20
大樹を中心に、森が――ざわり、と震えた。
青く繁っていた葉が、一斉に色を抜かれる。
命を吸い上げられたかのように蒼は褪せ、かわりに枝先という枝先へ、小さな蕾が滲み出した。
淡い桃色が、ひとつ、ふたつ――瞬く間に、無数。森の一帯が、花を孕む。
ショウは息を呑み、空を覆う枝の群れを見上げた。
「……これは」
「マリーの魔法だよ。知ってるだろ?」
ニコの声は、掠れていて、どこか愉しげだった。
「んなバカなっ! お前にそんな力はもう――」
言いかけて、ショウは止まる。
ニコは、笑った。
「ショウの言う通り。俺にはもう魔法は使えない」
冥府の王の命を代償にした魔法、そこに、ほとんどすべてを捧げた。
結局完成へと至る事はなかったが、失ったものの総量は、本人にすら把握できない。
それでも、残された片目は、濁らない。
「でもマリーは別だ」
ほんの少し前、ここは荒野だった。
生命を奪い尽くされた死地。その中心に、白い影が横たわっている。花の魔女マリー。
ニコは森の命を干渉し、奪い、書き換えた。
だが、ひとつだけ――意図して奪わなかった命がある。
骨だけとなった魔女。
その手に握られていた、世界樹の杖。生きている杖。
ニコの魔法は“干渉”。
生命を書き換え、上書きする術。
森の花、木に干渉し、そこに魔法で触れた花の魔女の魔法ですら奪い取った。
だが万能ではない、命には重さがある。
魔法的価値を持つ力としての重さ。そこには意思があり、拒まれれば、弾かれる。
強い意志、重い命には――届かない。
だからこそ、ニコはマリーを直接支配しなかった。できなかった。
骨となった命は、終わりだ。
意思を持たぬ残骸。
だが。
ショウが使った魔法。
命を代償にし、失われた命を再構築するという――奇跡。
骨に肉が芽吹き、血が巡り、鼓動が戻る。命が、編み直される。
その瞬間。
脳が形を成し、意識が灯るまでの――刹那の空白。
何者でもない時間。無防備な隙間。
そこへ、干渉を受けていた世界樹の杖が、根を伸ばすように、静かに、深く、絡みついた。
命が完成するより早く。意思が目覚めるより早く。
世界樹の意志が、触れる。
ほんの僅かに、芽吹く方向を――曲げるだけ。
それだけで、十分だった。
ショウが足を踏み鳴らし光を操るように。
マリーが指先で花を操るように。
ニコもまた、杖で命を操る。
そして今。
森が、桜を孕む。
枝先に宿る無数の蕾。それらは、今か今かと開花を待っている。
「当然、今回のは前のと趣旨が違う」
ニコは、どこか疲れたように笑う。
「ショウの命を救った魔法が、ショウの命を奪う。滑稽だろ?でもそんなもんだ。昔から何も変わっちゃいない」
――だからお前がそれを。
言葉にならない思考が、喉奥で焼けつく。
「ニコ!!マリーはどこだ!?」
空を覆う枝から視線を引き剥がし、ショウはニコを睨みつけた。
「今から捜しても遅いよ。だってほら――」
震える左腕がゆっくりと上がり、痙攣する人差し指が天を指す。
「もう、満開だ」
その瞬間。
ひとつ、花弁がほどけた。
淡い桃色が、待ちわびた時を迎えたかのように開く。 それを合図に、森のあちこちで、ぱらり、ぱらり、と蕾が裂けていく。
音は、ほとんどしない。 ただ、微かな呼吸のような震え。
やがて、それは連鎖する。
ぱちり。 ぱちり。 ぱち、ぱち、ぱち――
枝先という枝先で、桃色が弾ける。 無数の蕾が、ほとんど同時に綻び、 辺り一帯は、一瞬にして、春へと塗り替えられた。
その光景は、息を呑むほど美しかった。
薄く透ける花弁は光を孕み、 幾重にも重なり合い、 空を覆う枝の群れは、淡雪の雲のように柔らかく揺れる。
花の香りが、ふわりと満ちる。 甘く、やさしく、どこか懐かしい匂い。
だが。
風が吹いたわけでもないのに、 花弁が、ひとひら落ちた。
ひら、と。地に触れる前に、光の粒となって溶ける。
また、ひとひら。 また、ひとひら。
落ちるたび、かすかに―― 何かが削がれていく感覚。
木々は咲いている。 狂おしいほどに、満ちている。
なのに。
その桃色は、どこか濁ってみえた。
命を救済する花ではない。 命を燃やして咲く、終焉の花。
ショウの胸奥で、鼓動がひとつ、強く打つ。
どくん。
その音に呼応するかのように、 森の桜が、ざわり、と揺れた。
花弁が舞い上がる。
無数の桃色が、空を埋める。 雪のように、光のように、 そして――灰のように。
ニコは、花吹雪の中で目を細めた。
「綺麗だろ?」
花吹雪の中で、ニコが笑う。
ショウは答えない。でも、知っている。
――桜が完全に散り果てた時、魔法は完成する。
満開は祝福ではない。 あれは導火線だ。 最後の一片が落ちた瞬間、命の代償が支払われる
「…クソッ!」
ショウはボロボロの身体に鞭を打ち、折れかけた右脚を強引に踏み込む。
その足元、泥にまみれた大地から、淡い光が滲み出した。震える黄金の線が円環を描き、か細い領域を編み上げていく。
消え入りそうな、あまりに頼りない光の輪。
だが、ショウの右手に収束した光は、一本の剣を形作った。
かつて天を裂き、闇を払った輝きとは程遠い。刃は薄く、霧のように揺らぎ、今にも指の間から零れ落ちそうだ。それでも、その切っ先には、魂を断つ確かな鋭さが宿っていた。
――今のニコを殺すには、それで充分すぎるほどに。
また一枚、花弁が虚空に溶けた。
ショウはゆっくりと、ニコへ向き直る。
言葉はなく、ただ、光の刃を振り上げた。
その挙動は呪いのように重く、鈍い。けれど、切っ先に迷いはなかった。
一方。
花吹雪に視界を削られながら、ニコはそれを見つめていた。
(ああ――)
ぼやけた輪郭。震える光。自分を貫くために掲げられた、死の象徴。
(それで、いいんだ)
思考は凪いでいた。
この魔法は、マリーの命を代償にした、歪んだ桜。
けれど、ニコにとっては――ほんの少しの意趣返し。イタズラようなものだった。
自らの命を救った魔法が、自らの命を奪おうとする。
皮肉だと笑うには、おあつらえ向きだ。
ショウは、もう限界だ。 身体も、魔力も、精神も。
――それでも
(お前なら、なんとかしてみせるだろ?)
根拠はなく、理屈もない。ただ、確信だけはあった。
それを人は「信頼」と呼ぶのかもしれない。
花弁がさらに散り、空が桃色に染まっていく。
残りは、あと、わずか。
ショウの剣が、静かに振り下ろされた。
――そういえば。
(この森で、死を経験していないのは、俺だけか)
ショウも、マリーも。あの大樹でさえ。
皆、一度は境界を越えて、あちら側を見てきた。
(俺だけが、取り残されているみたいだ)
可笑しくて、喉の奥で微かな笑いが漏れる。
(死後の感想でも聞いておけばよかったな)
寒いのか。痛いのか。それとも、案外、何もないのか。
誰も教えてはくれなかった。
まあいいか、とニコは思う。
どうせ、すぐに身を以て知るのだから。
世界が桃色に霞む。
迫りくる光を、視界の端で受け止めながら、ニコは当然のように死を受け入れ、静かに、瞼を閉じた。
閃光。
花吹雪を両断し、一直線に走った光。
だが、その刃は――弧を描いて、軌道を変えた。
迷いなく。深く。
ショウ自身の胸へと、突き立てられた。
鮮血が、ニコの頬に熱く降りかかる。
力を失った身体が、どさりと膝をつく。支えを失った剣は、光の粒子となって春風に砕け散った。
ショウの身体が、抗えぬ重力に従い、ニコの胸へと倒れ込む。
「……っ」
重み。体温。そして、急激に遠ざかっていく鼓動。
「……な、んで……?」
目を見開いたニコの喉から、掠れた声がこぼれ落ちる。
腕の中で、ショウの瞳から光が剥がれ落ちていく。
血に濡れた唇が、かすかに震えた。
「……ご……な……」
鉄の匂いのする、最期の吐息。
「……たすけ、て……やれなくて……ごめ、んな……」
その言葉が、ニコの胸の奥を激しく軋ませた。
そして。光は完全に消えた。
森は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれる。
「……は、はは」
笑いが漏れた。
「……ホントに、馬鹿だね」
俯いたままの顔は見えない、窺えない。
ただ、流れ続けるショウの血が、ニコの服を、指先を、大地を赤く染め変えていく。
「……お前が死んだら、意味がないだろ……」
ぽた。ぽた、と。
ショウの頬に、水滴が落ちた。
透明な雫が、血の赤と混じり合い、淡く広がっていく
。
「……雨?」
ニコが、ぼんやりと視線を上げた。
そこには、大樹があった。
禍々しさを脱ぎ捨て、ただ静かに佇む巨大な幹。
大樹に咲く桜は、もう一片たりとも散っていない。
対象を失った魔法は、完成に至る事はなかった。
満開のまま、桃色の花々が、枝という枝を埋め尽くしている。
風が吹き、花弁が揺れる。
その隙間から、眩しい木漏れ日が差し込んでいる。
やわらかな光が、生者と死者を等しく包み込む。
あたたかく、やさしい。
――雨など、どこにも降っていなかった。
それでも。
動かなくなったショウの頬を濡らす雫は、いつまでも、止まることはなかった。
第一章 永遠の桜 完




