へと浮かび、彼の数歩先を漂っている。風はない。だが確かに、それは進むべき方向を示すように、迷いなく森の奥へと流れていく。
「待て……!」
声は低く、しかし焦燥を孕む。
枝が頬を裂き、外套が引き裂かれても、足は止まらない。花弁は振り返らない。ただ、導く。
やがて、木々の密度が変わった。湿った闇が、わずかに薄れる。
ざわ、と葉擦れが鳴り――
視界が、開けた。
次の瞬間。
眩い光が、アーロンの眼を射抜く。
「……っ!」
反射的に腕で庇い、目を閉じる。夜に慣れた視界に、あまりにも強い陽光。
数秒後、ゆっくりと、目を開く。
そこには――
広大な森が、広がっていた。
先ほどまでの雑木林とはまるで違う。空は高く澄み、陽光は惜しみなく降り注ぎ、緑は深く、生命の匂いが満ちている。
そして。
森の中心。
他の木々を圧倒する高さで、一本の大樹が立っていた。
幹は太く、天を貫くようにそびえ。その枝という枝に桜が咲き誇っている。
淡い桃色が、空を覆うほどに。
風が吹き、花弁が、無数に舞い上がる。
その中に混じっていた、導きのひとひらが――ふわり、と空へ昇り。
光に溶けるように、消えた。
静寂。
だが、迷いはなかった。
胸の奥に残る、あの魔力の震え。命と遺志を結ぶ、最後の約束。
アーロンは、大樹を見据える。
「あそこに……」
喉が、ひどく乾く。
「……あそこにマリーがいる」
握り締めた拳が、わずかに震えた。
森を裂くように、アーロンは走る。
桜に覆われた大樹は、確かに近づいているはずなのに、まるで拒むかのように遠い。
枝が肩を打ち、低木が脛を裂く。血が滲もうと、呼吸が焼けつこうと、構わない。
(……マリー)
胸の奥で、その名が灼けた鉄のように熱を帯びる。
『来て、アーロン!この辺りでは見かけない植物だわ。虫や動物を食べているのかしら?目もないのに何に反応して……ねぇ、貴方、聞いている…?』
弾む声。木漏れ日の下、光を孕んだ紫の瞳、揺れる髪に透ける陽光。
『…あっ、ああ!勿論』
見惚れていた。
その横顔があまりにも美しくて、世界の理屈などどうでもよくなるほどに。
(マリー)
『次はこのお店に行ってみましょう。選定者が考案した新しい香辛料があるそうよ。貴方、辛いのが好きだったでしょう?』
地図を広げ、無邪気に袖を引く。その小さな力が、胸を締めつけるほど愛おしかった。
『あ、ああ。だがマリー、俺にはもう味が――』
味覚は、魔法の代償に差し出した。
甘いも、辛いも、苦いも、酸いも。
今の彼にとっては、遠い記憶の残響に過ぎない。
それでも。
『料理には愛が一番大事なの。味が解らないなら尚更ね』
振り返った彼女は、少し誇らしげに笑った。
湯気の向こうで揺れる睫毛。鍋から立ちのぼる香り。
食卓を満たしていたのは、味ではなく、温もりだった。
マリーの料理が好きだった。
舌ではなく、心で感じる。
胃袋ではなく、魂が満たされる。
(マリー!)
足がさらに速まり、肺が裂けるようでも、止まれない。
『囲まれたわね。私が前をやる、貴方は後ろをお願い』
血煙の中。化け物の咆哮。
それでも彼女の声は、不思議なほど澄んでいた。
『ああ、勿論。だが危なくなったら――』
『引かないわ。だって私の後ろには貴方がいるもの』
肩で息をしながら、笑う。
戦場の只中で、あまりにも穏やかに。
その表情は――命を賭ける理由そのものだった。
「マリー……」
零れた名は、祈りに近い。桜の花弁が舞い、森がざわめく。
「マリー!」
内なる叫びは、いつの間にか声になっていた。
森に反響し、桜の花弁がざわりと揺れる。
アーロンは止まらない。
枝を踏み砕き、根を飛び越え、ただ前へ。胸を締めつける焦燥と、焼けるような懐かしさを抱えたまま。
大樹が、近づき、淡い桃色が、視界を満たす。
――待っていろ。
歯を食いしばる。
今度こそ。拒まれても、突き放されても、それでも、お前のもとへ行く。
花弁が舞い、風が強まる。
桜の海へと、アーロンは飛び込んだ。
桜に覆われた大樹の根元から、少し離れた場所。
花弁の舞う森の中に、ぽつりと――
家があった。
見覚えのある、木造の小さな家。緩やかな屋根。窓辺には白い蔓草が絡み、乾いた花束が壁に吊るされている。煙突からは、細く穏やかな煙。
胸が、強く脈打つ。
あの日。陽光の差し込む部屋。旅支度を整えていた、あの背中。
アーロンは躊躇なく扉に手をかけ――
勢いよく、押し開けた。
ばあんっ――!
「マリー!」
蝶番が悲鳴を上げ、扉が壁に叩きつけられる。
「うわぁっ!?」
間の抜けた、情けない悲鳴が室内に響いた。
鼻腔をくすぐる濃厚な香り。焦げ目のついた脂の匂いと、どこか甘い花の香。
そこは、記憶のままの台所だった。
木の梁。磨き込まれた卓。床から絡み合って生えた根が、自然に机と椅子の形を成している。窓から差し込む光の中で、大輪の赤い花が宙に浮かび、花芯から小さな炎を噴き出している。重なった花弁が燃えることなくフライパンの役目を果たし、白い花弁が皿へと料理を並べていく。
その光景の傍らで――
顔の右半分と、ほぼ全身を包帯にくるまれた男が、椅子に腰かけていた。
アーロンの突入に、左目だけを大きく見開く。
「ちょ、ちょっと待――」
身を引こうとして、足をもつれさせた。
ぐらり。
どたぁん!
椅子ごと盛大にひっくり返る。包帯の塊が床を転がり、椅子の脚ががたがたと揺れる。巻かれた布の端がほどけ、白い帯がぴろりと伸びた。
「いっ……たぁ……!」
床に大の字になったまま、左目だけがぐるぐると回る。起き上がろうとして腕をばたつかせるが、包帯が椅子の脚に絡まり、さらにもつれる。
「ち、違う! 俺は怪しい者じゃ――あ、待っ、布が! 布が引っかかって……!」
必死にほどこうとするたび、椅子がずるずる引きずられる。
あまりにも間の抜けた光景。
だが――
アーロンの視線は、その男を素通りしていた。
竈の前。
木の匙を手に、少しだけ目を丸くしている女。
揺れる栗色の髪。陽光を受ける柔らかな横顔。あの日と変わらぬ、エプロン姿。
マリー。
時間が、止まる。
言葉が出ない。
彼女は一瞬きょとんと瞬き、
それから、ふわりと微笑んだ。
「お帰りなさい、アーロン」
その声は、記憶のまま。
いや――それ以上に、優しく、美しかった。
胸の奥で、何かが崩れる。
焦燥も、怒りも、恐怖も。走り続けてきたすべてが、その一言で溶けていく。
包帯の男は床でもがきながら、ブツブツと呟く。
「……あの、いい雰囲気のとこ悪いんだけど、起こしてもらってもいい?……ほら俺、この通り立てなくて…はは…あれ?聞こえてない?おーい…」
だがその声すら、遠い。
アーロンの世界には、ただ一人。
記憶よりも鮮明な、
今、ここに在るマリーだけがいた。




